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今日もメガソーラーを考えてみる、の巻 [折々散歩]

直感的に「いやだなあ」と思っただけで、本当に忌むべき事なのかどうか?このメガソーラー計画について、改めて立ち止まって考えてみる必要はあると思います。
現在の人間の力では制御不能であることが実証された原発は、少なくとも、地震、津波、火山、台風、豪雨、洪水、土砂災害などなど、未曾有の自然災害と隣り合わせの我が国においては、もはやエネルギー源としては、一刻も早く脱却すべきことはあきらかです。
一方、地球温暖化の進行が、昨今の異常気象・気象災害をもたらす因の重要な一つとなっていることも無視できません。CO2の削減は、人類の未来にとって至上命題であり、化石燃料を用いる火力発電への依存を続けることは許されません。
そうしたもとで、太陽光発電を含む再生可能エネルギーの普及が緊急切実な課題となっています。
それを踏まえた上で、メガソーラー計画をめぐる懸念点を、思いつくままに挙げてみます。


  
何よりいたたまれないのは、美しく懐かしい故郷の自然の景観が大きく壊されること。これは前回掲載の写真によって一目瞭然でしょう。
しかし一方では、センチメンタルな私的感情でメガソーラーに反対する態度は、公益につながるクリーンエネルギーの普及を妨げるものだ、という論も聞こえて来そうです。反原発は、CO2の削減に水を差すものとの論も、まことしやかに語られるワケですから。
確かに、公共の利益のため、つまり世のため人のためには、センチメンタルな個人的感情はある程度抑えて、巨視的立場に立つべきだ、という意見が成り立つ場合も、時にはあり得るかも知れません。
でも、一瞥しての直観が、理屈を超えて正しく真理をとらえている場合も、しばしばあることです。削り取られ、切り崩された山々と、根こそぎ抜き取られ切りさいなまれた緑の樹木の、低いうめき声が、耳を澄ませば聞こえてくるではありませんか。

聞くところによれば、ソーラーパネルの製造には水酸化ナトリウムやフッ化水素酸などの腐食剤が使用され、大量の水や電力が消費されるため、決して環境に優しくないという一面も指摘されているとか。また、地球上にわずかしか存在しないレアメタル(希少金属)を大量に必要とするそうですが、耐用年数を過ぎたパネルは、まだリサイクルの技術が確立されておらず、ゴミとして廃棄されるしかないようです。
ソーラーパネルの寿命は、一説には10年とも15年とも聞きます。日進月歩の技術発展のもとでは、もっと低コストで効率的な発電技術があらわれる可能性もあり(いやほぼ確実にあらわれると予想されます)、耐用年数を待たずに廃棄・更新が迫られるかも知れません。なお継続的に発電事業が安定的に継続できるかどうかによっては、10年.15年とは言わないまでも、早晩、事業からの撤退と言うことも十分なり得ます。

先日見学してきた「作東メガソーラー」を手がけるのは「パシフィコ・エナジー」という外資系企業だそうです。ここにかぎらず、全国で怒濤のようにメガソーラー事業に参入しつつある企業のかなりの部分が外資系企業に占められていると聞きます。

根拠なく外資系企業への偏見を煽るつもりはありませんが、住民の願いや幸せよりも、企業利益が優先されるのでは?との危惧は、拭うことができません。何かトラブルが生じたり、企業業績が思わしくないような場合には、何の未練もなく事業を放棄しておさらばしてしまうと言った例もありがちです。

緑がごっそり削り取られたはげ山と、不毛の廃墟だけが子孫に残される、----こんな悪夢が、正夢とならないように祈るばかりです。


感情的・直観的な反対論では説得力に乏しいとおっしゃる向きには、住民運動の中から生まれた、このような具体的な議論をご紹介させていただきます。岡山市の足守(あしもり)地区で繰り広げられているメガソーラー建設計画に反対する大井地区連合町内会のHP からの引用です。   

岡山市大井地区連合町内会メガソーラー建設反対特設サイト
私たちは土砂災害・水害の危険を増大し、自然環境・生活環境を破壊するメガソーラーの建設に断固反対しています

現在、岡山市では、東京の太陽光発電開発事業者により、大規模なメガソーラーの建設が計画されています。
186ヘクタールという、東京ドーム39個分の森林を伐採して土を削り、約28万枚の太陽光パネルを設置する計画です。

業者提供の計画図をもとに、当連合町内会が独自に作成
上の図の白い部分はパネル設置場所、赤い部分は法(のり)面になる場所
画像をクリックすると拡大します

上から見た図はこちら

この太陽光発電所が建設されてしまえば土砂災害や水害の危険が増大します。
また、森林が徹底的に破壊され、さらに太陽光パネルの反射光や輻射(ふくしゃ)熱の被害も受け、生活環境がひどく悪化します。
私たちはこのような、民家のすぐ近くに建設されようとしている大規模メガソーラーを決して容認することはできず、断固反対しています。

さまざまな問題点

土砂災害の危険が増大する
太陽光発電所計画地の直下流域は、多くが土砂災害警戒区域になっています。
現在はコナラなど地下数メートルの深さまで根を張る「深根性」の樹木が優勢であり、地盤を支えていますが、発電所建設のために樹木が伐採されたら、伐採された木の根は腐り、地中に空洞が出来て土砂崩れが起こりやすくなります。
土砂崩れが起きれば、家屋が土砂の下敷きとなり、住んでいる人が死亡する恐れがあります。

水害の危険が増大する

森林に降った雨は、数日間続く大雨でもない限り一度に大量に流れ出ることはありません。地中に浸み込んだり、樹木が吸い込んだり、葉によって蒸散するからです。
しかし、森林を伐採して太陽光パネルを大規模に設置すると、地面の不透水地率が飛躍的に上昇し、雨水の流出量が増大します。
また、樹木が無くなると、樹木が吸収していた水が吸収されなくなるので、水の流出量が増大します。
大規模太陽光発電施設には貯水池(調整池)を作ることは義務付けられていますが、想定を超える大雨が降った場合、貯水池の容量を超えてしまえば、超えた分の水は川に流れることになります。
各地で異常な集中豪雨が発生している現在、広範囲な森林の伐採は危険です。
(中略)

川の水質が悪化し、ホタルの生息に悪影響が出る恐れがある

(中略)

火災が起きた際、消火が難しい恐れ
太陽光パネルは発電を停止することが出来ません。たとえ送電ケーブルを切断しても、太陽光パネル自体は、太陽光が当たっている限り発電を続けてしまいます。
漏電やショートなどが原因で火災が起きた場合でも、発電を停止することが出来ませんので、火災が大きくなってしまう恐れがあります。実際、太陽光パネルが原因の火災は、わりと起きています。
また、発電を停止することが出来ませんので、消火活動を行う人が感電する恐れがあります。 たとえば火力発電所で火災が発生した場合、消火活動を行う前に発電を停止します。消火活動を行う人が感電するのを防ぐためです。しかし、太陽光パネルでは、それが出来ません。実際、太陽光パネルが原因の火災で消火活動をしていた人が感電した例があります。(こちらこちら)
メガソーラーは火災の危険があり、また、火災が起きた際には結構危険なのです。   

「ホタルの里」としての特長を持つ足守地区だけに、「ホタルの生息地」という点だけは多少の違いがあるかも知れませんが、そのほかの点ではそのまま作東地区のメガソーラー計画にもあてはまる問題点だと思われます。


話変わって、美作土居駅広場に掲示してあったこの看板。

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右端の方に気になる表示がありました。

トリミングしてみます。

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「八咫鏡発掘地跡」という表示です。

「ここ行ったことあります?」と、イチローさんに尋ねると、「あるよ」とのこと。ちょっと興味がわきましたが、メガソーラー見学の目的を優先する日程上、寄り道は遠慮しました。ところが偶然、昨日(9月1日)たまたま通りかかることになりました。

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施設に入っている伯母(母の姉)が、転倒骨折のため、兵庫県佐用町にある病院に入院中であるため、父母とともにお見舞いに行って来ました。行きは、伯母の家(母の実家)に近い杉坂峠を経由して、帰りは万能峠を通って県境越えました。

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杉坂峠は、かつては播磨(兵庫県南西部)と美作を結ぶ交通の要所で、鎌倉時代には関所が置かれていたそうです。元弘の変の失敗で隠岐に流される後醍醐天皇もこの峠を護送されたとされています。

ウィキペディアには、児島高徳についての記述にこうあります。

高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動経路誤判によって失敗に終わる。

高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦失敗の前に軍勢は雲散霧消してしまった。

その際、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。

因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。

このように、かつては杉坂峠を越えていた出雲街道は、関ヶ原の戦い後、津山に入った森蘭丸の弟森忠政によって整備され、少し南の万能峠=万の乢(たわ)越えに変えられたそうです。

その万の乢を、兵庫側から美作側に越えてすぐのところに、この「八咫之鏡発掘之地」の看板はありました。

今日はここまで。

次回に続くかも?


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