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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第12回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第12回目。


連載第12回
爺さんの墓の周りには、毎年秋になると小さな白い雑草(くさ)の花が咲いた。
ある日ぼくは、一人の見知らぬ人をそこで見かけたが、それが誰だったかは、誰も知らない。
菜っ葉服を着た若い人――ちょうど、ぼくの父さんと同い年くらいの――で、右足が悪いらしくて、松葉杖をついていた。
爺さんの墓に向かって涙しながら、こんな風につぶやいていた。
「昨日戦地から帰りました。戦争は、まだ終わりません。母さんを奪ったのは、敵の誰でもなく戦争そのものだったことを、今になって知りました。」


君は今でも覚えているだろうかい。カルロス爺さんのこと。
あゝ、あれは、みんな、もう今から十年も昔のことだ。
そして、ぼくはもう二十歳(はたち)。
ぼくは今、とっても寂しいけれど、なんだか快い。
爺さんの教訓は、ぼくには難しすぎた。
学生時代を通して、ぼくは全くの逡巡者だった。いつもしりごみばかりして、できるなら、何事もなくあれかしという風だった。だからぼくは、いつでも易きを取るという卑屈な手段を取った。そんな自分を嫌悪しながらも。
なにしろ、ぼくには、何をしたらいいのかということさえわからなかった。
爺さんは、神と己をけがす敵と戦えと言った。
少年時代、ぼくは確かに戦った。体中をキリキリ尖らして、ぼくに近づく誰彼かまわず戦った。ある時は、それは親であり、幼友達であり、先生であったりもした。そのような戦いは、いつも必ず他愛なく始まり、そして必ず気まずく終結するのだった。
「独善」・・・いつでもそうだった。おまえが敵だとして戦った相手は果たしておまえの敵だったのか。そうではなくて、むしろおまえを愛してくれてさえいる味方ではなかったのかしら。――いつでも、ぼくの独りずもうだった。
ぼくには全くわからなくなっていた。果たして、敵とは、本当の敵とは、一体何なのだろうか。
それでもまだ、ぼくはしばしば戦った。そしていつも、あとに残るのは、やりきれない後悔だけだった。果たしてそれが、おまえがそれほどまでに武装して戦わねばならぬ敵だったのか、と。
そのうち、ぼくは、戦えば戦うほど一人っきりになっていく自分に気づいた。寂しかった。楽しそうに談笑している友人達を羨望した。
そんなわけで、ぼくは、しだいにあの屈辱的な処世法を身につけていた。 できれば争わずにすます――協調・・・とんだ道化だったが、浮かれて騒ぐことは楽しかった。
ぼくは信じ始めていた。人には敵などありはしないのだ。 誰だってみんな仲間なんだ。小作人の息子と大地主の息子だって、日雇い労務者のせがれと工場主の子供だって、資本家の御曹司だって、みんな仲間だ。同じグラスでワインをあおり、女の話をする。みんな仲間だ。
この考えは、ぼくをうっとりさせた。しかし、その時のぼくは、大切なことを忘れていた。
そう。自分を圧し殺してえた強調は、決して真の平和には結びつかない。そしてまた、自分を主張して、自己を思い切り生かして、誰もが互いを尊敬し合うことができて初めて、神の望んでいらっしゃる「平等」が生まれるのだとは気づかずにいた。
しかし、とにかく、そんな風にして、ぼくは学生時代を何をするのでもなく、のんびりと過ごしていた。
だが、そのような退廃的な享楽に溺れていても、ぼくは何だか物足りなさを感じずにはいられなかった。聞き苦しい焦燥感さえ感じていた。
所詮、いつわりののどけさは、いつまでも続きはしなかった。終局は、当然予期されるべき方法で訪れた。ぼくだって予期せぬわけではなかったが、忘れていたかった。
――徴兵・・・・
つづく

今日は診療予約日。まず胸部のCTを撮って、受診。
予約時刻を過ぎても、なかなかお呼びがないと、画像診断に何か手間取っているのではないか、治療方針の見直し検討に時間がかかっているのじゃないか、などなど、あらぬ思いがふつふつと沸いて落ち着かない。
たまたま、昨日は、今年度退職予定の十数人の方々を前に、近況を話す機会があった。その大部分を、「病気自慢」に費やしたが、脳動脈瘤と肺腺癌という相次いで経験した「大患」を、平常心で切り抜けたかに振る舞ったけれど、なぜか、終わったあとの消耗感が拭えない。
考えてみると、実際の所、ここ何ヶ月かの日常生活の中で、人と接することだけでも思わぬエネルギーを要するのに、昨日は、無意識のうちにも「元気」を演じて人を「元気づける」ベクトルが働いたらしく、それは自己の「自然」にそぐわない、キャパシティ以上の負荷を加えたものらしい。それと、何を話したか話の中身は正確に思い出せないが、言わずもがなの放言を羞じる気持ちが、後味悪く、澱のようにまといつく。
そんなビミョーな心境で、診察を待ちながら、こんな句を戯れてみた。
俎(まないた)の鯉も心は揺れざらん

結局、診察は経過順調ということであっさりとすみ、CT検査の余禄として「脂肪肝」が指摘されたというオチで、お後がよろしいようで。

「脂肪肝」解消も目指して、午後、深山公園を歩く。
メジロ、シジュウカラ、アオジといったところを見かけたが、撮影はできず。
帰り際、夕暮れ近き「赤松池」の鴨たちを記念撮影して満足して帰る。

 
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