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束の間の出遭いゆかしや寒ゆるむ [折々散歩]

 県内にインフルエンザ警報発令状態とのニュースが流れています。また、高齢者、幼児を中心に肺炎の流行もみられ、重篤な症状に陥る例もあるとのこと。

じつは、 実家の母親がまず、熱と咳で寝込み、何日も経ってから最寄りの医院を受診してようやく回復したと思ったら、今度は父親が同様の症状で受診。肺炎の所見があるので、急遽病院を探して入院ということになったのが先週のことでした。若い頃、肋膜炎(結核菌による胸膜の炎症)を煩い、手術・療養を経験しているだけに、肺機能への負担には注意が必要ということで大事を取ったもの。

一週間が経過しましたが、経過は順調というものの、まだ点滴と酸素吸入が外せません。

私の住まいから、入院先の病院まで、片道約70kmを、何回か車で通っていますが、今日もそれ。

いつも横目に見ながら通る備前国「茶臼山城」模擬天守。

 

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この年齢になりますと、長時間の運転で、体はこわばり、血流が停滞する自覚がありますし、 道中、無性に眠くなります。

で、少しは体を動かしリラックスしたい思いもあって、経路の途中、少し回り道をして、件の「自然保護センター」を訪ねてみました。 以前、M先輩が、フクロウを撮影されたり、ルリビタキの出現ポイントを教えてくださった散歩道を、歩いてみようと思ったのです。

着いたときには夕方の四時近くなっていましたが、今日は久々の暖かい晴天で、まだ明るさもありましたので、散歩八割、撮影二割くらいの心づもりで、歩いてみました。

実は、私の「愛機 」PENTAXk-5は、何かとトラブル続きで、三回目の点検・修理で入院していたものが、今日、やっと帰ってきたので、作動実験の意味もあったのです。

今回の「点検・修理」の内容は、次のとおり。

1)撮像素子にとれないゴミが付着。PENTAX特製のペッタン棒で、何回か除去を試みたのですが、今回はどうもうまく取り除けないので。

2)随分前から気になっている露出の暴れ。前回の修理依頼の時、oldレンズの絞り部分の故障のため説明を受け、一応納得していたものの、比較的新しいdal55-300でも、やはり不審な露出に悩まされていました。中央重点測光では、成功する確率が高いのですが、評価測光(分割測光)では白く飛んでしまうことが頻出し、信用できない状態が続いていました。

3)ホットシューカバーが、かたすぎて取り外せません。

保証期間内でしたので、以上のすべてが、無料で修理してもらえ、ほかにも点検整備してくださったようです。感謝。

で、稼働実験ですが、調子いいようです。

でも、散歩の間中、鳥に出会いません。前回、アオジや、エナガや、ミヤマホオジロを見た場所でも空振り。日も山陰に落ちかけたので、あきらめてすごすごと帰りかけた頃、 ふっと目の前の木枝に飛んでやってきたものがいます。
、枝陰に隠れてなかなか姿を現さないし、気持ちはせきしで、ピンぼけ続出でしたが、まずまずのものがこれでした。

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トリミングすると。
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あと、これは、ANAですが、

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これは何でしょう?白い鳥です。

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新カテゴリー『獺祭魚』の蘊蓄 [獺祭魚]


以前、この日の記事で正岡子規の作品と俳号に触れたことがありました。
その時触れずにいた「獺祭書屋主人」についての蘊蓄が今日の話題です。
ネットを探っておりますと、土井中照さんのMONDO EHIMEというサイトを見つけました。
その中に「松山の一番」というコーナーがあり、「日本一のペンネーム」というページがありました。「へえ、そうだったんだ」が満載でしたので、無断で恐縮ですが、引用させて戴きます。

子規の本名はというと正岡常規。墓碑銘には「處之助」「升」「子規」「獺祭書屋主人」「竹ノ里人」が登場します。
 「處之助」は幼名。学校へ行く年になって「トコロテン」とからかわれてはいけない、と外祖父の大原観山が子規4・5歳のとき、易の地風から「升」と改めました。これ以降、友人や母から「のぼさん」と親しみを込めて呼ばれています。
 「子規」は明治22年、喀血した時より「啼いて血を吐くほととぎす」にちなみ使われています。明治11年、12歳の折り、初めて作った漢詩が「聞子規」というのも因縁めいています。
 「獺祭書屋主人」はかわうそ(獺祭)が捕った魚を並べる習性より、本をあたりに並べ散らかす様を号したもの。
 「竹ノ里人」は東京の住まいを呉竹の根岸と称し、そこで暮らしていたことからつけたものです。
 子規は雅号だけでも百あまり持っています。「筆まかせ」雅号の章には中の川の子規邸にあった桜の木から「老桜」と号したのが十歳ごろ。山内伝蔵より「中水」をもらったがあまり気に入りませんでした。十五・六歳の時、大原観山より桜の形容として「香雲」という号に変えています。
 「筆まかせ」に登場する雅号は他に「走兎」「風廉」「漱石」「士清」「子升」「常規凡夫」「眞棹家」「丈鬼」「冷笑居士」「獺祭魚夫」「放浪子」「秋風落日舎主人」「癡夢情史」「野暮流」「盗花」「四国仙人」「沐猴冠者」「被襟生」「莞爾生」「浮世夢之助」「蕪翠」「有耶無耶漫士」「迂歌連達磨」「情鬼凡夫」「馬骨生」「野球」「色身情仏」「都子規」「虚無僧」「饕餐居士」「僚凡狂士」「青孝亭丈其」「裏棚舎夕顔」「薄紫」「蒲柳病夫」「病鶴痩士」「無縁癡仏」「情魔癡仏」「舎蚊無二仏」「癡肉団子」「仙台萩之丞」「無何有洲主人」「八釜四九」「面読斎」「一橋外史」「猿楽坊主」。
 他には「桜亭仙人」「緩寛人」「於怒戯書生」「無茶苦茶散人」「四国猿」「弄球」「能球」など。
 子規の雅号の中に「漱石」があり、「筆まかせ」には「漱石は今友人の假名と変ぜり」とあります。また、ベースボールを「野球」と命名したのが子規と言われているのは「升(のぼる)」をもじって「野球(のぼーる)」としたからなのですね。
「名前/無用の雑学知識」(ワニ文庫)によると、名前の記録保持者は滝沢馬琴。戒名も加えて35というペンネームということで名前の横綱に挙げられていますが、これなら正岡子規が日本一多いペンネームの持ち主と言えそうですね。


今日の話題、「獺祭書屋主人」について、「獺祭書屋主人」はかわうそ(獺祭)が捕った魚を並べる習性より、本をあたりに並べ散らかす様を号したもの」と端的に解説しておられます。

「獺祭魚」と言う言葉もあり、例のごとくwikiによるとこう解説されています。

獺祭魚(だっさいぎょ、たつうおをまつる)は七十二候の一(雨水初候)。立春末候の魚上氷の後、雨水次候の鴻雁来の前にあたる。また転じて書物をよく好み、引用する人のこと。

礼記月令孟春の条に「東風凍を解き、蟄虫は始めて振く。魚冰に上り、獺魚を祭り、鴻雁来る」とあるのが出典。春になってカワウソが漁をはじめ魚を捕らえることを指した。カワウソは捕らえた魚を川岸に並べる習性があり、これが先祖を祭るときの供物のように見えたことから「魚を祭り」とされた。

晩唐の政治家、詩人である李商隠は作中に豊富な典故を引いたが、詩作の際に多くの書物をカワウソが魚を並べるように置いたため、獺祭魚と称された。ここから、多くの参考書を周囲に広げるさまを指すようになった。

正岡子規は自らを獺祭書屋主人と称したため、子規の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶこともある。

暦の上で「雨水」は、2月18・19日頃ですから、その頃の記事にするのがふさわしいのでしょうが、少々前倒しで乞ご容赦。

ニホンカワウソは、1979年、高知県須崎市で目撃されて以来目撃例がなく、2012年絶滅種に指定されたそうです。動物園には、こんな愛嬌のあるカワウソがいますが、これコヅメカワウソという別種です。

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 (2012年1月愛媛県とべ動物園にて撮影)

  

では、これは?

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  (2014年1月岡山市後楽園そばの旭川にて撮影)


ヌートリアです。南アメリカ中・南部(チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ブラジル南部)原産の齧歯類。巨大ネズミという風体ですね。
「ヌートリア」とはスペイン語でカワウソ(の毛皮)を意味し、原産の南米では本種のことを「Coipo」と呼ぶ。英名でも「Nutria」より「Coypu」の方が一般的(wikiより)だそうです。

「稲美野ヌートリア通信」というサイトに詳しい説明が掲載されています。

一部を、これまた無断で引用すると、

うんちく: 毛皮はカワウソのように上質で、カワウソの毛皮と称して売買されたため、カワウソのスペイン語<ヌートリア>がまちがってこの動物の呼び名になった。
    ○ 帰化動物としての経緯と状況
      人間によって持ち込まれ、やがて人間の手を離れて野生化し、自然増殖を始めた外来の動物を、帰化動物と呼ぶ。
 日本には1907年に上野動物園に初めて輸入された。日本では1939年(昭和14年)に軍用の毛皮獣として150頭が輸入された。第二次世界大戦中は、防寒用の毛皮を採り、肉は食用とするために多数飼育された。1944年には4万頭も飼育されていたという。第二次世界大戦が終わると需要がなくなり、放逐されたり屠殺されたりした。生き残ったものが野生化し、各地で帰化した。
        海外では:
 海外では、北アメリカ、東アジア、東アフリカ、ヨーロッパなどに帰化している。その毛皮を目的に世界各地で飼育されたため逃げ出したものなどが再野生化している。土手などに穴をあけ、キャベツやコムギなどの畑を荒らすことがあるため害獣となった。
        日本では:
 日本では、岡山県に最も多く生息している。とくに岡山県児島湾干拓地一帯では、縦横にクリーク(排水溝)がつくられ、水性植物が生い茂るなど生息条件に恵まれ、かなり多数が生息している。イネや水路ぞいの野菜に大きな被害を与えるため、毎年2000~3000頭が捕殺されている。岡山県での捕殺数は、全国の90%以上を占める。 
「稲美野ヌートリア通信」より

本物のカワウソが血なまぐさい肉食獣であるのに対して、このヌートリアは基本的にベジタリアン。であるが故に、農作物を食害する等の罪科(とが)により、特定外来生物として捕殺されています。気の毒なことです。

 以前(2010年9月)早朝散歩中に、出会った起床直後で洗面中とおぼしきヌートリアの家族を撮影しました。

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仲むつまじく、何とも愛らしい情景でした。「害獣」と呼ぶのは人間様のご都合、という感が強くしますね。

カワウソつながりで、こんなお話もオマケしておきましょう。どっとはらい。


しっぽのつり【尻尾の釣り】

昔話。キツネが尻尾で魚釣りを試みて失敗する話。〈川獺(かわうそ)と狐〉とも呼ばれる。キツネがカワウソに魚の捕らえ方を問う。カワウソは,キツネの尻尾を水にひたして釣ると教える。キツネはだまされたと知らずに,尻尾を水に入れる。やがてキツネの尻尾は凍結し,そのために逃げることができず人間に捕らえられる。またカワウソの招待を受けながら,いっこうに答礼の饗応をしないキツネと,それを憤慨するカワウソの仕打ちとしても語られる。

しっぽのつり (日本みんわ絵本)

しっぽのつり (日本みんわ絵本)

  • 作者: 水谷 章三
  • 出版社/メーカー: ほるぷ出版
  • 発売日: 1984/11
  • メディア: 大型本

 

きつねとかわうそ (こどものくに傑作絵本)

きつねとかわうそ (こどものくに傑作絵本)

  • 作者: いもと ようこ
  • 出版社/メーカー: 金の星社
  • 発売日: 1986/03
  • メディア: 大型本

きつねとかわうそ (にほんむかしばなし 2)

きつねとかわうそ (にほんむかしばなし 2)

  • 作者: 岩崎 京子
  • 出版社/メーカー: フレーベル館
  • 発売日: 1984/02
  • メディア: 単行本

狐とかわうその知恵くらべ (読み聞かせ絵本シリーズ―日本の昔ばなし (2))

狐とかわうその知恵くらべ (読み聞かせ絵本シリーズ―日本の昔ばなし (2))

  • 作者: 鈴木 サツ
  • 出版社/メーカー: 瑞雲舎
  • 発売日: 1995/06
  • メディア: 大型本

かわうそときつね (かみしばい日本むかしむかし)

かわうそときつね (かみしばい日本むかしむかし)

  • 作者: 堀尾 青史
  • 出版社/メーカー: 童心社
  • 発売日: 1969/03
  • メディア: 大型本

 


新たに、 『獺祭魚』というカテゴリーを立てました。取り集めたけれど未整理の写真を、ずらりと並べてみようかと思います。




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虫に鳥にも吾は成りなむ? [文学雑話]

 

大伴旅人の話題の続きです。

もののついでということもありますので、「酒を讃むる歌十三首」の、残った九首を載せておきます。

・古の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあらし  (341)




【解釈】昔の「竹林の七賢人」も、欲しがったものは酒であったらしいよ。

 「竹林の七賢人」とは、「百科事典マイペディアの解説」によればこうです。


竹林の七賢 【ちくりんのしちけん】

中国,三国魏(220年―265年)の末期,河南省北東部一帯の竹林で,しばしば集まって,清談(せいだん)を行った7人の賢人。

阮籍(げんせき),嵆康(けいこう),山濤(さんとう),向秀(しょうしゅう),劉伶(りゅうれい),阮咸(げんかん),王戎(おうじゅう)で,阮籍が中心であった。

 

・賢(さか)しみと物言はむよは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし勝りたるらし   (342)


【解釈】かしこぶって物を言うよりは、酒を飲んで酔い泣きするほうが勝ってるらしいよ。

泣き上戸という情けない表現形式ながら、そこには真実味がこもっているというのでしょうか?

 
・言はむすべ為(せ)むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし   (343)

 

【解釈】どう言えばよいか、どうすればよいかもわからないほどに、この上もなく貴い物は酒であるらしい。
酒は「貴き物」の頂点だというのです。

・なかなかに人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ   (344)

 


【解釈】 なまじっか人間でいないで、酒壺になってしまいたいなあ。(そうしたら)酒に浸っていられるであろう。

「てしかも」は、願望の終助詞「てしか」に詠嘆の終助詞「も」が付いて一語化したもの、といいます。
人間であるより酒壺になりたいなんて、大胆!といおうか、投げやりと言おうか。、

・価(あたひ)なき宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒に豈(あに)勝らめや (346)



【解釈】値のつけようもない宝であっても、一杯の濁酒にどうしてまさるだろうか、いや、いっぱいの 濁酒に勝る宝などありはしないよ。

山上憶良は、「銀も金も玉も何せむに」 といい、「まされる宝」は「子」が一番だと直球勝負で断言しましたが、旅人は、酒こそ一番だと、フォークボールを投げてきます。本当は、亡き妻を思う気持ちが抑えがたいくせに。

・夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るに豈(あに)及(し)かめやも  (347)
 

【解釈】暗い夜でも輝く宝玉といえども、酒を飲んで憂さ晴らしするのにどうして及ぼうか。

 「夜光る玉」とは、昔、中国で、暗夜にも光ると言い伝えられた宝玉。「夜光の璧」とも言います。その貴重な宝玉よりも、酒!

・世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭(ゑひなき)するにありぬべからし(348)


【解釈】世の中の遊びで一番楽しいことと言えば、酒に酔って泣くことに決まっているようだ。
旅人さん、相当の泣き上戸なのでしょうか?でも、酔哭のカタルシス効果は、確かに絶大かも?
 

・今代(このよ)にし楽しくあらば来生(こむよ)には虫に鳥にも吾は成りなむ(349)


【解釈】現世が楽しくあったなら、来世には虫にも鳥にも私は生まれ変わったってかまわないよ。

 因果応報を説く仏教では、前世の行いが現世に報い、現世の行いは来世に結果すると考えられます。この世でよい行いを積めば、あの世で清浄・清涼な世界に、仏として生まれ変わることができるはず。でも、旅人は、来世なんかどうなってもかまわない、たとえ虫けらや鳥や獣に生まれ変わろうとも、今生きている現世が楽しかったらそれでいい、というのです。なかなか徹底したエピキュリアンではないですか?でも、酒を飲んで酔哭しても、楽しいのはつかの間で、妻を失った悲しみは癒えることはないのです。

 

・生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生(このよ)なる間は楽しくを有らな (350)


【解釈】生れると誰でも結局は死ぬものであるのだから、この世に生きている間は楽しく過ごしたいものだ。
上に同じ。

・黙然(もだ)居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及(し)かずけり (351)

【解釈】黙りこくって賢ぶっているというのは、酒を飲んで酔い泣きすることにやはり及ばないものだ。
またまた酔泣です。

旅人を酔泣させる材料としては、一族の不遇、左遷による田舎暮らしの鬱憤、その他世俗のあれこれの憂いが重なったのでしょうが、やはりなんと言っても、赴任先の太宰府で妻を亡くした痛手が大きいに違いありません。

その愛妻の名は、大伴郎女(おおとものいらつめ)と伝えられています。

ちなみに、旅人の周辺には、 紛らわしいことに大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)という女性も登場します。額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したとも言われます。万葉集には、女流歌人の中では、最も多くの歌が収録されています。 旅人の異母妹で、波乱の結婚生活や恋愛遍歴を体験しますが、大伴郎女没後は、太宰府の旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育したといわれます。

 


「虫に鳥にも吾は成りなむ」というのは、もちろん逆説的な表現ですが、こんな鳥にだったら、ホントに生まれ変わってもいいと思うかも?

 

 
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悪夢のインフルエンザ体験(追憶の昔語り) [kazg創作集]

昨日は、インフルエンザの予防接種を、生まれて初めて試してみました。
肺癌手術後の経過観察でお世話になっている病院の主治医の先生が、ちらりと勧めてくれたのが12月の診察の時でした。
私は、これまで接種の経験がなかったので、その場では辞退しましたが、周囲にちらほら患者も発生し、自身、肺機能の低下には自覚がありますので、罹患によって深刻な事態を招くのもイヤなので、わずかでもそのリスクを軽減できるのならと、昨日の診察のついでにお願いしてみました。一方、昨日は定期的な経過観察の診察で、本来の主要テーマに関しては、X線撮影では経過に異常なしとのこと。
ついでなので、インフルエンザの予防接種を依頼して、その手続きを進めている途中、看護師さんが「料金のことは聞いておられますか?」。
私「???」
「この病院では5000円超かかりますが、町の一般の医院等では3000円ほどでやってもらえます。どうされますか?2000円の差は大きいですからね。」とアドバイスがありました。
やや思案しましたが、ちょうど血圧の薬も切れかけていたので、かかりつけ医を訪ねることにし、そこで接種もお願いすることにしました。
というわけで。昨日は病院のはしごで、ほぼ一日がつぶれました。

インフルエンザと言えば、これまでに、家族も周囲も、自身も、A型、B型両方とも、幾度か罹患の記憶があります。最近は、タミフル、リレンザなどの特効薬のおかげで、瞬く間に嘘のように熱も下がり、苦痛も少ないまま回復する経験をしていますので、危機意識は薄らいでいますが、それは体に抵抗力があればこそで、肝心の肺機能がダメージを受けている状態では、万一が心配ですからね。


ところで、インフルエンザの季節になると思い出す古い記憶があります。ちょうど、世間では入試がたけなわの今の季節です。当時は、センター入試も共通一次(これも古い?)もなく、1~2月に私大の入試、3月に、一期校、二期校と国立大の入試がありました。今の時代のように、いろいろな形態の推薦入試や、AO入試などといったものはなく、推薦入試といってもごく一部の例外的な入試制度でした、一発勝負が基本でしたね。

高三で、まさに「受験生」だった私は、勉強の手を休めて(と言うとかっこいいけれど、あんまりまともな勉強をしていたわけでもありません。)、「体力づくり」のために、エキスパンダー運動と、踏み段昇降運動とで汗を流していました。すると突然、ズキズキと激しい頭痛に襲われ、寒気でがたがたと体が震えてきました。
その数日前でしたかね、ある先生の授業中の雑談で、「風邪などは、弱気になると負けてしまう。自分なんかは、熱い風呂に入ってかーっと汗を流して、卵酒を飲んで風邪を追い出す。風邪薬なんか飲まなくても、すぐに治る。」というような話(ディテールはあいまですが)をされていたのを思い出し、やってみました。熱~い風呂に入って、汗をかーっと流すと、、、、ますます寒気がひどくなり、頭痛も激しくなってきました。
耐えられず、翌日医者に駆け込むと「流感だろうな。」という診断。「流感」という言葉は、現在では聞かなくなりましたが、「流行性感冒」。普通の風邪と区別して、インフルエンザ様の感冒をそう呼んだのでしょう。
熱い風呂に入った事を告げると、とんでもないこととたしなめられました。


人間は、肉体からできていて、精神力・気力だけではいかんともしがたいという、唯物論的鉄則を、痛感した一こまでした。「心頭滅却すれば火もまた涼し」などという言葉が好きな子どもでしたがーーー。


薬を服用しながらの受験行は、私にとっての忘れがたい試練でした。その頃まで、私は、自分自身の天運というか、運気というか、運勢というようなものに、妙な自信を持っているところがあって、自分はいつも何かに護られていると、無条件に感じているところがありました。今で言う自己肯定感情を、さまざまな行動のエネルギーにしていたといえます。

ところが、この時期の、病み上がりの心身状況での不本意な受験行と、私大受験の相次ぐ失敗に、それはこっぴどく痛めつけられてしまったわけです。
その頃の心情を、後に振り返って、再現ドラマ的に歌にしてみたことがありました。

今から二〇年ほども前に勤務していた高校の、受験を控えた生徒達に、担任としてのメッセージのつもりでプリントにして配ったものです。


 遥かなる日々
        
A 京の街の路面電車の女生徒の
      白き歯並びゆかしかりけり

B 地下街の人ごみの中さまよいぬ
          前途(
みち)急ぎ行く人装いて

C この街の幾千人の雑踏の
      ただの一人も我を知るなし

D 自害せし三島由紀夫の一冊を
     繰りつつ受験の宿に眠れず

E 受験場のダルマストーブのゴウゴウと
      燃える音のみ耳にさわりて

F 英文字は目に踊れども意味なさで
        脈音痛くこめかみをうつ

G〃熱のせい〃の言い訳をすでに準備してる
         その心根のうとましいこと
 
H 合格者の名の並びたる新聞に
      あるはずもなき我が名捜しをり
 
I 発表の日は過ぎたるを
    習性(
さが)のごと郵便受けを探る未練よ
 
J かばかりのことに動ずる汝(な)なるかと
        問えど鏡のわれは黙しをり

K はじめから覚悟してたと涼しげに
        笑うつもりの顔がこわばる

L 本当は僕の心はズタズタです
        助けてくれと叫びたいです

M 劣等のそしりに深くうなだれて
     おっしゃるとおりと泣かましものを

N 学歴にとらわれる人を醜しと
       言い来(こ)し言葉も強がりに似ん

O “どこへ行くの”とこだわりもなく問う人の
             言葉の端も我を鞭打つ

P 人生に早や疲れたる人のごと
         うらぶれて吾は受験に旅ゆく

Q 飽くほどの長き道程(みちのり)たどり来て
       汽車は土佐路に我をはこびぬ

R 「地の果て」と溜め息もらす友もあり
           南国高知は雲厚くして

S 高校の先輩と名乗る人あまた
          宿訪ね来てしばし和みぬ

T 快く土佐の言葉は耳うてど
         異邦人(とつびと)我の孤独いや増す

U この土を
  維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや
 
V 帰り来ていよよ土佐路は恋しかり
          再び見んことなしと思えば

W 幾たびも間違いならんとたしかめぬ
            我が名宛なる祝い電報

X これしきのことにと恥づれど
   我ならず「ゴウカク」の文字霞み見えたり

Y 呪われの受験生の名の解けし日よ
           イヌノフグリの花の愛しさ


 注 A~Oは、関西の私大受験に失敗した顛末。38度を越える発熱のせいと言い訳をしながらも、ショックは大。辛うじて合格をくれた一校は、第3志望ゆえに、「行こうか浪人しようか、不本意ながらもやっぱり行くんだろうな」という、忸怩たる思い。 近所のおばさんの、「あんた、どこへ行くん」の言葉にも、心は傷付くのでした。
 P~Yは、国立受験の顛末。当時は1期校・2期校の時代ですから、いよいよ3月の話。都落ちのつもりで受験したそこに、是が非でも入りたい気持ちになっていただけに、合格は、正直うれしかった。          


 5年ばかり前の現代文の授業で、短歌を扱った機会に、当時の高校生に短歌を創作させました。その際の動機づけとして、私がつくってみたのがこれです。受験生であった頃の自分を、ほろ苦く、また甘酸っぱい懐かしさとともに思いだすような、中年男の感性が交じっているかも知れませんが、極力、誇張や美化は避けて当時の自分を客観視してみたつもりです。
 いま、その「受験生生活」真っ只中にある諸君に、説教や教訓話を垂れることがどんなに空々しいことかを、私は十分知っているつもりです。当事者自身の痛みや重苦しさは、当事者自身のものでしかないことを、私自身忘れてはいないつもりだからです。
 そうであればこそ、しっかりそれを引き受けて、へこたれずに頑張ってくれ、と、私は過去の自分に呼びかけるようなつもりで、皆さんに「頑張れ」を言いたいのです。
 また、すでに努力の甲斐あって自己の進路を確定した諸君には、改めて「御苦労さん、おめでとう」と言いたいのです。そして、これからこそが、君自身が独り立ちして切り開いて行くべき人生本番だということ、それに向かって自分を値切らず、心おきなくぶつかっていって欲しいということを、お願いしておきたかったのです。


拙劣ながら懐かしい、古い記事を今再読してみながら、時代背景についての説明が、今ではもう少し必要かと思えてきました。

(Aの歌について)

当時の京都には路面電車が走っていました。町中をのどかに走る路面電車の情景は、しっくりと古都になじんでいました。たまたま乗り合わせた白い歯並びが印象的な女学生の姿もエレガントで、さすが「京女」の土地柄と、こころひかれるものがありました。
後に、この路面電車は赤字経営、クルマの走行の邪魔、地下鉄化の方が近代的、などの理由で、70年代の終わり頃廃止されたようです。今となっては残念なことです。

B・C・Dの歌は、受験前夜のつれづれに、大阪の地下街を彷徨しました。乾燥した冷たい風の吹きつのる街角は、たくさんの人々が行き交う雑踏でしたが、 それがかえって孤独を募らせました。立ち寄った書店で、銀色の派手な表紙の三島由紀夫作品集「花ざかりの森」を買って流し読みしましたが、没入できず、かといって眠りにもつけず悶々とした不眠の夜を送ったことでした。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1968/09/17
  • メディア: 文庫

  E・F・G。当時の受験会場は、石炭ストーブがごうごうと音を立てていました。暖かいのは結構なのですが、熱のある体には苦痛なほど、顔と頭だけが熱せられて、冷静な思考ができませんでした。ちょうど脳手術後の今のレベルくらいの、脳の回転力だったかも知れません。

H~Oは、受験での失敗体験に、私がいかに傷ついたかの記録です。打たれて強くなるとか、悔しさをバネにとか、いろいろ言いますが、できればこんな試練は経験しない方が望ましいのではないかと思います。

個人情報の観点からは、とうてい容認できない事態でしょうが、当時の新聞には、大学ごとの合格者氏名が、堂々と掲載されていました。合格者は、新聞を見ることによって結果を知ることができますが、新聞に掲載されない場合は、掲載漏れではないかとか、追加発表があるのではないかと、なかなか未練が断てません。

P~Y は、国立大受験記。
四国の高知。最初の印象は、空気が臭いということ。実は当時、反公害の運動の歴史の中でも注目される「高知パルプ」という製紙会社が、工場そばの江の口川という小川に、工場排水を垂れ流し、そこから高知市内の中心部を流れて浦戸湾に至るまでの川水を真っ黒に汚染していたさなかのことでした。
当時は、今の中国の状態ほどではないものの、全国で野放しの公害垂れ流し状態がありました。そのため、工場地帯に近い大都市には住みたくないという心情が、当時の私などには根強くありました。それだけに、都市から遙かに離れたこの地方で、まさかこんな公害に出会おうとは思っても見ませんでした。その意味で、私の第一印象は、かなり気が滅入るものでした。

でも、受験を終えて帰宅した後になって、土地にまつわる歴史や文化、風土を、改めて認識するにつれて、憧憬する気持ちが強くなっていきました。Wの歌の「我が名宛てなる祝い電報」というのは、私大入試で結果がわからずやきもきした経験から、今度は合否電報を依頼していたのでした。今なら、ホームページ上に合格者の受験番号が発表され、発表時間と同時に合否が確認できるわけで、時代は変わったものです。


 今日の鳥です。

まず、ミヤマホオジロ。

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アトリ。なにかをくわえています。
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酒讃むる旅人の心に潜むもの [文学雑話]

大伴旅人の話題が続いています。

先日紹介した「酒を讃むる歌十三首」のうちの四首、なかでも、「あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」の歌に、M先輩が、コメントを寄せてくださいました。

うかつにも、まるで思いの及ばなかった観点のご指摘で、大変刺激的でしたので。勝手ながら無断で一部を引用させて戴きます。ごめんなさいM様。

酒好きが酒を飲んで喜ぶのは勝手ですが、酒の飲めない下戸を猿の顔とは言い過ぎですね。日本人は酒が飲める人8割飲めない人2割ですから多数派の横暴とも言えますが、ひょっとしたら旅人は酔っぱらって醜態を曝しては奥さんにこっぴどく叱られているので、その反撃でしょうか。まあ酔っぱらいの戯れ言として許しましょう。

誠に、スルドイご指摘。ごもっともです。

ただ、旅人に成り代わりまして、少々弁明をこころみますと、酒を詩の題材にするという発想は、中国文学の色濃い影響がある模様です。

土屋文明著『万葉集私注』によると、

この13首の讃酒歌は集中でも、その内容の特異なために種々の論議の対象となるものであるが、旅人がどういう動機からこれらの作をなしたか。旅人は当時としては最高の知識人の一人で、新しい大陸文化も相当に理解していた者であろう。
(中略)
しかしこれらの歌は太宰府在任中、おそらくは妻を亡くした後の寂寥の間にあって、中国の讃酒の詞藻などに心を引かれるにつけて、自らも讃酒歌を作って思いを遣ったというのであろう。中国には讃酒の詞藻が少なくないとのことであるが、その中のいくつかを、彼は憶良の如き側近者から親しく聞き知る機会もあったものであろう。


とあります。


ここにもあるとおり、太宰帥(だざいのそち=太宰府の長官)という地方官として、都を遙かに離れた九州に派遣されていた旅人は、その地で、愛妻を病のため亡くしています。すでに60歳を超えていた旅人は、長年連れ添ってきた老妻をわざわざ大宰府まで伴ったのでした。
それだけに、亡妻を歌った旅人の歌は、切々として胸を打ちます。

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(793)

【解釈】この世の中が、むなしいものだと思い知る時、いよいよますます悲しいことだなあ!

太宰帥の任期が果てて、都に帰る途中、見るもの聞くもののすべてが、在りし日の妻を思い出させて、心を締めつけます。

我妹子(わぎもこ)が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき(446)


【解釈】私の愛する妻が見た鞆の浦のムロノキは、永久に健在だが、それを見た人(私の愛妻)は、もうこの世にいないのだよ。


我妹子は、「わがいもこ」がなまって「わぎもこ」と読みます。「妹(いも)」、「妹子(いもこ)」は、いずれも男性が愛する女性をよぶ言葉です。血のつながりのある姉妹も、愛する妻も、恋人も、そう呼んだようです。ちなみに女性が、愛する男性を呼ぶ言葉は、「背(せ)」「背子(せこ)」です。背(せ)は、兄(せ)とも書きます。ですから、夫婦を「妹背(いもせ)」といいます。
「鞆の浦」は、現在の広島県福山市にある港町で、鯛の養殖をはじめ、「龍馬のゆかりの地」、映画『崖の上のポニョ』の舞台としても知られます。
杜松(むろのき)は「ネズ」とも「ネズミサシ」とも呼ばれる針葉樹で、その球果は杜松実(としょうじつ)と呼ばれ、リキュールの「ジン」を蒸留するときに香り付けに使われるそうです。

鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)

  
【解釈】鞆の浦の海辺のムロノキをみるたびに、一緒にこれを見た愛妻のことは忘れられようか!(いや忘れることはできない)。

磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)


【解釈】磯の上に根を張っているムロノキよ、太宰府に向かう旅でお前を見た人は今どうしているかと問えば、語り告げてくれるだろうか。

妹と来し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも(449)

  
【解釈】愛妻と一緒に来たときに通った敏馬の崎を、帰る時に一人で見ると涙がそそられることだよ。

行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも(450)

  
【解釈】行きがけには二人で見たこの崎を、ひとり通り過ぎるので、私の心は何とも悲しいことだよ。



こうして京の都に帰りついた旅人は、こんな歌を詠みます。

人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(451)

  
【解釈】人もいない空っぽの家は、旅の苦しさにまして苦しいことだなあ。

妹として二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(452)

【解釈】愛妻と二人で作った私の庭の築山は、再び帰郷するまでのこの数年の間に、木々が高く枝繁く、生い茂ってしまったことだなあ(植えた妻は、帰っては来ないのに)。 

我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽(む)せつつ涙し流る(453)

我が愛妻が植えた梅の木を見るたびに心がむせかえるようで涙が流れる事だよ。
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筑紫の国で、職務上は部下に相当しますが、文学的な交友の深かった山上憶良は、旅人の妻の死を悼んで、心のこもった挽歌(レクイエム)を旅人に寄せています。旅人になりかわって、妻を失った哀しみを、長歌と五つの反歌(長歌に添える短歌)で表現した者です。

  
  
日本挽歌一首、また短歌
  大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に
  泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず
  年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に
  打ち靡き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに
  岩木をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形はあらむを
  恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか
  にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます(794)
反歌
  家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも(795)
  愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべ無さ(796)
  悔しかもかく知らませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを(797)
  妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに(798)
  大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る(799)

【解釈】
都から遠く離れた大王の遠の朝廷=天皇の政庁=太宰府へと、筑紫の国まで、親を慕って泣く子のように後を追っておいでになり、ほっと一息つく暇もなく、年月も少ししか経っていないのに、心に思いかけもしないうちに、草がなびくようにぐったりと病の床に臥してしまった。どう言ったらよいのか、どうしたらよいのか、手立ても分からずに、せめて石や木に何か言って心を晴らしたいが、それもできない。奈良の都の家に留まっていたなら、元気な姿であっただろうに、心残りがされてならない妻の命よ。私にどうしろというつもりなのか、かいつぶりのように二人仲良く並んで添い遂げようと語り合った心に背いて、その魂は遠く家を離れてさまよっていらっしゃる。

にお鳥(カイツブリ)

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カンムリカイツブリ
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 <795>
 奈良の家に帰ったら、私はどうしたらいいのか。枕を並べた妻屋が寂しく思われて仕方がないだろう。 
<796>
  いとしいことよ。こんな結果になるだけだったのに、私を慕ってやって来た妻の心が、どうしようもなく痛ましいことよ。
<797>
 悔やまれてならない。こうなると知っていたなら、奈良の国中をことごとく見せておくのだった。
 
<798>
 私の悲しみの涙がまだ乾かぬうちに、妻が生前見た庭の楝(=栴檀)の花も散ってしまったに違いない。
 
<799>
 大野山に一面に霧が立ちわたる。私の嘆息が生み出す風によって、山一面に霧が立ちわたる。 

 


旅人の酒は、この悲嘆を和らげるためのものでした。

 

 
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東風(こち)吹いて白い蕾紅い蕾と春兆(きざ)す [文学雑話]

 1月7日撮影の後楽園の写真をストックしたままでした。

新春の青空の下、岡山城も後楽園も、静かなたたずまいを見せていました。

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ちょっとお遊びの「アートフィルター」をかけてみました。
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二週間あまり経って、昨日散歩した岡山市後楽園は、梅林の梅が、ようやくわずかにほころび始めていました。

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 日本の古典文学で「花」といえば桜をさすのが伝統ですが、それは平安時代以降のことのようで、万葉の時代は、むしろ梅が愛されていたようです。梅は、中国伝来の植物で、当時その花を愛でることができたのは、文化的教養的環境において、相当に恵まれていた立場の人だったでしょう。そんな梅の花を愛でるということは、一種のステータスだったかも知れません。

おなじみの旅人も、多く梅の歌を残しています。

雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも        大伴旅人      巻2-850


【解釈】真っ白な雪の色を奪ったように真っ白に咲いている梅の花!今がまっさかりだよ。(一緒に)みてくれるような人があったらなあ。

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも           大伴旅人 巻5-822

 
【解釈】私の庭園に梅の花が散る。真っ白にはらはらと、天から雪が流れて来るようだよ。

ついでに、旅人の子、家持(やかもち)の歌も一首。

雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむはしき子もがも       大伴家持 

 
【解釈】真っ白な雪に月光が照り映えているこんな夜は、梅の花を折って贈ってあげるような、愛しい娘がいたらいいのになあ。 


大伴旅人が太宰帥(太宰府の長官)であったことは、すでに話題にしました。
時代は下りますが、平安時代醍醐天皇の時代、右大臣であった菅原道真が、左大臣藤原時平の讒言により、太宰府に左遷されます。
その時詠んだとされる歌が、拾遺和歌集に収められています。


拾遺和歌集』巻第十六 雑春
   流され侍りける時、家の梅の花を見侍て   
贈太政大臣 

 東風(こち)吹かば匂(にほ)ひをこせよ梅の花 主(あるぢ)なしとて春を忘るな


【解釈】(太宰府に)流されました時、家の梅の花を見まして(詠んだ歌) 
(没後)太政大臣の官位を送られた菅原道真
春を告げる東風がもし吹いたならば、私の庭の梅の花よ。遠く離れた九州太宰府まで、そのかぐわしい香りを送ってよこしておくれ!!主人である私が、たとえ京のこの屋敷にいなくても決して春を忘れないでくれよ。

この歌は、その他にも、代表的なものだけでも、「拾遺和歌集」、「大鏡」、「宝物集」「 北野天神縁起」、「源平盛衰記 」、「十訓抄」、「古今著聞集」、「太平記」など、 いくつもの書物に採られています。下の句の、「主(あるぢ)なしとて春を忘るな」が「主(あるぢ)なしとて春な忘れそ」という表現になっているものもあります。「な~そ」は、禁止をあらわします。(入試頻出!)

ちなみに、夏目漱石「吾輩は猫である」には、苦沙弥先生の門人で理学士の水島寒月(みずしま かんげつ=寺田寅彦がモデルとされます。)の友人として、詩人の越智東風という、まじめだけれど風変わりな人物が登場します。「東風」という号は、本人によると「こち」と詠むのだそうで、姓名合わせると「おちこち」となります。これは「遠近(をちこち)」という古語に引っかけた洒落だと気づけば、「クスッ」っと笑えます。かの大漱石にしてこの寒いオヤジギャグかと、ギャルたちのケーベツの眼差しを覚悟する必要があるかも知れませんが。

デジタル大辞泉」によると次のとおりです。

おち‐こち〔をち‐〕【▽遠▽近】

    1 遠い所と近い所。あちらこちら。
    「鶏の声も―に聞こえる」〈藤村・千曲川のスケッチ〉
    2 将来と現在。昔と今。
    「またまつく―兼ねて言(こと)は言へど逢ひて後こそ悔いはありといへ」〈万・六七
おちこちびと【遠近人】
あちこちの人。
「信濃(しなの)なる浅間の嶽(たけ)に立つけぶり―の見やはとがめぬ」〈伊勢・八〉

 



 さて、季節は各種入試のまっただ中。受験生諸君は、キットカットをはじめ色々な合格グッズによりどころを求め、

 

ネスレ日本 キットカットミニ 3枚×10個

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  • 出版社/メーカー: ネスレ日本
  • メディア: 食品&飲料

 

あきちゃん 合格祈願 頭脳米 300g(2合)×12袋 「百マス計算」の小河勝先生推薦

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  • 出版社/メーカー: 株式会社AKI INTERNATIONAL
  • メディア: その他

 

合格(5か9)お守りそろばんストラップ 10186

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  • 出版社/メーカー: ダイイチ
  • メディア: ホーム&キッチン

必勝スーパーカイロ 10個入り

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  • 出版社/メーカー: アイリス・ファインプロダクツ
  • メディア:

いりこストラップ(合格入り校ストラップ)黒ストラップ

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  • 出版社/メーカー: 仮説社
  • メディア: おもちゃ&ホビー

マルエス 合格ひとくちあたりめぇ 13g×5袋

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  • 出版社/メーカー: マルエス
  • メディア: 食品&飲料



にゃんちゅう《合格V/BL×RD》レディースソックスNHKキャラクターグッズ(女性用靴下)通販

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  • 出版社/メーカー: スモールプラネット
  • メディア: おもちゃ&ホビー

がんばる受験生に贈る『応援★日めくり』

がんばる受験生に贈る『応援★日めくり』

  • 作者: 長沖 竜二
  • 出版社/メーカー: 自由国民社
  • 発売日: 2012/11/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

オクトパス 御守り根付ストラップ (黄色)

オクトパス 御守り根付ストラップ (黄色)

  • 出版社/メーカー: 三英貿易
  • メディア: おもちゃ&ホビー

にわか信心を起こして神社仏閣に参詣したりするのでしょうが、なんといっても老舗は、「学問の神様」=天神様=天満宮ですね。太宰府天満宮と京都の北野天満宮に、山口の防府天満宮または大阪天満宮を合わせて、日本三大天神と呼ばれます。

道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」とされ、受験にも御利益ありと考えられるようになりました。また、道真が梅を愛したことから、太宰府の名物として梅が枝餅が代表的なお土産となっています。

太宰府天満宮参道 やす武 太宰府名物 梅ヶ枝餅約70g×10個

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  • 出版社/メーカー: 有限会社 やす武
  • メディア: その他



福岡 お土産 梅ヶ枝餅 5箱

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  • 出版社/メーカー: RHトラベラー株式会社
  • メディア: その他

 

 

 

 

この梅が枝餅にはこんないわれがあるそうです。

 菅原道真が大宰府へ権帥として左遷され悄然としていた時に、安楽寺の門前で老婆が餅を 売っていた。その老婆が元気を出して欲しいと道真に餅を供し、その餅が道真の好物になった。後に道真の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが始 まりとされている。別の説では、菅原道真が左遷直後軟禁状態で、食事もままならなかったおり、老婆が道真が軟禁されていた部屋の格子ごしに餅を差し入れす る際、手では届かないため梅の枝の先に刺して差し入れたというのが由来とされており、絵巻にものこっている。(wikipediaより引用)

また、道長にまつわる「天神信仰」には、次のようないわれがあるようです。これもwikiによります。
 藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相 次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を 行った。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野 天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした(御霊信仰も参照のこと)。道真が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立さ れた。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立さ れた。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。


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沖縄の方々の気持ちにより添うってどういうこと?? [時事]

昨日は、カーラジオから流れてくる安倍さんの施政方針演説を、聞くともなく聞いていました。

 第168回国会の代表質問を前に、突如辞任された第一次安倍内閣の頃に比べて、お声にも張りがあり、若々しく、お元気そうで何よりでした。
演説の内容も、安定多数の余裕のためか、年齢的成熟のためか、ソフトタッチで、一般国民の日常に根ざしたささやかな喜怒哀楽の心情にも配慮しつつ、レトリック的にも論理と情緒の均衡において破綻の少ない、ソツのない演説とお聞きしました。
しかし、最近露骨には表に出ることの少なかった、「戦後レジームの転換」という持ち前の「信念」が、衣の下から見え隠れしているという印象は、強く感じました。

 「朝日新聞digital」2014年1月25日04時04分は、この演説を次のようにまとめ、各方面からのコメントを載せていますが、うなずかざるを得ません。

24日に開会した通常国会安倍晋三首相は施政方針演説で「新しい国づくり」を宣言し、集団的自衛権の行使容認などに意欲を見せた。戦後日本の歩みが転機を迎える国会になるかもしれない。

この演説を聴いていて感じたことは、あの秘密保護法案強行への国民の不安や憤り、普天間基地辺野古移転問題を焦点とした名護市長選挙での住民の明確な移転NOのメッセージ、消費税増税、TPPなどなど、国論を二分する諸問題での、大勢の人々の声や運動の高まりに、一切顧慮のそぶりさえ示さず、まるでそれらがなかったかのように朗々と自己の「信念」を語り、「やればできる」と繰り返す「強さ」です。

「安倍暴走内閣には、ブレーキがない」という、政敵からの揶揄も、言い得て妙と感じてしまいます。 

「演説」では沖縄について、こう触れています。

  アジアと日本をつなぐゲートウェイ。それは沖縄です。
  「舟(しゅう)楫(しゅう)を以て万国の津(しん)梁(りょう)となし」
  万国津(しん)梁(りょう)の鐘にはこう刻まれています。古来、沖縄の人々は、自由な海を駆け回り、アジアの架け橋となってきました。そして今、自由な空を舞台に、沖縄が二十一世紀のアジアの架け橋となる時です。
 アジアとの物流のハブであり、観光客を迎える玄関口として、那覇空港第二滑走路は日本の成長のために不可欠です。予定を前倒し、今月から着工いたしました。工期を短縮し、二〇一九年度末に供用を開始します。
 高い出生率、豊富な若年労働力など、成長の「可能性」が満ち溢れる沖縄は、二十一世紀の成長モデル。二〇二一年度まで毎年三千億円台の予算を確保し、沖縄の成長を後押ししてまいります。
 沖縄科学技術大学院大学には、世界中から卓越した教授陣と学生たちが集まっています。更なる拡充に取り組み、沖縄の地に、世界一のイノベーション拠点を創り上げてまいります。

あの名護市長選挙で、保守候補の応援に立った元官房長官の野中さんの発言が、こんな記事に紹介されていました。

 「沖縄の人たちを札束でしばき、踏みつけるような手法を取ってはならない」。野中広務元官房長官は18日、沖縄県名護市で街頭演説し、安倍政権の米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設問題への対応に苦言を呈した。
 安倍晋三首相は昨年12月、普天間飛行場の移設先とする名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を仲井真弘多知事から得る際、3000億円台の沖縄振興予算を2021年度まで確保すると表明した。野中氏はこうした経緯が念頭にあるとみられ、演説では「今回の一連の流れに怒りを持ってきた」と語った。
 小渕内閣の官房長官などを務め、沖縄の基地問題に深く関わった野中氏は当時、頻繁に沖縄を訪れ、名護市を含む本島北部地域の首長らと膝詰めで話し合うなどした。それだけに、着工に前のめりな安倍政権の姿勢に不満が募ったようだ。

 このような政友からの「ブレーキ」にも、まるで斟酌の様子もなく、話題は安全・安心の問題に及び、自衛隊員の献身性への慰労、感謝、激励、賛美の言葉が続きます。続けて、「積極的平和主義」「集団的自衛権」などの持論が展開され、日米同盟・在日米軍の重要性が強調されます。その文脈の中で、沖縄問題が語られるのです。

 在日米軍再編については、抑止力を維持しつつ、基地負担の軽減に向けて、全力で進めてまいります。
特に、学校や住宅に近く、市街地の真ん中にある普天間飛行場については、名護市辺野古沖の埋立て申請が承認されたことを受け、速やかな返還に向けて取り組みます。同時に、移設までの間の危険性除去が極めて重要な課題であり、オスプレイの訓練移転など沖縄県外における努力を十二分に行います。
 沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら、「できることは全て行う」との姿勢で取り組んでまいります。

 でも、安倍さん。「沖縄の方々の気持ち」とは、「沖縄の苦難を他の地方に押しつけない。」、「沖縄を二度と侵略の足場にさせない。」 、「核も基地もない緑で平和な、自然豊かな沖縄をまもる」、「札束で心は売らない。」ということではなかったでしょうかね?

そして、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」というなら、先の戦争が、他国に対しては侵略の、自国民に対しては抑圧と暴虐の歴史に他ならなかったこと、そして唯一戦場とされた沖縄の悲劇の大本はその点にあることを、まず真摯に認める所から出発しなければならないのではないでしょうかね?


 私の、実家のおよそ何の装飾もない玄関に、簡便な額に入れて、一枚の色紙が飾られています。

 その色紙には、絵に添えて、特徴的な味わいのある筆文字で一首の短歌が書かれています。

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手拭いで口ふさがれて洞窟にひそとひそみし四歳の頃   沖縄にて山原健二郎

 高知県出身の元衆議院議員故山原健二郎さんの書画(の複製)です。
 山原さんの話題には、以前この記事でも触れたことがありました。
 この色紙は、四十何年前の学生の頃、山原健二郎学生後援会が主催する親睦ボーリング大会に誘われ、意外と良いスコアが出て、賞品にもらったものです。
 山原さんご本人とは、学生時代から、何度となくその熱い演説を間近で聴いたこともありましたし、卒業後も、文教委員会所属の有力な国会議員として、何度か要請やら懇談やら、いろいろな機会でお目にかかったことがあります。
 山原さんと沖縄とは、復帰以前から深い縁があり、「沖縄にヤンバルという土地があり、私はヤンバルさんと、親しみを込めて呼ばれる」などのジョークも、ほほえましいものでした。「ヤンバルクイナ」のことを後に知り、私は山原さんを思い出したりしたものでした。

さてこの短歌は、沖縄戦の末期の頃、米軍の攻撃から身を守るため、ガマ(洞窟=壕)に潜んだ子ども連れの住民が、子どもが泣き声などを上げることで敵に発見されるとして、味方であるはずの皇軍=日本軍からとがめられ、時には壕から放逐され、また甚だしい場合は殺害されたという史実(証言)に基づいた歌だといいます。

今の世ではとうてい信じがたいこの出来事は、しかし、動かしがたい史実であったことを、たまたまネットで探し当てた林博史先生(関東学院大学)のホームページこの記事が丁寧に論証しておられます(無断でリンク貼らせていただいています)。

関連部分を少しだけ引用させていただきます。

 沖縄戦研究の視点と課題  

 筆者は以前に「南京大虐殺-沖縄戦-本土決戦-自衛隊」の連関の中で, そ
れぞれをとらえることを仮説として提起した(拙稿「南京にて」『軍事民論』特
集46号,1986年)。これは近代日本の侵略戦争から,今日の日本の軍事的役割ま
でをも見通した中で,沖縄戦やそれぞれを位置づけようとするものである。この
点をさらに具体的に論ずることは別稿に譲り,この視点を前提としたうえで,沖
縄戦研究をすすめるにあたっての筆者なりの視点と課題 を述べてみたい。もち
ろん以下は,筆者の問題関心にそった課題だけで,沖縄戦研究の一面にすぎない
ことは言うまでもない。

1.日本軍の敗北過程の中の沖縄戦

 沖縄戦における大きな特徴として)日本軍が沖縄住民をスパイ視し,多くの住
民を殺害したこと,また住民の集団自決があちこちでおこったことがあげられる。
日本軍による住民殺害は,今日,明確に確められているものだけでも40件以上,
犠牲者は200人以上にのぽっており,闇に埋もれたままの件数を考えるとこれを
はるかに上まわると考えられる。また直接,日本軍の手によって殺害されたので
はなくても,壕から追い出されたため米軍の砲爆撃の犠牲になったり,日本軍に
食糧を強奪されたため餓死等にいたったりした, いわば間接的に日本軍によっ
て死に追いやられた例は,万を下らないとみら れる。(注)

     (注)厚生省の調査によると,14歳末満の戦没者1万1,483人のうち,「壕
提供」が1万0,101人,「食糧提供」76人,「自決」313人,「友軍よりの射殺」  
14人,などがあげられている(大田昌秀『総史沖縄戦』208頁)。

 集団自決は,日本軍の命令によるものとは必ずしも言えないが,手榴弾や青酸
カリが配られて自決を強いられる状況があったり,また日本軍が,住民が米軍支
配下に入ることを認めず,玉砕を非戦闘員にまで求める状況の下では, 集団自決
は,日本軍の存在と切りはなして考えることはできない。住民殺害と集団自決の
関係については,大城将保氏の次のまとめがある (『琉球新報』1985年7月13日)


 「結論をまとめると住民虐殺も集団自決も第三二軍の住民,県民に対する防諜
(ちょう)対策の最後の究極の破局として達成したコインの裏表。つまり敵につ
かまったらスパイになる。スパイにならないためには自決しなければならない。
しかし自決できなくてうろうろしていて敵につかまったものは,スパイとみなさ
れ処刑される。だから,集団自決と住民虐殺は表裏一体であるといえる。」

 こうした日本軍による住民(日本人)殺害や住民のスパイ視,壕からの追い出
し,食糧強奪,あるいは集団自決は,必ずしも沖縄戦だけの特徴ではないことに
注目する必要があろう。
 サイパンでの集団自決は,「バンザイ・クリフ」などの名で知られているが,
筆者が少し調べただけでも,サイパン,テニアン,フィリピンのミンダナオ,パ
ナイなどで日本人の非戦闘員に対して沖縄戦と同様の事態が生じて いる。
 サイパンの例をあげると,壕の中で将校が親に乳児を殺せと銃をつきつけて強
要し,窒息死させたり(『沖縄県史10』1,010頁,『宜野湾市史』513 頁),住
民をスパイだといって撃ち殺そうとしたり(沖縄県婦人連合会『母たちの戦争体
験』1986年,335頁),住民に自決せよと青酸カリを配ったり (『母たちの戦争
体験』315~316頁),壕から追い出したり(沖縄県退職教職員の会婦人部『ぷっ
そうげの花ゆれて』ドメス出版,1984年,273頁)している。また米軍に収容さ
れたキャンプで,現場班長らが山に隠れている日本兵に殺害されることもあった
(注)(『沖縄県史10』1010~1011頁,『ぷっそうげの花ゆれて』279頁)。

     (注)この件については,殺害した本人の証言があり,米軍に協力的な人
物を殺害したという(『那覇市史』第3巻8,616~617頁)。これは,遊撃戦によ
る「スパイ」摘発・殺害のケースである。

 ミンダナオでは,日本軍による食糧強奪や日本人住民の殺害(『宜野湾市史』
454,464,490頁),パナイでは.集団自決を日本軍が手伝った例である が,住
民の輪の中に日本兵が手榴弾を投げこみ,生き残ったものを銃で撃ち殺しさらに
鋭剣で殺したという例(『那覇市史』第3巻8,599頁),テニアンでは,米軍に
捕まりそうになったらこれで死ぬように,と日本兵から手榴弾を渡され,約80人
が集団自決をおこなったり(『浦添市史』422頁),壕の中で泣く子を日本兵が
殺した例(『宜野湾市史』522頁)など,沖縄戦と共通したことが続々と起こっ
ているのである。またロタでは,米軍が上陸するというので,女子供は明方に自
決するように言われ,子供に死装束をさせて待ったが,幸い米軍はロタには上陸
せず,助かったということもあった(『浦添市史』475頁)。

 こうして見てみると,日本軍による日本人の殺害等は,米軍の反攻によって日
本軍が玉砕していった島々において,共通にみられる現象といってもよかろう。
日本人の非戦闘員におしなべて死を強要し,スパイ視し,彼らから食糧を強奪し
たりすることは,一部の心ない日本軍人の行為というよりも日本軍に広く一般的
にみられる行為であり,日本帝国軍隊の体質にかかわる問題であるといえよう。
沖縄においては,それに加えて沖縄差別が加算されていると考えていいのではな
かろうか。日本軍が,占領した島々の民衆を虐待 し,しばしば殺害したことと,
日本人の非戦闘員をも上記のように扱ったこととの関連を含めて,アジア太平洋
地域における日本軍のあり様の中で,沖縄戦を位置づける視点と,その作業が必
要である。

仮に、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」というのなら、歴史の事実をその目で確かめ、住民の声に真摯に耳を傾け、相手を思いやる、嘘をつかない、信義を守るといった最低限の「道徳」を、みずからが行動で示す必要はありませんか?学校で「道徳を特別の教科として位置づけること」に執心なさる前に。


今日は、三月下旬から四月上旬並の暖かさになったところもあったそうです。
それでも散歩に防寒帽は必要で、手袋を忘れて来たことは後悔ものでした。
またまた岡山後楽園の散歩です。梅のつぼみも、前回よりは少しほころびてきたようでした。先日、枝の剪定をしたというローカルニュースがあったのを思い出しました。枝振りが、スッキリした感じはありました。
ほかに写した写真がありますが、紹介は、また今度にさせて戴きます。
今日は、念願のカワセミに出会いましたので、記念写真をアップしておきます。

 

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青空に舞う影見えて寒緩む [今日の「これなあに」?]

「今日は3月並の暖かさになるでしょう」という予報に 誘われて、遠出をしてみました。
でも、日たけるまで薄氷は融けませんし、 山道の霜柱は、踏むとざくざくと音を立て、春まだ遠きと感じさせられます。

でも、苔の色は春の兆しを思わせますね。
山苔の光を帯びて寒緩む
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空を仰ぐと、確かに明るい青空。この鳥の名は?
青空に舞う影見えて寒緩む
 
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 レンズの長さが足りません。
 
一方これは?
かなり近づくことが出来ました。
群れて遊ぶエナガです。
 
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 ジョウビタキ
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シロハラもいました。
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このシルエットは?
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ご訪問ありがとうございました。

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我もまた旅人の宝慈しむ [文学雑話]

先日のブログで山上憶良を話題にし、同じ時期、同じ九州地方で、後に「筑紫歌壇」とも呼ばれる文学サロンを共に構成した大伴旅人に触れました。


「旅人」!ずいぶんモダンな名前じゃありませんか。『大鏡』の夏山繁樹も、近現代の名前と行っても古くないと思いますが、こちらは、フィクションです。

下級役人だった山上憶良に比べて、家柄も地位も、旅人の方が格段に上位であったようですが、こと文学的交友においては、上下の関係にはなかったものと思われます。
大 伴氏といえば、日本神話で天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、記紀によると、その子孫である日臣命(ひのおみのみこ と)が神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めます。その裔の大伴武日 (おおとものたけひのみこと)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国遠征に従うなど、代々、大和政権の軍事面を司り、物部氏、阿倍氏、中臣氏らとと もに朝廷を支える有力な氏族であったようです。
そのような家柄に育った旅人が、九州太宰府の長官に任ぜられるということは、急速に台頭する藤原氏との政争に敗れての「左遷」という性格を持つことは容易に推察されます。
そうであるだけに、穏やかならざる旅人の心情も、推して知ることが出来そうです。
その旅人の子家持(やかもち)が、しばしば名状しがたい愁いを抱いた裏には、その没落しつつある一族という背景が潜んでいたかも知れません。私の過去のブログで、この歌を引用しました。

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば  大伴家持

【解釈】うららかに照り輝いている春の陽射しのなかに、ヒバリが高く天に駆け上り、

何となくなくこころがもの悲しいものよ! 一人で物思いにふけっていると。

この歌にも、愁いが漂っています。

淡海(あふみ)の海(み) 夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり) 汝(な)が鳴けば 
こころもしぬに 古(いにしへ)思ほゆ  大伴 家持

【解釈】夕波が寄せては返すはるかに広い琵琶湖の、暮れ方の水辺に、チチチと小さな声で鳴く千鳥よ!

おまえが寂しい声で鳴くと、心もしおれたように弱って、この地が近江京として栄えた頃の昔のことが、しみじみと思われることよ。

 


山上憶良が、この世のあらゆる宝物以上に愛したものは、子どもであり家族でした。    


一方、旅人が、愛したもの。それは「酒」でした。

大伴旅人「酒を讃 むる歌十三首」は洒脱な名作。今日はそのなかから四首ほど紹介しておきます。

験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の 濁れる酒を飲むべくあるらし


【解釈】役にも立たない物思いをあれこれするよりは、さかずき一杯の濁り酒を飲むのが良かろうっていうことらしいよ。
「濁れる酒」は、「濁り酒」=どぶろくですよね。以前、この項で書きました。

酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古(いにしへ)の 大き聖の言の宣(よろ)しさ

【解釈】酒の名を「聖」と仰せになった昔の大聖人のお言葉のよろしいこと!

大吟醸 極聖 720ml 三年連続全国新酒鑑評会金賞受賞

大吟醸 極聖 720ml 三年連続全国新酒鑑評会金賞受賞

  • 出版社/メーカー: 宮下酒造
  • メディア:

 

価なき宝といふとも一坏(ひとつき)の 濁れる酒に豈(あに)まさめやも
 
 【解釈】値段で量れ ないほど無上の貴い財宝でも、さかずき一杯の濁り酒に、どうしてまさることがあろうか?いや、決してまさりはしない。
 
あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
【解釈】ああ、みにくいよ!賢こぶって、酒を飲まない人をよく見るとサ、猿に似てんだよね。
 
あな=ANA=航空会社の写真です。(汗)
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旅路来て手待ちの暇のプチ散歩 [折々散歩]

今日は早起きして、新幹線で大阪へ。
脳動脈瘤の手術以来、継続的に行っている経過観察のMRI撮影のためです。
第二の故郷!懐かしの病院。

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11時半検査予約でしたが、実際に病院に着いたのは、九時過ぎ。ちょっと早すぎるので、周辺を散歩してみることにしました。
少し道を下って、千里北公園を散策し、「のネットワークルート」を歩いてみます。実はこのコースは、以前にも歩いたことがありました。

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その時には、結構苦しい散歩コースだったような記憶があります。今回は、片肺摘出手術の後ではありますが、体力的にはずいぶん回復しているように思います。ただ、「息が切れる」状態は、当然のことながら、肺の容量が減少した分 顕著ですが、全体的な疲労感が緩和されているように感じました。

旅行用ですので、重たいカメラは持てません。とはいえ、可愛い野鳥に出会うかも知れないので、ある程度の望遠撮影が可能な、pentaxX5を持ってきました。
ルリビタキらしき鳥影は見たのですが撮影には失敗しました。せめて、モズの記念写真をupしておきます。

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  検査の結果は、経過良好。肺癌は脳にも転移しやすい傾向があるらしく、次回の検査では転移の検査も、メニューに入れていただきました。

入院・手術した年の1月も、ことのほかの寒さでしたが、今年も、雪花が舞い寒い一日でした。


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悼みつつ読み返す詩や末の冬 [文学雑話]

詩人の吉野弘さんが亡くなられました。
去年の11月9日付のブログで、「生命は」という詩を引用したことがありました。好きな詩です。

「夕焼け」も、身につまされて好きです。

「夕焼け」   吉野弘

いつものことだが

電車は満員だった。

そして

いつものことだが

若者と娘が腰をおろし

としよりが立っていた。

うつむいていた娘が立って

としよりに席をゆずった。

そそくさととしよりが坐った。

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に

横あいから押されてきた。

娘はうつむいた。

しかし

又立って

席を

そのとしよりにゆずった。

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。

二度あることは と言う通り

別のとしよりが娘の前に

押し出された。

可哀想に。

娘はうつむいて

そして今度は席を立たなかった。

次の駅も

次の駅も

下唇をキュッと噛んで

身体をこわばらせて---。

僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて

娘はどこまで行ったろう。

やさしい心の持主は

いつでもどこでも

われにもあらず受難者となる。

何故って

やさしい心の持主は

他人のつらさを自分のつらさのように

感じるから。

やさしい心に責められながら

娘はどこまでゆけるだろう。

下唇を噛んで

つらい気持ちで

美しい夕焼けも見ないで



 国語の教科書などによく載っている「I was born」という詩も、忘れられません。

 

 

「I was born」  吉野弘
        
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。


或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれ>ということが まさしく<受身>である訳を ふと解した。僕は興奮して父に話しかけた。

----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね----
 僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは----。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体----  

 (作者註:「淋しい 光りの粒々だったね」は詩集「幻・方法」に再録のとき、「つめたい光の粒々だったね」に改めました)

 


 最近、「元首相」のあの方この方が、表舞台に登場される機会がいろいろあって、「ああ、そういえばそんな時代があったっけ」などと感慨を覚えることが多いのですが、記憶の向こうに遠ざかった元首相、元民主党の鳩山由紀夫さんが、以前ツイッターでこんなことを書いておられて、ちょっと話題になりました。

私が好きな吉野弘さんの「祝婚歌」にこんな一節がある。「正しいことを言うときは少し控えめにするほうがいい  正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい」。外交交渉の要諦はここにあると、昨今の外交案件をみてつくづく思う。外交こそ人間関係そのものである。(鳩山由紀夫氏ツイッター記事より)

鳩山さんが「祝婚歌」をお好きだったとは、偶然の一致でしょうが、私もこの詩が好きです。

「祝婚歌」              吉野 弘 


二人が睦まじくいるためには
愚かであるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい


この詩については、吉野弘さんと交流の深かった詩人の茨木のり子さんがこんなことを書いています。

 吉野さんの「祝婚歌」という詩を読んだときいっぺんに好きになってしまった。
 この詩に初めて触れたのは、谷川俊太郎編『祝婚歌』というアンソロジーによってである。どうも詩集で読んだ記憶がないので、吉野さんと電話で話したとき、質問すると、「あ、あれはね『風が吹くと』という詩集に入っています。あんまり他愛ない詩集だから、実は誰にも送らなかったの」
 ということで、やっと頷けた。(中略)
 私がそうだから大きなことは言えないが、吉野さんの詩は、どうかすると理に落ちてしまうことがある。それから一篇の詩に全宇宙を封じこめようとする志向があって、推敲に推敲を重ねる。
 櫂のグループで連詩の試みをした時、もっとも長考型は吉野さんだった記憶がある。
 その誠実な人柄と無縁ではないのだが、詩に成った場合、それらはかえってマイナス要因として働き、一寸息苦しいという読後感が残ることがある。
 作者が駄目だと判定した詩集『風が吹くと』は、そんな肩の力が抜けていて、ふわりとした軽みがあり、やさしさ、意味の深さ、言葉の清潔さ、それら吉野さんの詩質の持つ美点が、自然に流れ出ている。
 とりわけ「祝婚歌」がいい。
 電話でのおしゃべりの時、聞いたところによると、酒田で姪御さんが結婚なさる時、出席できなかった叔父として、実際にお祝いに贈られた詩であるという。
 その日の列席者に大きな感銘を与えたらしく、そのなかの誰かが合唱曲に作ってしまったり、またラジオでも朗読されたらしくて、活字になる前に、口コミで人々の間に拡まっていったらしい。
 おかしかったのは、離婚調停にたずさわる女性弁護士が、この詩を愛し、最終チェックとして両人に見せ翻意を促すのに使っているという話だった。翻然悟るところがあれば、詩もまた現実的効用を持つわけなのだが。
 若い二人へのはなむけとして書かれたのに、確かに銀婚歌としてもふさわしいものである。
 最近は銀婚式近くなって別れる夫婦が多く、二十五年も一緒に暮らしながら結局、転覆となるのは、はたから見ると残念だし、片方か或いは両方の我が強すぎて、じぶんの正当性ばかりを主張し、共にオールを握る気持も失せ、〈この船、放棄〉となるようである。 すんなり書かれているようにみえる「祝婚歌」も、その底には吉野家の歴史や、夫婦喧嘩の堆積が隠されている。(中略)

長女の奈々子ちゃんが生まれた時、すぐ酒田から手紙が届き、ちょうどその頃、櫂という私たちの同人詩誌が発刊されたのだが、「赤んぼうははじめうぶ声をあげずに心配しましたが、医師が足を持って逆さに振るとオギャアと泣きました。子供、かわいいものです」
 と書かれていた。私の感覚では、それはつい昨日のことのように思われるのだが、その奈々子ちゃんも、もう三十歳を超えられ、子供も出来、吉野さんは否も応もなく今や祖父。
「祝婚歌」を読んだとき、これらのことが私のなかでこもごも立ち上がったのも無理はない。幾多の葛藤を経て、自分自身に言いきかせるような静かな呟き、それがすぐれた表現を得て、ひとびとの胸に伝達され、沁み通っていったのである。
 リルケならずとも「詩は経験」と言いたくなる。そして彼が、この詩を一番捧げたかったは、きみ子夫人に対してではなかったろうか。(吉野弘全詩集 栞 より)

その奈々子さんの誕生に際して、父親としての思いを綴ったのが、この詩です。

「奈々子に」  吉野弘  


赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむずかしく
はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ。

 

この「お前にあげたいものは/香りのよい健康と/かちとるにむずかしく/はぐくむにむずかしい/自分を愛する心だ。」 というメッセージを、私はそのまま孫娘に捧げたいと思います。


ご逝去を悼む思いから、吉野さんの詩を何編も、断りもなしに引用しました。著作権問題は気になりますが、私も、この記事に甘えて、「民謡」扱いさせていただくことにします。

【早坂】 吉野さんは「祝婚歌」を「民謡みたいなものだ」とおっしゃっているように聞いたんですけど、それはどういう意味ですか。
【吉野】 民謡というのは、作詞者とか、作曲者がわからなくとも、歌が面白ければ歌ってくれるわけです。だから、私の作者の名前がなくとも、作品を喜んでくれるという意味で、私は知らない間に民謡を一つ書いちゃったなと、そういう感覚なんです。
 【早坂】いいお話ですね。「祝婚歌」は結婚式場とか、いろんなところからパンフレットに使いたいとか、随分、言って来るでしょう。 ただ、版権や著作権がどうなっているのか、そういうときは何とお答えになるんですか。
【吉野】 そのときに民謡の説を持ち出すわけです。 民謡というのは、著作権料がいりませんよ。 作者が不明ですからね。こうやって聞いてくださる方は、非常に良心的に聞いてくださるわけですね。だから,そういう著作権料というのは心配はまったく要りませんから....
【早坂】 どうぞ自由にお使いください。
【吉野】 そういうふうに答えることにしています。
      早坂茂三『人生の達人たちに学ぶ~渡る世間の裏話』(東洋経済新報社)

 


最後に今日の鳥。

オオジュリンでしょうか?

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 飛び立つ
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はばたく
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旋回
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帰巣
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大寒や沖縄に春いちはやく [時事]

大寒や沖縄に春いちはやく
固き土破りて名護に春来たり
大寒や辺野古のジュゴン安くあれ


暦の上では、今日が大寒。
名前の通り、寒い朝でした。
その厳しい寒さとは裏腹に、昨日投票の、名護市長選の結果は、一足先の春の訪れを告げるものでした。いや、人々の燃える希望と熱気を、全国に伝えるものでした。
日米政府の強圧や、県知事の心変わりにも関わらず、住民は圧倒的多数で現職稲峰さんを選び、「辺野古の海を基地に渡すな」「ジュゴンの海を守れ」という決断を、繰り返して示しました。

ニュースを聞いていますと、今朝、いつもと同じように交通安全指導に立った稲峰さんに、通学途上の小学生や通行中の市民が「当選おめでとう」と声をかけると、稲峰さんはにこやかにそれに応えていました。
いや、比喩ではなく、実際に沖縄は、もう桜が満開なのでしょう。
私、沖縄県には昔、一度だけ行ったことがあります。
20代の終わりの2月頃だったでしょうか?
「観光」と言うよりも、労働組合の企画で、基地見学(基地調査)に連れて行ってもらったのです。
半袖でも、すっかり汗をかいたことを覚えています。
当時建設されたばかりの名護市役所も訪問し、エアコン無しでも真夏をしのげるという風通しを優先したデザイン、ガジュマルやブーゲンビリア、たくさんのシサーなどに囲まれた、庁舎の美しさに、心を奪われたことが、「名護市」についての最大の印象です。
那覇空港の上空から、初めてエメラルドグリーンの沖縄の海を見た時の、厳かな驚きは忘れられません。けがすべからざる美しさ、荘厳さを感じたように思います。
その同じ空港が、軍民共用で、物々しくスクランブル発進する米軍戦闘機を、間近で見ることの驚きも、ショッキングでした。
沖縄と言えば、ヒメユリ部隊の悲劇に象徴される沖縄戦のすさまじさと痛ましさが、まず想起されますが、戦後の米占領時代の苦難の歴史も、瀬長亀次郎さんの本などで、少しは知っていたつもりでした。


沖縄からの報告 (1959年) (岩波新書)

沖縄からの報告 (1959年) (岩波新書)

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1959
  • メディア: 新書

民族の悲劇 沖縄県民の抵抗

民族の悲劇 沖縄県民の抵抗

  • 作者: 瀬長亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2013/04/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

瀬長亀次郎回想録

瀬長亀次郎回想録

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1991/08
  • メディア: 単行本

不屈 第1部―瀬長亀次郎日記 獄中

不屈 第1部―瀬長亀次郎日記 獄中

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 琉球新報社
  • 発売日: 2008/03
  • メディア: 単行本

不屈 第2部―瀬長亀次郎日記 那覇市長

不屈 第2部―瀬長亀次郎日記 那覇市長

  • 作者: 瀬長亀次郎
  • 出版社/メーカー: 琉球新報社
  • 発売日: 2010/01
  • メディア: 単行本

沖縄人民党―闘いの二十五年 (1970年)

沖縄人民党―闘いの二十五年 (1970年)

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1970
  • メディア: -

不屈 第3部―瀬長亀次郎日記 日本復帰への道

不屈 第3部―瀬長亀次郎日記 日本復帰への道

  • 作者: 瀬長亀次郎
  • 出版社/メーカー: 琉球新報社
  • 発売日: 2011/08
  • メディア: 単行本

民族の怒り―もえあがる沖縄 (1971年) (新日本新書)

民族の怒り―もえあがる沖縄 (1971年) (新日本新書)

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1971
  • メディア: 新書

しかし、聞いたり読んだりして想像するのと、実際に目で見て確かめるのとは大違いです。父祖伝来の土地・田畑が金網の向こうに囲われ、そこにアメリカ合衆国がある。本来の持ち主であり住人であるはずの人々が、衛兵の機関銃で脅されるという逆さごと。しかも、そこを拠点に、かつてはベトナム・インドシナへ、そして中東へと、無数の殺人機が飛び立っていくことの歯がゆさ。その「切歯扼腕」の想いは沖縄の人たちの、陽気な明るさの内面に、70年近くもの間深く沈殿し続けているはずです。
こんな歌のフレーズが耳を離れません。

タンポポ

【作詞】狩俣 繁久
【補詞】小森 香子
【作曲】大西 進

1.金網のむこうに小さな春を
  つくってるタンポポ
  金網のそとにも小さな春を
  つくってるタンポポ
  ひかりいろしたタンポポは
  金網があっても金網がなくても
  沖縄じゅうに春をふりまいたでしょう

2.デモ隊の足下にひかりの花を
  さかそうとタンポポ
  米兵にふまれてもそれでも花を
  さかそうとタンポポ
  強く生きぬくタンポポを
  金網のない平和な緑の沖縄に
  みんなのねがいをこめてさかせてやりたい

 


「ガンバロー」の作曲者としても荒木栄作曲の「沖縄を返せ」も、脳裏に浮かびます。

 

作詞 全司法福岡高裁支部
作曲 荒木  栄    

1    
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が 血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
 我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
 沖縄を返せ (返せ) 沖縄を返せ

2    
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
 我等は叫ぶ沖縄よ ……ref……
沖縄を返せ

 

銃剣とブルドーザーで土地を取り上げられた沖縄の民の、もっとも象徴的なエピソードの一つは、名護市に近い、伊江島の人々の苦難の経験でしょう。

阿波根 昌鴻さんの著作に、ぞれは詳しく綴られています。

米軍と農民――沖縄県伊江島 (岩波新書)

米軍と農民――沖縄県伊江島 (岩波新書)

  • 作者: 阿波根 昌鴻
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1973/08/20
  • メディア: 新書
命こそ宝―沖縄反戦の心 (岩波新書)

命こそ宝―沖縄反戦の心 (岩波新書)

  • 作者: 阿波根 昌鴻
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/10/20
  • メディア: 新書

 

 

 

反戦と非暴力―阿波根昌鴻の闘い

反戦と非暴力―阿波根昌鴻の闘い

  • 作者: 亀井 淳
  • 出版社/メーカー: 高文研
  • 発売日: 1999/02
  • メディア: 単行本


裾の広い麦わら帽子のような、独特な姿をした伊江島を訪ね、まだまだご壮健であった阿波根さんをたずね、「団結道場」で、その楽天的で懐の深い、平和への熱い思いをお聞きした時の心の震えを、忘れることはありません。その場で買い求めた一冊の写真集が、今も、私の書棚の奥深く、置かれています。

人間の住んでいる島―沖縄・伊江島土地闘争の記録 写真記録 (1982年)

人間の住んでいる島―沖縄・伊江島土地闘争の記録 写真記録 (1982年)

  • 作者: 阿波根 昌鴻
  • 出版社/メーカー: )阿波根昌鴻
  • 発売日: 1982/12

人間としての「品性」は、誰のもとに備わっているのか?1枚の無言の白黒写真は、饒舌な語り以上に、真実を豊かに語ります。
銃剣やブルドーザーや札束や脅しが、わずかな時間功を奏することはあっても、真に人を動かし、歴史を動かすものは、それではない。ということを、この写真集は雄弁に語りかけています。

 


さて、こちらは、大寒の冷え込みの中出会ったアオジビンズイです。

 

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雪花に吹かれて怯む散歩かな [折々散歩]

寒い一日でした。
世の中は、センター入試第二日目。不思議に冷え込む日が多いです。
それをよそ目に、午後、久しぶりに演劇を観る予定で、今朝は出歩きは控えるつもり。
とはいえ、晴れているようなので、アッシーのついでに、ちょっと湖の様子を見に行ってきました。
そして、かなり後悔しました。風も強く、雪花も舞ってきましたので早々に退散。
それでも、今日の鳥をご紹介しておきましょう。

今日のモズ

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アオジ
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欠礼、ケツ礼!
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湖に浮かぶユリカモメ
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カンムリカイツブリ 
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キンクロハジロ。風でセットがみだれちゃう---。
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ジョウビタキ

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午後の観劇は、若き日の向田邦子をモデルとした中島淳彦作鵜山 仁演出の文学座の地方公演「くにこ」です。
笑いあり、涙あり、しみじみ心が洗われる至福の時間でした。会場では、懐かしい方々にも会えましたし。

文学座のブログ
同じくホームページ

充実した一日でした。


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春まだき鄙路ゆけば何処やらん古人のさざめく聞こゆ [折々散歩]

山上憶良について2日連続で書きましたので、今日もその続き。
前回引用した、

銀(しろがね)も金(こがね)も玉(たま)も何せむに、勝(まさ)れる宝 子にしかめやも


の歌は、子供への愛を、てらうこともなく率直に、イヤミがないほどにストレートに表出したもので、子煩悩で家族思いの憶良の真骨頂は、この歌によくあらわれているでしょう。そして、彼の子煩悩、家族愛を印象づけるもう一つの歌も、教科書などにも載っていて、よく知られています。

憶良らは今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も我(わ)を待つらむそ



《地方語訳》
このワシ、憶良めは、この辺で 往ぬることにしますらぁ。今頃、家では、子供がワシを待って泣きょうろう思いますけえ。へーから、その子のおかんもワシがけえるのを待ちょうりましょうけえの~。

宴会の途中で席を立つ際の弁解の歌のようです。
「まだ、ゆっくりされりゃあええが。もうちょっとつきあわれえ。水くせえのお。」てな具合に、上司やお得意様、同僚たちから引き留められて、「いやいや、子供が待っていますから」と、切っ先を制して、「そのこの母親も」と回りくどい言いなしで、「愛する妻が私を待っていますので」と、おノロケ混じりのセリフをこうもぬけぬけと吐かれると、相手も引き下がるしかなかったでしょうね。


 憶良はさして有力でない家柄の出身であったようですが、若くして才秀で、第七次遣唐使の一員として中国に派遣されます。その時、無位ながら、漢詩文、儒学、仏教などの学問を修めて帰国、地方官や皇太子(後の聖武天皇)の家庭教師等にも取り立てられた博学のエリートでした。
後に、筑前守に任命され、筑紫国の地方役人をつとめている頃、太宰帥(だざいのそち)=太宰府の長官として赴任してきた大伴旅人(おおとものたびと)を中心に、少弐小野(おゆ)、造観世音寺別当沙弥満誓(しゃみまんせい)娘子(おとめ)児島、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などの人々とともにある種の文学サロンを形成し、万葉集にも所載された優れた歌を数多く残しています。その文学サロンを、後に「筑紫歌壇」と呼びます。
筑紫歌壇」つながりで、回を改めて、大伴旅人について触れたいと思います。


今日はちょいと足を伸ばして、万葉の昔に思いをはせ、「吉備路風土記の丘」周辺の、備中国分寺五重塔、備中国分尼寺跡などをぐるりと散策してみました。

 春まだき鄙路(ひなみち)ゆけば何処(いづこ)やらん古人(いにしえびと)のさざめく聞こゆ

万葉集の話題ですので、今日は短歌で迫ってみました。お粗末。
この五重塔は、天平13年(741)の聖武天皇の勅願を機に、8世紀後半に創建されたものが、鎌倉時代末期または南北朝時代の初め頃、兵火または落雷による火災で焼失。その後江戸時代になって宝永7年(1710)に日照山国分寺として再興されたそうです。

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空の色も鉛色で、時折太陽の光はのぞきますが 、凍える寒さでした。 
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 塔の上空を舞うトンビも寒そう。
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 でも、梅のつぼみは、少しずつ柔らかくなってきている様子。
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国分尼寺跡は、初めて尋ねました。
小高い丘に、広大な伽藍や建物が建てられた様子を想像すると、かなりのスケールだったと思われます。
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残された礎石から規模を想像すると、、、 でかい。
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今日であった鳥たち。
ジョウビタキのオス。かなり近づいても逃げません。
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梢に止まった小鳥。ビンズイでしょうか?
これもかなりアップで撮れました。
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ヒヨドリ。
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ツグミ
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 モズ
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まされる宝鳥にしかめやも? [文学雑話]

昨日の記事で、山上憶良の「貧窮問答歌」を話題にしました。そこでわたしは「社会派」、「生活派」、「人道派」の歌人という呼び名を用いました。
同時に、「家族思い」「子煩悩」という一面も、思い浮かびます。

瓜食めば子ども思はゆ栗食めばまして偲ばゆ 何処より来たりしものぞ
眼交にもとな懸りて安眠し寝さぬ 
                        <万葉集巻5 802>
  銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに 勝(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
                        <万葉集巻5 803>

地方語訳
瓜を食うたら子供らあが思われてならん。栗を食うたら、いよいよ恋しゅう思えるんじゃ。
子供ゆうもんは、どこからきたもんかのお、
寝よう思うても、まぶたの裏に子供らぁの姿が引っかかってからに、ちっとも安眠させてくれんのじゃ。

銀じゃの、金じゃの、真珠じゃのゆうたりする宝もんも、何にしようにぃ(なんにもならんがな)。
いちばんまさっとる宝ゆうたら、子ども以上のものがありましょうか?ありゃあしませんぞな。

銀=シルバーは、白く光る金属なので白金(しろがね)です。 もちろん、プラチナ=白金(はっきん)ではありません。

黄金=ゴールドは、黄色く光る金属ですから、「きがね」です。なまって「くがね」、「こがね」ともいいます。黄金虫は「こがねむし」です 。

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

  • 作者: ポオ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2006/04/14
  • メディア: 文庫

玉は、珠。真珠=パールの類です。 以前、「白玉か何ぞと人の問ひしとき---」(「伊勢物語」)の話題で触れました。
ついでに、赤い金属は赤金(あかがね)=銅で、黒い金属は黒金(くろがね)、つまり鉄です。
「守るも攻めるも黒鐵(くろがね)の浮かべる城ぞ頼みなる」(瀬戸口藤吉作曲の行進曲「軍艦行進曲」)の「くろがね」はこれです。ちなみに岡山市西大寺にある「鉄(くろがね)」は、鉄鉱山に由来する地名だそうです。


憶良の作品に、こんなものもあります。

老身重病年を経て辛苦(くる)しみ、また児等を思ふ歌五首 長一首、短四首
  玉きはる 現(うち)の限りは 平らけく 安くもあらむを
  事もなく 喪なくもあらむを 世間(よのなか)の 憂けく辛けく
  いとのきて 痛き瘡(きず)には 辛塩を 灌ぐちふごとく
  ますますも 重き馬荷に 表荷(うはに)打つと いふことのごと
  老いにてある 吾が身の上に 病をら 加へてしあれば
  昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし
  年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ
  ことことは 死ななと思へど 五月蝿(さばへ)なす 騒く子どもを
  棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ
  かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ(897)
反歌
  慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥の音のみし泣かゆ(898)
  すべもなく苦しくあれば出で走り去(い)ななと思へど子等に障(さや)りぬ(899)
  水沫(みなわ)なす脆き命も栲縄(たくなは)の千尋にもがと願ひ暮らしつ(902)
  しづたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも(903)

中でも、899の歌は、庶民の切実な思いが込められています。
【地方語訳】

 どうしようものうて苦しゅうてたまらんけえ、いっそ、家出して逃げちゃろうと思うたりするんじゃけど、そねなことをしたら子供らぁにメーワクがかかってしまうけえのおぉ、なんぼぅにもできんわのぉ。


今日の鳥です。
烏城の烏

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楠の実を食べています。
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烏城
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 シロハラ
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ヒヨドリ
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カルガモ
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われもまた たずねあてたり とらつぐみ [折々散歩]

M先輩から、珍鳥の情報をメールでいただきました。写真も添えてありました。
これまで、名前は知っているが見たことのない「トラツグミ」です。
場所は、敢えて伏せますが、県内某所で、ポイントの説明まで添付して下さいました。私も、行ったことのある場所でしたので、ひょっとして見つけられるかも知れないと思うと、今朝は気温は低いが風もない穏やかな天気でしたので、ついつい足を向けてしまいました。見つけられなくてもともと、散歩の歩数を稼ごうと、心の逃げ道は用意して。
案の定、2時間ほど歩いても、撮影できたのは、シジュウカラ、ミヤマホオジロ、ジョウビタキといった鳥ばかり。

 ジョウビタキ オス

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ジョウビタキ メス

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ミヤマホオジロ

 

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シジュウカラ

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でも、これを写しただけでも、来たかいがあったと、納得し、あきらめかけて帰りかけた頃、先客の二人のカメラマンの方が、手招きしてくださいました。
言葉を交わさずとも、レンズの方角を見ると、いました!
暗くて、遠くて、コンディションは良くなかったけれど、とりあえず、証拠写真だけは残しておきます。



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トラツグミというと、古来「ぬえ鳥」とも呼ばれ、平家物語にも、源頼政のヌエ退治の話が出てきます。

「デジタル大辞泉」では次のように説明されています。
ぬえ【×鵼/×鵺】
    1 トラツグミの別名。
    2 源頼政が退治したという、伝説上の妖力をもった怪獣。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似るという。
    3 つかみどころがなくて、正体のはっきりしない人物・物事。「政界の―」

トラツグミは、夜中に、口笛のような「ヒョー、ヒョー」という声で鳴くそうです。
「鵺の鳴く夜は恐ろしい」というのは、横溝正史原作の映画「悪霊島」のキャッチ・フレーズでした。

悪霊島(上) (角川文庫)

悪霊島(上) (角川文庫)

  • 作者: 横溝 正史
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 1981/05/15
  • メディア: 文庫

悪霊島 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • メディア: DVD

金田一耕助シリーズ 悪霊島 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: TBS
  • メディア: DVD

 

 

 

 

山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)では、その、か細い鳴き声を「ぬえ鳥の のどよひ居るに」と表現しています。
『貧窮問答歌』は、作者=山上憶良自身を投影した一人の貧者が、よりウルトラ・スーパー・ハード・スペシャルな極貧者に問いかけ、極貧者がそれに答えるという設定の長歌と、付属の短歌からなります。

『貧窮問答歌』 山上憶良
  風雑(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひ て 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに  しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて 人はあらじと  誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま)  引き被(かがふ)り  布肩衣(ぬのかたきぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを  我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ   妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ   この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

 天地(あめつち)は 広しといへど 吾(あ) が為は 狭(さ)くやなりぬる  日月は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為は 照りやたまはぬ  人皆か 吾(あ)のみやしかる わくらばに 人とは あるを  人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の  海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる かかふのみ 肩に打ち掛け  伏廬(ふ せいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて  父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に  囲み居て 憂へ吟(さま よ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず  甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて
  ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を  端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は  寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 
かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道(892)
短歌
  世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893)


例のごとく、地方言葉に訳してみます。

【地方語訳】
《貧者の問い》
風 交じりの雨が降る夜で、雨交じりの雪が降る夜はどねーにもしようがのぅ寒いけぇ、固ぇ塩をなめちゃあ糟湯酒(かすゆざけ)をすすりすすりして、咳ぅしちゃ あ鼻水ぅ垂らぇて、はっきりありもせん髭をなでて、「ワイをおいてマシな人間はおるまぁ。と自慢はしてみるんじゃが、寒うてしょうがねぇけぇ,麻のふとん をひっかぶり、ぼろ着をあるだけ重ね着しても、寒い夜じゃのに、ワイよりも貧しい人の 父母は飢え凍えよぅるじゃろう。妻や子どもらぁは 力無ぅ泣きよぉ るだろうに。この時ぁ、あんたらぁどねぇして暮らすんかのぉ。

《極貧者の答え》
 天地は広いゆうけど、わしにゃぁ狭うなってしも うた。お日さんやお月さんは明けぇというけど、わしのためには照らしちゃあつかぁさらんのかのお。ほかの人もみなそうなんじゃろうか。わしだけなんじゃろ うか。人として生まれ、人並みに働きょうるのに、綿も入っとらん海松(ぬるぬるの海藻)みてぇにぼろぼろになって垂れ下がった衣ばぁ肩にかけて、つぶれか けた、曲がった家の中には、地べたにわらをばらかして敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、ワシを中に囲んで座って嘆き悲しみよんじゃ。かまどには煙 も立たず、炊飯器にゃあにクモの巣がかかって、飯を炊くことも忘れて、ぬえ鳥のようにかぼそい声を出してうめきょうるとこへ、「短い物の端ぅ切る」ゆうよ うに、鞭を持った里長の声が、寝床にまで大声を出ぇて何回も呼びかけてくるんじゃ。
こねぇにもどねぇしようようも無ぇもんじゃろうかのぉ、世の中いうもんは。
短歌
この世の中を「つらいのぉ」、「身もやせるようで生きるのも恥ずかしいのぉ、嫌じゃのぉ」と思うけど、飛んで往んでしまうわけにもいかんのんじゃ、わしぁ鳥じゃぁねえけぇ。 

「生活派歌人」、「社会派歌人」、「人道派歌人」としての山上憶良の面目躍如たる代表作で、心に残る名作といえるでしょう。


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今日の鳥とりあえずアップします [折々散歩]

今日の鳥とりあえずアップします。

山柿を食べるエナガ。
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カシラダカ
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ホオジロ?
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アトリ?
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鶴?
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鶴と亀 松にはモズのめでたさよ [折々散歩]

今朝は私の地方でも零下。ここ何日か睡蓮鉢にも、薄氷が張っています。
こんな日に外出するのもどうかとためらわれましたが、朝のうちから穏やかな日射しがあらわれ、小春日和といえる天気になりました。
実は、何を思い立ったか、県立図書館を訪ねてみたのですが、あいにく閉館でした。仕方がないので、少し足を伸ばしていつものように後楽園を散策しました。
今日は、外出からの帰りが遅くなったので、写真整理が間に合いません。取り急ぎ、アリバイ的にアップロードしておきます。

旧暦では1月1日を大正月、最初の満月の15日を小正月と呼び、この日には、松飾りや注連縄などを集めて燃やし、無病息災を祈る「とんど焼き(どんど焼き)」の行事が各地でおこなわれてきたようです。

私が今住んでいるところでは、この習わしも廃れてしまっていますが、「成人の日」を中心とするこの2,3日、この風物詩があちこちで催されたというニュースが聞かれます。

私の故郷の田舎でも、ちょうど出向いた一昨日の朝、済ませたところだったそうですし、今日出会ったO先輩が町内会長をしておられる所でも、町内の人々や子どもたちが集って催したとか。O先輩の所では、安全の観点や火力の不足からか、餅を焼くことはしなかったそうですが、子どもたちにはお菓子を配り、焼き芋は楽しんだそうで、参加した子どもたちにとっても心に残る一コマとなったでしょう。

丹頂鶴

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向こうに見えるのが日本の夜明けだ!

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モズは、繁殖略旺盛なことから、縁起の良い鳥とされているそうです。

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和の装い。
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冬の日や鏡の上の巫女秋沙 [今日の「これなあに」?]

 
冬の日や鏡の上の巫女秋
巫女秋沙はミコアイサと読み ます。何年か前、何も知らずに水鳥にカメラを向けていますと、通りかかりの女性が、「さすがですね。」とか、声をかけて来られました。何やら分からずポカ ンとしてますと、「ミコアイサですね。」と、教えて下さいました。その時の写真は、ぶれぶれのボケボケでした。対象物が遠すぎるし、技術も機材も、追いつ かずでも、エレガントなその容姿は強く印象に残りました。パンダに似ているという顔の黒い模様も、強く自己アピールしています。
次には、ちゃんと写したいなという思いがつのりましたが、それ以来、ミコアイサを見る機会もありませんでした。
今年になって、遠くいに見かけることはあったのですが、今日もそれらしい鳥が浮かんでいるので、一応シャッターだけは切っておきました。
はるか遠くの、点のような被写体を、拡大してみると、、、。
 
 
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今日の午後、児島湖締切堤防付近で写しました。
ついでに、こんなものも。
キンクロハジロ

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オオバン
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 またまたゲット
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猛禽発見?
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こんな所に、ジョウビタキのメス。
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 児島湾大橋遠望
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 対岸風景
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今日は、午前中、またまた小鳥の森をたずねて見ました。まず、ウォーキングの歩数を稼いだ後、存分に撮影しようと心づもりして、歩き始めました。シニアの方々も、軽快に、山頂方面から降りてこられるのとすれ違ったり、モタモタしている私を追い越して行かれるグループもあったりで、山道はなかなかの賑わいでした。
結構な急坂を大分我慢して登りましたが、頂上まではもう一がんばりが必要というあたりで断念して引き返しました。
途中、エナガの群れに出会いましたが、枝の陰になってまともには写せません。
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山道を下り、平地で撮影に専念しようと下山している途中、ぬかるんだ山道に足を滑らせて、またまたステン!と尻餅をついてしまいました。前方から子供連れの家族が通りかかり、あきれ顔で気の毒そうに見ていた様子。(私は、目を伏せたままで、確認していませんが)、湿った泥土で、ズボンが無残な状態に。これでは人前を歩けません。
今回は、かろうじてカメラも壊さず、足も捻挫しませんでした。めでたしめでたし。でも、臀部や脚に打ち身らしい痛みが残ります。あわてて手をついたので、そこも傷むし、体中に妙な力が加わったせいか、腕やら肩やら、体の節々に筋肉痛的な痛みが残ります。
これでは散歩も撮影も、モチベーションが下がりっぱなしで、ベンチに腰掛けてこんな撮影で、終わりにしました。
シジュウカラ
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ヤマガラ
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シジュウカラとヤマガラ
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山道を歩いている間中、何度も、足下には気をつけなきゃと言い聞かせていたのに、ほとんど平地にたどり着いたあたりで、この始末。「高名の木登り」を地で行くお粗末デシタ。

 「高名の木登り」    兼好法師 『徒然草』
 高名の木のぼりといひしをのこ、人を掟(おき)てて、高き木にのぼせて梢(こずゑ)を切らせしに、いと危(あやふ)く見えしほどはいふ事もなくて、降るる時に軒長(のきたけ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降りるとも降りなん。如何(いか)にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候(さうら)ふ。目くるめき、枝危きほどは、己(おのれ)が恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所に成りて、必ず仕(つかまつ)る事に候ふ」といふ。
 
 あやしき下臈(げらふ)なれども、聖人の戒(いまし)めにかなへり。鞠(まり)も難き所を蹴出(けいだ)してのち、やすく思へば、必ず落つると侍るやらん。
 
《解釈》
名高い木登り名人と言われる男が、人を指図して高い木に登らせて木枝を切らせた時、たいそう危なく見えるうちは何も言わないで、降りる時に軒の高さくらいになって、「失敗するな。注意して降りろ」と言葉をかけましたのを、(私は)「これくらいの高さになれば、飛び降りたとしてもきっとおりられるだろう。どうしてそう言うのか?」と申しましたところ、「そのことでございます。目がくらみ、枝が危ない間は、自分で恐れますので、私は何も申しません。失敗は、安全な所になってから必ず致すものでございます」と言う。
 
 下賤な身分の者であるが、その言葉は聖人の教訓にかなっている。蹴鞠(けまり)の鞠も、難しい所をうまく蹴った後で安心すると、必ず失敗して鞠を落とすとやら言う。

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これなあに?尋ねているのはジョウビタキ [今日の「これなあに」?]

連休の中日ですので、孫達と田舎へ帰ってきました。
すると、庭に止めてある自動車のサイドミラーに、ジョウビタキのオスがしきりに問いかけていました。
ミラーに映る自分の姿が気になって仕方がないようです。

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川には、ヒドリガモの群れがやってきています。
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ヌートリアも寒中水泳。
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昨日のストックデータを紹介します。
サブサブカメラとして持って歩いたPENTAX X-5の絵です。悪くはないと思います。
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なお、昨日アップしたこれは、PENTAX k10 に、大昔のsigma28-70 で写したもの。フィルム時代のレンズですし、レンズに曇りも莉もあるようで、画像のクリアーさには欠けますが、使いようによっては味があると言うべきか?
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こちらは、pentaxQ7に、標準ズーム。広角が面白い効果を上げます。
でも、X-5も一見では引けを取らないかも?
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退職記念に中古で購入したあこがれのスターレンズが、先日転落事故で真っ二つに折れてしまった(トホホ)ため、手持ちレンズの代替実験をしているところですが、実はここ数日、ハ-○・オフのジャンクコーナーに並んでいた古いFA100-300/4.7-5.8というレンズを使ってみています。
実は、これを手に入れたのはずっと以前で、別の用途のために(オリンパス・フォーサーズのボディに、アダプターを介して装着し、マニュアルフォーカスで望遠ズームに使えないかとと思って)購入したのですが、使いこなせずに放置していたもの。PENTAXボディでも使っては見たものの、アドバンテージに欠ける所があって収納庫に置いたまました。それをちょっとした思いつきで引っ張り出してみると、決して使えなくはないですね。
ネット上での評判は、決して芳しいとは言えませんし、100mm始まりは不便な上に、最短撮影距離が長く、逆光に弱さが見られたり、光線の加減で色にじみが気になったりという欠点は確かにあります。
でも、結構「発色」の良さには好感が持てます。
最近の、ミサゴの写真とか、水鳥系の写真は全部これで撮りました。青空など、いい色が出ているように思います。適度に軽いし。
たとえばこれなども。
ウ!
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竹杭に止まるミサゴ
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すわ猛禽!と思ったら、トンビですか?
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飛ぶユリカモメ
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 菜の花も咲いています。
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昨日の夕方は、深山公園にも行きました。
この時のレンズは、dal55-300だったかな?だめです、一日経つと忘れてしまiいます。
少なくとも今日の写真(今日の最初の方の記事の、ジョウビタキなど)は、dal55-300を使いました。

ハジロカイツブリ(羽白鳰)でしょうか?
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アトリ
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ツグミ
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 オマケ
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