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コロナの合間に出雲街道を歩く、の巻 [折々散歩]

出雲街道を(ちょこっと)歩いてきました。


こんなバスに連れられて・・・


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年金者組合地元支部が主催する2年ぶりのバス旅行が、先日の土曜日実施され、参加してきました。コロナ禍のもと、このような企画はしばらく自粛中でしたが、感染の波も静まりつつある状況を受けて「再開」されたもの。page001


それにしても、このたびの新型コロナ感染症、わが岡山県は、感染者数自体は決して目立つ数字ではありませんが、それはもちろん人口規模が小さいためにほかなりません。


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一日ごとの感染者数、人口規模の割には、深刻な状況が続きました。


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10万人あたりのコロナ感染者数は、全国有数の数値を記録し、日によっては、全国ワースト1に躍り出たことも少なくありません。


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10万人あたりのコロナ感染者数は、全国有数の高い数値を示しています。日によっては、ワースト1に躍り出たことも少なくありません。


中国地方では、広島をも遙かに抜いて、ダントツの記録を維持し続けてきました。


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ここ数日で、ようやく静まった感がありますが、またまたオミクロンなる変異株の流行が、海外では始まっていて、日本への流入例も確認された由。インフルエンザ流行と並行して、コロナの新たな感染拡大も懸念されます。


それにしても、ギリシア語のアルファベットも、アルファ、ベータ、ガンマの辺りまでは順に口ずさむことができますが、オミクロンとなると調べなければわかりません(汗)


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新たな大流行を抑えて、世界中に平安が訪れる日の早いことを祈るばかりです。


束の間の「凪」、嵐の合間かも知れませんが、穏やかで睦まじい旅を楽しむことができました。


「津山」という土地は、わが郷里からも近く、なじみの深い場所でもあって、わがブログの過去記事でも何度か紹介したことがありました。


桜前線北上すの巻(2014-04-02)


津山城を築城した初代城主は、信長のお気に入りの小姓として知られるあの森蘭丸(成利)の弟、森忠政です。
彼も、13歳の時、兄と同様信長の小姓として出仕しますが、先輩の梁田弟河内守にからかわれたのに立腹し、梁田を部屋の隅に追いつめ頭を扇で叩いたため、幼すぎると見なされて、信長に親元へ返されました。これが幸いして本能寺の変に巻き込まれることなく、命拾いしたそうです。その後、豊臣秀吉に仕え羽柴姓を授けられますが、秀吉死後は徳川方につき、関ヶ原の戦では徳川秀忠に属して真田昌幸を攻め,その後の大阪の変を経て、美作国18万6000石を与えられ、鶴山に城を築きました。

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津山城は、櫓の数の多さでは、広島城、姫路城と肩を並べる、雄大な名城であったそうですが。明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみが残されました。昭和11年(1936年)模擬天守が建てられましたが、太平洋戦争中に空襲の目標とされることを恐れて解体されました。


今回のバス旅行では、津山城(鶴山公園)そのものは見学の対象から外れますが、初代城主森忠政が整備した城下町の様子を伝える「城東町並み保存地区」(国の重要伝統的建造物群保存地区に選定)をガイドの解説を聞きながら散策しました。


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この街並み、旧出雲街道沿いにの往時の面影をそのまま残した建物が連なります。市民・行政の尽力により保護・保全が進められています。


ちなみに旧出雲街道については、たとえばこんな過去記事でご紹介済み・・・


故旧また出雲街道を行く、の巻(2018-12-17)


前回のこの記事の回(はたらく自動車?クリーンエネルギー???の巻)に引き続き、イチローさんのお宅にお邪魔し、鍋を囲みました。

(中略)

集合場所は、前回と同じ美作土居駅。

駅前の看板は前回もご紹介しました。

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よく見ると、『土居駅跡』という史跡の紹介があります。もちろんJR土居駅のことではなく、人馬問屋=問屋場の跡なのですね。

といや‐ば〔とひや‐〕【問屋場】
江戸時代、街道の宿駅で、人馬・駕籠(かご)などを用意して、旅人の便宜をはかった所。駅亭。

出典 小学館デジタル大辞泉

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イチローさんの先導で、この旧街道跡を車でゆっくり移動し、美作市立土居小学校のほとりへ向かいます。

土居小学校のHPからアクセス地図をお借りします(無断借用)。

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こんな碑がありました。

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最後の碑文に記されている文章の一部を転記してみます。


出雲街道土居宿の成り立ちと姫新線


出雲街道は畿内と出雲を結ぶ道として発達してきましたが、 最も大きな変化を遂げたのは今から約四百年前の津山一潘主森忠政の時代(慶長年間)に、幕府から参動交代のための街道等の拡張整備を命ぜられたことによります。
その後、 武家諸法度の改正等により参勤交代の制度が確立したことから、土居宿においても大名・動使・ 上級武士が泊まる本陣と脇本陣、家来や従者が泊まる宿屋、参勤父代に必要な人足や馬が常備され、飛脚が連ぶ荷物なども扱う人馬間屋、 また全国的にも例が少ないとされる東西の惣門 (西惣門は跡地付近に復元) などの街道宿場としての主要施設が徐々にととのい繁栄を極めておりました。

また姫新線が全通して八十年となりますが、(中略)
トンネル掘削から百年、 姫新線全通から八十年を経過した今日、時代の先駆者の偉業を偲ぶとともに、出雲街道士居宿の歴史とあわせて後世に伝えていきたいとの思いから、 記念碑を建立したものです。
平成三十年三月
出雲街道土居宿を後世にのこす会


JR姫新線(きしんせん)は、兵庫県の姫路(ひめじ)と岡山県の新見(にいみ)を結ぶローカル線で、おおむね旧出雲街道に沿って走ります。津山はその途中にあるターミナル駅です。


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自動車の通行にはやや不便ながら、当時の出雲街道(出雲往来と呼ぶべきとの意見もある?)のままの道幅で残されているとか。


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通りがすぐに行き止まりになるのは、この城下町が建設された時、軍事上・防衛上の観点からの街づくりがなされた由。見通しを妨げ、多数の軍勢が勢いよく攻め寄せることを拒む構造となっているそうです。


初代津山城主森忠政が、この地に封じられ築城と街づくりに着手したのは、慶長8年(1603年)。それが完成したのは、16年後の元和2年(1616年)。ちょうど大坂の陣【冬の陣=慶長19年(1614年)、夏の陣=慶長20年(1615年)】を含む政乱がおさまりやらぬ時期だけに、実戦的対策がなされていたことがよくわかります。


その街並みの一角にこのような施設があります。


箕作 阮甫(みつくり げんぽ)旧宅。


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「津山洋学資料館」


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これについてはまた次回。


きょうはここまで。


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