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切り抜き帳を引っ張り出してみました、の巻 [私の切り抜き帳]

隣に座っておられた元小学校教師のA女史と、講演の感想を二言三言言い合いました。


これまでうすうす感じていたこと、これこれだろうと考えていたこと、言ってきたことが、改めてスッキリ整理され、小気味よいほどにズバリと解明されたという感じが、共通していたようでした。


そう言えば、昔こんな資料を作ったことがありました(1997/7/27)


。一部抜粋。


Ⅰ.子どもをどうとらえるか

1.(前略)

*今日の高校生の一般的特徴(問題点を中心に)

① 自立の遅れと自己充実感の希薄さ

生活経験の不足、人間関係の希薄化による発達課題の未達成が要因で無気力・無関心・意欲的な生活態度の欠如が見られる。このような生徒は自主的な行動への要求が弱く、集団の一員として自立的に行動し、自ら問題を解決する能力に乏しい。

② 学校への不適応

進学競争の過熱する現状にあって高校に入学する少なくない生徒が不本意入学の状態にあり、入学当初から学校の生活に違和感を持っている。本人の個性や能力・進路の希望に基づくことなく、学力等の理由だけで必ずしも希望しない高校や学科に入学した生徒は、学校での学習内容に興味をもつことができず、また、高校に学ぶ誇りを持ち得ないということが起こりうる。

③ 学習に興味を示さない生徒

学習内容が理解できない、教材等に興味がもてない、自分の個性や能力が十分に発揮できないなどの理由から学習に意欲を示さない生徒や授業についていけない生徒が増えている。

④幼さ(幼さ 石田一宏 精神科医)

現在の高校生の問題性は、環境が変わればよくなるという単純なものではない。子供時代の脳の発達、その複雑な表現としての「心」の発達という面から言えば、高校生の脳や「心」は、すでに乳幼児期から学童期を経た発達のプロセスの十数年の進行の結果なのである。「幼い高校生」は、やはり過去の発達の結果として「幼い」のである。教師は「幼い」という現実をふまえて、高校生の今の環境との関わりを分析し、そこでの自己変革を期待するしかない。

2.からだのおかしさ(竹内常一「日本の学校のゆくえ」太郎次郎社 第二章を中心に)

*「最近ふえているからだのおかしさ」日本体育大学体育研究所調査(1984年)

 

1978年

1984年

1.アレルギー

26%

77.0%

2.背中ぐにゃ

44%

75.7%

3.すぐ「疲れた」という

資料なし

73.3%

4.朝からあくび

31%

62.4%

5.転んでも手が出ない

20%

59.9%

6.腹痛・頭痛

資料なし

57.7%

7.ボールが目に当たる

9%

59.2%

・小学校 ①朝からあくび。②背中ぐにゃ。③アレルギーが増えている。

・中学校 ①朝からあくび。②朝礼でバタン。③貧血。④アレルギー。⑤腰痛。

・高校 ①貧血。②腰痛。③高血圧。④心臓病。(成人病が早くなった感じ)

最近の子どもは、体力的には、背筋力を除いて向上してきているし、病気も少ない。しかし、つかれやすい。これは、脳に問題があるのではないか。----①前頭葉(意志、感情をつかさどる)の働きの強さが出てくるのが遅れている。②血圧の調整機能(脳幹の中枢あたりにある)が発達していない子どもが増えているのではないか.---(正木武雄氏)

3.保健室を訪れる子どもの激増

(中略)

*背後に進行するもの

①自律神経系の未成熟または失調

②アレルギー疾患の激増

③心身症・神経症的傾向のひろがり

【① 自律神経系の未成熟】

正木健雄氏の指摘 背中ぐにゃの主因 背筋力の低下とともに自律神経の未成熟。

調査方法 臥位姿勢から急に座位姿勢になるときの血圧調節機能を調べる

1956年調査 血圧調節不調群は、ギャング・エイジの小学校高学年に激減。その後、思春期に一時増加するものの、14歳を境に減少。17~18歳では、大人の数値に接近。

1984年調査 小四まで増加し続け、小五でわずかに減少。かつてのギャングエイジに激減しない。さらに、小六には増加に転じ、一四歳を過ぎても減少しない。17~18歳でも60パーセントの高水準。

[自律神経系] 血圧調節のみならず、呼吸・循環・消化・吸収・生殖などの植物的機能に働き、運動・知覚などの動物的機能を支える。内分泌系ならびに免疫系とともに、人間の防衛体力・自然治癒力を構成している。

自律神経系は、これまでは、自然に成熟するものであって、特別に発達させる必要のあるものとは見なされなかった。(中略)(それが、)自然に成熟しないために、自律神経系によって媒介されているからだと心のあらゆる面において異変が噴き出してきている信之である。そしてそれが、自律神経失調症候群の激発といってもよい状況を今日の子どもの中につくりだしている。

このために、自律神経系の成熟を前提にしているはずの学校教育そのものが、子どものおかしな行動に大きく揺さぶられている。ところが、学校は、このような子どもたちの問題事態を視野に入れないで、権威的・競争的な秩序を子どもにおしつけ続けているために、子どもたちのからだと心の異変が増幅している。その結果、教師と子どものトラブルが広がり、子どもが保健室にかけこむほかないという事態になっている。

【② 急増するアレルギー疾患】

(中略)

・腹痛、吐き気、下痢・便秘、疲れやすい、肩こり、頭痛、咽喉痛、たちくらみ等の愁訴も、アレルギーや、アレルギー緊張・弛緩症候群から生じている可能性がある。

[アレルギー緊張・弛緩症候群]

緊張症状----「じっとしていられない、からだをゆったりできない、びんぼうゆすり、興奮しやすい、イライラする、怒りっぽい、乱暴な行動、衝動的な行動、集中時間が短い、音・温度・光・臭い・接触などに過敏、知覚・味覚・臭覚の異常」など。

弛緩症状----「だるい、疲れやすい、無気力、あくびが多い、いつも眠い、不活発、不精、のろま、難聴、よく眠った後でかえって疲れを感じる」など。

随伴症状----「顔色不良、眼の下のクマ・シワ、腫れぼったい眼瞼、鼻汁・鼻閉、口角炎、口唇の亀裂・腫脹、湿疹、気管支喘息、著明な発汗、頭痛、嘔吐、腹痛、便秘・下痢、夜尿・頻尿、下肢痛、乗り物酔い」など。

まれな精神神経異常と行動異常----「非現実的な考え方、説明のつかない奇妙な行動、誇大妄想・虚言・不眠、チック、学業成績の低下、登校拒否」など。

・アレルギー疾患の子どもの1割が、アレルギー緊張・弛緩症候群。

・近年、ギャングエイジにアレルギー疾患から解放される傾向が著しく弱まり、アレルギー疾患が症状を変えていつまでも続くアレルギー・マーチの傾向顕著。

【③ からだと心の自己防衛としての心身症・神経症】

*「子ども白書」1991年版

精神症状---不安・強迫

身体症状---夜尿・チック・痛み・嘔吐

行動面------不登校、家庭内暴力、夜驚、夢中遊行、緘黙、吃音 などが多い。

*山中康裕「心にエネルギーが注がれないと、人間は生ききれないし、死にきれない」

(「ひと」1992.4月号)

行動化---衝動的暴力など

身体化---身体症状として現れる

内閉化---ひきこもりなど

強迫化---手洗い強迫など

→心が不安によって悩まなくなり、悩めなくなっている。

・これらの症状の「症状連合」、「症状移動」の傾向も強まっている。

4. 子どもに何がおこっているか

*人間存在

①大脳皮質と大脳辺縁部(古い皮質)との関連構造。

②脳幹部と自律神経系・内分泌系・免疫系からなる関連構造。

①と②は、大脳辺縁部と脳幹部によって連結されている。

第1-あまりにも人工的・文化的な環境とギャング・エイジの消滅のために②が成熟していない。→ホメオスターシス(生体が環境への対応や生命維持のために営む動的な平衡状態)の混乱。→①の混乱→諸症状

第2-アレルギーが、人間存在の基層である②を侵し、自律神経系のセンサーである皮膚に症状が現れる。

第3-今日の子育て・教育・生活システムと人間関係の全体が、自我と衝動・情動との、言い換えれば、大脳新皮質と大脳辺縁部との分化と統一を妨げている。→人間的な感情の座としての前頭葉の発達不全と人間存在の基礎である脳幹部と自律神経系・免疫系・内分泌系のトラブルを生み出す。


「何か変」と感じながら、その正体が掴みかねていた子どもたちの心とからだの状況に直面して、どうにかしてその実体と原因、打開の道を探りたいと、専門外の知見をやみくもに漁りながら、こんな書き抜きもしていました(1998年夏)


[資料1]教育をめぐる三つの困難状況

(久富善之「『参加・自治』時代の学校づくりへの希望」---「高校のひろば」27より)

① 教育の目的的存在である子ども・青年の間に、小学校からそして中・高では殺傷事件にもつながっているような「新しい荒れ」のひろがりと、中学や特に高校で目立つ「浮遊化(家族的・学校秩序から離れて、消費的情報文化風俗のフロンティアに係留なく泳ぎ出ているかに見える現象)とがある点。→子ども・青年がおとなからの「教育的働きかけを拒否し、そこで伝達しようとしている知識・規範・価値を拒絶しているかのように見える。→大人と子ども・青年とのあいだの世代的な「形成・教育関係」のそもそもの成立を、家族でも学校でもそして地域や全体社会でも困難にしている。

② 「新自由主義」を主調とする「教育改革」が上から急テンポで展開・進行している→困難に本当に責任ある者たちが「現実への批判者」を装うという転倒した構図の中で、公的教育保障のレベルダウンが進んでいくという事態が生じている。

③ 教師の疲労、心身症、バーンアウト現職死亡などが広がって、日本の学校教師の仕事・働きがい・アイデンティティを支えてきた歴史的諸条件の衰退・崩壊がそこに感じられる。

←→「参加・自治」というキイワードに収斂するような動きが下からいっせいに強まりつつあるように思える。

[資料2]新しい「荒れ」

(1)突然「キレル」子

子どもの心の奥底には(社説) 「朝日」 98.01.30 朝刊

わたくしたち大人は、なにかとてつもなく大きなものを見落としているのではないだろうか。いや、見ようとしていない、といった方がいいのかもしれない。

栃木県の中学校で、十三歳の一年生が女性教諭をナイフで刺した事件のことだ。

亡くなった教諭は明るく、生徒たちから慕われていた。授業に遅れてくる生徒を問いただすのは、教師として当然だろう。

一方の少年は、これまで大きな問題を起こしたこともないし、その恐れがあるとも周囲からは見られていなかった。いってみれば普通の生徒である。

その少年が、注意を受けたことをきっかけに、突然、我を失って激高した。いま風にいえばキレたのだ。

「普通の子」が突然「キレる」という現象は、いま学校や家庭で深刻な問題になっている。

今回の事件ほどではないにしても、ものを壊したり、教師や友人に暴力を振るったりする中学での「校内暴力」は昨年灯N前のざっと二・五倍に達した。

子どもたちは荒れている。これを教育関係者は「新しい荒れ」という。一九八〇年代の「荒れ」と区別する呼び方だ。

八〇年代の「荒れ」には、学校や特定の教師への反感という理由がある程度まで見えていた。だが、「新しい荒れ」は、向かう対象が定まっていないのだという。

それは「イライラする」「むかつく」といった言葉に象徴される。たとえば教師に注意されたから、などというきっかけはあっても、なぜ、それほどむかつくのかは子どもたち自身にもわからない。

さまざまな分析はある。自分で選んで行動する機会を大人に奪われている。自分らしさを生かしにくい学校と社会なのに、自分らしさを求められる。情報化社会の現実と学校内の価値観との落差、などなど。

どれも、はずれてはいまい。だが、多くの教師は決め手となる処方せんのないことに苦しんでいる。いわゆる熱血先生に対しては、存在そのものにむかつくという子も少なくない。根は限りなく深い。

それにしても、なぜ教師を刺すまでに至ったのか。少年の奥底になにがあったのか、いまはまだわからない。「新しい荒れ」と共通するものがあるのかどうか。

結論を急ぐまい。取り繕うだけの対策は事態をこじれさせかねない。

子どもたちが何にむかついているのか。教師でも親でもいい。大人がひとりの人間としてきちんと向き合わなければ、見えないものがあるにちがいない。

自分を十分表現できることばを、まだ持ち合わせていない年ごろだ。その心を理解する責務は、大人の側にある。

【資料3】「新しい荒れ」の3つの特徴

すぐカッとなって暴力を振るう

今の子どもたちは、小さいときからできる・できないにものすごくこだわっています。授業で水泳が始まると「ボク泳げないからプールに入らない」という子や「走るの苦手だから走らない」という子など小学校低学年では当たり前の状況です。いやそればかりか幼稚園や保育園ですでに同じことが起こっています。これをどう考えたらいいのでしょうか。

考えられることは、自分以外を敵と見る「敵対的能力主義競争」が幼児期からインプットされてしまっているということです。ですから子どもの行動原理は「やりたい・やりたくない」ではなく「できるか・できないか」なのです。自分ができないことをやるのは自己否定そのものなのです。その苦悩を理解せずに、単にわがままと見て「指導」しようとすれば拒否されて当然な訳です。敵対的能力主義にとらわれた子どもにとって他者は敵な訳ですから、些細なことでも自分を否定されたと感じて攻撃的になるのです。すぐ暴力をふるう子の理屈からしたら正当防衛なのです。

そして敵対的能力主義へのとらわれはストレスとなります。ストレスはやがて爆発します。その爆発が自分に向かえば自傷行為となり、他者に向かえばいじめや暴力行為となるのです。ですからカッとなって暴力をふるう行為は、このように二重の意味を持っているといえるでしょう。指導とは、この苦悩に共感し、共に歩むことなのです。

②学級崩壊や学年崩壊・学校崩壊

ある中学校のできごと—この学年では「万引きしない者は人にあらず」の状態だったのです。ですから友だちに「万引きしようぜ」と誘われれば、友だち関係を壊したくないために万引きをするのです。「万引きなんかするなよ」と忠告すればそれで友だちを失うのですから止めることもできません。—このように子どもたちの関係は地から(権力)関係が支配しているので、道徳や法や正義をいくら教師が説いても馬の耳に念仏となってしまうのです。

③何でもあり状況

ツッパリらしいツッパリがいなくなり、いわゆるツッパリは学校にこなくなっています。そして学校外で事件を起こすのです。学校間抗争、テレクラ、援助交際、覚醒剤、放火とエスカレート---。

「茶髪のどこがいけないの?」と問われたらどう答えますか?「私服で登校がどうしていけないの?」と聞かれたら、どう答えますか。「援助交際のどこがいけないの?」と問いつめられたらどう答えますか?「校則で決まっているから」程度の答えだと無視されるか、「誰にも迷惑をかけていないんだから、別にかまわない、」と反論されて終わりでしょう。

どうにも難しい時代になったものです。つまり難しいのは正邪や善悪の判断基準があいまいになってきているからです。

メガコンペティション(大競争)時代 → 小さな政府・地方分権・規制緩和=国民サービスの切り捨て=自己選択・自己責任→ 「規制緩和」は社会生活のすべてにわたり、モラルの崩壊へ → 何でもあり状況

「何でもあり」状況は「規制緩和」という企業イデオロギーの反映ですから、子どもたちの起こす問題状況に対してはイデオロギーの闘いという厄介な側面を強く持っているのです。

そうだとすると個々の問題に対して私たち教師はひとりひとりの子どもにも、子ども集団にも、「なぜなの?」と問いかけて問題の意味を子どもとともに読み開き、「なんのためなの?」と問いかけて問題の意義を明らかにしていく指導が求められているのです。(埼教組生活指導研究委員会「子ども・学校の新たな『荒れ』にどう切り込むか」---埼玉教育新聞1月23日付号外より)


こんな頃、先日の野井講演に出会えていたら、もっと容易に、解決の糸口を得る事ができていたろうに思われますが、それはないものねだりというものでしょう。何しろ、1968年生まれの野井先生、この頃はまだ30歳前で、大学院博士課程に学んでおられた時期だったでしょうから。


ただ、上の引用にも登場する故正木健雄先生のお弟子さんだそうですから、脈々と繋がる学問の系譜、研究の継承、真理探究の醍醐味のようなものを、しみじみ感じながら講演をお聴きしたことでした。


なかなか散歩に出られません。


鉢植えのパンジーとビオラ。孫の要望で、百均で、よりどり2袋百円で買った種が、花を咲かせました。


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これは、鉢植えのトマトの花。


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庭のヘビイチゴ。


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今日はこれにて。


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