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もうひとつの911 その2 [今日の暦]

チリクーデターを話題にしながら、書き落としていたことがあります。
孫三人を公園で遊ばせる約束の時間が迫って、急いで書き終えたせいで、肝心の話題に触れられませんでした。
五木寛之著『戒厳令の夜』に四人のパブロが登場します。
パブロ・ピカソ:20世紀を代表する、スペインの画家。
パブロ・ネルーダ:チリのノーベル賞詩人。
パブロ・カザルス:20世紀最大のチェリスト、指揮者、作曲家。
パブロ・ロペス:『戒厳令の夜』に登場する架空の人物。幻の画家。
この四人が、チリクーデターの起こった1993年に、相前後してなくなっているのです。
最後のパブロ・ロペスは別として、実在の三人のパブロは、いずれも、20世紀を代表する優れた芸術家であると同時に、一九三六年に始まるスペイン内乱で、フランコの独裁を目の当たりにし、ファシストの暴虐に前存在をかけて抵抗下という共通点を持ちます。フランコを支援するナチスによって犯された無差別空爆を、パリ万博スペイン館の壁画「ゲルニカ」によって告発したピカソ。スペイン内戦の勃発と同時にフランスに亡命し、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫き、ついに故国に帰ることなくプエルトリコで没したカザルス。
そして、詩人であり外交官として内戦時スペインに滞在したネルーダは、親交のあったスペインの詩人ガルシア・ロルカがフランコ軍事政権の下で暗殺されたことに強く抗議する詩「そのわけを話そう」で、「来て見てくれ 街街に流れてる この血を!」と、訴えます。

「そのわけを話そう」(パブロ・ネルーダ)

きみたちはたずねるだろう――リラの花はどこにある?
ひなげしに蔽われた形而上学は どこにある?
そして 隙間と小鳥たちの声にみちみちた
言葉の雨はどこにある?

わたしに何が起きたか それを話そう

わたしはマドリードの街に住んでいた
鐘楼があり 時計塔があり
たくさんの木があった

はるか遠くに
カスチリヤの乾いた顔が見えた
広漠とした 草の海のように!

わたしの家は
花の家と呼ばれ あたり一面に
ジェラニュームの花が咲きこぼれ
それは うつくしい家だった
たくさんの犬や子どもたちがいて

ラウールよ 思い出さないか?
思い出さないか ラファエロよ?
フェデリコよ 土の下で
思い出さないか? わたしの家のバルコンを――
あのバルコンで 6月の光が
きみの口の中の花々を絞め殺したのだ

兄弟よ 兄弟よ
あたりには
活気にみちた声が溢れていた
市場の広場には 塩が積まれ
焼きたてのパンの山があり
わがアルグエレスの市場には
蒼白いインキ壺のような銅像があり
油は スプーンのなかを流れ
街通りには 賑やかな足音や
手を鳴らす音が 溢れていた
生活のきびしい物差しであるメートルやリットルがあり
屋台には 魚がならび
冷たい陽の射す屋根やねのうえに
疲れた尖塔が そそり立ち
白く 燃えるように繊細に咲いた じゃがいも畑があり
トマト畑の波が 海までうねっていた

ある朝 そのすべてに火がついた
ある朝 まっ赤な火が
大地から吹き出して
すべてのものを なめつくした
そのときから 戦火が燃えあがり
そのときから 硝煙がたちこめ
そのときから 血が流れた

悪党どもは 飛行機にのり モール人をひき連れ
悪党どもは 指環をはめ 公爵夫人を連れ
悪党どもは 祝福をたれる黒衣の坊主どもを従え
悪党どもは 空の高みからやってきて 子どもたちを殺した
街じゅうに 子どもたちの血が
子どもの血として 素朴に流れた

山犬にさえ侮蔑される この山犬ども!
のどの渇いたあざみさえが噛みついても つばを吐きかける この石ども!
蝮にさえ嫌われる この蝮ども!

わたしは見た おまえらの前に
スペインの血が 沸き立ち 逆まき
誇りと匕首の波のなかに
おまえらを呑みこみ 溺らせるのを!
将軍どもよ
裏切者らよ!
よく見るがいい 崩れさったわたしの家を
よく見るがいい 傷だらけのスペインを
しかし 崩れさった家のひとつひとつから
花々のかわりに 熱く焼けた金属が咲き出るのだ
しかし スペインの傷口のひとつひとつから
スペインが立ちあがるのだ
しかし 死んだ子どものひとりひとりから
眼のある鉄砲が現われるのだ
しかし おまえらの犯罪のひとつひとつから
鉄砲の弾丸が生まれでて
それはいつか おまえらの心臓のありかをねらうのだ

きみたちは尋ねる――なぜ わたしの孫が
夢や木の葉をうたわないのか
故国の大きな火山を歌わないのか と

来て見てくれ 街街に流れてる血を
来て見てくれ
街街に流れてる血を
来て見てくれ 街街に流れてる
この血を!

ネルーダは、それ以降一貫して、ファシズムに反対し、人民戦線とスペイン共和国を支援します。1945年には上院議員に当選、同時にチリ共産党に入党しますが、1948年に共産党が非合法化、国外逃亡を余儀なくされます。1994年制作のイタリア映画「イル・ポスティーノ」(ポスティーノとはイタリア語で郵便配達人)は、郵便配達人マリオと、チリから亡命してきた詩人(この時期のネルーダがモデル)との友情がしみじみしと感動を呼ぶ(そうです。私、まだ見てません)。
1958年にチリ共産党は再び合法化され、1970年の大統領選挙では、共産党から大統領候補として指名されますが、社会党の候補者アジェンデを人民連合の統一候補として擁立するために辞退。アジェンデは当選して大統領となり、ネルーダは詩人としてノーベル文学賞を受賞します。
ネルーダはクーデター以前から癌に冒され、病の床についていましたが、この事件の衝撃は病状を悪化させます。
ネルーダの詩を日本に紹介してこられた一人である詩人の大島博光さんは、1974年3月5日付「赤旗」に『パブロネルーダの最後の数日』という一文を寄せておられます。
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「ネルーダの未亡人マチルデ夫人は、ネルーダの最後の数日について、ベネズエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。
『クーデターが起きて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。---病床にこそついていましたけれど、彼の病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。
わたしたちがサルヴァドール(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちに私を呼んで申しました。『パブロには何も知らせてはいけませんよ。病状がわるくなるかも知れませんから。』
パブロはベッドの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送がきけるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースが彼を死に追いやったのです。そうです、それが彼を殺したのです。」
マチルデ婦人は、アジェンデの死んだ翌日のことを次のように語っている。
「パブロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当をすることができなかったのです。主治医は逮捕されてしまい、助手の医師は、危険を冒してイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」
「こうして私たちは、医師の手当てをうけずに、孤立していました。数日が過ぎて、パブロの容態は悪化したのです。私は医師をよんで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです。』
中略
「五日目にかれをサンチアゴの病院に入院させるために、私は病人用の寝台車をよびました。車は途中で、検問にひっかかって取り調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです」
―乱暴でもおこなわれたのですか-
「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに座っていました。かれらは、わたしを車から引きずり下ろして、とりしらべ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいことでした。
わたしはかれらにいいました。『これはパブロネルーダです。重態なのです。どうか通して下さい。』まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パブロ・ネルーダは、二二時三〇分になくなったのです---」

ネルーダの死に関しては、最近毒殺の疑惑も浮上し、遺骨の鑑定が進められていると報道されています。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/644989/

病死・毒殺の真偽はさておき、こうして、1973年9月24日、ネルーダは69歳の生涯を終えたのです。二目後に行われた葬儀は、銃剣の監視下にもかかわらず盛大に行われ、参列者のあいだからは「インターナショナル」の歌ごえが湧きおこり、ピノチェト軍事独裁反対の最初の大デモンストレーションとなったといいます。
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もうひとつの911 [今日の暦]

今日、9月11日は、サルバドール・アジェンデ大統領の命日!です。1973年、あれからもう、40年になるのですね。

wikiの「チリクーデター」の記事から引用します。

東西冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。なおこれは、南アメリカにおいて自由選挙で社会主義政党が選ばれた初めての例であった。
しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト将軍らの軍部が軍事クーデターを起こした。
首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。
モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011年5月23日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表、これにより死亡の状況が明らかになると期待された。同年7月19日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された。
このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、冷戦の終結によりアメリカにとっても利用価値がなくなった軍事政権は1989年の国民投票により崩壊した。
なお、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。

ピノチェト率いるクーデター軍に包囲され、激しい銃撃を受けながら、アジェンデは勇敢に最後のラジオ演説を行います。私は、学生時代、この最後の演説が録音されたテープを手に入れ、銃声が響く中、毅然として国民に静かに訴えるアジェンデの肉声を心に刻みました。選挙で選ばれたアジェンデ人民連合政権は、当時の若者達にとって希望の灯台でしたが、初めて聞いた大統領の肉声が、最後の声とは、皮肉なことでした。
ユーチューブに「アジェンデ最後の演説日本語字幕つき」を見つけました。
http://www.youtube.com/watch?v=SG3f08LVwhE


歌手の横井久美子さんが「東京新聞本音のコラム」で、このチリクーデターについて触れておられます。
http://www.asahi-net.or.jp/~fg4k-yki/column/c_index.htm
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ちなみに横井久美子さんの近況は、こちら。
http://www.asahi-net.or.jp/~fg4k-yki/

横井さんのコラムにもあるように、ピノチェトは、クーデターによって政権を奪取し、1974年~1990年の長きにわたって大統領を続けますが、その間、富裕層とアメリカの利益に偏した「新自由主義」政策の結果、1975年に4.3%だった失業率が80年代平均では22.5%に上昇、貧富の差も急激に拡大し、貧困率はアジェンデ政権下の2倍の40%に達したほか、深刻なインフレが進行するなどにより国民の支持を失い、1989年末の大統領選・議会選で敗北し辞任に追い込まれます。1989年、病気療養のために渡英しますが、そこで「人道への罪」で逮捕されます。詳細は「知恵蔵2013の解説」から。

1973年にクーデターで政権を握り90年まで軍政を続けたチリのピノチェト将軍は、反政府派の市民を虐殺した責任を問われて英国で逮捕され、チリに帰国後の2001年、誘拐罪と殺人罪で起訴され自宅軟禁された。クーデターのさいの弾圧で約4000人が軍によって虐殺され約1万人が拷問され、4万人以上が政治犯として収容され、約100万人が国外追放や亡命した。このうちピノチェトが起訴されたのは彼が軍幹部に指示して政治犯55人を銃殺させ、19人を行方不明とさせた「死のキャラバン事件」だ。起訴後にピノチェトの健康状態が問われ、裁判が停止されたり再開したりした。05年9月には最高裁がピノチェトの痴呆が進んでいるとして裁判の中止を決定した。一方で同年8月にはピノチェトが海外の秘密口座に巨額の資産を隠していたことが発覚し、脱税の疑いで妻子が逮捕された。06年、ピノチェトの死亡で裁判は終わった。( 伊藤千尋 朝日新聞記者 )

チリクーデターを想起するとき、アジェンデ大統領の悲劇とともに、罪なく逮捕、誘拐、監禁、拷問、虐殺された大勢のチリ人民の、痛ましい犠牲を忘れることはできません。その中の一人にフォルクローレ歌手・音楽家として名高いビクトルハラがいました。
詳しい記事がここにあります。ビクトルハラ特集 
http://www.geocities.jp/jarastkyj/

音楽にはほとんど縁のない私ですが、ビクトルハラの生前の演奏を収めた音楽テープを持っています。甘い、純朴なとも言える穏やかな歌声です。ギターを演奏する右手を切断されたあげく拷問・虐殺!を受けるほどに、憎しみの対象となるには、余りに不似合いで、「理不尽」の語が思われてなりません、もちろん、小林多喜二にしても、槇村浩にしても、暴虐を被るいわれはなく、等しく「理不尽」と言わなければ成りませんが。
ビクトルハラの代表作、「アマンダの思い出」がユーチューブにありました。
http://www.youtube.com/watch?v=qfESgtCTn1Q

「耕す者への祈り」です。
http://www.youtube.com/watch?v=U5PFx6DgwWs

私が覚えている日本語訳とは少し違いますが、こんな歌詞です。

「♪起き上がれ そして山をごらん
川の流れを魂の風を

起き上がれ そして両手をごらん
育ちゆき 君の兄弟たちの手を握るために
共に行こう 血の絆に結ばれ
今日が明日に繋がっていくんだ

僕らを貧困へと支配するものから解放しよう
正義と平等の王国を我らのもとへ

共に行こう 血の絆に結ばれ
今も そして僕らの死のときも
アーメン!アーメン!」

最後に、チリクーデターにまつわる最もよく知られた民衆の歌「ベンセレモス」(我々は勝利する)の歌詞がここにありました。
http://www.utagoekissa.com/bensere.html
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