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「沖縄慰霊の日」にグスコーブドリを思う、の巻(2) [今日の暦]

先日、NHKの早朝ラジオ番組「ラジオ深夜便」で聴いた、仲代達矢が読む(演じる)宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」について、触れてみたいと思っていました。

昨日の沖縄慰霊の日に朗読された相良倫子さん(今年)、安里有生君(5年前)の詩が、連想を呼びました。

「グスコーブドリの伝記」は、過去の記事でも、話題にしたことがあります。

イーハトーブのパクリです、の巻。

先日のこの記事に、momotaro様からありがたいコメントをいただきました。
 こちらをお訪ねするといつも驚きます。多様な生物に溢れているので。
海辺で山があるからなのでしょうが、まるで別世界です。
ふと、ナードサークとはどういう意味なのかなぁと思って検索してみました。するとずらっとこのブログ関連のことが出てきました。ということは、これは一般用語ではないのでしょうか。宮沢賢治の小説に出てきそうですが…
機会がありましたら教えてください、恥ずかしながらお尋ねします!

わたしの思わせぶりなブログタイトル「ナードサークの四季」の名づけに関して、興味を持っていただき、検索までしていただいたとのこと。恐縮至極です。
取り急ぎ、以下のコメントをお返ししましたが、あるいは、ほかの読者の方にも同様お手数をおかけするかも知れないと思い、再掲することにします。
> 多様な生物に溢れている
コメントいただいて、改めて思い至りました。日頃は有り難みに気づきませんが、ほとんど近隣エリアで、あれこれの生き物に会えるのは幸せなことです。
> ナードサークとは
お手間を取らせて申し訳ないです。全くのでっち上げの造語ですm(_ _)m ゴメンナサイ
ご推察の通り、宮沢賢治が岩手をモチーフに「イーハトーブ(イーハトヴォ)」という理想郷を想い描いたのにあやかって、わが居住地の地名をもじってみました。2003年頃から数年間、見よう見まねで作って遊んでいたホームページに、「ナートサークの四季」と名づけた写真コーナーを置いたのが始まりです。その後、「平成の大合併」のあおりで、もとの地名は消滅してしまいましたが、、、。
> 恥ずかしながらお尋ねします!
恥ずかしながらお答えしました(汗) 

上述のホームページ(現在は存在しません)には、宮沢賢治の作品「グスコーブドリの伝記」に関する紹介文を、載せていました。以前、高校生向けに書いたものをもとにしています。参考までに再掲させていただきます。

 
宮沢賢治というと、「注文の多い料理店」だとか、「風の又三郎」だとかの沢山の童話を思い出す人も多いだろう。また、彼の死後、発見された手帳にメモ書きしてあったという、次の詩も有名だろう。 
雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ怒ラズ/(中略)/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/東ニビョウキノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイイトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ/ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズクニモサレズ/サウイウモノニワタシハナリタイ
 この詩は、あの侵略戦争のさなか、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンとともに、国民全体に犠牲と我慢を強要した戦争推進勢力によって、もてはやされ、利用されたが、それは、賢治の本意とは正反対のものだった。賢治は、「憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(烏の北斗七星)と考える人であって、戦争遂行のために、欲のない柔順な「デクノボー」であれと説教を垂れるような人間ではなかった。
 賢治のふるさと岩手は、北海道を除くと日本一の面積をもちながら、畑や田圃にできる土地は少なかった。山林が多く、それも大半が国家と皇室の所有だった。農家の平均耕地は50アール以下。農家でありながら米が食えず、生まれた赤子を“間引き”したり、娘を身売りする例も少なくなかった。
しかも、稲が実らぬ「寒い夏」が、たびたび発生し、数年に一度の割合で凶作に見舞われた。
 賢治は、この貧しい農村で、質屋と古物業を営む資産家の長男として生まれた。賢治が、物事をつきつめて考えず、与えられた地位に安住する人間であったなら、富裕な旦那衆のひとりとして悠々と人生をエンジョイすることができたかもしれない。しかし、彼の知性と人生にたいするきまじめさは、貧しい農民の犠牲のうえに成り立っている宮沢一家の繁栄に無批判ではいられない。
 父親と対立しながら、みずからの意志で盛岡高等農林学校(今の岩手大学農学部)に主席入学し、科学的農業のありかたを学んだ彼は、助教授としての研究生活への薦めを断って、貧しい東北農民の幸福のために身を捧げる道を選ぶ。彼をつき動かしたものとして、熱心な仏教徒としての信仰心が指摘されるが、その背後には東北農民の貧困という現実への憤りと農民への共感があった。
 賢治は、その童話のなかで、岩手をイーハトーブ、盛岡をマリオ、仙台をセンダートなどと呼び、独特の世界を作り上げた。グスコーブドリは、イーハトーブの木こりの子どもで、ネリという妹がいた。ところが飢饉になって、ブドリの父も母も、子のために、自分たちは食物をとらず、森の中に姿をかくして死んでしまう。妹のネリも知らない男に連れ去られ、行方不明になる。
 残されたブドリは、大人たちにだまされたり脅されたりしながら成人し、クーボー大博士の信頼を得て火山局に努めることになる。老ペンネン技師に学んだ彼は、電気で肥料とともに雨を降らせるなど、農業の発展に貢献する。行方不明のネリとも再会でき、楽しい日々が訪れる。
しかし、ブドリが27歳のとき、またあの恐ろしい寒波がやってくるとの予報が出た。火山島を爆発させれば、空中の炭酸ガスが増え、気温を高めることができると、彼は提案する。しかし、そのためには最後の一人が島に残らねばならない。その役を買って出たブドリにクーボー博士は言う。
 「それはいけない。君はまだ若いし、いまの君の仕事にかわれるものはそういない。」 「私のようなものは。これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから」
63歳のペンネン技師が「僕がやろう」というのをふりきり、火山を爆発させて、ブドリは死ぬ。童話は、「そして、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で、楽しく暮らすことができたのでした」と結ばれる。
 賢治は、花巻農学校の教師として、数学・農業・化学・英語・気象・稲作実習など、国語以外のすべてを教え、農村青年と生活をともにした。彼は、単に授業をするだけでなく、よい音楽を聞かせ、西洋美術の複製を見せ、自分で作詞作曲したミュージカルをやらせたりもした。農業実習が終わると、川に行って泳ぐ、泳ぎ疲れると、賢治を囲んで、みんなが話を聞く。石や鉱物や、地質学や、鮎や魚の話。
 そんなとき、賢治は突然言った。「人間はなぜこの世に生まれたか?」
「私はこの問題を、こんな風に考えています。人間はなぜ生きるかということを知らなければならないために、この世に生まれてきたのです。そして、この問題を本気になって考えるか考えぬかによって、その人の生存価値が決定すると思います」
 賢治は、「わたくしにとって、実に愉快な明るいものでありました」という4年4カ月の教師生活に、別れを告げる。農学校に来れるのは、農民と言っても比較的裕福な自作農の子弟だ。大多数の農民は、無知のまま、貧困のまま放置されている。農業学校だけでは、この貧しい農村を豊かにできない。農民が百姓仕事を
しながら、芸術をも楽しむゆとりを持つにはどうすればよいのか。
 賢治は、自分自身農業に専念しながら、近在の農民に、肥料や稲作について無料で
指導する毎日を送ることになる。金持ちの息子の道楽と思われることを嫌った彼は、仕事に出るのはだれよりも早く、また、一人でもたの農民が残っていれば、その人が帰るまで、仕事をやめなかった。個々の農民の相談に応じて、2000枚もの肥料設計を書いてやった。菜食中心の粗食に耐え、時にはトマトを何個かかじるだけの日もあった。ついに、過労のため、結核になる。しかし、少し調子がよいと、畑仕事をしたり、農民の相談にのったりするから病気は治らない。
 一九三三年九月、急性肺炎の高熱をおして、板の間に正座して長時間の相談に応じたのがもとで、病状悪化し、生命を閉じる。三七歳だった。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)ー---賢治の信念であり、自らに課した戒めでもあった。
参考:戸石泰一エッセイ集「愛と真実」、吉村英夫「ワクワク近代文学八話」


上の紹介文は、それなりに要点を押さえているとは思います。それ故、敢えて再掲させてもいただいたわけですが、ラジオ深夜便での仲代さんの読みを聞いて、自分のこれまでの読解がいかに浅く表面的だったかを、いたく感じさせられました。
何しろ、作品の冒頭部分からして、牧歌的で懐かしい、幸せなりし幼時を描いた場面として、それなりの印象を持っては読んだのですが、仲代さんの読みは、まったき宇宙としての森の豊饒さと、そこに暮らすブドリの家族の、生命の喜びに満ちた日々を活き活きとイメージさせるものでした。ああ、そのゆえにこそ、抗うことのできない飢饉のむごさ、一家離散の無惨、自然の猛威による蹂躙への無念さが際立つのだと、改めて感じました。かけがえのない大切なものが、眩しいほどのかがやきをもって描かれてこそ、ブドリの身を捨てての献身の意味が薄っぺらなものでなくなるのです。

一 森
 グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。おとうさんは、グスコーナドリという名高い木こりで、どんな大きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるようにわけなく切ってしまう人でした。
 ブドリにはネリという妹があって、二人は毎日森で遊びました。ごしっごしっとおとうさんの木を挽ひく音が、やっと聞こえるくらいな遠くへも行きました。二人はそこで木いちごの実をとってわき水につけたり、空を向いてかわるがわる山鳩の鳴くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、ぽう、と鳥が眠そうに鳴き出すのでした。
 おかあさんが、家の前の小さな畑に麦を播いているときは、二人はみちにむしろをしいてすわって、ブリキかんで蘭の花を煮たりしました。するとこんどは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上を、まるで挨拶するように鳴きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。
 ブドリが学校へ行くようになりますと、森はひるの間たいへんさびしくなりました。そのかわりひるすぎには、ブドリはネリといっしょに、森じゅうの木の幹に、赤い粘土や消し炭で、木の名を書いてあるいたり、高く歌ったりしました。
 ホップのつるが、両方からのびて、門のようになっている白樺しらかばの木には、
「カッコウドリ、トオルベカラズ」と書いたりもしました。

前掲の紹介文で、私が「ところが飢饉になって、ブドリの父も母も、子のために、自分たちは食物をとらず、森の中に姿をかくして死んでしまう。妹のネリも知らない男に連れ去られ、行方不明になる。」とあっさり書いた内容は、決して外れてはいないでしょうが、仲代さんの朗読は、重さ、むごさに胸をかきむしられる思いを募らせる迫真性でした。

記事をここでいったん中断し、続きは次回に譲ります。



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「沖縄慰霊の日」にグスコーブドリを思う、の巻 [今日の暦]

今日は戦後73年目の「沖縄慰霊の日」。
過去にもこんな記事を書きましたが、今日もまた思いは同じで、同工異曲の記事になりそうです。

沖縄慰霊の日に思う


沖縄慰霊の日に思い出すこと。


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その2)


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3)


沖縄慰霊の日に思い出すこと(その4 最終回)

今日の「毎日新聞web版」は,こんな記事を伝えています。

追悼式では、沖縄県浦添市立港川中学3年の相良倫子(さがらりんこ)さん(14)が、自作の平和の詩「生きる」を朗読した。沖縄戦を生き抜いた曽祖母の体験を聞き、「平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きること」と考えた。生まれ育ったこの美しい島から伝えたい。「鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく」
相良さんの詩は県平和祈念資料館が募った「平和の詩」971点の中から選ばれた。
 うるま市に住む94歳の曽祖母は戦前から理容店で働き、地上戦を体験。友人が目の前で被弾して命を落としたことや家族と離ればなれになった話を聞き、相良さんは「戦争の残酷さを感じた。曽祖母の存在から平和や戦争について考える機会が増えた」と振り返る。
 5月に曽祖母が入院したことで、「生きる」を詩のテーマに決めた。「優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた」「青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった」。作品では「戦争の残酷さがより伝わる」と美しい島の現在の情景と73年前の戦場を対比的に描いた。
 「戦争は人を鬼に変えてしまうから絶対してはいけない」と教えてくれた曽祖母。「この詩が一人でも多くの人に平和や戦争について考えるきっかけになってほしい」と願う。「一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり、未来は、今なんだ」【佐野格】

また、同じく今日の「朝日新聞web版」は、相良さんの詩の全文を掲載しています。長い詩ですが引用させていただきます。

私は、生きている。/マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、/心地よい湿気を孕(はら)んだ風を全身に受け、/草の匂いを鼻孔に感じ、/遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
私は今、生きている。
私の生きるこの島は、/何と美しい島だろう。/青く輝く海、/岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、/山羊(やぎ)の嘶(いなな)き、/小川のせせらぎ、/畑に続く小道、/萌(も)え出づる山の緑、/優しい三線の響き、/照りつける太陽の光。
私はなんと美しい島に、/生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、/島を感じる。心がじわりと熱くなる。
私はこの瞬間を、生きている。
この瞬間の素晴らしさが/この瞬間の愛(いと)おしさが/今と言う安らぎとなり/私の中に広がりゆく。
たまらなく込み上げるこの気持ちを/どう表現しよう。/大切な今よ/かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
七十三年前、/私の愛する島が、死の島と化したあの日。/小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。/優しく響く三線は、爆撃の轟(とどろき)に消えた。/青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。/草の匂いは死臭で濁り、/光り輝いていた海の水面は、/戦艦で埋め尽くされた。/火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、/燃えつくされた民家、火薬の匂い。/着弾に揺れる大地。血に染まった海。/魑魅魍魎(ちみもうりょう)の如(ごと)く、姿を変えた人々。/阿鼻叫喚(あびきょうかん)の壮絶な戦の記憶。
みんな、生きていたのだ。/私と何も変わらない、/懸命に生きる命だったのだ。/彼らの人生を、それぞれの未来を。/疑うことなく、思い描いていたんだ。/家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。/仕事があった。生きがいがあった。/日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。/それなのに。/壊されて、奪われた。/生きた時代が違う。ただ、それだけで。/無辜(むこ)の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。/悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。/私は手を強く握り、誓う。/奪われた命に想(おも)いを馳(は)せて、/心から、誓う。
私が生きている限り、/こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。/もう二度と過去を未来にしないこと。/全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。/生きる事、命を大切にできることを、/誰からも侵されない世界を創ること。/平和を創造する努力を、厭(いと)わないことを。
あなたも、感じるだろう。/この島の美しさを。/あなたも、知っているだろう。/この島の悲しみを。/そして、あなたも、/私と同じこの瞬間(とき)を/一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。
だから、きっとわかるはずなんだ。/戦争の無意味さを。本当の平和を。/頭じゃなくて、その心で。/戦力という愚かな力を持つことで、/得られる平和など、本当は無いことを。/平和とは、あたり前に生きること。/その命を精一杯(いっぱい)輝かせて生きることだということを。
私は、今を生きている。/みんなと一緒に。/そして、これからも生きていく。/一日一日を大切に。/平和を想(おも)って。平和を祈って。/なぜなら、未来は、/この瞬間の延長線上にあるからだ。/つまり、未来は、今なんだ。
大好きな、私の島。/誇り高き、みんなの島。/そして、この島に生きる、すべての命。/私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
これからも、共に生きてゆこう。/この青に囲まれた美しい故郷から。/真の平和を発信しよう。/一人一人が立ち上がって、/みんなで未来を歩んでいこう。
摩文仁の丘の風に吹かれ、/私の命が鳴っている。/過去と現在、未来の共鳴。/鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。/命よ響け。生きゆく未来に。/私は今を、生きていく。

この詩を読む前に,私は今日のブログ記事をこう書き起こそうとしていました。
今朝(6/23)の地元紙「山陽新聞」のコラムに、こんな詩が紹介されていました。

おともだちとなかよし
かぞくが、げんき
えがおであそぶ。
ねこがわらう。
おなかがいっぱい
ヤギがのんびりあるいている

コラムはこう続きます。

沖縄全戦没者追悼式で5年前、作者の安里有生君が朗読した詩「へいわってすてきだね」だ。純粋で真っすぐなことばは、人気絵本作家の長谷川義史さんにも響き、絵本になった。(中略)▼世界に目を転じると,笑顔で遊べず、おなかをすかせた子どもたちがまだまだいる。冒頭の詩はこう結ぶ。「へいわがつづくようにぼくも、ぼくのできることからがんばるよ」。まずは大人が頑張らねば。

6歳(当時)の少年の思いと、14歳の少女の思いの切実さが、等しく胸を打ちます。平和とは、平和の願いとは、決して抽象的な飾り文句ではなく、子どもたちがその手で掴み、五感で感じ取ることのできる、具体的でシンプルな実体でなければなりません。「平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きること」けだし至言です。

以下、次回に続きます。



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