散歩道のメジロ [獺祭魚]
カワウソが捕らえた獲物を岩の上に並べて祭を催す故事に倣って、撮りためた写真を並べて、ひとり楽しもうというコーナーです。
今日は、ストック写真の中から、散歩道のメジロをご紹介します。
今年はメジロに会う機会が多いように思います。ありふれた鳥ですが、仕草も表情も愛らしい鳥です。
児島湖のカンムリカイツブリ [獺祭魚]
カワウソが捕らえた獲物を岩の上に並べて祭を催す故事に倣って、撮りためた写真を並べて、ひとり楽しもうというコーナーです。
今日も出勤日でしたので、時間にゆとりがありません。
ストック写真の中から、児島湖のカンムリカイツブリをご紹介します。
児島湖のキンクロハジロ [獺祭魚]
堤防の小鳥 [獺祭魚]
今日の題材は、堤防のコンクリートの上の小鳥。
アオジ
12月の深山公園の小鳥(総集編) [獺祭魚]
カワウソが、捕らえた獲物を岩の上に並べて祭を催す故事にあやかって、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。
ところで、おとといの「これなあに?」については、早速に先輩方からご教示いただき、ありがとうございました。
その2は、ミヤマホオジロ。
12月の深山公園の鴨 [獺祭魚]
年の瀬も押し迫って参りました。
今日は一日所用があって、散歩と撮影出来ませんでしたので、ストック画像をアップします。
カワウソが、捕らえた獲物を岩の上に並べて祭を催す故事にあやかって、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。
深山公園の鴨、大勢やってきています。
すぐ目の前まで近寄ってくれますので、いずれもノートリミングで十分です。
コガモの家族?
12月のジョウビタキ [獺祭魚]
カワウソが捕った獲物を岩に並べて祭りを行うという言い伝えにちなんで、撮りためた画像を並べて楽しむコーナーです。
今日は、歩数計で7000歩あまり歩きましたが、そのうちの大部分は重たいカメラをぶら下げての散歩。でも、完全な無駄骨でした。ジョウビタキ、メジロ、シロハラ、ツグミ、ホオジロ、らしきものは見つけてカメラを向けましたが、不成功。たぶん、ルリビタキかと思う鳥影を遠くに見つけましたが、これも見失いました。
ですので、12月撮影のストック画像のなかから、今日はジョウビタキ♀をまとめてUPします。
飛ぶ鳥 [獺祭魚]
カワウソが、捕らえた獲物を岩の上に並べて祭を催す故事にあやかって、撮りためた写真を並べて一人楽しむコーナーです。
さて今回のお題は、「飛ぶ鳥」。
古来、「飛ぶ鳥の」は 「明日香(あすか)」にかかる枕詞ですが、きょうの記事にはなんの関係もありません。
「飛ぶ鳥跡を濁さず」もまた、同様です。
私のメイン機はPentax機とolympusの旧世代機。いずれも鳥撮りは、得意とは言えないようです。
「なんと言ってもC社」、「いやいやN社こそ王者」等々の世評は、堅牢至極。「風景写真のPentax」などというおウワサを聞きますと、力なくうなづいてしまうのが、寂しい現実ではあります。
どうせマニュアルフォーカスで狙うのだから、Af性能なんか問わない、という猛者の方もおられるでしょうが、老眼の私などは、やはりafで狙いたい、、のですが、そこには辛い試練が待ち構えています。
往時のアニメ『巨人の星』の主題歌中の、「思い込んだら試練の道を」を、「重いコンダラ」と聞き、グラウンドを整備するあのいわゆる「トンボ」の別名を「コ
ンダラ」というのかと思っていたという方がしばしばおられるようですが、
確かに重い試練です。機種を乗り換えさえすれば、容易に解消できる壁が、幾つもあるのでは?という囁きに、決して耳を貸すことなく、手持ちの機種で飛ぶ鳥を狙う孤高の日々。ヨッ!カッコイイ、、、(破れかぶれ)。
そんな試練の日々に、たまたま写し止めた「珠玉」の”トビモノ”をご披露します。
いずれも、今年12月の撮影です。
まずは、おなじみのミサゴ。
撮影場所は、あちこちで。 撮影機材もあれやこれや。
夕映えの児島湖 [獺祭魚]
カワウソが、捕らえた獲物を岩の上に並べて祭りを楽しむという言い伝えにちなんで、撮りためた作品を並べて喜ぶコーナーです。
今日は、先日来の夕焼けの記事の延長で、児島湖の夕映えをもう少しご紹介します。
向こう岸に見える施設は、「岡南飛行場」です。
現在の岡山空港が、1988年に県中央部の岡山市日応寺にできるまでは、ここが岡山空港として、
旅客機も発着していました。子ども達がまだ幼い頃、正月ラッシュで新幹線の切符が取れず、たまたま予約できた全日空機で、
羽田まで飛んだことがありました。懐かしいYS11でした。軽四で高速道路を走る感覚の振動が、新鮮でした。
今は、自家用などの小型機・軽飛行機等の発着場になっているようです。
2005年放送のテレビドラマ『花より男子』のロケ地として使用されたこともあるそうです。
先日アップしたのとよく似たカットですが、これもまた見捨てがたい気がするので、掲載させていただきます。
夕焼け雲が、微妙に色を変えます。
今日で10月も終わります。今も、外は冷たい雨が降っています。
折角の行楽シーズンですのに、この連休は雨にたたられることになりそうです。
白蓮あれこれ 思いつくまま [獺祭魚]
このコーナーは、カワウソが獲物を岩の上に並べて収獲の祭りを行うという故事にちなんで、撮りためた写真を並べて楽しもうという主旨です。
今日の題材は、白いハスの花。
児島湖近くの蓮根田でうつしたものの残りです。
fuji ファインピクスs1(7/17撮影)
純白の花色です。
PENTAXK10+SIGMA120-400mmAPO DG(7/17撮影)
食用の蓮根の花で、観賞用ではありませんが、清楚で飾り気のない白い蓮の花が、なかなか魅力的です。
白蓮をシロハスと読めば、この花を指すでしょうが、「ビャクレン」とも読めますね。
NHKの朝ドラでは、「蓮様(れんさま)」の恋の行方がドラマチックに展開します(ドラマですけど)。
「蓮様(れんさま)」こと葉山蓮子のモデルは、大正三美人のひとりと評された、柳原白蓮(1885~1967)です。
ちなみに大正三美人とは、この柳原白蓮と、教育者・歌人、社会運動活動家としても知られた九条武子(旧姓大谷武子)と、新橋の芸者で、法律学者・江木衷と結婚して社交界で名をはせた江木欣々(えぎきんきん)の3人だといいます。2人目の九条武子は、京都西本願寺・大谷光尊の二女として生まれ、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られました。佐佐木信綱の門下生で、当時の「麗人」という言葉はこの人のために使われたといわれます。
柳原白蓮と九条武子は、実際に交際があったようで、以前にも引用させていただいた「松岡正剛の千夜千冊」というブログの 1051夜 2005年07月27日の記事で、 近代美人伝「上・下」という本が取り上げられていますが、ちょうどそこに白蓮と武子に触れた個所がありましたので引用させていただきます。
柳原白蓮は鹿鳴館華やかなりし明治18年に、柳原前光伯爵の次女として生まれます。お兄さんは貴族院議員、でも白蓮の生母は柳橋の芸妓さんです。だから麻布笄町の別邸で育った。やがて北小路子爵のところに嫁ぐのですが、ほどなく離婚します。
そして、さっきも言ったように、福岡の炭鉱王の伊藤伝右衛門に請われて入籍するのですが、亭主が52歳だったこと、無学な鉱夫あがりだったこと、成金だっ
たこともあって、人の噂に「人身御供」だと騒がれます。けれども暮らしのほうは豪勢きわまりないものだったので、"筑紫の女王"と揶揄される。そのうち佐
佐木信綱に和歌を学ぶようになって『踏絵』という歌集を出します。なんとも意味深長なタイトルですが、収められた歌もそういう感じです。たとえば、
殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
わが魂(たま)は吾に背きて面(おも)見せず昨日も今日も寂しき日かな
おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞよ
われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ
こういう歌が発表されたんですね。なかには「毒の香たきて静かに眠らばや小瓶の花のくづるる夕べ」といった、ぎょっとする歌もいくつも入っている。それが33歳のときです。みんなびっくりしてしまいます。あるいは、ああやっぱりと思った。
そこへもってきて大正10年10月22日の新聞に「柳原白蓮女子失踪!」の記事が突如として躍ったんですね。「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」
という記事です。記事によると福岡へ帰る夫を東京駅で見送ったまま、白蓮は東京の宿にも帰らず、そのまま姿をくらましてしまったというのです。そしてやが
て、伝右衛門に宛てた絶縁状が新聞に載る。「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まる、とんでもない文面です。それが満天下
に公開された。
さあ、これで世間も新聞社も蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。そこに伝右衛門の談話が発表される。「天才的の妻を理解していた」という見出しです。
やがて白蓮は東京帝国大学の宮崎竜介という青年と駆け落ちしていたことがわかるのですが、それがわかればわかったで、今度は外野席や帝大の教授たちもいろ
いろのことを論評するようになり、ついに姿をあらわせなくなっていくんですね。その後、白蓮は「ことたま」というすばらしい歌誌を主宰して、詩集・戯曲・
随筆を書きつづけたにもかかわらず、その白蓮を世間はついに"認証"しなかったのです。
時雨はこう書いています、「ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間の交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽くせようか」と。
もう一人の"遠き麗人"とよばれた九条武子についても、ちょっとだけお話しておきます。そのころから細川ガラシャ夫人と並び称されてきた女性です。時雨はこんなふうに書き出している。
「人間は悲しい。率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字も書けない」。
これでなんとなく察せられるように、九条武子という人は現代にはまったく存在していないような、信じられないほど美しい女性です。多くの美人伝を綴ってき
た時雨にして、一行も書けなくなるような、そういう女性です。生まれは本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、お兄さんが英傑とうたわれた大谷光瑞。西域の
仏跡探検家でもあり、多くの支持者をえた仏教者です。妹の武子は親が生まれる前から決めていた九条家に輿入れして、九条を名のるのですが、時雨は「武子さ
んはついに女を見せることを嫌ったのだ」と書いています。
残したのは「聖女」のイメージと歌集だけ。明治20年に生まれて、昭和3年に敗血症のために、深窓に閉じられたまま死んでいく。そういう人がいたんです。
だから、どういう人だったかは、歌を読んで推しはかるしかありません。それ以外にほとんど情報がないんです。その歌も、なんとも切ない歌ばかり。『金鈴』『薫染』(くんぜん)『白孔雀』といった歌集がありますが、ちょっと拾って読みます。
ゆふがすみ西の山の端つつむころひとりの吾は悲しかりけり
緋の房のふすまはかたく閉ざされて今日も寂しくものおもへとや
百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
夕されば今日もかなしき悔いの色昨日(きそ)よりさらに濃さのまされる
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
君にききし勝鬘経のものがたりことばことばに光りありしか
ただひとり生まれしゆえにひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は
3首目の「百人のわれにそしりの火はふるも‥」の歌については、『白孔雀』の巻末に柳原白蓮が、「この歌に私は涙ぐんでしまいました」と書いていました。吉井勇もまたこの歌に痛切な感動をおぼえたと綴っています。「ただひとり生まれしゆえにひとりただ」も凄い歌ですね。
ここにもあるとおり、白蓮は、15歳(数えで16歳)で子爵北小路資武と結婚しますが、それは愛のない、「わが十六の涙の日記」にほかならず「親を恨みし反逆者」の日々だったのです。一子をなしたものの、5年で破婚し、実家に戻ります。
当時の心境を彼女はこう歌います。
ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身
「蓮様(れんさま)」が、問題含みの転入生として朝ドラに登場したのが、この時期のことでした。それ以後のドラマの展開は、ほぼ史実を踏まえているようです。
その後、明治44年27歳の時、九州の炭鉱王と称された伊藤伝右衛門(朝ドラでは嘉納伝助)と結婚、大正4年に処女歌集『踏絵』を発表します。
踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前
誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥
ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ恋もつ人のねたましきかな
年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木のかげに
贅を尽くした、何不自由のないとも言える筑豊での暮らしぶりは、旧伊藤伝右衛門邸の様子からもしのぶことができます。しかし白蓮にとっては、この結婚生活は、心の満たされるものであったようです。
そのような中で、のちに社会運動家で弁護士でもあった宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)と出会い、決意の駆け落ち事件、世にいう「白蓮事件」を引き起こし、これがマスコミ各社のスクープ合戦となって一大センセーションを巻き起こします。
テレビドラマは、ただいまこのあたりを進行しているようですね。
天地(あめつち)の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ
ひるの夢あかつきの夢夜の夢さめての夢に命細りぬ
当時、明治憲法下では、「姦通罪」の定めがありました。姦通は,妻が行った場合は,夫の告訴によってその妻と相手の男とが処罰されますが,夫が行った場合は,その相手が人妻でない限り処罰されませんでした。男尊女卑の時代の反映でした。
従って、二人の駆け落ちという決断は、いわば命がけの行動と言えました。
最終的には、伝右衛門は告訴することなく、離婚を認め、白蓮は龍介との間に一男一女をもうけ、安らぎの家庭を得る事ができたそうです。
その白蓮を襲う思いがけない悲しみについては、また、朝ドラの展開とあわせて、話題にするかも知れません。
今日はここまで。
ごきげんよう
六月の花 紫陽花 総集編 [獺祭魚]
このコーナーは、カワウソが捕らえた魚を岩に並べて、収獲の祭りを祝う故事にちなんで、撮りためた写真を画面に並べて、一人楽しもうという趣向です。
六月の終わろうとしています。紫陽花は、来月になると夏炉冬扇の感じが強まりますので、今の内にアップしておきます。
まずは、今日の散歩で、またまた総社市の備中国分寺を歩いてみました。先日撮影したものも含めて、五重塔の足下の紫陽花をご紹介します。
途中、倉敷市藤戸寺を通ってみました。平家物語ゆかりの寺で、沙羅(ナツツバキ)で有名な寺ですが、六月の三日間だけ客殿を開放し「沙羅の花を観る会」が催されるのだそうですが、今年はあいにく開放期間終了との掲示がありました。
藤戸寺については機会を改めて記事にするとして、今日は朝日を浴びた紫陽花の花だけをアップします。
我が家の庭にも、二鉢の紫陽花が咲きました。一つは、娘夫婦が、母の日プレゼントで去年送ってくれた立派な鉢植えを、別の鉢に移植したものですが、去年ほどにはたわわに咲き誇る事になりませんでした。手入れの腕の問題でしょうが、それでも、可憐な花を咲かせて目を楽しませてくれました。
もう一つの鉢は、実家の株を移植したものですが、これもほとんど放置していたのに、優しい花を咲かせています。
いつでも写せると思っているうちに、盛期を過ぎてしまったようで、肝心の写真がありません。
最近撮影した
6月16日、玉野市の深山公園で撮影したもの。カメラはk52+dal55-300。
次は、一週間後の6月23日、同じく深山公園で撮影。カメラはk52+dal55-300。
悠久の時はみどりに抱かれて [獺祭魚]
カワウソが捕った獲物を岩に並べて祭りを行うという言い伝えにちなんで、撮りためた画像を並べて楽しむコーナーです。
今日のメニューは、先日掲載した新緑の岡山後楽園の画像の残りや、それにちなんだ話題です。
まずは、五月の日の光を浴びて輝く新緑のすがすがしさ。
これまで長い間、入園料400円の支出を躊躇して、園内に入ることはまれでしたが、去年の秋、2000円也の大枚をはたいて「年間パスポート」を入手してからは、繰り返し園内散歩を楽しんでいます。十分元は取りました。
あと何年か経って、シニア(六五歳以上)になると、一回140円、年間820円になります。待ち遠しい(笑)。
ただ1時間100円の駐車料金が意外な伏兵で、財布の中身に注意が必要です。
以前は無料の駐車スペースが利用できて重宝しました。用水路を挟んだ向かい側に、行きつけの施設があり(何年か前、新ビルるを建てて引っ越しましたが)、若い頃からよく利用させてもらいました。申し訳ないので、もちろん、時々は入園料を支払って園内を見学したこともあります。それが、2011年7月1日、突如有料化されました。今では、駐車料金と入園料とダブルで支払わなければなりません。
県財政が赤字で、このままでは「財政再建団体」への転落が危ぶまれるとして、なりふり構わず強行された一連の「財政立て直し」策の一環です。率先垂範とばかりに公務員の賃金は連年カットされるは、公共料金は引き上げられるは、住民サービスは切りさげられるは、その余波として、我が県は全国ワースト○位に輝く記録を諸方面に渡って更新することになりました。
そもそも、県の財政赤字そのものが、住民のせいでも県職員の瑕疵によるものでもなくて、1972年初当選以来、6期24年続いた長野士郎県政の、ハコモノ中心・大型公共事業最優先の政治がもたらしたものでした。
長野士郎サンは、元自治省官僚でしたが、1972年の知事選挙に日本社会党・公明党・民社党・日本共産党が推す統一候補として出馬し、自由民主党推薦の現職加藤武徳サンを破って初当選しました。七〇年代初頭は、京都蜷川虎三、東京美濃部亮吉、大阪黒田了一をはじめ、各地に次々と革新自治体が誕生し、「太平洋ベルト地帯を革新自治体が埋め尽くした」「新幹線駅はすべて革新自治体上にある」ともいわれる、「革新上げ潮」の時代でした。
当時、故郷を離れて生活する学生であった私なども、風の便りに知事選挙の結果を聞き、他県に住む友人達と「時代は変わるものだね」と、嬉しい高揚感を覚えたことを思い出します。でも、権力の座に就くということは、往々にしてその人物の負の要素を増幅させるような、思わぬ陥穽が待ち受けているものらしく、長野サンもご多分に漏れず、すぐに地金があらわれたというか、化けの皮がはがれたというか、早々に県民本位の革新的立場を棄て、2期目には社会党・共産党と決別し、以後自民党を与党に引き込んで、24年の長きにわたって、無類のワンマン知事として君臨することになりました。
その得意技が、ハコモノ中心の常軌を逸した大規模プロジェクト。
ほんの一例を挙げただけでも、、、
藤原審爾原作、吉田喜重監督、岡田茉莉子・長門裕之主演で映画化もされた「秋津温泉」の舞台となった鄙びてゆかしい奥津温泉に、地元の反対を押し切って強行建設した苫田ダム。
白壁と川柳が似合う街倉敷に、ミスマッチの夜型公園「チボリ公園」を、運営見通しも誘致効果も見込めないまま強引に誘致し、結局累積赤字を重ねたあげく、2008年閉園。
莫大な県費を投入して頓挫した吉備高原都市構想(後継の石井正弘自民党知事によって、現在、全事業計画を凍結中)。
大企業優先、住民生活犠牲の巨大プロジェクトを軸にした長野県政の「負の遺産」を、後継の石井正弘サン(現在は自民党参議院議員に転身なさいました。)→伊原木隆太サン(地元天満屋百貨店の社長さん)は、県民本位への根本転換をはかるのではなく、県民負担へのしわ寄せによって切り抜けようとしています。1時間100円の駐車料金を根に持って恨み言を言いつのるわけではありませんが、情けないハナシです。
ところで、以下の写真は、去年のほとんど同時期の後楽園の写真。古いアルバムを整理していて見つけました。
この時の撮影行は、よく覚えています。雨に潤う新緑が、またゆかしく、我が感興を刺激したことでした。
このときは、大枚400円を支払って入場しましたから、同じ写真1枚にしても、我ながら気合いの入れ方が違うような気がします。イージーな撮影姿勢を戒め、一枚一枚大事に撮ろうと、改めて思ったりしています。
春更けていきものの色深くなる [獺祭魚]
カワウソが獲物を岩の上に並べて収獲祭りをするという言い伝えにちなんで、撮りためた写真を並べて楽しもうというコーナーです。
4月もはや終わりが近づき、季節はゆく春の様相を呈してきました。春の風物をアップしておかないと季節遅れになりますねえ。
ハナミズキの花をむさぼる美食家のカナブン。
「ハナミズキ?ン?鼻水の木?」 小1の孫が、真顔で言います。親父ギャグなのでしょうか、はたまた、本気か?
麦畑は、春風を受けて1/f (エフ分のイチ)ゆらぎで、そよいでいます。
今年のムクドリ [獺祭魚]
このカテゴリーは、カワウソが捕らえた獲物を岩にならべて収穫祭を行うという言い伝えにちなんで、撮りためた写真を並べてひとり愉しもうという趣向。
今朝は春の雨というには少し肌寒い本降りの雨でした。
それでも足早に春はやってきているようです。
写真のストックのなかで、季節外れになりそうなものを急いでアップしなければ---。
今日の題材はムクドリ。
椋の実を好むところから「椋鳥」とよばれたようですが、栴檀の枝に群がる姿をよく見ます。
ムクドリは、年中目にする鳥ですが、冬の季語だけあって、一番よく見かけるのは冬の時期ですね。
小林一茶に
椋鳥と人に呼ばるる寒さかな
という句があります。
東京新聞のwebサイトから、少しだけ引用します。
理
屈っぽいが正義感の強い、知的な教養人のイメージがある。議論好きな県民といわれる。しかし、県土の大半を山林が占め、冬季の厳しさから江戸期以降、出稼
ぎも多かった。群がってうるさいことから「椋鳥(むくどり)」とあざけられることもあった。庶民派俳人の小林一茶もそんな一人だった。 (編集委員 朽木
直文) 椋鳥と人に呼ばるる寒さかな 生涯で2万句を残したといわれる一茶の句の一つ。奥深い信州から江戸に出てきて一人暮らす一茶の悲哀が伝わってくる。 |
一茶の実像はよくは知りませんが、これは面白く読みました。
例のごとくwikipediaを見ると、椋鳥と文学の関わりについて、こんな記事がありました。
明治時代には、森鴎外が、日本=世界の中の田舎者という意味で、海外情報を伝える連載コラムに「椋鳥通信」というタイトルをつけた。 |
緋連雀ひとたびたって影見えず [獺祭魚]
このカテゴリーは、カワウソが捕らえた獲物を岩に並べて祭りをするという故事になぞらえて、 撮った獲物を並べてひとりたのしもうというコーナーです。
こんな句がありました。
緋連雀一斉にたってもれもなし 阿波野青畝 |
阿波野青畝についてウィキペディアはこう解説しています。
阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月10日 - 1992年(平成4年)12月22日)は日本の俳人。本名は阿波野敏雄。昭和初期に、山口誓子、高野素十、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。 |
大野林火の「近代俳句の鑑賞と批評』(明治書院)はこの句を取り上げて、こう解説しています。
幼時耳を患い、耳の遠いことが青畝の抒情詩人に駆り立てている。俳句を始めた畝傍 中学5年のときの句に「虫の灯に読み昂りぬ耳しひ児」(大正6年)があり、虚子を感嘆せしめている。加うるに当時郡山中学に教鞭をとる主観尊重の原田浜人 の指導を受けていた。そのころのホトトギスは原月舟を中心にもっとも繊細な客観写生の試みられていたときである。少年 青 畝はその不満を虚子に訴えた。「御不平の御手紙拝見しました。浜人君からも似よった御手紙をもらいました。しかし私は写生を修練して置くといふことは、あ なたの芸術を大成する上に大事なことと考へます。今の俳句はすべて未完成で其内大成するものだと考へたら腹は立たないでせう。さう考へて暫く手段として写 生の錬磨を試みられたならあなたは他日成程と合点の行く時が来ると存じます。不取敢(とりあえず-引用者中)其れだけを御返事と致し置きます。」が虚子の返事である。写生という、大きな、緩い、しかしながら強い 羈縛の許に、俳句会を率いてきたのが虚子である。大正八年九月のことである。この来書に青畝は大いに悟り、次第に写生を重んじ、謙虚に自然に接し、以後、その考えは揺ぐことがない。 森田峠によると、七月三日中学を卒えた青畝は半年ほど京都で下宿生活をしていた。そのころ、嵐山付近ではじめて緋連雀を見かけて、この句が出来たという。連雀は東部シベリア地方から秋季群をなして渡来する鳥、尾の先が黄色のものを黄連雀、赤いものを緋連雀という。体は葡萄色、翼と尾羽は黒色、小声でチリチリと鳴き、群をなして生活をする習性がある。 この句、その習性をとらえて彩色豊かな 一幅の日本画に仕立てている。眼前の賑やかな美しさは「一斉に立って」「もれもなし」で、すべては眼前から消え去ったのだ。一句の調子が張っている上に、 景を叙べて印象明瞭であるため、眼前の美しさと、瞬時消え去った空白感との落差が鮮やかに伝わる。作者の主観はそうしたところに息づいているのである。 |
今年は、二度の訪問で、続けて運良くヒレンジャクの姿を納めることができました。
が、この状態から一斉に飛び立って去っていったのが、今年の緋連雀の見納めだったかも知れません。
あれから何度か訪ねてみましたが、三度目の出会いは今のところありません。
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今年のツグミ総集編 [獺祭魚]
このカテゴリーは、かわうそが捕らえた獲物を岩に並べてお祭りをするという言い伝えになぞらえて、撮りためた獲物を並べて楽しもうというコーナーです。
ツグミは冬鳥としてはポピュラーで、季節には群を成して飛びかったり、田畑や野原に三々五々遊んだりしていますから、珍しい鳥もないですが、 よくよく見ると地味だが美しい鳥です。
よしもとばななさんの山本周五郎賞作品も『TUGUMI』でしたね。
私のブログでも、気がつくともう何度も話題にしていました。
2014年
もうしばらくして暖かくなると、群れて北へ帰るのだそうです。
散歩中に出会うと、ついついカメラを向けることが多く、知らず知らず、たくさん撮影してしまいましたが、その中のほんの一部を、並べておくことにします。
まずは昨日と一昨日の朝の散歩から。 カメラはpentax X5。
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金と緋と絢爛競う金縷梅(きんろばい) [獺祭魚]
このカテゴリーは、カワウソが捕った獲物を岩の上に並べて祭りを行う故事にあやかって、撮りためた獲物を並べて楽しもうというコーナーです。
花の写真は、手当たり次第、やみくもに写してみますが、人様にお見せできるような作品にはなりません。
花の少ない早春を彩り「まず咲く」から名付けられたとも、豊年満作につながる名前とも説明される「マンサク」の花を、半田山植物園にを写しに行ったのは2月の10日頃でしたか。フォルダにストックしたままで整理もできないうちに、3月の声を聞くようになりました。梅は咲いたし、桜の蕾もふくらむ季節です。
来年回しというのも辛いので、まとめてupさせていただきます。
「まんさくの花」というテレビ番組があったなあと思って探ってみると、NHKの連続テレビ小説の第27作でした。
「NHKアーカイブス」 の記事に、こちらとこちらがありました。
脚本=高橋正圀 、ヒロイン=中村明美。柳田老人(版画家)役の宇野重吉さんの名前も懐かしいですね。
黄金色のこの花は、シナマンサクだそうです。
アカバナマンサク。独特の色と形が目を惹きます。
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春浅き子どもの森のあとりかな [獺祭魚]
私、kazgと改名しました。そのココロは、昨日のブログに書きました。 以後お見知りおきを。
このカテゴリーは、カワウソが捕った獲物を岩に並べてお祭りをするように、撮った獲物を並べて楽しもうというコーナーです。
きょうは、先日「子どもの森」で出会ったアトリです。
ずっと以前、近所の公園でもちらりと見て、証拠写真を残したことはありましたが、これほどじっくり写させてもらったことはありませんでした。満足満足・・・。
ところで、アトリが戯れて採餌しているこの木は何でしょうか?よく見かけるのですが、、、?
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池の鳥 [獺祭魚]
判じ物のようなタイトルとカテゴリーでしょ?
そのココロは、 カワウソが捕ってきた獲物をずらりと並べて楽しむという言い伝えにあやかって、撮ってきた獲物をずらりと並べて楽しもうという趣向です。
今日は「池の鳥」というお題で---。
玉野市深山公園の鳥たち。(撮影は主に昨年12月)
新カテゴリー『獺祭魚』の蘊蓄 [獺祭魚]
以前、この日の記事で正岡子規の作品と俳号に触れたことがありました。
その時触れずにいた「獺祭書屋主人」についての蘊蓄が今日の話題です。
ネットを探っておりますと、土井中照さんのMONDO EHIMEというサイトを見つけました。
その中に「松山の一番」というコーナーがあり、「日本一のペンネーム」というページがありました。「へえ、そうだったんだ」が満載でしたので、無断で恐縮ですが、引用させて戴きます。
子規の本名はというと正岡常規。墓碑銘には「處之助」「升」「子規」「獺祭書屋主人」「竹ノ里人」が登場します。
「處之助」は幼名。学校へ行く年になって「トコロテン」とからかわれてはいけない、と外祖父の大原観山が子規4・5歳のとき、易の地風から「升」と改めました。これ以降、友人や母から「のぼさん」と親しみを込めて呼ばれています。
「子規」は明治22年、喀血した時より「啼いて血を吐くほととぎす」にちなみ使われています。明治11年、12歳の折り、初めて作った漢詩が「聞子規」というのも因縁めいています。
「獺祭書屋主人」はかわうそ(獺祭)が捕った魚を並べる習性より、本をあたりに並べ散らかす様を号したもの。
「竹ノ里人」は東京の住まいを呉竹の根岸と称し、そこで暮らしていたことからつけたものです。
子規は雅号だけでも百あまり持っています。「筆まかせ」雅号の章には中の川の子規邸にあった桜の木から「老桜」と号したのが十歳ごろ。山内伝蔵より「中水」をもらったがあまり気に入りませんでした。十五・六歳の時、大原観山より桜の形容として「香雲」という号に変えています。
「筆まかせ」に登場する雅号は他に「走兎」「風廉」「漱石」「士清」「子升」「常規凡夫」「眞棹家」「丈鬼」「冷笑居士」「獺祭魚夫」「放浪子」「秋風落日舎主人」「癡夢情史」「野暮流」「盗花」「四国仙人」「沐猴冠者」「被襟生」「莞爾生」「浮世夢之助」「蕪翠」「有耶無耶漫士」「迂歌連達磨」「情鬼凡夫」「馬骨生」「野球」「色身情仏」「都子規」「虚無僧」「饕餐居士」「僚凡狂士」「青孝亭丈其」「裏棚舎夕顔」「薄紫」「蒲柳病夫」「病鶴痩士」「無縁癡仏」「情魔癡仏」「舎蚊無二仏」「癡肉団子」「仙台萩之丞」「無何有洲主人」「八釜四九」「面読斎」「一橋外史」「猿楽坊主」。
他には「桜亭仙人」「緩寛人」「於怒戯書生」「無茶苦茶散人」「四国猿」「弄球」「能球」など。
子規の雅号の中に「漱石」があり、「筆まかせ」には「漱石は今友人の假名と変ぜり」とあります。また、ベースボールを「野球」と命名したのが子規と言われているのは「升(のぼる)」をもじって「野球(のぼーる)」としたからなのですね。
「名前/無用の雑学知識」(ワニ文庫)によると、名前の記録保持者は滝沢馬琴。戒名も加えて35というペンネームということで名前の横綱に挙げられていますが、これなら正岡子規が日本一多いペンネームの持ち主と言えそうですね。
今日の話題、「獺祭書屋主人」について、「獺祭書屋主人」はかわうそ(獺祭)が捕った魚を並べる習性より、本をあたりに並べ散らかす様を号したもの」と端的に解説しておられます。
「獺祭魚」と言う言葉もあり、例のごとくwikiによるとこう解説されています。
獺祭魚(だっさいぎょ、たつうおをまつる)は七十二候の一(雨水初候)。立春末候の魚上氷の後、雨水次候の鴻雁来の前にあたる。また転じて書物をよく好み、引用する人のこと。
礼記月令孟春の条に「東風凍を解き、蟄虫は始めて振く。魚冰に上り、獺魚を祭り、鴻雁来る」とあるのが出典。春になってカワウソが漁をはじめ魚を捕らえることを指した。カワウソは捕らえた魚を川岸に並べる習性があり、これが先祖を祭るときの供物のように見えたことから「魚を祭り」とされた。
晩唐の政治家、詩人である李商隠は作中に豊富な典故を引いたが、詩作の際に多くの書物をカワウソが魚を並べるように置いたため、獺祭魚と称された。ここから、多くの参考書を周囲に広げるさまを指すようになった。
正岡子規は自らを獺祭書屋主人と称したため、子規の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶこともある。
暦の上で「雨水」は、2月18・19日頃ですから、その頃の記事にするのがふさわしいのでしょうが、少々前倒しで乞ご容赦。
ニホンカワウソは、1979年、高知県須崎市で目撃されて以来目撃例がなく、2012年絶滅種に指定されたそうです。動物園には、こんな愛嬌のあるカワウソがいますが、これコヅメカワウソという別種です。
では、これは?
(2014年1月岡山市後楽園そばの旭川にて撮影)
ヌートリアです。南アメリカ中・南部(チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ブラジル南部)原産の齧歯類。巨大ネズミという風体ですね。
「ヌートリア」とはスペイン語でカワウソ(の毛皮)を意味し、原産の南米では本種のことを「Coipo」と呼ぶ。英名でも「Nutria」より「Coypu」の方が一般的(wikiより)だそうです。
「稲美野ヌートリア通信」というサイトに詳しい説明が掲載されています。
一部を、これまた無断で引用すると、
うんちく: 毛皮はカワウソのように上質で、カワウソの毛皮と称して売買されたため、カワウソのスペイン語<ヌートリア>がまちがってこの動物の呼び名になった。
○ 帰化動物としての経緯と状況
人間によって持ち込まれ、やがて人間の手を離れて野生化し、自然増殖を始めた外来の動物を、帰化動物と呼ぶ。
日本には1907年に上野動物園に初めて輸入された。日本では1939年(昭和14年)に軍用の毛皮獣として150頭が輸入された。第二次世界大戦中は、防寒用の毛皮を採り、肉は食用とするために多数飼育された。1944年には4万頭も飼育されていたという。第二次世界大戦が終わると需要がなくなり、放逐されたり屠殺されたりした。生き残ったものが野生化し、各地で帰化した。
海外では:
海外では、北アメリカ、東アジア、東アフリカ、ヨーロッパなどに帰化している。その毛皮を目的に世界各地で飼育されたため逃げ出したものなどが再野生化している。土手などに穴をあけ、キャベツやコムギなどの畑を荒らすことがあるため害獣となった。
日本では:
日本では、岡山県に最も多く生息している。とくに岡山県児島湾干拓地一帯では、縦横にクリーク(排水溝)がつくられ、水性植物が生い茂るなど生息条件に恵まれ、かなり多数が生息している。イネや水路ぞいの野菜に大きな被害を与えるため、毎年2000~3000頭が捕殺されている。岡山県での捕殺数は、全国の90%以上を占める。 「稲美野ヌートリア通信」より
本物のカワウソが血なまぐさい肉食獣であるのに対して、このヌートリアは基本的にベジタリアン。であるが故に、農作物を食害する等の罪科(とが)により、特定外来生物として捕殺されています。気の毒なことです。
以前(2010年9月)早朝散歩中に、出会った起床直後で洗面中とおぼしきヌートリアの家族を撮影しました。
カワウソつながりで、こんなお話もオマケしておきましょう。どっとはらい。
しっぽのつり【尻尾の釣り】
昔話。キツネが尻尾で魚釣りを試みて失敗する話。〈川獺(かわうそ)と狐〉とも呼ばれる。キツネがカワウソに魚の捕らえ方を問う。カワウソは,キツネの尻尾を水にひたして釣ると教える。キツネはだまされたと知らずに,尻尾を水に入れる。やがてキツネの尻尾は凍結し,そのために逃げることができず人間に捕らえられる。またカワウソの招待を受けながら,いっこうに答礼の饗応をしないキツネと,それを憤慨するカワウソの仕打ちとしても語られる。
狐とかわうその知恵くらべ (読み聞かせ絵本シリーズ―日本の昔ばなし (2))
- 作者: 鈴木 サツ
- 出版社/メーカー: 瑞雲舎
- 発売日: 1995/06
- メディア: 大型本
- 作者: 堀尾 青史
- 出版社/メーカー: 童心社
- 発売日: 1969/03
- メディア: 大型本
新たに、 『獺祭魚』というカテゴリーを立てました。取り集めたけれど未整理の写真を、ずらりと並べてみようかと思います。
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