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縁は異なもの 備前と備中、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

朝から雨。

散歩には向かないお天気です。

今日も、朝から孫たち兄妹をお預かりしています。
ウィルス性結膜炎で保育園をお休みしていた年少組の妹は、治癒証明を得てめでたく今日から登園。

残りの3人が今日のお客様です。 

保育園年長組の姉は、今日お昼の予約で診察を受け、治癒証明が出れば自由の身です。長い「闘病生活」でした。

中学生と小学生の男の子は、すでに冬休みで、宿題の大荷物を持ってきていますが、まずはゲームの時間です。

同じ託児所業務でも、これくらいの年齢になると、一人遊びもできますし、気が向けば子どもたちだけで一緒に遊んだりできますから、手がかかりません。彼らの気配を背中で感じながら、パソコンに向かうことも可能です。

というわけで、先日来の記事の続きを書き進めることにします。
まず、早島町のHPから、 干拓のまち、早島という ページを一部引用させていただきます。

早島はその名が示すように、かつては瀬戸内の海に浮かぶ島の一つでした。
前潟干拓絵図

宇喜多堤

吉備の穴海と呼ばれた早島周辺の海も、高梁川などの運ぶ土砂によって、しだいに干潟化していきました。今から約400年前、このあたりを支配していた戦国大名宇喜多秀家は、この児島の海の干拓を思い立ち、高松城水攻めの堤防築造の指揮者であった岡豊前守勝利と千原民部九右衛門に命じ、汐止めの堤を築かせました。
堤は早島の東端多聞カ鼻から倉敷の向山に至り、そこからさらに酒津に至る大規模なもので「宇喜多堤」と呼ばれました。現在、早島の街中を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。
以後、児島湾の干拓事業は、昭和38年の児島湾締め切堤防の完成まで営々と続き、早島町はその先駆けの町となりました。


 「吉備の穴海」の名は、◇縁は異なもの、の巻(3)高崎という地名の記事でも 紹介しました。

その際、 「岡山の風 郷土史」様から、この図絵をお借りしました。
 
戸川家記念館には、下の絵が展示してありました。

s-_K524452.jpg
 
 岡山シティミュージアムの記事「岡山の干拓物語」 にこうあります。
 
現在の岡山平野の耕地は約25000ha。そのうち、約20000haが干拓によって生み出されたものと言われ、時代によって地図がどんどん描き替えられています。

近世以降の岡山平野の歴史は干拓史の上に形成されたとも言えそうです。

耕地面積は全国規模でみても、8世紀末に約100万ha、16世紀末には約200万ha、19世紀後半には約400万ha、20世紀半ばで約600万haと飛躍的に拡大していることが分かります。
なかでも日本三大干拓と言われるのが、秋田県の八郎潟干拓地と九州の有明海沿岸、そしてわが岡山県の児島湾というわけです。

   
 
 

宇喜多開発

岡山城主・宇喜多秀家は、積極的に新田開発を行いました。主なものとしては、1584年(天正12年)、千原九右衛門に命じて、現在の倉敷市東部から早島にかけて行われた干潟の干拓があります。千原九右衛門は高松城水攻めのとき、足守川をせき止めたり、岡山城の改築も担当した人物です。
当時早島は海辺の村で、あちこちに干潟が形成されていました。
千原九右衛門の手がけた堤防は全長約3・5キロで、宇喜多堤(うきたつづみ)と呼ばれています。土地の面積などは資料がなくて不明です。
また、堤の場所も現在、早島の町中を東西に走る県道沿いから倉敷市二日市の山までとする説などありますが、定かではありません。
この宇喜多堤のほか、灌漑用水として大井手を補強し、新たに八か郷用水を開いたのもこのころです。
1584年(天正12年)には東高梁川に酒津堤防を築き、低湿地の開発を進めました。その後、備中国奉行の小堀政一父子や備中松山藩主池田長幸父子によって堤防が延長され、1618年(元和4年)児島は陸続きになりました。
 
 
ところで、早島町観光センターホームページには、名所案内として、備前・備中国境標石 を紹介してこう書いています。
早島の歴史は、宇喜多堤築堤に始まる児島湾干拓の歴史でもあります。
まちの南東に広がる干潟(後の興除新田)の開発をめぐり、備中の村々と対岸の備前児島の村々が激しく対立し、争いは、約100年にわたって繰り広げられました。

その結果、幕府は、もともとあった備中方の新田の堤を備前・備中の国境とし、それより南の干潟と海は備前領とする裁定が下しました。この干潟は、備前領の村々によって拓かれ「興除新田」と名づけられました。
備前・備中国境標石は、文化11年(1814)の裁許の後、国境を示すために建てられた10本のうちの1つです。住所 早島町前潟742


最近JRを利用すると、「宇野みなと線」という聞き慣れない路線に気がつきます。従来の「宇野線」が、今年の春からこう呼ばれるようになったようです。

ウィキペディアから引用します。 

 かつて四国と本州を行き来していた宇高連絡船との接続路線として賑わった。瀬戸大橋開通後も、岡山駅 - 茶屋町駅間は瀬戸大橋を渡る本四備讃線のアプローチ線として引き続き本四連絡の使命を担っており、本四備讃線・予讃線を含めた岡山駅  - 高松駅間に「瀬戸大橋線」という愛称がつけられている。茶屋町駅 - 宇野駅間は玉野市との都市間輸送中心の路線となった。2016年3月26日からは岡山駅  - 宇野駅間に対しても「宇野みなと線」の愛称が使用されている。英字表記は「Uno-port Line」となっている。


mapionから路線略図をお借りします。

 

_K528789.JPG

駅名に少し注目してみてください。

岡山から備前西市(びぜんにしいち)→備中箕島(びっちゅうみしま)→備前片岡(びぜんかたおか)→備前田井(びぜんたい)と、備前・備中があたかもアトランダムに入り交じっているかのように思えます。この謎を解く鍵は、上記の備前・備中国境の裁定にあったようです。この話題は、実は以前、原水爆禁止国民平和大行進でこの辺りを一緒に歩いた年若き友人(比較の問題です)Mさんが、四方山話がてら話して聞かせてくれたと記憶しています。

このMさんは、以前、◇もう一つの「今日は何の日」の記事でご紹介した「友人」のことです。

ところで、この水島地区に、亀島山と呼ばれる小高い丘があります。ここは現在、「亀島山花と緑の丘公園」として整備され、四季の花に彩られる、工場地帯のなかの憩いのスポットとしての趣を見せています。また「工場萌え」と称される一部の愛好家にとっては、林立する工場群(とりわけ工場夜景)の撮影スポットとしても知られているようです。

その亀島山の地下に全長約2000メートルの横穴が掘られています。平洋戦争末期に建設された三菱重工業水島航空機製作所(現:三菱自動車水島製作所)の地下工場の跡がそれです。三菱重工業水島航空機製作所は、空襲の被害を少なくするため、工場を分散疎開させましたが、その一つが亀島山地下工場だったのです。

この地下工場について、ずっと以前、ある機会に、こんなことを書いたことがありました。

倉敷市水島地区の亀島山の地下には,今も広大な地下トンネルが存在する。これは第二次大戦中,旧日本軍の戦闘機製造用地下工場として,秘密裏に掘られたもの。
この危険な工事に従事したのは,強制連行で徴用された朝鮮人労働者。作業中の事故,栄養失調と過労,病気,脱走への報復としての私刑などにより,多くの人々が犠牲となった。
これらを含む朝鮮人無縁仏の遺骨70数体が,引き取り手のないまま,岡山市内の大山実山住職のもとに保管,供養されていた。
これらの事実は,社会問題を学ぶ高校生たちの平和問題のとりくみのなかで掘り起こされ,あかるみに出された。生徒たちは,韓国の新聞社にいきさつを書いた手紙を出し,反響を呼んだ。これが縁となり,これら犠牲者の遺骨が,市内の高校生に抱かれて海を渡り,この4月(1990年)40数年ぶりに帰郷した。
(注 文章中の「朝鮮人」の呼称は,国籍を表すものではなく,広義に朝鮮半島出身者を意味している。)        

思い起こせば、一九九〇年。今から25年も前のことですね。
当時は、「強制連行」とか「強制徴用」という概念も、まだ歴史の闇に隠されていて、発掘途上の「史実」でした。今、「歴史修正主義」の方がたが、「強制連行はなかった」「強制徴用はなかった」「従軍慰安婦はなかった」「侵略はなかった」「植民地支配はなかった」と、百万遍繰り返されようとも、この遺骨の意味を塗り替えることは不可能でしょう。
今も、この地下工場跡を保全し、歴史に学ぼうという、 市民運動が続けられていますが、その中心的活動に取り組んでいる「亀島山地下工場を語りつぐ会」 には、私の親しい友人も参加しておられます。

その友人が、昨日はローカルニュースに登場して、その活動の重要さを語っておられました。

横道にそれました。
芋づるのように、いろいろな記憶がつながりを見せ、面白いものです。
そうこうするうちに夜になり、冷え込みが厳しくなっています。
治癒証明を期待した年長組の姫は、まだ充血が取れないので、もうしばらく目薬の投与が必要とのことでした。
眼科医への通院のついでに、年賀状を郵便局に投かんし、そのまたついでに道の駅でサツマイモを仕入れ、今日もまた焼き芋を作りました。 
今日はこれにて。

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ちょんまげ侍金四郎

隠された史実、勉強になります。
私の住む町にも、大昔、川沿いに朝鮮人部落がありました。
一緒に遊んでたりしていましたが、いかんせん小学生だったので、どうしてそこに住むに至ったのか、聞くなどということには及びませんでした。

まさに土手の向こうの河川敷に住んでいたので、ある意味違法ということで1970年代くらいから、三々五々立ち退いて引っ越して行きました。

さてさて、本日女房殿と我が子が岡山へ帰省いたします。



by ちょんまげ侍金四郎 (2016-12-28 08:40) 

馬爺

古地図と現在では全く地図が違いますがこれは干拓によって作られたものだったんですね。
いや~~勉強になりましたね。
by 馬爺 (2016-12-28 11:44) 

kazg

ちょんまげ侍金四郎様
身近なところに横たわる重たい史実、光が当てられなければ知らずにやり過ごしてしまうことも多々あるのでしょうね。
お気をつけて、ごゆるりとお帰りくださいますよう。
by kazg (2016-12-28 16:16) 

kazg

馬爺様
当たり前のように陸地だと思っていた場所が、ほんのしばらく前までは海だったことを知ると、規模の大きさに改めて驚かされます。
by kazg (2016-12-28 16:19) 

majyo

岡山県がそんなに干拓された土地とはまったく知りませんでした
東京も皇居の外は海だったし、古地図と比べると埋め立てが進んだのがわかります

巨大トンネルの話ですが
大戦中に多くの朝鮮人が徴用され過酷な仕事に従事し亡くなりました
歴史をきちんと知るべきですね


by majyo (2016-12-28 20:09) 

kazg

majyo様
>東京も皇居の外は海
そうだったんですね。知りませんでした。
>歴史をきちんと知るべきですね
少なくとも、自分に都合良く作りかえてはいけないですよね。
by kazg (2016-12-29 03:14) 

馬爺

おはようございます。
今年一年ありがとうございました、新年もよろしくお願いいたします。
佳き新年をお迎えください。
by 馬爺 (2016-12-29 08:58) 

mimimomo

こんばんは^^
この一年お付き合いありがとうございました♪
どうぞ佳いお年をお迎えくださいませ。
by mimimomo (2016-12-29 18:07) 

kazg

馬爺様
こちらこそありがとうございました、良いお年をお迎えください。
by kazg (2016-12-30 07:07) 

kazg

mimimomo様
ありがとうございます、良いお年をお迎えください。
by kazg (2016-12-30 07:09) 

momotaro

郷土地誌シリーズ、凄いですね
敬服します。
by momotaro (2017-01-08 04:49) 

kazg

momotaro様
元々興味の薄い分野でしたので、たぶん「みんな知ってる」はずのことを、得意げに吹聴しているだけかも知れませんが、自分なりにおもしろがっています。
by kazg (2017-01-08 07:15) 

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