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昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと [今日の暦]

米軍基地の話題に触れた流れで、1977年9月27日の横浜米軍機墜落事件を、一日遅れの「今日の暦」に書きかけた矢先、web上でこのページを拝読しました。簡にして要を得た記事で、これ以上には付け足すものもありませんので、そのまま紹介させていただきます。

この事件を描いた「パパママバイバイ」の原作者の早乙女勝元さんは、東京大空襲の実体験者で、学生の頃も何回か、そして就職してからも別の土地で、講演をお聞きする機会がありそのたびに感銘を受けました。静かな語り口の中にも、平和への切実な希求と楽天的な勇気がみなぎるお話が、印象に残っています。

パパママバイバイ (子ども平和図書館)

パパママバイバイ (子ども平和図書館)

  • 作者: 早乙女 勝元
  • 出版社/メーカー: 日本図書センター
  • 発売日: 2001/02
  • メディア: 大型本

 

米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ

米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ

  • 作者: 土志田 勇
  • 出版社/メーカー: 七つ森書館
  • 発売日: 2007/12
  • メディア: 単行本

 

パパママバイバイ (1984年) (アニメ絵本)

パパママバイバイ (1984年) (アニメ絵本)

  • 作者: 早乙女 勝元
  • 出版社/メーカー: 草土文化
  • 発売日: 1984/07
  • メディア: -

もはや、講演の内容は細切れにすら思い出せませんが、ただ一つ、確か小林多喜二を引き合いに出してでしたが、「私は、あるいは、凶暴な肉体的暴力に対して、耐え抜くことはできないかも知れない。でも、日常生活の中で求められるささやかな勇気を、自分なりに発揮することならできると思う。」というような趣旨のお話は、長い間私自身への戒めとなったことは確かです。
この事件を題材に、以前私が勤めていた高校の演劇部が、創作劇として演じたことがありました。手元の資料を探ってみると、1982年のことでした。「ハトポッポのうた」という題名で、中国大会にまで出場しています。墜落事故によって大やけどを負い、ついには息を引き取った林裕一郎君(当時3歳)がいまわの際に残した言葉が「パパママバイバイ」でしたし、弟の康弘ちゃん(当時1歳)も、「ハトポッポ」の歌を口ずさみながらあと追うようにして亡くなったのでした。「ハトポッポのうた」は、このエピソードに基づいてつけられた題名でした。
私は、当時事情により学校を離れていましたので、直接はこの演劇を観ることはできなかったのですが、手元には「鬼から鬼へ」と題する玉野高校演劇部創作脚本集(玉野高校演劇部OB会発行)という冊子がありましたので、改めてひもといてみました。若者の感受性と正義感の確かさに、深く励まされる思いがします。


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なお、冊子の「鬼から鬼へ」という標題は1979年の中国大会で優勝し、1980年の全国大会に出場した作品「鬼よさらば」と、1988年の中国大会で優勝し、1989年の全国大会に出場した作品「温羅のうら」にちなんだネーミングなのでしょう。後者は、古代吉備の国「鬼の城(きのじょう)」を本拠地とする鬼=温羅の伝説に題材を採り、平和に暮らしていた吉備王国の心優しい王が温羅(うら)であり、彼らを暴力によって滅ぼした大和朝廷の、歴史の偽造により、後に鬼に仕立て上げられたのではと問うのです。
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最近、町おこしの一環として、岡山県をあげたイベントとして賑やかに取り組まれる「うらじゃ祭り」などが、まだ始まる前のことで、整備される前の荒れ山だった「鬼の城」にも登って取材したと、当事者から聞いたことでした。

 



脈絡なく想い出す出来事があります。
1995年10月21日、米兵による少女暴行事件に抗議して、宜野湾市の海浜公園で、8万5千人が参加する「沖縄県民総決起大会」が開かれました。
演壇で、高校生を代表して発言した普天間高校3年生の仲村清子(すがこ)さんは、こう訴えました。
 「もう、ヘリコプターの音はうんざりです。私はごくふつうの高校3年生です。たいしたことは言えないと思いますが、ただ思ったことを素直に伝えますので聞いて下さい。
 私が通った普天間中学校は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります。普天間第二小学校はフェンス越しに米軍の基地があります。
 ニュースで米軍機の墜落事故を知ると、いつも胸が騒ぎます。私の家からは、米軍のヘリコプターが滑走路に降りていく姿が見えます。それはまる 街の中に突っ込んでいくようにみえるのです。
 私は今まで基地があることをしょうがないことだと受け止めてきました。 しかし今、私たち若い世代も当たりまえだったこの基地の存在の意味を考 直しています。学校でも意外な人が、この事件についての思いを語り、 みんなをびっくりさせました。それぞれ口にはしなかつたけれども、基地への不満が胸の奥にあったことの表れだと思います。
 今日、普天間高校の生徒会は、バスの無料券を印刷して全校生徒に配り、『みんなで行こう、考えよう』とこの大会への参加を呼びかけてきました。浦添高校の生徒会でも同じことが行われたそうです。そして今、ここにはたくさんの高校生、大学生が集まっています。
 いつまでも米兵におびえ、事故におびえ、危険にさらされながら生活を続けていくのは、私は嫌です。未来の自分の子どもたちにもこんな生活はさせたくありません。
 私は戦争が嫌いです。人を殺すための道具が自分の身の周りにあるのは嫌です。次の世代を担う私たち高校生や大学生、若者の一人ひとりが、嫌なことは嫌と口に出して行動していくことが大事だと思います。若い世代に、新しい沖縄をスタートさせてほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。そのためにも一歩一歩行動していきたい。」
そして、彼女はこう結びます。
 「私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください。」
痛切で、揺るぎのない、それだけに私たちの胸を揺さぶり、励ましと勇気を与えてくれる、若者の姿でした。

 


しかし、この訴えは、今もアメリカと日本政府によって踏みにじられ続けています。
そんなとき、この少女(元少女)の姿を、最近たまたまNHKテレビで目にしました。「地方発 ドキュメンタリー」 - 選 基地に消えた 私の村 沖縄“普天間”の戦後 -8月20日放送。

彼女は、挫けることなく、真摯に、誠実に、悩み成長し、行動し、発信しています。そのことが、私になおいっそうの励ましと勇気を与えてくれます。現在の彼女のホームページを発見しましたので、ご紹介します。



最後に、またまた脈絡なく思いだした歌。
「仏桑華 そこには咲くなそこは基地  汝(な)が紅(くれない)は沖縄のもの」 山原健二郎

仏桑華はハイビスカス。
作者の山原健二郎は、高知新聞記者、中学・高校の国語教師を歴任し、史上最年少の公選制教育委員(27歳)に当選。勤評反対闘争で懲戒免職となりますが、日本共産党の県議を経て衆議院議員(10期)。沖縄がアメリカの全面支配下にあった時期から、沖縄に自由と平和を取り戻す運動の先頭に立ちました。この歌は、1970年9月に初めて沖縄を訪れた時に詠んだものです。
当時、沖縄はアメリカの施政権下にあり、渡航するにはパスポートに準ずる「身分証明書」と米国民政府発行の渡航ビザが必要でした。

土佐の夜明け (1971年)

土佐の夜明け (1971年)

  • 作者: 山原 健二郎
  • 出版社/メーカー: 民衆社
  • 発売日: 1971/01/15
  • メディア: 単行本

さるとび日記 (1979年)

さるとび日記 (1979年)

  • 作者: 山原 健二郎
  • 出版社/メーカー: あゆみ出版
  • 発売日: 1979/01
  • メディア: -

母を恋うる歌―画文集 (1985年)

母を恋うる歌―画文集 (1985年)

  • 作者: 山原 健二郎
  • 出版社/メーカー: 民衆社
  • 発売日: 1985/10
  • メディア: -

さるとび日記〈新〉 (1983年)

さるとび日記〈新〉 (1983年)

  • 作者: 山原 健二郎
  • 出版社/メーカー: 民衆社
  • 発売日: 1983
  • メディア: -

わが校長讃歌―勤評をたたかった教師のプロフィール

わが校長讃歌―勤評をたたかった教師のプロフィール

  • 作者: 山原健二郎
  • 出版社/メーカー: 民衆社
  • 発売日: 1991/08
  • メディア: 単行本
















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赤とんぼと桑畑とムクドリと。 [折々散歩]

「赤とんぼの歌」について、先日も触れました。
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いささか、旧聞に属しますが、2010年3月の朝日新聞日曜版には、「親子で歌い継ぎたい歌」として次のようなアンケート結果が示されています。(朝日新聞 2010年3月20日(土) be2面)
 
① 赤とんぼ         三木露風作詞・山田耕筰作曲、1927年。
② ちいさい秋みつけた  サトウハチロー作詞、中田喜直作曲、1955年。
③ 仰げば尊し       1884年に小学校唱歌に。
④ 荒城の月        土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲、1901年。
⑤ 夕焼小焼        中村雨紅作詞・草川信作曲、1923年。
⑥ 早春賦          吉丸一昌作詞、中田章作曲、1913年。
⑦ 大きな古時計      米国の曲。1962年にNHK[みんなのうた」で紹介され人気に。
⑧ 里の秋          斉藤信夫作詞、海沼実作曲。詩は開戦の年、曲は終戦の年末に発表された。
⑨ かあさんの歌      窪田聡作詞、作曲、1956年。
⑩ 故郷           高野辰之助作詞、岡野貞一作曲、1914年。 
⑪ 夏の思い出
⑫ 朧月夜
⑬ 海
⑭ 春の小川
⑮ 月の砂漠

主権在民の理念に抵触する「君が代」よりは、国民に愛され親しまれている「赤とんぼ」を日本の国歌に、という意見も、説得力がありますね。



「砂川闘争」(1955年から1960年代まで続いた、在日米軍立川飛行場の拡張に反対する住民運動)の際、、警官隊と対峙する住民と支援者館の中から、この、「赤とんぼの歌」がわき起こり、警官達も、ともに口ずさんだというエピソードも、前回紹介しました。
今日の話題は、「砂川闘争」にまつわるもう一つの歌について。
学生時代、仲間達がことあるたびに歌い、八月にひらかれた同窓会でも、自ずと合唱がおこった曲です。

桑畑
作詞 門倉 訣
作曲 関 忠亮
1.桑畑の しげる葉は
  亡き母の 背におわれ
  苗植えた 昔から
  とぶ鳥さえ なじんでたが
2.桑畑は 今荒れて
  爆音は ワラ屋根に
  さける程 たたきつけ
  桑畑は 吹きさらし
3.桑畑は 握りこぶし
  振り上げて ならび起ち
  畑守る この私と
  芽ぐむ春を もとめうたう
4.春になったら 枝を伐り
  かおる葉を カゴにつもう
  むく鳥よ 高く舞い
  このよろこび 告げてくれ

桑の葉を蚕の餌に利用するため、養蚕が盛んな地方では、必ず桑の木が栽培されていました。
古くは、中国の詩人陶淵明の「桃花原記」では、俗界から隔絶した「桃花原」=桃源郷=理想郷に立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しい所だったと記述されています。養蚕と絹織物は、満ち足りて平和な自給自足の村の象徴でもあり、桑畑はその象徴でもあったのです。



桑の実は「マルベリー」と呼ばれ、西洋では、ベリーの中でも最上級の味覚として珍重されるそうですが、厳密には食用の西洋桑と、蚕のエサのにする山桑とは、品種が異なるとか。
しかし、熟した桑の実は、生食しても甘酸っぱく美味ですし、果実酒にもよく会います。かつては、子どもたちの貴重なおやつだったようです。
この写真は、去年の6月、福島県奥会津で見かけたものです。今年、近所で写した画像もあったはずなんですが、見つかりません。失礼。
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「赤とんぼ」の歌にも、「山の畑の桑の実を小篭に摘んだは幻か」と歌われています。

 


蚕の餌として桑の葉を収穫した後の、茎の部分は、姿が握りこぶしに似ているのだそうです。砂川・立川基地のある東京多摩地方には、桑畑が多く、拳を振り上げて立ち並んだ桑の木々の上空を、米軍機は爆音をとどろかせて、我が物顔で行き交ったのでした。

「ムクドリよ高く舞いこの喜び告げてくれ」という結びの歌詞を、私は好きでしたが、ムクドリがどんな鳥かを知ったのは最近のことです。
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これは去年の撮影画像ですが、冬になると、我が家の目の前の電柱や電線にもよくやってきます。

 


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