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我ながら心驕りや梅雨晴れ間 [日録]

先日から何度か話題にしましたように、私もその編集に携わってきた、退職同業者親睦会の結成40周年記念誌がこのほど完成しました。


だまされないぞ!の巻(2020-06-11)


この間、ちょっと労力を費やしてきた案件が,ほぼ片付きそうです。私の所属する同業退職者の親睦組織が、今年結成四〇周年を迎えるそうで、記念誌を発行することになっており,そのお手伝いをしています。100ページ近くの冊子の編集がほぼ終わり,つい昨日、印刷所から第一校が上がりました。これを、しかるべき面々に,校正をして頂く必要がありますが,時節柄、実際に集まって作業をすることもままならず、コピーを郵送して、目を通して頂くことにしました。


月がわりのまとめ書き日記、の巻(2020-07-05)


6月30日(火)

退職同業者の会、の集まりの場に、印刷会社から刷り上がったばかりの冊子が届きました。私も係の一人として編集に携わっていた「結成40周年記念誌」です。肩の荷を自覚しはじめたのはかなり前ですが、具体的には昨年の秋頃から着手し、ようやく完成したものです。感慨もひとしおですが、いざ終わってしまうと、いささかの不飽和感・未達成感も残ります。


こんな冊子です(一部加工あり)。


hyosi


先般、会員の皆さんのもとに発送しました。すると、何人かの方から,心あたたまるねぎらいの言葉をいただき、恐縮しながらも,「報われた」という思いを噛みしめることができました。


そのうちの一通。丁寧な細かい字でぎっしりと書き込まれたはがきを,昨日いただきました。一読、まぶたの熱くなるのを禁じ得ませんでした。以前、この記事で紹介したことのある先輩教師鴨川さんからのハガキでした。


懐かしき便り嬉しき聖夜かな(2014-12-24)


家を出る際に、郵便受けに二つの分厚い郵便物が入っているのに気づき、それを持って車へ。運転を終えて、 内容を確かめてみますと、どちらも懐かしい方からのメール便で、それぞれ書籍が同封されていました。

ひとつは、敬愛する先輩退職教師、鴨川恵美子さんが、12月20日付けで発行されたばかりの『続・ふたりの完結』と題されたエッセイ集です。

はるか後輩の私をも、「友人」と認めてくださり、贈ってくださったものです。

表紙カバーには、ブルーを基調とした落ち着いて深い透明感のある風景画が 描かれています。倉敷美観地区周辺のたたずまいのようです。元岡山県の国語教師で、退職後埼玉県に転居され、画家となられた武田昭一さんの作品だそうです。後書きによると、ご夫婦ともに国語教師で、お住まいも近くて昵懇の間柄であったことから、表紙絵を依頼されたのだそうです。

文章の冒頭は、こういう書き出しになっています。

夫、鴨川俊作は、一九九八年四月七日、大腸がんの発覚から、闘病の十ヶ月を経て、七十歳で亡くなりました。私は六十五歳、夫の『師』を見据えながら出来る限りの看病に努めました。

一周忌を期して、「ふたりの完結」を上梓し、友人の皆様に読んでいただきました。多くの感想が寄せられ、一箱の私の宝石箱として、時折取りだしては読み返し、折々の生きる支えになっておりました。

十数年を経た今日、私は二〇〇九年「脳梗塞」や、一三年「大腿部骨折」に見舞われ八十路の坂をやっと越え、「ふたりの完結」のその後を書いておきたいという心境になりました。(後略)

そして、地元紙「倉敷新聞」(現在休刊中)の記事から、こんな文章が引用されています。

鴨川俊作氏を偲んで二冊上梓
妻 恵美子さん『ふたりの完結』
偲ぶつどい実行委編追悼集「いつも労働者の中に」

倉敷新聞 一九九九年五月一九日付

昨年四月七日、大腸癌のため逝去した北浜町、元日本共産党岡山県委員会副委員長、岡山県労働問題研究所理事長だった鴨川俊作さんの一周忌を記念して、このほどj夫人の鴨川恵美子さんが『ふたりの完結』(手帖舎刊)四六判、二五三ページ。合わせて、鴨川俊作さんを偲ぶつどい実行委員会が『いつも労働者の中に』~鴨川俊作さんを偲んで~ 四六判、一八三ページを発刊。それぞれの立場から故人を偲んでいる。(後略)

鴨川俊作さんには、生前、学習会などでの講義をお聞きしたことがあるだけですが、穏やかで、理路整然とした学究家という印象が強く残っています。 葬儀の時は、片隅に参列させていただきました。

当時贈っていただいた「ふたりの完結」も、感銘深く拝読したことでした。

実は、私の脳動脈瘤手術の後、拙宅まで見舞いに来てくださったことがありました。
その際、お若い頃の脳血管手術の経験も話してくださり、力づけてくださいました。
何かと気弱になっていた私には、大きな励ましで、春からの職場復帰にチャレンジできたエネルギーになりました。(ほかにも多くの方々の支えや励ましがあったればこその復帰でした。今や退職後も、非常勤でアルバイト生活をやってみようなどと思い立つこと自体、当時から見れば、不思議なことです。)
奇しくも、私の病気の2年後、脳梗塞で倒れられましたが、強靱な意志力でリハビリに励まれ、パソコン、ピアノ、プール、投書、など多彩な活躍を続けてこられました。
さらに、2013年には大腿部骨折を経験され、身動きが不自由になられたとお聞きし、心配しておりましたが、これまた強靱な意志力で、今年の八月にはショパンの「OP70の2」を発表会で演奏され、「ホフマンの舟唄」を連弾で弾かれたそうです。さらに、『続・ふたりの完結』を完成されたことに、敬服の思いはつきません。

先ほど、お礼の電話を差し上げたところ、「気力が湧かないのよ。年をとるとはこういう事かしらね。」とおっしゃるお声には、張りがあり、 ほっと安堵したことでした。


ちなみに、文中の『続・ふたりの完結』の表紙絵を描かれた武田昭一さんは、上述の40周年記念誌の表紙絵のためにも絵画を寄せてくださいました。


ハガキの文面には、望外のお褒めの言葉が綴られ、「いささかの不飽和感・未達成感」(月がわりのまとめ書き日記、の巻)を,完全に雲散霧消させ、「我ながら心おごりせられし」(「大鏡」降り敷くは唐紅の錦かな(語彙貧困、安直無類、真情不在、拙劣至極)参照)の心境を味わったことでした。中でも、「Iさんはもちろん、皆さんから合格点は寄せられるでしょう」「肩の荷を下ろしてくださいね」というお言葉に、ついつい涙腺が緩むのを覚えずにはいられませんでした。私が「編集後記」にこう書いたことを踏まえての、ねぎらいのお言葉なのでした。


編集後記
およそ,ちゃらんぽらんを性とする私といえども,ここのところ,さすがにズシリと重い肩の荷を背負い続けてきました。というのも,10年前,I前会長が,編集半ばで実現を果たせぬままに推移してきた「30周年記念誌」の完成と,その後の10年分を加味しての「40周年記念誌」作成という,とてつもない任を仰せつかったためです。
身の程を考えるならば,当然辞退するのが賢明でしょうが,そうもいかない事情もありました。晩年のIさんとの格別のえにし(第2章所収の拙文参照)からも,その遺志を継ぐべき責任は自覚しておりましたし,(中略)国語科出身である私(中略)が,さしづめその任に当たるのが自然の成り行きだろうかとの自覚(諦め)もありました。
つらつら考えてみますに,10年前,Iさんが,記念誌完成を目前にしながら頓挫されたのは,もっぱらその完璧主義に起因しているだろうというのが,衆目の一致するところのようです。さすれば,その完璧主義からほど遠い私などは,かえって適任と言えるかも知れません。もう一つ,Iさんは,有能かつ責任感旺盛なるが故に,万事をご自身の手で成し遂げようと考えられたことが,あるいは災いしたのかも知れません。その点,私などは,「しんどいところは人に譲る」詐術にたけております。
そういうわけで,編集責任者の名をいただきながら,実質は別表の編集委員の方々に,分担分野の編集を全面的に委ねることにしたのですが,それが思惑以上に奏功し,ここに素晴らしい記念誌(自画自賛!)の完成を見ることができました。献身的努力によって存分に力を発揮してくださった編集委員の皆様に改めて敬意と感謝を表する次第です。(中略)
第2章は,「40周年記念号」のために会員各位から寄せていただいた文章,第3章は10年前に発行予定だった30周年記念号に向けての寄稿からの抜粋で構成しました。既に鬼籍に入られた方々の文章も含め,それぞれの思いの深さに,改めて感慨を禁じ得ません。
この記念号が,高退教運動の新たな発展にとっての,確かな礎となることを確信し,編集後記と致します。


見苦しい「自慢話」になりました。今日はこれにて。


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いっぷく

黄色いマーカーの件で、昔、大阪知事選に日本共産党推薦で出た鯵坂真さんを思い出しました。
鯵坂夫人が亡くなったのもたしか大腸がんでしたが、喪中はがきの文面が、何歳で亡くなったという報告だけではなく、一生懸命がんばったのですが力及ばず、のような経緯が書かれていて、ご夫人への愛情や惜別の悲しさが表現されていました。
※「武器なき斗い」の山宣はもともと今で言う革新無党派でしたが、追悼シーンでは赤い旗を掲げた労組や市民団体が集まったまるで本物の追悼式のようでした。
by いっぷく (2020-07-17 04:55) 

kazg

いっぷく様
そう言えば、鯵坂さんも山宣も、第一級の学者・学究の人でしたね。しかも、ともに、書斎に閉じこもるのではなく、時代の要請に応えて困難の道を歩む。頭が下がります。
映画「武器なき斗い」は、山宣を、鋼鉄のような物怖じしない闘士としてではなく、「生物学の研究生活にもう一度戻りたいよ」と呟くような人間臭い人物として描いていた(うろ覚えですが)ことに共感を覚えました。
by kazg (2020-07-17 10:08) 

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