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沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3) [私の切り抜き帳]

一九八〇年、映画「てだのふぁ」を生徒たちと鑑賞した際の「担任通信」の続きです。

六、「裸の王様」の笑い

人間的「笑い」を考えるとき、ぼくは、いつも、「裸の王様」を思い出す。

世界にまたとない、最上等の衣装と信じ、裸の王様は威張って街をねり歩く。苦虫をかみつぶした顔してうやうやしくおじぎする家来たち。もったいぶった彼らの振る舞いは、人間的感情の放棄の上に成り立っている。笑いを見せるなどとはもってのほかだ。

最初に笑ったのは、町の子どもたちだろう。おっかなびっくりの大人たちにも、ひそひそ笑いが感染する。おしとどめようにもすべなく、剣による威嚇も効なく、笑いはとめどなく広がり、ついには町中が哄笑の渦にどよめき揺れる。

人間的感情の表出としての笑いは、虚飾に満ちたウヤウヤシサ、取り澄ました愚劣さを、痛快にもあばき出す。そのような笑いをぼくは愛する。



七、人間的笑いの一般的性格

歴史上のあらゆる独裁者が、庶民の笑いを恐れたのは、笑いのもつ批判力のためである。そしてまた、人間的健全さこそは、独裁を根本から揺るがす要因であることを知り抜いているからである。

「国家の大事の時に、笑っている場合か!歯を食いしばれ!」という声が、ファシストたちのお得意のかけ声であったことを、思い出してくれればよろしい。

だからぼくは、オカシイ時に笑えないような事態を恐れるし、涙と同等の価値を笑いに認めるのである。



八,退廃の笑い

いや、だが待てよ。健康で人間的な感情の表出としての笑いとは、正反対の極に位置する笑いもあるような気がする。

ベトナム戦争の写真を見ろ。射殺したベトナム農民のムクロを、狩りのエモノかなにかのように、逆さにぶら下げて記念写真もどきにポーズを撮るアメリカ兵がいたではないか。その口元には、ニタリと「会心」の笑みが浮かんでいたではないか。

鼻歌交じりかなんかで、人々をガス室に送り込み、もだえ苦しむ幾万の市民に「うるさい虫ケラどもめ」とツバを吐きかけるナチスの青年がいたではないか。

昨今のニュースを賑わす少年たちの集団リンチはどうだ。すでに失神して倒れている相手に絶え間のない足蹴を加える少年たちは、小動物をもてあそぶ幼時の嗜虐的な笑いを浮かべているとか、、、。

いや、しかしそれは、特異な例だ、特異な環境のなせるわざだ、、、、?もし、そうならば、幸いだが!

だが、ぼくには、その種の非人間的な病的な笑いが、僕らの身の周りにまで忍び寄っているように思えてならない。



九 再び寄席について

今、空前のマンザイブームだという。うっとうしいことの多すぎる現代。大いに笑いが求められていることのあらわれかもしれない。そして、期待通りに、心やすまり、心なごむ芸に巡り会う機会も決してまれではない。

しかし同時に、下卑て、クダラなくて、しかも押しつけがましくて、後味の悪い「笑い」もハンランしている。もちろん、人生の教訓とならずとも、ばかばかしいおわらいであっても、サワヤカさの残る笑いであればいいと、ぼくは思う。しかし、ぼくの恐れるのは、無理矢理押しつけられて笑わされて、〈ディレクターの合図か何かに強要されて)いるうちに、薄汚い毒入りまんじゅうを、美味なごちそうであるかのように錯覚させられていくことである。それに似た感覚のマヒを知らず知らず注入されていはすまいかと恐れるのである。

容姿の美醜をあたかも人格そのものであるかのように取りざたして、笑いの題材とするネタ。学校格差や学力差を、そのまま肯定しつつ、それを人格的優劣に結びつけて取り扱う笑い。老人を厄介者扱いする笑い。社会道徳上の無軌道をあたかも英雄視し、市民常識を笑い飛ばす笑い。・・・・

この調子で行けば、今に身障者や社会的弱者、他民族をも嘲笑の種にしかねまじき状況ではないか?

しかし、それは、寄席の場だけの笑いであって、実生活ではいたわりの心を保ちうると言うのかもしれない。だが、人間をさげすむところに立脚する笑いの感覚は、無自覚であると否とを問わず、人の痛みへの鈍感さ、人間の価値へのいびつな感覚(センス)を肥やさずにはいないだろう。それは、人の痛みを共感し、人の喜びを喜ぶ感覚とは、和解しがたく対立する感覚であるはずだ。その二つが、ひとりの人間の中で、自在に使い分けられようはずがないではないか。

現国(現代国語)の授業の続きではいが、我々はセンスを研ぎ澄まさねばなるまい。何に怒り、何に悲しみ、何に喜びを見いだし、そして何に笑みを誘われるか。オシキセのそれではなく、自前の(すなわち不断の自己洞察の上に築かれる)良き感覚を磨かねばなるまい。


このあたりで二ページ目が過ぎ、三ページ目にさしかかりました。もう後一ページ残っていますが、つづきは次回といたします。



昨日は、終戦当時一〇才だった少年少女の戦争体験記に基づく朗読・演劇の催しがありました。







チラシには、この劇についてこんな説明があります。

戦後70年の昨年 「職争の記憶」 が色々な形で語られました。 操山高校五期生の会は、約二年の月日をかけ「その時10歳のわたしは」の手記を募集し、編纂発刊しました。そして今年、ルートの会が中心となって71回目の「岡山空襲の日」
を前に、この手記をもとに構成した劇を上演します。

キャストは、劇団「青年劇場」の四人の俳優さんと、地元岡山の有志の皆さん。
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主催の「ルートの会」とは、2009年、岡山県出身の芥川賞作家、小川洋子さん原作の舞台劇l博士の愛した数式』(青年劇場)の岡山公演(岡山市芸術祭参加)
4日4ステージを成功させた実行委員会のメンバーを中心に、 その後も継続して活動していくために設立した会だそうです。


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キャストやスタッフのなかには、旧知の方々が何人かおられ、当日も拝見、または挨拶することができました。

特に、原案、総合監督の高垣章二さんは、元高校教師。私自身、長く同じ職場、同じ学年でご一緒し、また、退職教職員の会でもお世話になっているいわば「恩人」です。

昨日の出演者のひとり、青年劇場の女優浦吉ゆかさんは、高校演劇部当時からの「教え子」だそうです。

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また、ご退職まもなくの頃、この過去記事(夕焼け その3)で紹介した映画「あかね色の空を見たよ」の制作に実行委員会の中心を担って献身されました。チケットが売れなかったら、弁済のために退職金をつぎ込む覚悟をされていましたが、目標を超える観客数で見事「興行」は成功し、胸をなで下ろしておられました(笑)。(あれから十数年が経ちました)

中山 節夫 監督作品<br />「あかね色の空を見たよ」<br /><br />学校に行っていない私はきらいですか

 

岡山県教委のHPにこんな記事がありました。

平成28年6月22日

劇「その時10歳の私は 岡山空襲の記憶」に岡山操山中学校 ・ 高等学校生徒が出演します

岡山県立岡山操山高等学校五期生の会 (操五会) が, 約2年をかけて戦争体験の手記を募集し, 72人の手記を集めた『その時10歳のわたしは 職争体験記』が平成27年6月に発行されました。

この手記をもとに構成した劇が上演されることになり, 岡山県立岡山操山中学校生徒3名・同高等学検生徒3名もガイド役として参加することになりました。

以上. お知らせいたします。


1 日 時 平成28年6月25日 (土) 開演18:30 (開場18:00)

2 場 所 岡山市民文化ホール

(〒703-8293岡山市中区小橋町一T目1-30)

3 主 催 ルートの会・「その時10歳の私は」公演実行委員会

4  本校からの参加者

中学生3名(2年生1名, 3年生2名),高検生3名(1年生3名)

観客を受付入口からホール内の客席まで案内するガイ ド役としての役割を担います。

5 内 容 『その時10歳のわたしは 戦争体験記』をもとに, 「その時10歳の私は 岡山空襲の記憶」 と題した, 青年劇場の4名の方と岡山在住有志及び中高生による劇です。
(後略)


この作品にちなんだ話題や感想などは、また機会を改めて書かせていただこうかと思います。
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