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核無き世界兆すかマンサク咲き初むる、の巻 [折々散歩]

昨日は、核兵器禁止条約発効の日。


テレビなどでも、再三にわたり、アイキャン(ICAN=核兵器廃絶国際キャンペーン(かくへいきはいぜつこくさいキャンペーン、 International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)のとりくみや、様々な立場から核廃絶を願う世界各地の人々の姿に注目する番組が、放送されていました。


午前中、誘われて、あるレクリエーションの場(「卓球を楽しむ会」)に参加しておりましたら、会はちょっと予定を早めて終了。昼の時間帯には、条約発効を歓迎し、日本政府の署名・批准を求める街頭行動に参加される由。私は失礼しましたが、全国でも同様の行動が取り組まれたそうです。


momotaro様の昨日付記事No nukes future 核なき世界に向かって に、次のようなコメントを記しましたが、改めて再掲させていただきます。


>Wish you were here. を忘れちゃいけませんよね。
まったくそのとおりです。世界中の誰がなんと言おうと、「ノーモア核被害」の声を、率先して上げ続けなけれまならない我が国の政府が、核保有国の顔色を窺って、グズグズまごまご、みっともない宙ぶらりんの態度を続けてるのは酷く恥ずかしいことですね。次々と、署名・批准を進めてきた世界中の国々と、それを支え続ける人々に、「ありがとう、共に歩もう」と発信するまともな政府を持ちたいものです。


ところで、最近、車の運転中の退屈しのぎに、図書館で借りた朗読CDを聞くのが習慣になっていることは、以前も話題にしました。


もっぱら、池波正太郎、平岩弓枝、藤沢周平などの作品が、巻数も多くて、しかもハズレなく面白く聞けるので、勢い選択が偏るのですが、時々は、傾向の変わったものもと、あれこれ取り混ぜています。そのうちの一つとして、何気なく借りてきたものに、この作品がありました。






井上ひさしは、どちらかというと愛読していて、大抵の作品には目を通しているはずでしたが、これはまだでした。しかも、この作品が映画化された当時、評判も高く、私の周囲でも話題になっていましたのに、なぜか観る機会がなかったのでした。そのうえ、ずっと以前、こまつ座による公演が地元であったはずなのに、どういう都合か、チャンスを逃しています。


未読のまま、勝手にイメージしていた内容とはまったく違っていました。(なぜか、小津安二郎の「東京物語」のような父娘像を想像していたのです)つくづく、知らぬ怖さを思い知った次第です。


アマゾンでの書籍紹介を引用します。



父と暮せば

父と暮せば

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/11/01
  • メディア: Kindle版



昭和23年、原子爆弾を投下され三年後の広島。バラックのような簡易住宅。
「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」愛する者たちを原爆で失った美津江は、一人だけ生き残った負い目から、恋のときめきからも身を引こうとする。そんな娘を思いやるあまり「恋の応援団長」をかってでて励ます父・竹造は、実はもはやこの世の人ではない――。
「わしの分まで生きてちょんだいよォー」
父の願いが、ついに底なしの絶望から娘をよみがえらせる、魂の再生の物語。
著者の言葉
……ここまでなら、小説にも詩にもなりえますが、戯曲にするには、ここで劇場の機知に登場してもらわなくてはなりません。そこで、じつによく知られた「一人二役」という手法に助けてもらうことにしました。美津江を「(しあわせになってはいけないと、自分を)いましめる娘」と「(しあわせになりたいと)願う娘」にまず分ける。そして対立させてドラマをつくる。しかし一人の女優さんが演じ分けるのはたいへんですから、亡くなった者たちの代表として、彼女の父親に「願う娘」を演じてもらおうと思いつきました。べつに云えば、「娘のしあわせを願う父」は、美津江のこころの中の幻なのです。
(「劇場の機知――あとがきに代えて」)
本書「解説」より
かつて私たちは、死者の声に耳かたむけることにあまり疑いをもたない世界に住んでいた。死者の声が聞こえたり、死者が立ちあらわれたりすることに、少しのふしぎもないような世界に暮していた。死者との共生であり、「生きている死者」との対話がすぐそこにあったのである。
「父と暮せば」には、失われてしまった「死者との共生」の感覚が奇蹟のように表現されている。たとえば世阿弥のように、である。
――今村忠純(大妻女子大学教授)
井上ひさし(1934-2010)
山形県生れ。上智大学文学部卒業。浅草フランス座で文芸部進行係を務めた後、「ひょっこりひょうたん島」の台本を共同執筆する。以後『道元の冒険』(岸田戯曲賞、芸術選奨新人賞)、『手鎖心中』(直木賞)、『吉里吉里人』(読売文学賞、日本SF大賞)、『腹鼓記』、『不忠臣蔵』(吉川英治文学賞)、『シャンハイムーン』(谷崎潤一郎賞)、『東京セブンローズ』(菊池寛賞)、『太鼓たたいて笛ふいて』(毎日芸術賞、鶴屋南北戯曲賞)など戯曲、小説、エッセイ等に幅広く活躍した。2004(平成16)年に文化功労者、2009年には日本藝術院賞恩賜賞を受賞した。1984(昭和59)年に劇団「こまつ座」を結成し、座付き作者として自作の上演活動を行った。


この本には、こんな前書き(前口上)がそえられています。


ヒロシマ、ナガサキの話をすると、「いつまでも被害者意識にとらわれていてはいけない。あのころの日本人はアジアにたいしては加害者でもあったのだから」と云う人たちがふえてきた。たしかに後半の意見は当たっている。アジア全域で日本人は加害者だった。
しかし、前半の意見にたいしては、あくまで「否!」と言いつづける。
あの二個の原子爆弾は、日本人の上に落とされたばかりではなく、人問の存在全体に落とされたものだと考えるからである。あのときの被爆者たちは、核の存在から逃れることのできない二十世紀後半の世界中の人問を代表して、地獄の火で焼かれたのだ。だから被害者意識からではなく、世界五十四億の人問の一人として、あの地獄を知っていながら、「知らないふり」することは、なににもまして罪深いことだと考えるから書くのである。おそらく私の一生は、ヒロシマとナガサキとを書きおえたときに終わるだろう。この作品はそのシリーズの第一作である。どうか御覧になってください。


実際には、その予言はかなえられず、ナガサキをテーマとする作品は、その遺志を継いだ山田洋次監督により「母と暮せば」に結実したのでした。


作品の一節を引用します。


美津江 うちはしあわせになってはいけんのじゃ。じゃけえもうなんもいわんでつかあさい。
竹 造 これでもおまいの恋の応援団長として出てきとるんじゃけえのう、そうみやすうは退かんぞ。
美津江 ……応援団長?
竹 造 ほうじゃが。よう考えてみんさい。わしがおまいんところに現れるようになったんぽ先週の金曜からじゃが、あの日、図書館に入ってきんさった木下さ んを一目見て、珍しいことに、おまいの胸は一瞬、 ときめいた。そうじゃったな。
美津江 (思い当たる)……。
竹 造 そのときのときめきからわしのこの胴体ができたんじゃ。おまいはまた、貸山台の方へ歩いてくる木下さんを見て、そっと一つためいきをもらした。そうじゃつたな。
(思い当たる)……。
そのためいきからわしの手足ができたんじゃ。さらにおまいは、あの人、うちのおる窓口へきてくれんかな、そがいにそっと願うたろうが。
(思い当たる)……。
そのねがいからわしの心臓ができとるんじゃ。


美津江 恋はいけない。恋はようせんのです。もう、うちをいびらんでくれんさい。
竹 造 そがいに強うこころを押さえつけとってはいけんがのう。あじもすっぱもない人生になってしまいよるで。
美津江 もうおちょくらんでくれんさい。うちやあ忙 しゅうしとるんです。


竹造 ……もしかしたら原爆病か。あいつがいつ出てくるかもしれんけえ、そいで人を好いちゃいけん思うとるんじゃな。
美津江 (頷いてから)じゃが、木下さんが、そのときは命がけで看病してあげるいうてくれちゃったです。
竹造 なんな、ずいぶん話は進んどるんじゃないか。(ひらめいて)そうか、生まれてくるねんねんのことが心配なんじゃな。たしかに原爆病はねんねんにも引き継がれることがあるいうけえ、やれんのう。
美津江(頷いてから)そのときは天命じゃ思うて一生懸命、育てよう……、
竹造 そいも木下さんのお言葉かいの。
美津江 遠回しにじゃけど、そがあいうとられとってでした。
竹造 遠回しであれ近回しであれ、そこまで話し合えるちゅうことは……、もう、わしゃ知らんが。
美津江 そいじゃけえ、いっそう木下さんと会うちゃいけんのです。


 


美津江 うちよりももっとえっとしあわせになってええ人たちがぎょうさんおってでした。そいじゃけえ、その人たちを押しのけて、うちがしあわせになるいうわけには行かんのです。うちがしあわせになっては、そがあな人たちに申し訳が立たんのですけえ。
竹造 そがあな人たちいうんは、どがあな人たちのことじゃ。



美津江 うちより美しゅうて、うちより勉強ができて、うちより人望があって、ほいでうちを、ピカか ら救うてくれんさった。
竹 造 ……ピカから、おまいを?
美津江 (大きく頷いて)うちがこよに生きておれる んは、昭子さんのおかげじゃけえの。
竹 造 突飛をいいよる。あんとき、うちの庭にはわしとおまいの二人しかおらんかったはずじゃ。どこに昭子さんがおったいうんかいね。
美津江 手紙でうちを救うてくれんさったんよ。
竹 造 手紙で……
美津江 あのころ昭子さんは県立二女の先生。三年、四年の生徒さんを連れて岡山水島の飛行機工場へ 行っとられたんです。前の日、その昭子さんか ら手紙をもろうたけえ、うれしゅうてならん。 徹夜で返事を書きました。ほいで、あの朝、図書館へ行く途中で投函しよう思うて、うちこよに厚い手紙を持って庭を裏木戸の方へ歩いとった……。
竹 造 わしはたしか縁先におった。一升瓶につめた玄米を棒で突いて白くしとったんじゃが、石灯龍のそばを歩いとったおまいを見て、「気をつけて行きいよ」……。
美津江 (頷いて)その声に振り返って手をふった。そんときじゃ、うちの屋根の向こうにB29と、そいからなんかキラキラ光るもんか見えよったんは。「おとったん、ビーがなんか落としよっだが」
竹 造「空襲警報が出とらんのに異な気なことじゃ」、そがあいうてわしは庭へ下りた。
美津江「なに落としよったんじゃろう、また謀略ビラ かいね」……。見とるうちに手もとが留守になって石灯龍の下に手紙を落としてしもうた。
「いけん……」、拾おう思うてちよごんだ。そのとき、いきなり世問全体が青白うなった。
竹 造 わしは正面から見てしもうた、お日さん二つ分の火の玉をの。

(中略)
美津江 その火の玉の熱線からうちを、石灯龍が、庇うてくれとったんです。
竹 造 (感動して)あの石灯龍がのう。ふ-ん、値の高いだけのことはあったわい。
美津江 昭子さんから手紙をもろうとらんかったら、石灯龍の根方にちよごむこともなかった思います。 


美津江 そいじやけえ、昭子さんがうちを救うてくれたいうとったんです……。
いきなり美津江が顔を覆う。
竹 造……どうしたんじや?

美津江 昭子さんは、あの朝、下り一番列車で、水島から、ひょっこり帰ってきとってでした。
竹 造(ほとんど絶句)なんな……。
美津江 夜の補習のために、謄写版道具一揃いと藁半
紙千枚、そよなものがひょっこり要るようになって、学校へ受け取りに来られたんです。
竹 造 ほいで、どうした? まさか……。


こんなところで、地元の地名に出会って面食らいます。確かに水島はこんな過去記事でも述べたように、兵器生産の拠点でした。


 


もう一つの「今日は何の日」(2015-06-22)


ところで、前述の水島空襲の記事に「当時の水島航空機製作所では、日本海軍の一式陸攻や紫電改を生産しており、米軍が日本の軍需産業を破壊する目的で行った空襲であった。」とあります。(中略)
子どもの頃、貝塚 ひろし「零戦レッド」、辻なおき「0戦はやと」などで、子ども達に人気の「零戦」などに比べて、ややレアな感のあった「紫電改」ですが、学生時代になって初めて、ちばてつやさんの「紫電改のタカ」を友人に教えられて読み、その悲劇性とともに記憶に刻みつけられた機種名でした。

ちなみに、軍用飛行機や艦船、戦車などのプラモデル製作にあこがれながら、気ままに購入できもしない子ども時代、カタログを丹念に眺めて心を躍らせたものでしたが、一番のお気に入りは、そのフォルムの際だつ三式戦闘機「飛燕」でした。独特のフォルムは、空冷エンジンを積載していたためだそうで、爆音も独特のものだったそうですね。
さらにちなみに、たまたまのきっかけで「一式陸攻」のプラモデルを作ってから、この無骨な攻撃機に親愛感と愛着を覚えておりました。ところで、妻の、亡くなった父親は、海軍で戦艦などに乗った軍人でしたが、死線をくぐって生きて復員し、90歳を越える天寿を全うしました。穏やかで、慈愛に富む人柄でしたが、天皇への崇敬と、「大東亜戦争」の「正当性」へのこだわりは、終生、曲げることがありませんでした。また、その弟(妻にとっては叔父)は、少年兵として志願していくさに赴き、10代の若さで戦死されたと聞いていました。仏壇の上の額には、戦闘服・戦闘帽を着けた凛々しい少年の遺影が飾ってあります。その戦死の模様はつまびらかでなく、遺骨も帰ってきていません。
義兄(妻の兄)が、厚生労働省などを通じて調べたところによると、戦死時に搭乗していたのは、この一式陸攻だったそうです。いのちを共にしたその愛機は、あるいは、この水島工場で生産された機体だったかも知れません。


四歳の目に焼きつきし夏の空(2015-06-25)


先日、水島空襲の記事を書きましたら、読んでくださったM先輩からご丁寧なメールをいただきました。そこには、思いもかけない、ご自身の幼時の体験が、生々しくつづられていました。
大変衝撃を受け、感ずるところ大でしたので、不躾ながら当ブログへの転載をお願いしましたところ、快諾いただきましたので、以下ご紹介します。
なおMさんは、私達の世代からすればひとまわり年上の先輩で、同じ職場に働いたことはありませんが、若い頃から今に至るまで、仕事を初め多方面にわたって、「先達」としていろいろな機会に親身に相談・助言に応じてくださっています。そのような関係で、水島地区のご出身であることは、前々から存じ上げておりましたが、このお話は初めてうかがい、なおさらに強く心打たれたのでした。

  70年前の6月22日朝、私は水島が見渡せる連島町大江の自宅の庭に掘られた防空壕(菜園の庭を掘った)の中に家族と居ました。祖母だけは何処に居ても死ぬのは同じだと防空壕に入るのを拒んで入りませんでした。
当時4歳の私は岡山市の空襲は覚えていませんが水島空襲は覚えています。兄が覗き穴から外を見せてくれました。
夏の青い空に幾筋もの真っ白い飛行機雲が入り交じって浮かんでいました。恐らく松山の航空基地から飛び立った源田部隊の紫電改が迎撃戦を挑んだのでしょう。
爆撃が終わり空襲警報が解除されてから、近所の人が隠れていた共同の防空壕がある裏山に上がり水島方面を見るとまだ爆撃による火災の黒い煙が上がっていま
した。その時、東の方から飛行機が二機飛来しドンドンと爆弾か高射砲の発射音かの様な音がしました。飛行機は反転して逃げて行った様に思いました。
大人になってその話しを兄弟にするとそんな事はなかった、4歳のお前にそんな記憶があるはずがないと否定されました。そうかなと思っていましたが、10年程前水島空襲を調べていた日笠先生(引用者注 日笠俊男氏: 岡山空襲資料センター代表)の調査記録に、6月22日姫路空襲に来たB-29二機が残った爆弾を、海上投棄するより有効活用しようと水島に廻って投下したと、米軍の記録に残っているとあるのを発見して、私の記憶が間違いなかった事が判りました。
三菱水島工場では一式陸攻が生産されていましたが、その1号機が完成した時、婦人会の人が日の丸の小旗を持って祝賀に行くのを、姉の自転車の後部座席で見た記憶があると言っても、そんな小さいときの事を覚えているはずが無いととり合ってくれませんでした。
終わり頃には川西の紫電改も作ったが完成したのは数機だったようです。当時三菱に務めていた長兄は川西と三菱では設計図の描き方が違うので苦労したと言っていました。勤めていた工場が壊滅した兄は、その後軍隊に招集されたようです。
昭和20年の夏の終わり頃の夕方、家族が裸電球の暗い部屋に集っていた時、我家に向かう石段を上がって来る軍靴のカッツ!カッツ!という音が響いて来ました。(昔は靴の裏に鉄の鋲が打ち付けてありました)
姉が「あっ!兄さんが帰って来た」と言うとその場がぱっと明るくなったように感じました。その後どのような展開があったかは何も覚えていませんが、兄が復員して来たあの靴音だけは良く覚えています。
兄弟と言っても16歳も年が離れていると、話しをする事はほとんどありませんでしたので、一ヶ月少々の兄の軍隊生活がどんなものだったか全く知りませんでした。最近時々ハガキのやり取りをする様になりました。
兄は定年退職後NHKの短歌教室に入って勉強したようです。その教室の仲間で作った短歌の本が送られて来た時に兄の「軍刀を抜いて我に特攻を迫りし上官あ
り・・・」という歌を目にしました。飛行機は作っていたけれど操縦も出来ない兄に、どんな特攻かと思って質問したら、次の様な返事が来ました。
「8月15日負けたと判った時、中隊長が地上勤務の者、整備兵も含め全員を乗せ、四国沖の米軍攻撃をすると云い、16日に赤飯を食べて出撃のお祝いをしたが、翌日作戦中止命令がきた。九十年生きたが、生きて良かったとは思わない。」と書いてありました。
最後の「生きて良かったとは思わない」という兄の思いを知った時、切ないと言ったら良いのか無惨と言ったら良いのか表現しがたい感情におそわれました。(完)

一読して、生活の隅々にまで戦争が及んだ時代の空気を、改めて間近に嗅いだ思いがしました。耳で聞き、文字で読んで、ある程度は知っているつもりであったそれが、まがうことのない実体として、確かに存在し、今につながっているということの実感は、圧倒的な重みを持って迫ってきます。是非、それを、少しでも広くお伝えしたい、と切実に思ったことでした。


 


「父と暮らせば」の引用に戻ります。


竹 造 もうええが。人なみにしあわせを求めちやいけんいうおまいの気持が、ちいとは分かったような気がするけえ。
美津江 じゃがのう、こうよな考え方もあるで。昭子さんの分までしあわせにならにゃいけんいう考え方が……。
美津江 (さえぎって叫ぶ)そよなことはできん!


竹 造 おまいは病気なんじゃ。病名もちゃんとあるど。

生きのこってしもうて亡うなった友だちに申し訳ない、生きとるんがうしろめたいいうて、そよにほたえるのが病状で、病名を「うしろめとうて申し訳ない病」ちゅうんじゃ。(鉛筆を折って、強い調子で)気持はようわかる。じゃが、おまいは生きとる、これからも生きにゃいけん。そいじゃけん、そよな病気は、はよう治さにやいけんで。

美津江 (思い切って)うちがまっことほんまに申し訳 ない思うとるんは、おとったんにたいしてなんよ
竹 造(虚をつかれて)なんな……。
美津江 もとより昭子さんらにも申し訳ない思うとる。じやけんど、昭子さんらにたいしてえっとえっと申し訳ない思うことで、うちは、自分のしよったことに蓋をかぶせとっだ。……うちはおとったんを見捨てて逃げよったこすったれなんじや。


美津江 そいじゃけえ、できるだけ静かに生きて、その機会がきたら、世間からはよう姿を消そう思うとります。おとったん、この三年は困難の三年じゃったです。なんとか生きてきたことだけでもほめてやってちょんだい。


竹 造 (ぴしゃり)聞いとれや。あんときおまいは泣き泣きこよにいうとったではないか。「むごいのう、ひどいのう、なひてこがあして別れにやいけんのかいのう」……。覚えとろうな。
美津江 (かすかに頷く)………
竹 造 応えてわしがいうた。「こよな別れが末代まで二度とあっちやいけん、あんまりむごすぎるけえのう」
(頷く)……。
わしの一等おしまいのことばがおまいに聞こえとったんじやろうか。「わしの分まで生きてちよんだいよオー」


原爆に焼かれて死んだ無数の人々、また原爆を生き延びながら、幸せになることをやましく思わざるを得なかった無数の人々、また、その子どもたち・孫たちの思いを、核兵器禁止条約の発効は、どれほど慰め励ましたことでしょう。さらに願わくば、日本政府も、その思いを受け止めて、この歴史的な歩みに加わってほしいものです。「Wish you were here.」ですね。


竹造=すまけい、美津江=斉藤とも子、ともに真情のこもった朗読は、切々として胸に響き、深い感銘を覚えました。


このお二人とも、いろいろなTV番組や映画などでお目に掛かったことはあるはずなのに、失礼ながらほとんど意識したことがなかったことを恥ずかしく思いました。


実は、これまた、最近図書館で借りた藤沢周平作 山田洋次監修・解説「祝い人助八 」が、すまけいさんの朗読でした。その語り口は、ひとつの揺るぎのない世界を形成していて、いつも以上に藤沢ドラマに引き込まれながら大変面白く聞きました。遅ればせながら、この人のファンになろうと、ひそかに決心したものです。(なお、「祝い人」は「ほいと」と読ませ、古く物乞いをさす言葉です。身なりを構わぬ薄汚れた風体から、そのような蔑称で呼ばれた武士が主人公です。)


ところが、そのすまけいさんは、2013年に亡くなられた由、調べてみて知った始末。残念至極、知らないことの怖さ恥ずかしさに打たれています。


今日は、寒さはゆるみましたが、かなりの雨が降り続いています。傘を差して軽く散歩しました。


ロウバイは花期が長く、雨の中でも甘い芳香を放っています。


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バラの花が雨に濡れて艶を増しています。


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先ず咲くというマンサクが、ようやくほころび始めていました。「春遠からじ」とうれしくなります。


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今日はこれにて。


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