軍備全廃想う日孫の宮参り [今日の暦]
今日は、軍備全廃の日(コスタリカ)。
1948年の12月1日、コスタリカ大統領ホセ・フィゲーレス・フェレールが常設軍を廃止したことを記念して、コスタリカでは「軍備全廃の日」と定められました。
かつて、日本が歩もうとした道と基本的に通ずる、人類の英知の道、理性の道を、コスタリカも選択し、紆余曲折を経てそれを維持しぬいて来たことは、 この記事に詳しくを、この記事は教えてくれています。
「(平和)憲法を変えて、(戦争ができる)普通の国になろう」という声が、何やらかまびすしく聞こえてくる現今の日本にとって、本当に軍備を持たない国=コスタリカのこの選択は、新鮮かつ現実的!と言いたいです。
この国の、もう一つの魅力は、国民と憲法との距離が近いということでしょう。憲法が、単なるキレイな装飾品としてではなく、生きた常識として国民の血や肉になっているということですかね?
たとえばこの記事の、「大統領に勝った青年」=ルイス・ロベルトさんの例。
「10年前、最高裁の「憲法小法廷」で、大学生だったロベルトさんは、当時の大統領による米国のイラク侵攻支持表明を「違憲」と訴えた。同様の訴訟を起こした個人は複数いて、いずれも勝訴。大統領の方針は違憲とされ、裁判所が撤回を命じた。」
「憲法小法廷に提起される憲法訴訟は、年間1万件超に上る。一個人が国の方針を転換させるという行為にも、ロベルトさんは「われわれにとってはごく普通のこと」と言ってのける。」
ロベルトさんは言います。
「日本もわが国も憲法を変える必要がない」
「非武装の国を他国が侵略したら、国際社会の反応はどうでしょう。それは、バットで赤ちゃんを殴るようなもの」
この記事は、戦後まもない1947年に、文部省が中学生向けに発行した「新しい憲法のはなし」という冊子の一節を、私に想い出させます。
みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おか えりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろし い、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしい ことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國に は、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、また こんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をする ためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すて てしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、 正しいことぐらい強いものはありません。
この「しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、 正しいことぐらい強いものはありません。」
という言葉以上に説得力を持つ論理は、ほかにないでしょう。地球上の生物を何十回も全滅させることができるという莫大な核兵器が存在する現代、武力の強大さを競うことで守れる平和など決して存在し得ないことは、ほんのわずかな想像力を働かせるだけで、容易に見て取れるはずですから。
真理は実に素朴で、単純なものなのかも知れません。
今日は、最近生まれた孫の、お宮参りの予定。
お嫁さんの実家近くの神社に、お詣りすることになり、朝から高速道路を走りました。
多少「高緯度」の地ですので、雪や凍結の心配をしたのですが、有り難いことに、今朝は昨日一昨日に比べると寒さが和らぎ、 ぽかぽかとした陽射しも暖かでした。
それでも、途中、深い霧に包まれ、視界が閉ざされる所もあって、ひやひやしました。
途中のサービスエリアもこんな霧で、あたりの景色がぼんやりとしか見えません。
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