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嬉しき再会、の巻 [日録]

週一度、五分未満、二人まで、そして事前予約が必要という縛りの中での面会のために、昨日は父の入院中の病院を訪ねました。


常々母の様子を覗いてくださるご近所さんが、立ち話ついでに、庭の小菊を見せてくださいました。


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今日は、郷里の母のもとを、ケアマネジャーさんが訪問してくださるとともに、そこから私宛にも電話をくださり、父の介護認定が、要支援1から要介護4へと変更されたと知らせてくださいました。自分で自動車を運転するという状態が、要支援1という認定の基礎にあったのでしょうが、さすがに入院中の身体状況は、自力ではなかなか日常生活もままならない状態と客観的にみなされたのでしょう。思いのほか高い要介護度が示されたので、少しビックリしました。


早期退院して在宅でのリハビリという方法は、なかなか実現困難なようで、施設への入所に向けて検討を進めているところです。




話変わって、岡山を拠点に活動する前衛書道家・蟠龍(ばんりょう)という方がおられます。書・デザイン・パフォーミングアーツなど幅広く手掛け、韓国文化美術大展・亜細亜美術招待展 招待作家として活躍中です。


その人となりと活躍ぶりを描いたYouTube動画がこちらです。


https://youtu.be/PYKf8_VXVNA


この蟠龍さん、実は高校時代、このkazgと少しばかり縁がありました。彼が、最近、SNSにアップされた記事をコピーして紹介させていただきます。


【嬉しき恩師との再会<img src=" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />】

先日の総選挙の頃、実家に一通の封書が。

懐かしい高校時代の恩師からの手紙でした。

その恩師は退職後にブログを始められたそうで、同封してあるブログ記事のコピーには

「今度の総選挙ではぜひ政権交代を実現し、日本の明るい未来をつくって行きましょう?

という熱いメッセージが込められており、とても嬉しくなりました。

恩師のご自宅を訪ねると、あいにくご不在。その後お電話で再会し、近況報告や思い出話に花が咲き、実に楽しいひと時でした<img src=" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />

実は僕の現在の生き方や思想は、高校時代のこの恩師の存在が少なからず影響しています。

時は1991年。玉野高校3年生当時、僕は受験勉強の真っ最中でしたが、書道部の部長と生徒会執行部(文化委員長)を兼任し、玉高文化祭の「復興再生」に熱中していました。

生徒の自主性を重んじ、自由な校風が長年の伝統だった玉野高校。当時生徒会顧問をされていたのが、その恩師でした。

「文化祭を盛り上げるために、校舎の上から下まであるような巨大な書の作品を作りたい?

…という、かなり無謀なアイデアを持ちかけた僕に

「こんな本があるぞ。読んでみるか?」

と、恩師が貸してくださったのが高文研の『文化祭企画読本』でした。

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まだインターネットも何もない時代。

その本には全国の高校の文化祭における先進的なアイデアの数々が紹介され、文字通り「目からウロコ」。

約10メートル四方の巨大なブルーシートにロール模造紙をつなぎ、両面テープで貼り付けてからいざ大書。乾いたら校舎の上からロープで固定。

抜群にコスパに優れ、しかもブルーシートで「裏打ち」的な加工がなされた初代ビッグアート作品「祭」は、こうして出来上がりました<img src=" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />

<img src=?" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/tb4/1.5/16/2666.png" width="16" height="16" />【伝説の大書作品「祭」】

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10215283857357768

もちろんビッグアートの展示も、僕たち生徒自ら校舎の屋上に上がり、校舎下からロープでゆっくり作品を引き上げて設営展示。

書道部・生徒会の顧問の先生方が僕たちを見守り、支えて下さったお陰で「無謀なチャレンジ」が一つひとつと実現していったわけです。

もしも当時の玉野高校が

「生徒の自主性を尊重し、民主的でおおらか」

な教育でなく

「生徒の自主性を奪い、厳しく管理する」

ような教育をしている学校だったら、絶対こうはいかなかったと思います。

若い時に書道部や生徒会での活動を通して経験して得られたことが、今の僕の生き方や思想信条の土台になっています。

だからこそ、僕は

「国民一人ひとりの自由や権利、生活が蔑ろにされ、権力者や大企業の利益が最優先されている今の自民党政権のやり方は明らかにおかしい」

と常日頃から思い、それに反対しているわけです。

(画像には恩師のブログ記事からのスクショも含めて掲載させていただきました)

<img src=?" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/tb4/1.5/16/2666.png" width="16" height="16" />恩師のブログ「ナードサークの四季」

https://kazsan.blog.ss-blog.jp/


穴があったら入りたい、いや、穴を掘ってでも隠れたいほどの過分なお褒めの言葉に、恐縮するばかりですが、彼の母校=私の当時の勤務校であった玉野高校についての認識は、まったく私も同一です。そして、その年の文化祭の様子も、彼の記憶の通りで、今もありありと私の脳裏にも蘇ります。


以前書いたこんな記事が、その時代を振り返っています。


縁の下で考えたこと、の巻(その3)(2017-08-23)


前回話題にした1998年の滋賀教研で発表したレポートを、引っ張り出してみました。実物の紙の冊子も見つかリましたし、データファイルもありました。生来、管理能力にかけ、大事な捜し物はなかなか見つからないのですが、意外にこういうガラクタは、後生大事に保存しているのは、我ながら不思議です。
レポートの全体をご紹介しても、退屈至極、不興を買うのは必定ですから、チラッと、その雰囲気だけ感じていただければ幸いです。

(中略 )

2)本県における高校再編の動き
学区拡大・学校間序列強化をはかる全国的な動きの中で、本県において長く小学区・総合選抜制度が維持されてきたことは、我々の誇りの一つであった。だが、生徒急増期を迎えた1980年代、高校増設への県民的な要求の高まりにたいして、県は、全県学区の「新タイプ」高校を、全国に先がけて相ついで新設する方向で処してきた。それは、こんにち展開されている小学区・総合選抜制度廃止の動きの、事実上の露払いの役割を果たすものであった。それはまた、近隣の高校に苛烈な「生き残り競争」を強いる端緒となり、新たな学校間格差と数知れぬ教育上の困難と弊害を生み出した。
(中略)
現場では、県教委主導による「特色づくり」競争があおられ、「生き残り」をかけた学校間競争が強いられている。理数科・国際科・などの(唐突かつ陳腐な)学科新設や総合学科への衣替えによる差異化が演出され、生徒獲得のための学校売り込み(オープンスクールの実施、制服改定、美麗な学校案内の作成、学校祭公開など)にも多大な労力が費やされている。強迫的な「生き残り」ストレスのもとで、「進路実績」や「生徒のしつけ」など、「学校の評判」への過度なこだわりが、教職員・生徒をともに追いつめる状況も現れている。
(中略)
学区解体の動きと連動して、様々な高校再編策が矢継ぎ早に示されている。
(中略)
政府・文部省と財界の企図する「教育改革」と軌を一にした、これらの岡山県版高校再編計画にたいして、真に子ども・青年と父母・県民の願いに応える「高校像」を、大衆的に探求していくことが、今つよく求められている。
(中略)
2.わが身辺のこと
(1)現任校への転勤
①学区再編と前任校
報告者は、16年間勤務した普通科高校から、現在の勤務校に転勤して三年目である。
前任校は地域に根ざした普通科高校として、偏狭な受験シフトにも部活偏重にも与せず、自由と自主・自立の気風をお互いの誇りとしながら、生徒の進学要求にも一定応え、生徒会活動・部活動も活発、という点で、「いい線行っている」と自負できる学校であった。
だが、80年代、前項で指摘した全県学区の「新タイプ校」が同一市内に設立された影響を大きく受けての「地盤沈下」に直面するなかで、「きれい事は通用しない」との声が職員内にもしばしば現れるような状況も生まれた。そのもとで、受験向け補習授業の拡大、早期のコース分け導入、生徒会行事の縮小、「しつけ」的生徒管理の強化など、多くの県内普通科高校が歩んだと同じ道を、とめどなく後追いしながら、決して満たされない焦燥の日々が続くこととなった。
(中略)


「地域に根ざした普通科高校として、偏狭な受験シフトにも部活偏重にも与せず、自由と自主・自立の気風をお互いの誇りとしながら、生徒の進学要求にも一定応え、生徒会活動・部活動も活発、という点で、『いい線行っている』と自負できる学校であった」、という私の認識が決して独善的なものではなかったことを、蟠龍さんが、当時生徒だった側から証言して下さったことに改めて感慨を禁じ得ません。


この蟠龍さんらが卒業した数年後の事情は、もう少し古い過去記事にもくわしく書いています。


リユース2題、の巻(2016-01-05)


昔、仲間うちの冊子のために、こんな文章を書いたことがありました。1996年ですから、ちょうど20年前のことになります。

「学校」雑感-この頃思うことなど-

(中略)

(4)私はこの春、16年在籍したT高校から、夜間定時制の現任校に転勤しました。人目にはどこか唐突に映ったようで、いろいろとご心配もいただきました。率直なところ、何かの思惑を秘めて敢えて定時制を希望したわけでもありませんし、かといって「不本意人事」というわけでもなく、いわば「潮時人事」「渡りに船人事」とでも呼びたい気分です。
T高校は、地域に根ざした普通科校として、偏狭な受験シフトにも、極端なスポーツ学校化にも陥らず、生徒の自主・自立を育てながら、進路要求をもある程度保障するという点で、かなり「いい線行ってる」普通科高校だと自負していました。生徒の多くが「学校を好き」と言い、生徒も卒業生も頻繁に教員室を訪ねてくる風景を、新転任者などは新鮮がったものでした。長野知事肝いりで進められた「ニュータイプ校」の先駆けとして、学区を持たない県立高校が近隣に設立されて以降、リーダー層をスライス状にすくい取られた状況のもとでも、比較的善戦健闘してきたつもりでした。
しかし、ここ数年、学区崩しの動きのもとでの「生き残り競争」に、フィーバーしないでいることさえ何か肩身狭く感じる状況が、どの普通科高校でもすすみ、私自身も、自分のささやかなアイデンティティを保持しようとするたびに、澱のような疲労感を覚えることが多くなっていました。
いや、それよりも、近年、自分の発する言葉が生徒に響かなくなったという実感が、もどかしさを募らせていました。いきおい、生徒の変容を嘆く機会が増えましたが、内心、生徒と離反する方向への「学校」の変容を否定できませんでしたし、所詮自分も「学校の言葉」をしか発し得ないでいることが、生徒との溝を深くしていることにも、気づいていました。「生き残り」フィーバーに浮き足立たず、悠々と大道を歩むことこそが最良と信じつつも、次のような現実の前に、勇気がくじかれることもしばしばでした。
(中略)
自己の決定権・選択権も与えられず、多くは「青年期」を持つことすらなく、ほぼ宿命的に与えられた人生に甘んじることが通常であった時代よりも、進歩であり「幸福」であるはずの、この現代青年期を、真にダイナミックな自己実現・自己決定の時期として保障してやることに、我々の学校はどこまで寄与できているのでしょうか。
それを事実上放置したままで、「ゆっくり考えて、自分の道を発見するまで待つ」という美辞が、目的もなくその場の安逸ばかりを追い、困難の前にはすぐにたじろいで、最も安直な結論へと逃げ込む子どもを増やしていないかというジレンマを生みます。
これらに加えてわが長男も、学校に「NO」を発し、父に「NO」を発するにいたって、家族中が神経のバランスを保ちあぐねる日々が、私の鬱屈を増幅していました。そうした時期の転勤は、「転地療養」の意味でも、ありがたいことでした。


私にとって、職場状況の変容と並行して長男の不登校という事情が同時進行しているもとでの転勤でした。この時期のことを、こんな記事に書きました。


いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと(2015-12-30)


以前、ある教育関係の雑誌にこんな投稿をしたことがありました。夜間定時制高校に勤務しはじめた頃で、記録には1996年とあります。

人間を幸福にしない学校?

公園の砂場であろうか。四、五歳の子どもが何人か、しゃがんで遊んでいる。
後ろ姿の一人は、見まがうはずもなく、長男だ。
「そうか、お前はまだ、そんなに幼かったのか。よかった、それなら、やり直せる。抱いてあげるから、こっちへおいで。」
声をかけても、振り向こうとしない。遊びに夢中なのか、反発して頑なに体をこわばらせているのか。
砂遊びを切り上げた様子で、一人、二人と子どもたちが立ち上がり、向こうへ駆け去っていく。長男も、後を追って駆け出そうとする。「待ってくれ!」小さな背中に呼びかけようとして、目が醒めた。
その日、私たち夫婦は、彼の在籍する高校へおもむき、休学届けを提出した。二学期の初めのことだ。
彼は、高一の冬休み補習からまったく学校へ行けなくなった。辛うじて二年への進級は許されたものの、朝ごとにすく みと取り乱しを繰り返しながら、教科書通りの登校拒否症状を呈し、ずーっと家に閉じこもったきり。次第に生気も薄れ、音楽、TV、マンガ、ファミコン三昧の、昼夜逆転の日々。
「三年寝太郎って、きっと実在したのよね」という妻の言葉にリアリティがあった。
学校の対応、特に担任、カウンセラーの先生のご援助には、感謝のほかはない。だが、私自身、長年「進学普通科」に勤務して熟知しているつもりだが、進学校の生理は、子どもの自立のあがきを大らかに見守り援助するどころか、立ちすくみ逡巡する者をも追い立て蹴散らして、ひたすら走り続けることを強迫的に求めがちだ。
ましてや、岡山県では、ここ二、三年、小学区・総合選抜解体の動きに呼応して、学校間の不毛な「生き残り」競争があおられていて、余裕のない業績主義が学校全体を包む空気となっている。それだけに、子どもにとって学校は、常にせかされ競わされ、万事に過度の緊張を強いられる息苦しい場となっているようだ。
息子も、中学半ばから、腹痛、下痢、めまい、耳鳴りに悩みながらも、ほとんど欠席なしに走り続けた。高校入学当初、みずから相談室や保健室を訪ね、呼吸法や自律訓練法を習って試みていたようだが、今思えばその心境が哀れである。休日も長期休業中も、四六時中くつろぐことなく、些細なことで家族とも衝突した。
ヘッセの「車輪の下」を読んで、「ハンス・ギーベンラートは僕だ。僕も学校の犠牲者だ。」と訴えることもあった。
「いやな学校ならやめてしまえ。自力で乗り越える以外に解決の道はない。」などと追い詰めずに、「休み休みやったら?」と、なぜその時言ってやらなかったのだろう。
彼は言う。「苦しんでいる者を追い詰めるのが教師か。お父さんは家でも教師をやっている。」「教師はなぜ威張るのだろう、 少したくさんモノを知ってることのどこが偉いの。」「勉強自体を嫌いじゃないけど、僕がわかりたいことと、学校が教えたいことは全然違っている。勉強すればするほど、何もわからなくなる。」「未来なんて見えすいている。思いがけない出来事なんか、起こりはしない、地震やオウムみたいな悪いこと以外は。人生なんて、何の楽しみもない。そんなもののために、毎日我慢 して、努力する価値があるの。」彼を納得させる反論を、私はいまだに用意できないでいる。
ウォルフレン著「人間を幸福にしない日本というシステム」 は、内容もさることながら、タイトルが秀逸だ。
ふと「人間を幸福にしない日本の学校というシステム」と語呂あわせをやってみて、その説得力にゾッとした。
子どもから学校を取ったら抜け殻しか残らない、という現状自体不幸だが、その学校が人間を幸福にする場でないとすれば、どこに子どもの救いはあるのだろう。
息子は、縁あってこの夏からオーストラリアにホームステイして、外国人学校に通っている。近所の店に買い物に行くことさえ億劫であった彼には、大きな一念発起であったろう。朝六時に起きて、夕方まで授業。宿題もたっぷりあって、夜は十時就寝。「これでは日本にいる時以上の窮屈さだ」と嘆きながら、今の所、皆勤を続けている。タイ、香港、台湾、韓国・朝鮮、アフリカ、ギリシアなど、多彩な級友と知り合えたことは、収穫であったらしい。「みんなすごい」と賞嘆する。こちらでは聞けなかった言葉だ。
上か下か、勝ったか負けたかが支配する一元的価値の世界では、「みんなちがってみんないい」(金子みすず)という発想が生まれにくいせいだろうか。
私自身はこの春から、全校八十人弱の夜間定時制に転勤した。そのアットホームさに、私自身が癒されている。中学時代ほとんど学校へ行けなかった生徒が、 無欠席で登校している。他校を続けられず、やり直しをかけて転入した生徒が「今が一番幸せ」と語っている。
山田洋次監督の言う、母のように暖かい「母校としての学校」が、海外か夜中にしか存在しないと、言いたいわけではないのだが----。


穴があったら入りたい、いや、穴を掘ってでも隠れたいと言いながら、その舌の根も乾かぬうちに、自己顕示の数々・・・いやはや、お恥ずかしや。でも、追憶モードのなかで、こんな記事のことも思いだしたので、自己顕示ついでに、再掲させていただきます。


懐かしの切り抜きメモ、の巻(2015-08-10)


昨日の記事で、「ストップ戦争法 緊急 集会&パレード IN 玉野」に触れたついでに、玉野市という町のことを少し書きました。
それがきっかけで、走馬燈のように思い出されることがあります。思い出しついでに、身辺を探してみると、以前、仲間内の小さな、「ミニミニコミ紙」に「時事新聞」という表題でこんなコラムを書いたことがありました。

▼このコラム欄の表題について一言▼担任したHRの想い出は、どれもかけがえのないもの。そんな中でも、思い入れ深いのが、教員五年目、T高校で最初に担任した二年○組▼民間教育サークルで、先輩から聞きかじった手法を、見よう見まねのHR実践。班分け、班長会、班ノート、担任通信、係活動(学習班、美化班、報道班、風紀班など)。学習班は、考査前に出題範囲とポイントを教科担任から取材し、自前の予想問題とともに、みんなに配布。報道班は、生徒の視点で新聞を発行。「いちご新聞」「MEDACHITIMES」などとりどりの名前に混じって、「時事新聞」という表題の新聞があった▼春の一日旅行は、貸切バスなどを利用して遊園地や観光地への計画を進める他クラスを後目に、徒歩で近くの海岸へ。集団ゲーム、班ごとの出し物、飯ごう炊さんの一日。下見、食材・炊事用具、燃料などの準備も、消防署への届けも、すべて生徒がやった▼信州への修学旅行も、自由行動日は、班ごとに企画・行動。旅行中の決まりも、生徒で議論して、良識的な案を練り上げた。だが、教員側の合意が得られず、生徒案は却下。不信がわだかまる▼放課後の教室でトランプに興じる生徒からトランプを取り上げた。「授業時間中はともかく、放課後は、生徒の自由」と、トランプ解禁署名を始め、クラス全員の署名を集めてきた。「学習の空間になじまない」と突っぱねた。「独裁Kazg教諭」の見出しが、班新聞を飾った。「学校も大人も、子ども・生徒を信用していない」と、数号にわたって論陣が張られた▼心憎いことに生徒は、担任にも反論スペースを用意してくれた。「私を独裁者と呼んでは、本物が嘆くだろう」必死に反論した▼三学期ともなると、活動が停滞する。毎日終礼後、歌を歌おう、などの提起にも、しらけた空気。教室に向かうのが辛い▼が、生徒は、最後に文集をつくった。生徒作詞作曲による「二年○組の歌」も載っていた。班新聞、担任通信、学級日誌をたどって、一年間を振り返ってもいた。そして、あの新聞題字の種明かし。「じぶんじしん」と読むと▼この想い出は、今でも私の元気の素だ。

探しついでに、当時の生徒が作ってくれた文集を見つけだしました。おもて表紙には、生徒の手書きの飾り文字で、大きく「FOR EVER Ⅱ○」とあり、「S55年度 2○文集」と記してあります。
裏表紙には、ほのぼのタッチのまんがが描いてあります。左上からかわいらしい太陽が顔をのぞけ、地面には、チューリップのような可愛い花がいくつか咲き、そこに寝癖のついた髪の毛ぼさぼさの男女と、四つん這いの乳幼児が描かれていて、○○family ○○先生 末永く お幸せに、、、と書いてくれています。

この文集の巻末に、私も、次のような文章を寄せました。

特別付録 君への私信fromタンニン
あわただしく一年が経過した。去年のちょうど今頃、ぼくは転勤の内示を受け、身辺整理と気持ちの整理に、心落ち着かぬ日を送っていた。
若いつもりではいても30歳の声を間近にし、子を持つ身にもなると、行動様式も一定の硬直をきたし、不断の自己変革を怠り、足を前へと踏み出すのを億劫がる心理が芽生える。自己の狭いワクに閉じこもり、そこにささやかな居心地良さを覚えるような、悪しき保守主義とも呼ぶべきものが、それである。
教育の場にあっては、教壇に立つ者も学ぶ者も、互いに触発しあう、ある種の魂の苦闘を経た不断の進歩成長がなくてはかなわない。古びた知識の切り売りと、その受動的丸のみ込みは、われわれの最も唾棄すべき所のものであろう。人格と人格が火花を散らしてせめぎ合い、揺さぶり会う営みをこそ、”教育”と呼ばねばなるまい。そのためには、教師たる者には、限りのない自己練磨が要請される。にもかかわらず、自己の狭量さ・未熟さの上に安住することに痛痒を感じなくなりつつある自分を、ふと見いだし、焦燥に駆られることがしばしばであった。
その意味で、私はこの転勤の私個人にとっての意味を、新たな環境における新たな体験と新たな試みによる自己変革の好機(もしくは刺激剤)と受け止めようと考えたのであった。
が、一方では、去年担任した生徒たちへの愛着・未練も、私の胸中の相当部分を占め、しかもそれが日増しにふくらみを増すのも抑えがたかった。やり残したこと、やり損じたことをもう一度同じクラスのメンバーのままで、やり直し、やり遂げることが許されるものなら、と、愚にもつかぬ執着にさいなまれてもいたのである。
そうした、踏ん切りのつかない迷いをも多分に残したままで、私は転勤の受諾を決めた。
当初、「T高校」の名を告げられて、不覚にも私は、いずれの土地のどういう学校であるかを、とっさには思い浮かべることができなかった。地図を探してやっと、県南端の、海に面する地、宇野港を擁する街であったことに気づいた次第だ。そういえば私の親しい友人や知人の中にもT高の卒業生や関係者があったことにも気づかされた。
また、宇野港(宇野駅)には、まんざらゆかりを持たない私ではない。大学時代、郷里と大学との往来に,必ず経由し、格別の感慨を持って眺めた港であり、街並みであった。高知発深夜11時の快速列車に揺られ、翌未明高松を経て連絡船に乗り込むというのが、私の帰省の旅の常であった。
人並みの失恋や、人生上の苦悩を抱えながら,熟睡できなかった眼に、宇野港の灯の次第に近づくのが映る。まだ深く寝入っている町並みの、家屋の姿がほんのりと浮かんで見える。降り立った駅構内に、人影はまばらであるが、それでも確かに他ならぬ岡山弁が交わされている。
「ふるさとの なまり懐かし 停車場のーーー」と詠んだ啄木ではないが、懐かしい故郷の、ごく間近まで帰り着いたという安堵感をもたらしてくれるのが,この港であり、街並みであったわけだ。
(以下略)


蟠龍さんたちに出会う10年ほども前のことです。独善、生硬、狭量で、青臭く押しつけがましい、未熟極まりない若かりし日の一コマですが、しかしそれは、私にとってかけがえのない、懐かしく愛おしい記憶となっています。


もしも当時の玉野高校が

「生徒の自主性を尊重し、民主的でおおらか」

な教育でなく

「生徒の自主性を奪い、厳しく管理する」

ような教育をしている学校だったら、絶対こうはいかなかったと思います。


蟠龍さんのこの言葉は、生徒にとってのみならず、教員にとってもそのまま、身にしみてあてはまる共通の感慨であったに違いありません。


今日はこれにて。


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momotaro

良い仕事をやって来られましたね。
あちこちで穣っているのでしょね。
素晴らしいですね。
by momotaro (2021-11-18 21:00) 

kazg

momotaro 様
真っ只中にある時は、「達成感」や「充足感」を味わうという覚えもほとんどなく、無力感や徒労感に苛まれることの方が多かったのですが、時経てこんなご褒美をいただけると、望外の喜びを感じずにはいられません。
by kazg (2021-11-19 08:08) 

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