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あらまほしきものは、の巻 [折々散歩]

時計を少し巻き戻します。


【遠足の前日】


遠足の前日は、そわそわとして何かと落ち着かないもの。持っていくものやお小遣いを、何度もリュックに入れたり出したり、入れ替えたり、それだけで結構時間を費やします。


先日の退職同業者バス旅行は、(兼写真クラブ撮影会)と付記があります。つまり撮影に好適なカメラは?と、ああでもないこうでもないでもないと、レンズを付け替えたり、いったんバッグに収めたカメラを別のカメラと入れ替えたり、、肝心の電池が充電不足で、そのカメラの携行を諦めたり、、、。前日どころか当日の朝までこれが続きます。


そんなことばかりに煩わされて、集合時間は何時?行き先はどこ?などという大事なことは二の次。「県北」への旅ということだけがインプットされていて、なぜか勝手に蒜山高原近辺を思い描いていました。勘違いに気づいたのはバスに乗り込んでから(汗)


【朝の大慌て】


集合場所は総社駅前、出発時間は9時と、なんとなくインプットしていて、特に確かめようともせずにいました。あまり早く着きすぎても時間をもて余すだろうと、PCに向かったりTVを眺めたりあれこれと時間を費やして、ガソリンを給油したりして、十分余裕を持った出発のつもりで車を走らせているうちに、だんだん集合時刻が怪しく思われてきました。もしや8時30分だったらどうしよう、と思い始めると気が気ではありません。そんなときに限って、道を間違えたりします。しかも二度三度、車線変更レーンを間違えて、いつも通らない道を走りますから遠回りになります.ようやっと集合場所に着いたときには、まだ遅くない順番で、ほっとしました。
心が急いていると、うっかりミスが起こります。この旅行中、私を苛(さいな)んだ悲劇はこうして起こりました(大げさ!!)


【お懐かしい方々】


気の置けない方々とご一緒できるバス旅行は、それだけでも愉しいものですが、とりわけて嬉しいのは、Tさんのご参加。実は真備町のご住居は、先の豪雨災害で浸水・全壊。しばらくはお子さんの元に身を寄せておられたそうですが、最近新たにマンションに転居なさったそうです。お元気そうで何よりでした。


Tさんは、私が就職したての頃、同じ職場の先輩として、公私にわたって親身に指導していただきました。


当時から大変な読書家で、一万冊に及ぶ蔵書が、すべて水害で駄目になり、処分された由。淡々とお話になっていましたが、痛ましいことです。


この旅行の幹事役のY・Fさんも、青年の頃、職場は違いましたが同じ住宅で家族ぐるみの交際をしていただきました。この日は、奥様が参加されており、懐かしいことでした。


【バス出発】


バスは、国道53号線を経由して、県境の黒尾峠を越え、智頭→鳥取市へ向かいます。(昨日の記事参照)


車内マイクで、参加者が一言ずつ自己紹介・近況報告などをするなかで、「この旅行の素晴らしさは、優れた案内者があること。人生もまた、優れた案内者があるなしでは大違い。」と語られた方がありました。


この「自然歴史歴史探訪」という行事は、毎年二回ずつ実施され、今年で25年目。今回が第49回で、来年5月には第50回を迎えるそうです。そのすべてに渡って企画・立案に携わり、案内者として貢献してくださったNさんは、今回も周到な資料をご用意くださり、またそれ以外にも、通りかかる場所場所にまつわる「深いいお話」を、ふんだんに紹介してくださいます。


【先達はあらまほしきものなり---「移動講義室」で聞く深いい話】


たとえば、夏の洪水被害に関連して、高梁川・小田川の氾濫の大本は、江戸時代、岡田藩伊東氏が新田開発を狙って流路変更工事を強行したこと、また明治になっても、住民の懸念や要望を反映した治水を行わないできたことなど、「人災」である点を、歴史的経緯から詳しく明らかにしてくださいました。(退職同業者の全国組織の新聞に、記事を寄せられるそうです)


国道53号号線を北上しながら、その土地その土地にまつわるお話を聞かせてくださいます。たとえば、、、


・久米南町 片山潜出身地


概略はこの記事のごとし。


片山 潜 記念館(久米南町) - 津山瓦版


郷土出身の革命家・片山潜
片山潜は安政6年(1859)、久米南条郡羽出木村(久米南町羽出木)で生まれました。25歳の時の渡米で社会問題に関心を持ち、帰国後、労働組合結成の推進など社会運動家として活躍します。
当時は危険思想とみなされ、弾圧を受けましたが、潜は思想を曲げず大正3年(1914)、4度目の渡米を果たし、のちにロシアの共産党に共鳴、大正10年(1921)ソ連(現在のロシア)に渡り、共産主義政党の国際組織であるコミンテルンの幹部として反戦平和を訴え、世界を舞台に革命家として活躍しました。昭和8年(1933)ソ連で75歳の生涯を終えましたが、モスクワでの葬儀には15万人の人々が集まり、スターリンら共産党の幹部らがひつぎをかついでクレムリン宮殿の壁に埋葬されました。(文:片山潜記念館より抜粋)


・久米南町 誕生寺


以前これらの記事でも話題にしました。


孫殿の誕生待つや誕生寺


ところで、この誕生寺は、浄土宗の開祖法然上人の生誕地に建立された浄土宗の寺院で、建久4年(1193年)。法力房蓮生が建立しました。

この蓮生は、『平家物語』「敦盛(あつもり)最期」の段に登場し、17歳の貴公子敦盛を討ち取る巡り合わせとなった熊谷次郎が、殺生を性(さが)とする武士の身を厭い、この世の無常を嘆いて出家し、法然の弟子となったのでした。

(中略)

この熊谷次郎直実=法力房蓮生が師と仰いだ法然は、この土地で押領使の漆間時国(うるまときくに)の子として生まれます。勢至丸と名付けられた彼が9歳の時に、父は預所の明石定明によって殺されます。九歳の勢至丸は小弓で敵将定明の右目を射て退散させましたが、父時国は臨終に際して、勢至丸に仇として定明を追うこといましめ、「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ。」と遺言したといいます。

この熊谷次郎直実=法力房蓮生が師と仰いだ法然は、この土地で押領使の漆間時国(うるまときくに)の子として生まれます。勢至丸と名付けられた彼が9歳の時に、父は預所の明石定明によって殺されます。九歳の勢至丸は小弓で敵将定明の右目を射て退散させましたが、父時国は臨終に際して、勢至丸に仇として定明を追うこといましめ、「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ。」と遺言したといいます。(中略)

追伸:このブログ執筆中にネット検索で目に入った情報ですが、誕生寺のご住職が「宗教者九条の会」 および、「岡山県九条の会」の呼びかけ人に名をつらねていらっしゃる事を知り、感銘を覚えました。

九条のめざす理想と、宗教者の抱く理想とが、大局で合致するということは、当然と言えば当然ながら、改めて勇気づけられる想いがしたことでした。


川柳を作りたくなる俺がいる


青葉の笛に江戸川柳、そしてお次は蕎麦と鳩


・津山市福田(佐良山)の殉教五人衆


津山瓦版「比丘尼塚(びくにづか)」の記事参照。


この古墳は剣戸13・14号墳が正式な名称ですが、330年程前キリシタンと共に幕府から弾圧された日蓮宗不受不施派の信徒である佐伯の本久寺の住職日勢 聖人がこの古墳を最期の地と定め閉じこもりました。この話が伝わり、建部の4人の女性が共にこの古墳で最期を迎えたことからこの名で呼ばれています。

(中略)

福田五人衆

備前での寛文の法難は、藩主池田光政によって不受不施派への徹底的な弾圧が加えられた。備前佐伯本久寺住僧の竪住院日勢聖人は難を遁れて作州に潜入後、寛文9年(1669)2月に此の塚を断食終焉の地と定めて入篭せられた。奥壁に向かい読経唱題しつつ玄題を刻み、従う4人の比丘尼と共に入定される。

日勢聖人 3月13日寂 41歳

妙意尼 3月18日寂 34歳

妙定尼 3月21日寂 21歳

妙現尼 3月24日寂 22歳

妙勢尼 3月26日寂 42歳

平成21年 高祖会砌

日蓮宗不受不施派 立正護法会建立 (案内板より)


・因美線高野駅


現在は無人駅ながら、不釣り合いなほどに長いホームが残っています。そのわけは、戦前、日本原の陸軍演習場に向かう兵士達がこの駅に降り立って、日本原まで列をなして行進した。その名残が長大なホームと立派な駅舎だといいます。二年前の智頭への旅では、この駅を実際に見学しましたが、今回は近くを通っただけ。


・日本原


「日本原」の名前の由来は諸説あるそうですが、ウィキペディアにはこう解説されています。


日本原の地は古くから原野であり、天文年間(1532年から1554年)に六十六部で諸国を廻った農民の福田五兵衛が最後にこの地に住み着き茶屋を開いた。この茶屋で街道を行き交う旅人に日本各地の話を聞かせ、やがて茶屋を「日本廻国茶屋」と、福田五兵衛は「廻国五兵衛」と呼ばれるようになった。後にこの地は日本野と呼ばれ、これが日本原の地名の起こりとされる。


一帯は強い酸性土壌で作物の生育に適さず、地形が大陸に似ていることなどから、明治以降、旧陸軍の演習地として利用されてきました。戦後は、駐留軍演習場として、イギリス軍、オーストラリア軍、カナダ軍などの演習に使用されましたが、朝鮮戦争の終了にともない、警察予備隊→自衛隊の演習場、駐屯地として使われています。


この一〇月、米海兵隊の単独訓練が強行されています。


・那岐山、菩提寺


鳥取県境の高峰那岐山と、古刹菩提寺について聞きながら、以前書いたこんな記事を思い出していました


そのかみの十五の吾も仰ぎ見し大き銀杏はとこしえにあり


那岐山をご存じでしょうか。
岡山県と鳥取県にまたがる高峰で、氷ノ山(兵庫県)、後山(岡山県)、とならんで、氷ノ山後山那岐山国定公園に指定されています。
この山にはイザナギ、イザナミの両神が降り立ったという伝説があり、伊邪那岐(イザナギ)の名が、山の由来になったとされます。
標高は1255.0 m。隣接する後山(岡山県第一の高峰)が標高1344mで、その高さに負けて泣いたことから「ナキノセン」と呼ばれたという、面白話も残されています。

ところで、この那岐山の鳥取県側にはJR因美線那岐駅(なぎえき)というローカル駅があります。鳥取県八頭郡(やずぐん)智頭町(ちずちょう)という、難読地名がその所在地です。
一方この山の岡山県側には勝田郡(かつたぐん)奈義町(なぎちょう)があります。
そして、その奈義町には諾神社(なぎじんじゃ)という神社があり、伊弉諾尊(イザナギノミコト)を祭っているそうです。
「伊邪那岐」は古事記による表記、「伊弉諾」は日本書紀による表記だそうです。

いつものように、ウィキペディアのお知恵を借りると、
なぎとは、平坦な安定した状態を表す言葉で、古語でもある。「なぎ」という発音が先にあり、後から様々に漢字が当てられ、和ぎ・凪・薙ぎとも表記する。反対語として荒れや波や起伏がある。
とあります。そして、

・南木(なぎ)楠(クスノキ)のことで、南木(なぎ)と名づけ神木として祀っている神社がある。
・梛(なぎ)那木・竹柏とも表記し、ナギという樹木のこと。ナギがなぎ(和ぎ)に通じることから、神籬(儀式の依り代としての枝葉の意)として使われる。
・榊(なぎ)サカキのことで、「なぎ」ともよばれる。神籬として使われる。

(中略)

この寺は、前述の記事その1その2その3で訪ねた「誕生寺」ゆかりの人、浄土宗の開祖・法然上人が、少年時(9歳~13歳)修行した「法然上人初学の地」といわれます。少年法然が、修行のために菩提寺にいる叔父の元に向かうときに、麓にあるイチョウの枝を杖にして登り、この枝を「学成れば根付けよ」と挿したものが現在の大イチョウになったと言われています。



黒尾峠を越えて鳥取県智頭町に入るあたりから、昨日までの記事に繋がります。


「先達はあらまほしきものなり」(徒然草 第52段 仁和寺にある法師)のひとことが身に沁みます。


【今ひとつ、あらまほしきもの】


「この旅行中、私を苛(さいな)んだ悲劇」について書きます。


用瀬流しびなの里に降り立ち、会計係さんに今回の参加費を支払う段になって、パニックに見舞われました。バッグのどこを探ってもお財布が見当たりません。昨日確かに現金も準備し、バッグの一番取り出しやすいポケットに入れたことは覚えています。駐車場で自家用車から降りて、待ち合わせ場所でバスに乗り込むまでの間に、バッグから滑り落ちたでしょうか?中には、運転免許証も健康保険証もキャッシュカード・クレジットカードはじめ各種カードも入っています。困ります。


望むらくは、駐車場で車から降りるとき、あわててお財布を何かの弾みに座席に置き忘れたのなら、、、、うれしさこの上もないのですが、、、。


それはそれとして、とりあえず、参加費支払いというこのピンチを切り抜けなければなりません。恥を忍んで会計係のKさんに訳を話し、後払いを了承していただいてほっとしました。それだけでなく、お隣の座席のOさんが、「一緒に払っておくよ」と快く立て替えてくださいました。
「持つべき者は友」と昔から言いますが、まことにつくづくそう思いました。


あらまほしきものは、先達。さらに今ひとつ、「友」と言わねばなりません。


【大団円】
そして結末は、はてさてどのようになりましたでしょうか?


集合場所=解散場所の総社駅前でバスを降り、車を停めた駐車場に向かいます。そばを歩くMさんにも顛末を話し、「もしも財布が見つからなかったら、駐車料金を貸してね」と、半ば冗談、半ば本気でお願いしたら、彼の自動車からずいぶん離れた場所に駐めていた私の駐車場所まで一緒に歩いてくれるのでした。またまた「持つべきは」と胸が詰まりました(ホントです)。


はやる思いでドアを開けて確かめてみると、助手席の座席の下に、ちゃんと落としておりました。Oさんに立て替え分をお返しし、Mさんにお礼を言って、ようやく人心地がついたのでした。


今日の付録


一昨日実家に帰ったついでに、長福寺五重塔に立ち寄りました。


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今日はこれにて


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錦秋の佐治谷七里辰巳峠を越えて恩原へ、の巻 [折々散歩]

昨日のバス旅記事の続きです。

次に向かったのは鳥取市佐治町。佐治川沿いの、「佐治谷七里」とよばれる東西に細長い山里です。梨•星•むかし話•石•和紙の5つの「し」が名物の「五しの里」をアピールして村おこしをはかっているそうです。

:二十世紀梨を中心に県内有数の梨の生産地。
:国内最大級の天体望遠鏡のある天文台と宿泊施設が一緒になった施設「さじアストロパーク」があります。
むかし話:「佐治谷ばなし」は、世間知らずや常識を知らなかったための笑い話が語り継がれた民話です。
:佐治石は、盆石や庭石として全国的に有名。
和紙:県の無形文化財である因州和紙(高級書道用紙として知られるのみつまた紙)の生産地。

佐治町中央公民館と、隣接の佐治村民俗資料館を訪ねました。

多彩な佐治石が展示してあります。

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懐かしいモノ、懐かしい空気で一杯です。

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錦秋の佐治谷。

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往路は黒尾峠を越えて鳥取県に入りました。

帰路は、辰巳峠を越えて岡山県に入ります。

標高800~1000mの恩原高原は、冬はスキー場、夏はキャンプ場としても賑わう

恩原湖で、しばし散策。

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この恩原湖畔に、「九条の碑」が建てられています。

戦争法強行に抗議し、私財をなげうって建てられました。

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自然歴史探訪の案内をいつも勤めてくださるNさん(写真)は、1980年代にこの地域で発掘された恩原遺跡の出土品の写真を示しながらこうおっしゃいます。「恩原遺跡は、旧石器時代の遺跡。鋭利な石器は、人殺しや戦争のためには使われなかった。人殺しや戦争がなかった原始共産制時代を現代に伝える恩原遺跡があるこの地に、戦争の放棄を訴える九条の碑を建てられたことは、深い関連がある、と私は思う。」

2016年6月20日付の朝日新聞digitalにこんな記事がありました。

憲法施行から69年たった先月3日。元津山市議の秋山幸則さん(75)は、白い手袋をして鏡野町上斎原にある恩原湖のほとりに立っていた。紅白のひもを引くと、白い幕が下りて高さ約2メートルの黒御影石の碑が日差しに輝いた。大きな文字で「戦争の放棄」。その下には憲法9条の条文。親族や仲間ら約50人と記念撮影をして完成を祝った。

昨年9月、安全保障関連法が強行採決されたとき、反戦・反核を信条に市議を7期28年務めた秋山さんは「米軍の友軍として、殺し殺される国になってしまった」と危機感を抱いた。現在は市民グループ「憲法9条世界へ未来へ岡山連絡会」(事務局・岡山市)の共同代表。「自分自身の活動の集大成として、9条の大切さを後世に伝えたい」と石碑の建立を思いついた。

仲間の協力も得て、約90万円をかけて鏡野町の所有地に碑を建てた。裏面には、こう刻んだ。「全国の仲間と共に憲法違反の戦争法の廃止を勝ち取り 憲法九条を守り抜く決意を込めて」

この記事、またまた次回に続きます。

今日の付録

今朝、日の出前後の田園風景です。

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今日はこれにて。


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絶好の行楽日和、の巻 [折々散歩]

「絶好の行楽日和」に恵まれた昨日は、私の所属する退職同業者の親睦組織の、「自然歴史探訪」というバス旅行に参加してきました。例年、初夏と秋とに実施され、過去にも何度か参加したことがあります。


その初回の経験は、鳥取県智頭町を訪ねた2016年の5月のことでした。この記事に書きました。


「良い風が吹きますねえ」とすれ違う


今回も、同じように県境を越え、鳥取方面へのバス旅です。前回訪問した智頭町を通って、鳥取市用瀬町へ向かいます。


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鳥取市用瀬(もちがせ)は、流しびなの里として知られ、智頭往還(上方往来)の宿場町でした。江戸時代に「お前在所はいずくときけば、父は用瀬お茶師さん」と茶もみ歌にうたわれる茶所だったといいます。


ここでの主な見学場所は用瀬流しびなの館とその周辺。


用瀬町ふるさと振興事業団 流しびなの館公式サイト


まずは、付設の喫茶・お食事の「ぼんぼり」で昼食と歓談に至福のひとときが流れます。


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「もちがせ 流しびなの館」は、京都・北山の鹿苑寺(金閣)をモチーフにした大型木造建築物だといいます。


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鳥取市公式webサイトには、このように説明されています


館内には、雛人形の文化が大きく発展した江戸時代の雛人形を中心に、江戸風、京風の雛飾り、加茂人形、御所人形など約1000体の人形を常時展示しており、木と雛が織りなす独特の美しさと雛人形の文化を今に伝えています。

また、館内には押絵雛や雛道具をはじめとして、雛人形と関連の深い掛け軸、衣装人形、芥子(けし)人形、市松(いちまつ)人形、土雛・雛天神、竹田人形なども展示しています。


腹ごなしをかねて、館内2階展示室ののとりどりの展示を見学したり、望楼からの展望を楽しんだり、流しびなの伝統行事が行われる千代川(せんだいがわ)の畔を散策したりと、歴史と文化と自然を満喫したひとときでした。


入館券とともにいただいた「用瀬町ふるさと振興事業団」作成のパンフレットには、こんな説明文が掲載されています。


■流しびな
もちがせの流しびなは旧暦の三月三日、男女一対の紙雛を
桟俵(さんだわら)にのせ、菱餅や桃の小枝を添えて、災厄を託して千代川に流します。無病息災で一年間幸せに生活できますように願う情緒豊かな民俗行事です。昭和六十年、県無形民俗文化財に”もちがせの離送り” として指定されています。もともと物忌み行事で、紙などで人形(ひとがた)を作り、これで体をなで、災いをその人形にうつして川や海に流す行事から生まれた風習です。離流しそのものの原型は、平安時代にさかのぼるといわれています。


館内の展示については、スナップ程度は可だが、詳細な写真撮影は遠慮して欲しいとのことでしたので、興味深い数々の展示は、感嘆しながら見学するにとどめました。


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望楼から望む千代川方面の眺望。


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川の畔の風景。


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千代川の清流。


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川縁に、こんな句碑がありました。


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「里の子の晴着の袖や雛流し」 水原 春郎


水原春郎は秋桜子の長男さんだそうですね。


また、喫茶「ぼんぼり」の前にもこんな句碑。


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「やゝありて 流れはじめし雛(ひいな)かな」 黛 まどか


1962年生まれの若手女流俳人。


あとで調べると、他にもこんな句碑があったそうですが、見つけられませんでした。


「山里はむかしのままや雛流す」 八百谷 杜仙
「瀬の曲りなぞりて雛のながれゆく」 山口 誓子


この続きはまた次回といたします。




今日の付録。


郷里の老父が、転んだ拍子に膝を痛めたらしく、今日はかかりつけのお医者に連れて行きました。聞くとどうやら、昨日の午後のことらしく、私は私で中国山地を挟んで、岡山県北の実家とは遠からぬ場所にて行楽していた頃かも知れません。レントゲンやCTなどいろいろな検査をしてもらいましたが、大事ではなさそう。数日間、固定して治癒を待つということです。


行ったついでに、畑の、玉ねぎ植え付け予定場所をちょっくら耕耘しました。帰り際ふと見あげると、電線に、ジョウビタキ♂の姿が。遠いので点にしか写りません。トリミングしてようやくはんべつできましょうか?


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きょうはこれにて。


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奇遇、の巻 [折々散歩]

先日、古い記事を探っていて、去年の今頃こんなことを書いていたのを見つけました。

取り急ぎご報告まで、の巻

先日、この記事で、今シーズン初のジョウビタキ撮影を報告しました。
自然環境体験公園の雨、の巻
そうするうちに、我が家の近辺でもジョウビタキを見るようになりました。
今日の散歩中に、我が家の近所の電線に止まるジョウビタキ♂。

昨日は、自然環境体験公園で、ジョウビタキ♀を見ました。
(中略)
トリミングします。

そして、昨日はこの鳥に会いましたので、取り急ぎ報告します。

(中略)
トリミングして顔をアップにします。

頭のてっぺんの黄色い飾りがすこしだけ写せました。
キクイタダキ(菊頂)でしょうか?もしそうだとすると、県内では早い情報だと、M師が教えてくださいました。早いのが取り柄ですので、取りあえず写真をupしておきます。

そう言えばジョウビタキの季節か、と気がついて数日。鳴き声を聞いたり姿を見かける機会はあるのですが、まだ写せずにいました。

昨夕からの雨も上がったので、今朝は少し畑仕事(玉ねぎ植え付けの準備)をしてから、自然環境体験公園を歩いてみることにしました。が、公園の開園時刻は9時ですので、少し時間つぶしのために児島湖周縁を歩いてみました。

駐車スペースに自動車を駐めようとしているとき、目の前をジョウビタキ♂が横切ります。カメラの準備が間に合わす、撮り逃がしましたが、歩くにつれて、どこからともなくコツコツコツ、キーキーという独特の鳴き声が聞こえて来ます。

と、草むらめがけて飛んできた小鳥があります。

これは、カワラヒワでした。

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トリミングします。

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モズ。

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児島湖も秋のたたずまいです。

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ダイサギ。

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カワウ。

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オオジュリンかな?

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カルガモ。

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オオバン。

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キンクロハジロ。

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冬鳥の姿が徐々に増えてきているようです。

こんな撮影をしながらもと来た道を引き返していますと、妙齢のご婦人(死語?)がお一人、野鳥観察・撮影中とお見受けしました。軽く会釈して通り過ぎかけたとき、「何か珍しい鳥がいましたか?」と、お声をかけてくださいました。

キンクロハジロについて報告し、ジョウビタキも見かけたが撮影できなかった由、申しますと、一週間ほど前、ご自宅の庭で撮影なさったと、スマホで写真画像を見せてくださいました。野鳥、風景などの写真を中心に、ブログをつくっていらっしゃるそうで、ブログ名も教えてくださいました。(コチラです)自然環境体験公園もご常連で、お住まいも、湖を隔ててほど近くとのこと。奇遇とも言うべき出逢いでした。

そうやって立ち話をしているときに、電線に一羽の小鳥が飛び上がりました。

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ジョウビタキ♀でした(トリミング画像です)。

さらにもう一羽、電線に止まります。

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手前はさっきのジョウビタキ♀で、向こうがカワラヒワのようです。面白いコラボです。

そこでひとまずお別れし、私は所期の目的地「自然環境体験公園」へ向かいます。残念ながらめぼしい鳥には会えませんでしたが、秋の自然散策を楽しみました。

モミジバフウの落葉。

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赤味を増したモミジ。

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クヌギの実。

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ガマズミの実。

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桜モミジ。

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ハナミズキの紅葉。

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たわわなカリン。

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秋の水路。

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実はこの水が、汚水を処理したあとの水だという紹介は、以前書きました。

今日はこれにて。


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柿の日に柿を食う、の巻 [今日の暦]

昨日ご紹介した「ラジオ深夜便誕生日の花と今日の一句」の、今日、10月26日の誕生花はモヨウビユだそうですが、その項に添えられた句は、これ↓


柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規


正岡子規については、過去何度も話題にしてきましたが、2013年の今日、こんな記事を書いています。


柿の日や何を夢見る紅葉の手(季重なり)


柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
またまた子規の話題です。ブログのタイトルが「ナードサークのシキ」というくらいですから(汗)。
今日は、子規がこの句を詠んだとされる日で、それにちなんで「柿の日」と定められているそうです。奈良県公式ホームページによると、全国果樹研究連合会のカキ部会が、全国柿産地の賛同を得て制定、2005年8月に日本記念日協会の認定を受けたとあります。


子どもの頃から知っていて、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 ゴーン」と行って友達と遊んだ句ですが、私にはこの句のすばらしさは、もう一つわかりません。古都奈良のたたずまいと、秋の冷涼な空気感、柿の鮮やかな色と歯触りの快さ、そして甘くジューシーな味わい。きっぱりと切り取られた見事な季節感、、、、。等と書いてみると、もっともらしく聞こえはしますがね。

この句を詠んだのは、法隆寺ではなく東大寺のほとりの宿屋だとか。食べた柿の品種は、奈良の「御所柿」であるとか、伝えられています。

(中略)

今日は何の日?その2。

未明、4人目の孫が生まれました。日付が変わる頃、兆しを感じて病院へ送り、そのまま入院。

連絡を受けて、大阪から高速道を飛ばしてきた二男は、幸運にも丁度お産に立ち会えたようで、 感銘深げでした、

今日、みんなで、赤ん坊を見てきました。

「親ばかになりそう」と、新米親ばかが言っていました。

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(中略)

モミジの手、よりも小さい。

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いとこ同士。

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この赤ちゃんだった女の子が今日5歳になり、さっき電話をかけてくれました。まことに光陰の矢のごとしです。


この記事に書いた「柿の日」という記念日についてはすっかり忘れていましたが、たまたま今日は田舎に帰って、柿をたくさん採って帰りました。


山の畑に老木が何本かあり、家の庭にも柿の木が植わっています。


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見栄えは悪いですが、味は上々。秋の恵みです。



先日耕耘した畑に、たくさん足跡があります。鹿の親子が跳ね回って遊んだらしい。


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家に接した菜園場のニンジンの葉もかじられたと、老母が感心していました。


ミカンの葉は、アゲハの幼虫に侵食されていますし、、。


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今日は秋晴れの良い天気でしたが、下り坂に向かうという予報通り、アマガエルが鳴き出しました。


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実際に、夕方には雨が降り始めました。明日もぐずついたお天気だとか。


家に帰ると、お向かいさんが、庭の柿の木に実った富有柿を、お裾分けにくださったそうです。まさしく、柿の日でした。


きょうはこれにて。


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誕生日の花、の巻 [折々散歩]

NHK「ラジオ深夜便」に、誕生日の花というコーナーがあり、本が出ているので、機会があったら買って欲しいと、以前、田舎の老父に頼まれ、この二冊を贈ったことがありました。



ステラMOOK ラジオ深夜便 誕生日の花と短歌365日 新装改訂版

ステラMOOK ラジオ深夜便 誕生日の花と短歌365日 新装改訂版

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: NHKサービスセンター
  • 発売日: 2013/06/18
  • メディア: ムック



ラジオ深夜便誕生日の花ときょうの一句 第2集 (ステラMOOK)

ラジオ深夜便誕生日の花ときょうの一句 第2集 (ステラMOOK)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: NHKサービスセンター
  • 発売日: 2011/03/18
  • メディア: ムック



父は、一冊でいいからと、下の一冊は返してくれました。


この本の10月25日付けの「きょうの一句」は


 晴天は鵙(もず)がもたらすものなりや  山口波津女


解説に「『鵙の高鳴き』などと言われるように、鵙は高いこずえで鳴く。その鋭い鳴き声が澄んだ大気に響きわたった。」とあります。


ここのところ毎日、モズの高鳴きを聞きます。今日は自宅のすぐ上の電線でも、散歩道の木々の梢でも、盛んに鳴いています。


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残念ながら、今日はカメラの準備が間に合わず、撮影できませんでした。上の写真は先週のものです。


今日の「誕生日の花」は段菊だそうです。


ところで、父が興味を持った花のひとつは、この「ミズアオイ」。


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8月29日の誕生花だそうです。


「今日の一句」に引いてある句は、


 水口に燕来てゐる水葵 福島勲


父の通うリハビリセンターの職員の赤ちゃんと、大阪の孫が、いずれも名前に「アオイ」がつくのを面白がっていました。さて、その大阪の孫がそろそろ5歳の誕生日を迎えます。五年前にこんな記事を書きました。


こんにちわ!赤ちゃん


赤ちゃんが退院し、次の検診まで2日ほど、我が家に滞在します。

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もみじの足?

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芥川龍之介の『河童』の国では、この世に生まれてくる意思があるか否かを、赤ん坊自身に確かめた上で、生まれる意思のあるものだけが誕生することになっているのだそうです。

わたしたちの国では、生まれてくるつもりがなくっても、生まれて来なくてはなりません。しからば、大人の責任で、生まれて来てよかったと思えるような国に、してやりたいものです。

それから、高齢者が、生きて来てよかったと思えるような世の中でありたいと、切に思うこのころです。


遅ればせながら、誕生祝いに絵本とお菓子を送っておきました


ちなみに、上のミズアオイは、先月、半田山植物園で写したもの。そういえば、ガガブタは咲いていたの記事で掲載した写真も、半田山植物園のものでしたか?記憶がアイマイです。


絶滅危惧種のミズアオイ
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先月の半田山植物園にはこんな花も咲いていました。


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ツリフネソウです。


前述書によれば9月12日の誕生花だそうで、この句とともに紹介されています。


水急ぐ釣船草を置き去りに 大橋敦子


今日の付録。


以前父が話題にしていたトケイソウ。


ストック画像を見つけ出しましたので、ついでに貼っておきます。


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今日はこれにて。


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雨のち晴れの秋の空、の巻 [折々散歩]

昨日一日、冷たい雨の中、健診を受診する妻を小一時間かけて指定の病院へ送り、そのままとんぼ返りして今度は車検のためにディーラーへ車を運びます。代車を借りて、妻を迎えに病院へ.午前中はほぼこれで終わり。

妻の健診結果は、軽い肺炎を起こしているとのことで、午後はかかりつけ医へ診察に。数日前からもらっている抗生剤を、今度は少し強めのものに変えてもらったそうです。

雨の中、傘差し散歩を試みかけたのですが。予想以上に激しい降りなので、ホームセンターなどへ車(代車)で出かけ時間をつぶしたり、ちょっと畑をのぞいてきたり。そうして家に帰ってみると、玄関の扉の鍵が開いています。確か鍵をかけて出かけたはずなのに、と不審に思って玄関に入ると、小学生の孫二人が、合い鍵で開けて家の中に入っていたのです。見ると冷蔵庫のジュースも探し出して一杯やって、寛いでTVの録画番組を見ています。ちゃっかりしたものです。

彼らの小学校では、今六年生が修学旅行中で、五年生の兄が、今朝は登校班班長代理の役目を果たして登校してきたそうです。それなりの達成感を得たもののようです。二年生の妹は、かけ算九九学習の真っ最中。二の段よりも五の段から始めるのですって。それにしても、なかなかのハードルです。

夕方、ディーラーから車検終了の連絡がありましたので、「一緒に行く?」と、冗談に誘うと、「行く」と言います。どしゃ降り雨が続く中、ちゃんと傘も用意して、一緒にディーラーへ。事務手続きが終わったところで、なじみの店員さんが、兄妹全員分のおもちゃやお菓子をくださいました。それを狙っていたワケでもないのでしょうが、満足して上機嫌で帰りました。

一夜明けると、うって変わった晴天。朝は深い霧で、濃霧注意報がでていました。昼間は眩しいほどの晴天。

夜は、こんな明月でした。

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今日はここまで。


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今朝のニュース、その他、の巻 [時事]

今朝の朝刊に、特筆すべき記事がありました。


地元紙『山陽新聞』の一面トップ記事は中距離核廃棄条約離脱へ 米大統領表明「ロ違反」という見出し。核廃絶への人類の願いを嘲弄し、「核なき世界」への歩みに逆行するトランプの野蛮。
三歳児に凶器を持たせる恐怖を、現代人類はいかに脱することができるのでしょうか?




その次に大きな見出しは、下村脩氏が死去 蛍光タンパク質ノーベル化学賞。

記事中に、「16歳で長崎に投下された原爆を体験」とあります。また、第3面に、共同通信記者川口敦子さんの署名記事で「評伝 下村脩さん」と題する囲み記事が載せられており、「16歳だった1945年8月疎開先の長崎県諫早市で原爆を体験した。「強烈な閃光で目がくらんだ」といい、工場から自宅に帰るまでに、黒い雨で白いシャツが黒く染まった。(中略)2015年には、こうした体験を長崎市で開かれた、核兵器と戦争の廃絶を目指す科学者らの国際会議「パグウォッシュ会議」の世界大会で講演。科学研究には軍事技術に転用される恐れがあることを念頭に、「原爆のショックで人生観が変わった.戦争と核兵器の内世界を望む」と語りかけた。」と紹介されています。

「毎日新聞」デジタル版の記事にも、こうありました。

下村さんは1928年8月、京都府福知山市生まれ。父は陸軍の軍人だった。戦争に伴い、母の実家がある長崎県諫早市に移った。16歳の時、爆心地から約12キロ離れた同市の工場で勤労動員の作業中に原爆を体験した。

毎日新聞の生前のインタビューに、原爆投下の瞬間を「閃光(せんこう)がまぶしく、その後の爆風はすさまじかった」と振り返った。やがて市内の母校の中学校は収容所となり、多くの遺体や焼けただれた被爆者が運ばれ、「姿を見てびっくりした。可哀そうでした。(その惨状は)思い出したくもない」と声を震わせた。

原爆投下から1カ月半後、米を運ぶため長崎市内も歩いたといい、「みんな真っ黒焦げで、ひどい光景でした。戦争はよくないですね」と思いを語った。
(中略 )
緑色蛍光たんぱく質の発見で2008年のノーベル化学賞を受賞した際には、ストックホルム大での記念講演で、舞台上の画面に原爆で焼け焦げた長崎の写真を映し出し、「生き残れたのは幸運だった」と語り、平和の尊さを訴えた。

トランプをはじめ、核軍拡に固執する政治指導者達、そして、「核の傘」論を振り回して、唯一の被爆国政府としての責任を投げ捨てて恥じない日本政府の面々、血の叫びにも似たこの訴えに耳を傾けてはどうですか?


「山陽新聞」では、第2面の記事になっていますが、私にとってはトップ記事というべきは、那覇市長に辺野古反対派 城間氏再選 政権側破る の快挙。爽快至極です。

今朝の「沖縄タイムス」web版は、こう書いています。

「こうも簡単に見捨てるのか」 政府与党、劣勢で配慮一転 那覇市長選敗北

沖縄県知事選、豊見城市長選に続き那覇市長選でも敗北し、3連敗を喫した自民党。知事選では菅義偉官房長官ら閣僚や重鎮議員を大量に送り込み、国政並みの選挙戦を展開した政府・与党だが、那覇市長選では翁長政俊氏「劣勢」を見越し、選挙戦に配慮する姿勢を示さなかった。
選挙終盤の17日、政府は名護市辺野古の埋め立て承認撤回への対抗措置を打ち出した。政府はこれまで、投票結果への影響を避けるため選挙中は新基地建設工事を中断することが常とうの手法だった。
今回も、対抗措置は那覇市長選後との見方が強かった。17日の発表を聞いた県連関係者は「厳しい情勢調査の結果を見て、もう、選挙に配慮する必要はないと判断したのだろう」と指摘。「これまで政府とのパイプ役を担ってきた翁長氏をこうも簡単に見捨てるのか」と憤った。

これでもかとばかりに示された民意。「沖縄の心に寄り添う」と言いながら、なりふり構わず新基地建設を急ぐ政権の不実。退陣あるのみでしょう。


以下は、昨日アップし損ねた画像です。

自然公園体験公園のプチ散歩での撮影です。

モミジバフウ。

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わずかに色づき始めたモミジ。

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ガマズミの赤い葉と実。

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ハナミズキも真っ赤。。

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採餌中のダイサギ。

クヌギのドングリが、たくさん転がっています。

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採餌中のダイサギ。。

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ハクセキレイ。

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以上、PENTAXK5Ⅱ+AFBORG 45EDによる撮影です。

ちなみに、リコーGXRに、TAMRON SP 500mm F/8をつけて撮影。手軽に500mmの超望遠が体験できるのは嬉しいです。ノートリミングでこの大きさに写せます。小さなモニターで画像チェックする限りは、十分な写りです。、、、が、拡大表示してみるとやはり精細さに欠けますね。

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今日はこれにて。

 


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昨日今日の備忘メモ、の巻 [折々散歩]

書くべき題材はあるのです。

が、時間と、気力が足りません。

とりあえず、昨日。今日の備忘メモです。

昨日は午前中、内科と眼科を梯子。内科でひと月分の度の血圧の薬をもらったあと、眼科に向かいます。車で10分ほどの距離ですが、予約時間まで間があります。

時間つぶしに近くの田園地帯を歩いてみました。以前は家からここまで、時々歩いたことのあるコースです。

夜から朝に欠けて雷雨があり、明け方も雨が続くかと思われたので、防塵防滴のカメラfuji FinePix S1を車に乗せていました。

雨はすっかり上がり、秋の日が射しています。刈り入れ間近の稲穂が黄金色に輝いています。

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刈り入れの済んだエリアとのグラデーションが絵画的です。

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アオサギ。

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ダイサギ。

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コガモがやってきています。

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けたたましい鳴き声のモズ。

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トリミングします。

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午後は、退職同業者の会の所属支部で、八十五歳を迎えられた先輩の長寿をお祝いする会が開かれました。おいでくださった先輩はUさん、Iさんのお二人。

Uさんは、以前、同じ職場で長くお世話になり、その人となりは十分承知しているつもりでしたが、自己紹介がてら語られた生い立ちは、初耳の部分も多々あり、改めて歩んでこられた人生の重みを感じました。10人兄妹の一番上のお兄様は、少年の頃、陸軍演習場内の不発弾に触れた爆死された由。次兄は小学校高等科を卒業ののち、満蒙開拓青少年義勇軍の一員として志願して満州に渡られ、敗戦後、引き上げの途中亡くなられたそうです。と言っても、確かめるすべはなく、同行の帰還者の口から聞かされたというだけだそうです。

小6で敗戦を迎えられますが、自身の経験からも戦争には特別の思いがある、とおっしゃいます。きな臭い昨今、ご自身の部屋には、集会や行動のたびごとにもらって帰った金子兜太さん揮毫の「アベ政治を許さない」のポスターをはじめ、憲法まもれ、辺野古基地反対などのポスターを貼って毎日拝んでいる(笑)とのこと。

そう言えば、この夏も、炎天下の平和行進でお会いしました。(猛暑日の涙、の巻の記事の日)。またこの記事↓をはじめ、これまで話題にしてきた年金者組合の行事や行動、裁判などの場でも度々お目にかかることができます。

マクロスライド?なんのこと?---消えた傑作の巻?

そのようなわけで、ご退職後25年もの歳月を感じることなく過ごしてきましたが、改めて考えれば得難いお手本と、頭が下がります。

Iさん(女性)は、勤務地、学校種別の違いもあって、在職中面識はなかったのですが、お伺いするとこれまた歴史の重みに圧倒される半生です。僻地の小学校勤務から教職生活を始められ、長く養護学校(現在の特別支援学校)で障害児教育に携わってこられました。組合婦人部(現在の女性部)で率先して活動されたご様子を、同席の後輩女性元教師の方々が、こもごもに回想して語ってくださいました。職場での男女差別は近年に至るまで厳しく、職場ではお茶汲みが日常茶飯、退職年齢も男女差別があり、出産・育児と仕事を両立することがきわめて困難な時代、職場の民主化、退職(勧奨)年齢差別撤廃と年齢延長、出産育児休暇の拡大など、血のにじむようなたたかいの積み重ねが、昨日のことのようにありありと目に浮かびます。ところで、このiさんも、生まれは旧満州、小6で敗戦を迎え、命からがら引き揚げてこられたそうです。
会場には、少し年下ながら、旧満州からの引き揚げを体験された方が他に二人もいらっしゃいました。その中のお一人、Yさんは、最近NETなどで、中国・韓国などへの侮蔑的なヘイトが目に余る、戦争前夜、戦中の空気に酷似しているのでは、と強調されました。ぞくりと肌が寒気立つ思いがしました。
そう言えば、支部が違うこともあってその場には参加されていない、Nさん、Tさんなどからも、引き揚げのお話をうかがったことがありました。満蒙開拓の歴史が、ぐっと身近に迫ってくる思いがします。

以前書いたこんな記事を、ふと思い出しました。

散歩道のモズが思い出させたこと、の巻

ところで「もずが枯れ木で」の「兄さ」は、兵士として満州に渡りました。しかし満州に渡ったのは、兵士ばかりではありません。
「満州事変」後、「満蒙開拓団」と呼ばれる数十万人に及ぶ「移民」の一団が、「国策」として旧満州(中国東北部)に送り込まれたのでした。
「デジタル大辞泉の解説」を引用します。

まんもう‐かいたくだん【満蒙開拓団】
満州事変後、日本が満蒙地区に送りこんだ農業移民団。昭和7年(1932)に第一次移民が送り出され、昭和20年(1945)敗戦時には約32万人がいたといわれる。多くがソ連・満州国境地帯に入植し、中国人・朝鮮人の既耕地を収奪する結果となった。第二次大戦敗戦直前、ソ連の対日参戦で関東軍から置き去りにされ、多大な犠牲者を出した。満州農業移民。

ユ-チューブにこんな番組がupされており、見応えがあります。
↓NHKスペシャルの番組です。
◇満蒙開拓団 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ejMaOdvvZaw
↓ 満蒙開拓青少年義勇軍を題材にしたアニメ-ション映画満開拓と少年たちを描くアニメ-ション映画です。

◇「蒼い記憶」
https://www.youtube.com/watch?v=tCeRQm0FljM

満蒙開拓団を最も多く送り出した県は長野県で、資料によっては38、000人とも3.3000人ともされますが、送出の運動は全国に及び、岡山県からも、2900名前後が送出されたといわれます。
去年(2015年)の8月24日付地元紙「山陽新聞」に「中国・満蒙開拓団跡ツアーに同行 今も残る「美作」、消える証言者」という表題の記事が掲載されており、私の郷里「美作」にも関係するので、切り抜きして保存しています。

中国・満蒙開拓団跡ツアーに同行 今も残る「美作」、消える証言者

戦時中、旧満州(中国東北部)へ日本人移民が送り込まれた満蒙(まんもう)開拓団の足跡をたどるため、8月7日から12日まで、近現代史研究家の青木康嘉興譲館高講師(63)らの訪問団が中国黒竜江省などを巡った。戦後70年がたち、戦争を語る証言者や建造物が中国の地でも消えつつあることを実感した旅。一行に同行、現地の今をリポートする。
■ □ ■ □ ■
トウモロコシ畑が続く地平線に日が傾き始めた。日没まで時間がない。ロシア国境に近い黒竜江省の樺南県。目的地の七虎力(しちこりき)開拓団跡を目指し、近隣村民のバイクの先導でツアーバスが広野を走る。
「あった!」。諦めかけたころに、青木さんの声が上がった。道沿いの道路標識に今も残る「美作」の文字。同開拓団美作郷があった名残だ。
岡山県から入植
七虎力開拓団は、近畿中国地方から178戸626人が入植していた(西崎忠雄著「七虎力村」)。特に岡山県からの入植者が多く、美作のほか、岡山、吉備津、備前の各郷に分かれて出身地別の集落を形成していた。
今では集落ごとなくなっている所もあり、当時の場所を特定することは難しい。だが、事前に「美作の地名が残っている」と残留孤児だった中国帰国者から証言を得られたため、訪問団として初めて入る同開拓団集落の目標にしていた。
美作郷跡にある集落は、「七一村」と地名を変えたが、地元住民によると、今でも「美作(メイツォ)」の旧地名を使うという。当時、岡山出身の開拓団員が始めた水田の耕作も続いている。村の中には屋根が崩れかけたり、改修された旧開拓団家屋が3軒点在するのみだ。
旧満州の開拓団は、終戦直前に参戦したソ連軍に追われ、農地を捨てて逃げ惑い難民化した。七虎力開拓団では暴徒の襲撃や集団自決が相次ぎ、400人が死亡したとされる。
だが、村の古老・憑甲臣さん(73)は「日本人がいたことは聞いているが、当時を知る住民はもういない」と話す。
住民と交流
七虎力開拓団跡から100キロほど離れた林口県の竜爪(りゅうそう)開拓団跡も訪れた。岡山県出身者でつくる日の出郷は、ツアーに参加した小林軍治さん(72)=岡山市=の生まれ故郷だ。
「満州第六次龍爪開拓団の足跡」(船越美智子著)によると、同開拓団の在籍者は、1254人。終戦当時2歳だった小林さんは、生還者575人のうちの1人。
今でも「竜爪(ロンジャオ)」と呼ばれる村の訪問は、小林さんにとって1983年に父親と来て以来5回目。到着すると大勢の住民が集まり、開拓団時代の古い家屋に案内してくれた。
所有者の候桂英さんは終戦直後にここで生まれた集落の最長老。「昔、日本人がここにいたことしか知らない。もう戦争を起こさずに平和が続いてほしいですね」と言う。
今は日中友好協会岡山支部事務局長を務める小林さんは「気持ちよく迎えてもらい、里帰りした気分。お互い重い歴史を背負っているが、何度も交流して理解を深めたい」と顔をほころばせた。

(中略)

満蒙開拓団 1931年の満州事変後、日本が実質的支配権を握った旧満州などに渡った農業移民団。国策によって強力に推し進められ、全国から約27万人が送り込まれたが、ソ連参戦によって逃避行と難民生活を余儀なくされ、死者が続出。残留孤児を生み出した。岡山県史によると、県出身の開拓団員は2907人。うち、死者775人、未帰還者213人。

(2015年08月24日 11時29分 更新)

記事に登場する青木康嘉氏は、同行の高校教師で、世代も近く職場のご縁も浅いと言えない間柄。長く、植民地時代の日本と中国、また韓国・朝鮮の歴史を、掘り起こす活動を続けてこられました。また、小林軍治氏も先輩同業者で、若い頃から親しくしていただいていますが、中国引き揚げ者であるというご自身の体験から、退職後は、中国残留孤児・帰国者の生活・権利の問題や日中友好の運動をライフワークとしておられます。

上は、2年前の秋に書いたブログ記事ですが、内容を忘れていました。この記事に登場する小林軍治氏は、実は今回の「長寿を祝う会」の主催者のお一人です。

蛇足ながら、この新聞j記事を書いた同行記者の名前に見覚えがあります。たぶん、(ほぼ確実に)、今から三十数年前、彼は高校生で、私の授業を2年間ほど受けている間柄です。高校時代も新聞部で辛口のコラムなどを書いていました。生徒会の活動にも社会問題研究の活動にも熱心にとりくんでいた様子を記憶しています。入社間もない頃、会って以来ですが、立派な仕事ぶり成長ぶりに、感慨を覚えたことでした。(まったくの余談です)

自分に誇るものがないせいで、友達自慢、知り合い自慢をする習癖が身につきました.余談ついでに、友達自慢をもう一つ。

愛知県在住の友人ハチロークンが こんなニュースを知らせてくれたと、ヨシミさんが教えてくれました。

松山市長選 共産系植木氏が出馬会見

10/11(木) 17:07配信

愛媛新聞ONLINE

松山市長選

松山市長選に出馬を表明し、公約を語る植木正勝氏=11日午前、市役所

任期満了に伴う松山市長選(11月11日告示、18日投開票)で、共産党中予地区委員長の植木正勝氏(66)=北梅本町=は11日、市役所で会見し、同党推薦の無所属新人として出馬を表明。「憲法を生かした暮らし・福祉を守っていく」と述べたほか、県営黒瀬ダム(愛媛県西条市)からの松山分水中止や原発ゼロなどを公約に掲げ、現職との差別化を図るとした。

愛媛新聞社

この植木正勝氏(66)は、大学同期の友人です。以前この記事夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて

でも紹介(友達自慢)したことがありました。

閉会挨拶をしているのは、高知県議米田稔氏(公人なので公表しておきましょう)。彼も同期で、教育学部中学校課程の出身。学生時代、アパートに泊めてめてもらったり、箱買いのインスタントラーメン(実家からの仕送りらしい)を食べさせてくれたりしました。「ラーメン食う?」という、独特の声音が今も耳に残っています。
英語教師への道を断念して、社会運動に身を投じ、市会議員を経て県会議員を五期勤めています。
ちなみに、7月の参議院選挙で東京選挙区から立候補して見事当選した吉良よし子さんのお父さんが、米田氏の同僚県議の吉良富彦氏。お母さんも、学生時代の年下の友人です。何も私の手柄ではないですが、テレビや新聞で注目を浴びる姿は「キラキラ」まぶしくて、我がことのように誇らしい気がします。
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もう一枚の写真。真ん中の男性は、参加者の一人で、衆院選挙・参院選挙と続けて、愛媛選挙区から出馬して落選はしたものの、得票を伸ばした植木正勝君(これまた公人なので公表しておきましょう)。彼も同期で、小学校課程出身。別項で紹介した「植木正勝が植木枝盛になるに当たっての労働の役割」の筆者です。
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同い年でも、隠居を決め込んでいる我が身が、少々後ろめたく、恥ずかしい思いが拭えません。「頑張らない!」との誓いを噛みしめ、自然体、悠々自適をモットーとしたいと考えている私ですが、世の中の望ましい変革のために日々奮闘している友人、知人、先輩方の姿を思うたびに、応分の協力、応援、献身は厭うまいと思い返しているところです。


夕方は、小学生のお迎えを頼まれていました。バアバが珍しく熱を出し、慰謝に行っているようなので、長寿を祝う会の会場から直行で小学校までお迎えに参上。帰宅早々、またまた庭のカナヘビくんにご挨拶です。兄妹がそれぞれ二匹ずつ手に持って、記念撮影です。

いつものことながら、fuji FinePix S1の描写は、精細ですね。ただ、私の技量のせいか、マクロ撮影は、しばしばピント合わせに失敗します。

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今日は、保育士の娘が仕事日で、お姑さんが昼前頃から都合が悪いとのことで、バトンタッチで我が家が託児所になりました。バアバの熱が、まだ万全ではないので、もっぱらジイジがお相手をする覚悟ですが、、、。

そしていろいろあって、お昼寝に入ってくれました。おかげで、ブログ書きが少しはかどりました。夕方暗くなるまでぐっすり眠り、機嫌よく目覚めた彼女を、既にお母ちゃんが退勤・帰宅しているアパートまで、熱がほぼ下がったバアバと二人で送り届け、今日の大仕事はオシマイです。

今日はここまで。


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今日のカナヘビ、の巻 [折々散歩]

私のブログの話題に、時々、カナヘビの話題が登場します。一番古い記事はこれでしょうか?

今日はネタがないんです。

今日の画像は、何もないのも寂しいので、昼間、我が家のブロック塀を散歩していたトカゲ(カナヘビ)をご紹介します。
ついでに、何年か前に写したカナヘビ君達の愛くるしい?表情に癒されてください。

(中略)

恥ずかしがり屋。
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何か用?
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ばあ。
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やあ、またおあいしましたねえ。
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Sparkyさん。爬虫類・両棲類が苦手のあなたへの、嫌がらせではありません(笑)、あしからず。

「カナヘビ」は「ヘビ」という名がついてはいますが、見かけの通りトカゲの仲間です。日本でもっともポピュラーなトカゲは、このカナヘビ(ニホンカナヘビ)と、ニホントカゲ、ニホンヤモリの三種。私などの経験では。このニホンカナヘビの方が見慣れていて、これを「トカゲ」と呼んでいました。

敬愛する写真家土門拳さんの写真に.トカゲで遊ぶ子どもが出て来たような気がします。探してみると、「昭和のこども」のシリーズ。江東(深川)で取材した作品のようです。

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右の子どもが頭に乗せているのは、さて、ニホントカゲでしょうか、ニホンカナヘビでしょうか?

以前岡山で展覧会があり、写真集や絵はがきを買った覚えがありますが、↓この機会だったでしょうか?

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domon02

pdfはこちら

ニホントカゲは、滅多に写せませんが、この記事などで紹介しています。(ニホントカゲ写真)

山路行かば夏の木立に夏の虫

今日も小学生の兄妹は、帰るなり庭で捜し物をしています。やはり今日も、カナヘビを何匹か捕まえたようです。SIGMA APO 70-300mm F4-5.6 DG MACRO+pentaxKxで撮影しました。

兄。二匹を捕まえて一緒に持っています。

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妹。

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一緒に、はいポーズ。

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今日はここまで。


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出勤前散歩ほか、の巻 [折々散歩]

今日のアルバイト仕事は、ゆっくり出勤で間に合いますので、朝食後の散歩にでました。歩き始めは、長袖シャツだけでは寒さを感じたのですが、上天気で、歩いているうちに汗が出て、出勤前に着替える羽目になりました。

最近出番の少ない、SIGMA APO 70-300mm F4-5.6 DG MACRO をpentax kxに装着して出かけました。

唸るほどのすばらしい写り、と言うわけではありませんが、コストパフォーマンスはなかなかのもの、と改めて思います。

トリミング、画像調整を加えています。

センダンソウにモンキチョウ。

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コスモスにヒメアカタテハ。

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ハクセキレイ。(頬がちょっと黄色いようですが)

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朝露に濡れた秋バラ。

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夕方、小学生の孫二人が、帰るなり、「カナヘビさん」に会いに庭を探り。今日も見つけました。撮影用のカメラを探しましたが、たまたま手近に置いていたのは、ENTAXQ10+ペンシルボーグ (p25)という組み合わせ。望遠狙いのシステムです。

兄妹が一匹ずつ手指に這わせてカメラの方に向けるのですが、なかなかピントが合わせられません。というよりも、見失ったりはみ出したりで、なかなかカメラに収めることができません。何しろ、35mmフルサイズカメラ換算で963mmF7相当になるそうですから、、。

トリミング、画像調整を施しています。

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今日はここまで。


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イッキイッキ!の巻 [折々散歩]

今日は、「年金一揆」に参加してきました。


毎年平日に実施されますので、アルバイト勤務の都合で参加できないことが多かったのですが、今年は都合がつきました.最初に参加した日のことを、この記事に書きました。


マクロスライド?なんのこと?---消えた傑作の巻?


2013年の10月の記事です。


消えた年金ならぬ、消えた原稿の巻です。
今朝早起きして、書いたブログ。ほとんど完成して、満足なできばえと、ほっとしてUPする段階になってトラブル。時間超過による自動ログアウトが働いたのでしょうかね。書いたものが全部消えてしまいました。トホホ。
ですので、思い出し思い出し、もう一度書きます。あんな傑作は二度と書けないはず、、、ですが(涙)。


マクロレンズを話題にすることの多いこのブログ。今日は、マクロスライドという耳慣れない言葉の話題です。

スライド映写に関係ありますか?(汗)


昨日、地方版「年金一揆」なるものに参加してきました。物騒な名前です。この「年金一揆」東京・日比谷野外音楽堂では中央集会が開かれ、2800人が参加、全国で同趣旨の集会やデモがとりくまれたそうです。

私も今年から年金受給者です(満額支給は、まだ数年先ですが)ので、先輩に誘われて「年金者組合」に加入しました。

収入が途絶し、年金のみに依拠する暮らしが始まったばかりで、不安がいっぱい。安心して生きられる世の中をめざして、弱い立場の者同士、力を合わせ、支え合っていくのは、大切なことですから。
その「年金一揆」の集会の場で、キーワードのように繰り返し飛び出してきた言葉が、「マクロスライド」「マクロ経済スライド」という言葉。もともと経済音痴の上に、脳血管疾患の影響で全く回転がスローになっている私の「灰色の脳細胞」(エルキュール・ポアロ)にとっては、異国の言葉(確かにカタカナ語ですが)のようで、さっぱり理解できません。
それでも、自然と、時代の「重要語」として刷りこまれましたの、で気になっていろいろ調べてみますが、それでもよくわかりません。
この記事などは、比較的わかりすいほうでしたか。
こんなに理解できないと、ひょっとするとわからないのは私だけではないかも知れない、と思いたくなります。敢えてわかりにくくすることで、一般国民をこの話題から遠ざけ、心置きなくフリーハンドで政策を遂行するための高等戦術ではないかと勘ぐりたくなるほどです。(以下略)



はや、5年も経ちます。あのときは、先輩方ばかりでしたが、今日は、年若い(比較の問題で、いずれも年金受給者ですが)知人の顔もちらほら。反面、物故された方、病に伏せっておられる方も少なからずあり、感慨を禁じられません。


「少数の若者が大勢の高齢者を支えなければならない未来社会。高い年金受給額を切り下げておかないと、年金制度が破綻し、現在の若者世代は年金をもらえなくなる。」という、世代間分断をはかる政府財界のでたらめ宣伝が、意外に若者に浸透している、と則武弁護団長は強調されます。「若い人も高齢者も安心して暮らせる最低保障年金制度の確立を」という要求が、若者世代にもっと広がり、若者自身がみずからのこととして立ち上がる必要を、痛切に感じます。


それはさておき、高齢者は意気軒昂。


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集会のあと、県庁前までデモ行進です。


デモ行進開始まで少し時間があるので、シュプレヒコールのリハーサルがありました。以前はしごもさすがに2軒が限度?の巻の記事で紹介した県本部副委員長の近藤劭さんが、マイクを握っておられます。「シュプレヒコールの内容に何か御意見ご注文などありますか?」の問いかけに、会場から「安倍内閣は退陣せよ」の冒頭に「嘘つき」を付け加えるよう要望がありました。すなわち「嘘つき安倍内閣は退陣せよ」デモ行進の間、終始このシュプレヒコールが街にこだましました。


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会場からこの「修正提案」(笑)をされたのは、後ろ姿から量るに、20~30年も前、勤務地の縁で地域でよくご一緒する機会のあったHさんのようでした。独占企業内で思想差別と闘う、不屈の民間労働者でした。デモ解散地点で、久しぶりの挨拶を交わすことができました。


ところで、この行動、12時30分開始だったのですが、なぜか私のメモでは11時半となっていました。早めに行こうと、後楽園駐車場に車を停めて、旭川周辺の景観を楽しみながら。会場まで歩いていきました。


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いろんな角度から岡山城を眺めることができ、11時過ぎ、意気揚々と会場の公園に着いたのですが、当然と言えば当然ながら、あたりにそれらしい人影は見えません。念のため30分まで待ちましたが、気配すらありません。


ここにも、ホトトギスが咲いていました。


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待ち人来たらずで、さすがに自分の間違いを疑い、いったん車まで引き返して、時間調整を図ルことにしました。


いつもは歩かない鶴見橋を通って、後楽園正門方面に向かいます。


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いっそ後楽園内で時間を調整しようと、ブラブラ歩きます。コンパクトカメラしか持っていませんが、一応パチパチ写しているうちに、ほどほど佳い時間になりました。


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園内の写真。また改めて紹介する予定です。


もう一度集会場まで歩き、最後はデモ行進。良い運動になりました。


デモの解散は県庁前です。いつもは通らない道を通れば、いつもとは違う岡山城が見えます。


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追伸。


カメラレンズの話題の続き。「レンズ内ゴミ多し.並品」表示の中古レンズ、どうにも写りに不満が拭えません。返品というても頭に浮かびましたが、一度は愛着をもって選んだレンズです。これも何かの縁、今日は購入店に持って行き、クリーニングを依頼してきました。購入価格に匹敵する料金を請求されるかも知れませんが、一応、見積もりを出してもらって判断することにしました。投資に見合う満足が得られれば良いのですが、ますますぬきさしならないぬかるみ道かも知れません。


追伸その2。


今日は、久しぶりに妹よりも早く歩いて帰ってきた小5男子が、友達が遊びに来ると言うけど、この家に上がってもらっていい?と聞きます。「いいけど、ばあばはいなくてじいじ1人だよ」と言いますが、3人も(みんな女の子)遊びに来て、小2の妹も一緒に遊んでいました。途中、思いついたのか庭に出て、カナヘビを探していましたが、またまた発見。みんなで捕まえて遊んでいました。(写真はありません)


今日はこれにて。


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まだまだガラクタ較べ、の巻 [折々散歩]

ガラクタと言えば、これが思い浮かびますね。


こんな記事がありました。


運用停止のF35は147億円 日本が買う“欠陥品”はさらに33機

2018年10月13日 15時05分 日刊ゲンダイDIGITAL

運用停止のF35は147億円 日本が買う“欠陥品”はさらに33機

ステルス戦闘機「F35」/(C)共同通信社

米国防総省は11日(現地時間)、先月28日に起きた最新鋭ステルス戦闘機「F35」の墜落事故を受け、国内外で展開する全てのF35の運用を一時停止すると発表した。航空自衛隊三沢基地(青森県)に配備されている同機も12日、検査が行われ安全確認が終了した。
F35は日本で次期主力戦闘機に決定しており、現在、9機が三沢基地に配備され、最終的には42機の取得が計画されている。この後、33機も追加されるわけだが、このまま同機を大量購入して大丈夫なのか。

(中略)

F35の購入について、国際ジャーナリストの春名幹男氏はこう言う。
「F35はこれまでも欠陥について問題視されてきました。日本は米国製の武器への信頼感が過剰。安全性について冷静な目で見る必要があります。安倍首相がトランプ大統領に強く要請されて、米国主導の取引になっていますが、自衛隊の装備品はそうした圧力で買うものではありません」
トランプのご機嫌取りに、これ以上、高価な粗悪品を買うなんてもってのほかだ。



こちらもまたガラクタ=粗悪品でした。


安倍内閣の“看板大臣”柴山文科相に公選法違反疑惑 小渕優子氏を彷彿とも

2018年10月15日 18時30分 NEWSポストセブン

記事まとめ

  • 安倍内閣の“看板大臣”である柴山昌彦・文部科学相に、早くもスキャンダルが噴出した
  • 柴山氏が首相補佐官だった2年前の懇親バスツアーに、公選法違反の疑惑が浮上している
  • 2014年に経産相辞任に追い込まれた小渕優子氏を彷彿させる、との声が上がっている

そしてこれ


新任大臣“政治とカネ” 石田総務相が政治資金でクルマ維持

公開日:2018/10/13 06:00

所管大臣だが…(石田真敏総務相)/(C)日刊ゲンダイ 

ロクでもない大臣が顔を揃えた改造内閣。早速、初入閣の石田真敏総務相の不可解な政治資金の使途が明らかになった。マイカーの“メンテナンス”費用を賄っている、と疑われるような使い方が発覚したのだ。


そしてこれも。


安倍首相が“ダーティお友達”人事断行! 口利き賄賂の甘利明を党三役で復権させ、改憲の牽引役に抜擢の動き

(前略)

総裁選の論功行賞であるだけでなく、森友学園公文書改ざんにセクハラ問題では被害者女性を攻撃する発言をおこなうという普通なら“一発辞任”が当然だった麻生財務相に、働き方改革一括法案の国会審議でデータ捏造が発覚した上、インチキ答弁を繰り返した加藤厚労相を続投させる方針だとは……。

相変わらず安倍首相の“お友だち”を贔屓する私物化体質はまったく変わりがないようだが、しかし、もっとも驚いたのは「あの人」をめぐる人事だ。

なんと、安倍首相は、甘利明・元経済再生担当相を党の要職に起用する方針だと、毎日新聞が伝えたのだ。

〈安倍晋三首相は自民党総裁3選を受けた内閣改造・党役員人事で、甘利明元経済再生担当相(69)を党の要職で起用する検討に入った。(略)総裁選での尽力を評価し、総務会長など党の要職として起用する方向だ。 〉(23日付朝刊)

じつは、この甘利氏が党三役に抜擢されるという情報は総裁選期間中から流れていた。「週刊文春」(9月27日号)も、甘利氏の所属である麻生派関係者のこんな談話を掲載していた。

「首相は『もう禊は済んだよね』と言っている。政調会長や総務会長などの要職で起用される見通しです」(麻生派関係者)

しかし、これが事実だとしたら、安倍首相はほんとうに国民をなめているとしか思えない。

言わずもがな、甘利・元経済再生担当相といえば、千葉県の建設会社・薩摩興業の依頼で都市再生機構(UR)へ移転補償金の値上げを“口利き”した見返りに、少なくとも総額1200万円の現金や飲食接待の賄賂を受けとっていたことを2016年1月に「週刊文春」に暴露され、辞任しているからだ。(中略)甘利事務所が現金を受け取ったことを証明する領収証や、甘利の公設秘書らがUR側に補償金アップの働きかけをする交渉を録音したテープなどの物証もあった。

どこからどう見ても“真っ黒”な経済再生担当相の大スキャンダル──。「週刊文春」の報道を受けて甘利氏は大臣を辞任したが、その会見では計100万円を受け取ったことを認めたものの後に政治資金収支報告書に寄付扱いで記載したと弁解し、「あっせん利得」の疑惑をかけられているのに政治資金規正法違反に当たらないと強調。挙げ句、涙を浮かべて「『秘書のせいだ』と責任転嫁するようなことはできない」「政治家としての美学」「政治家としての矜持」などと辞任理由を並べ、マスコミは“勇退”ムードをつくり上げた。(以下略)


この人も相変わらずですな。


朝日新聞デジタル

稲田氏団体に脱税有罪の会社が献金 「返金を検討」

2018年10月15日11時55分

写真・図版稲田朋美氏

自民党筆頭副幹事長の稲田朋美衆院議員が代表を務める政治団体「自由民主党福井県第1選挙区支部」が、脱税事件で有罪判決を受けた福井市の建設会社から2014~16年に計46万円の献金を受けていたことが、政治資金収支報告書でわかった。稲田氏側は返金を検討しているという。


  
でるわでるわ。ガラクタのオンパレードですな。

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気が滅入ります。


私のガラクタは、そこまで酷くはありません。


レンズ内のゴミと汚れが想像以上だったpentax da55-300mmを、今日も散歩に持って出ました。


コスモス。


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コスモスの花にとまるヒメアカタテハ。


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 ヒャクニチソウの花にとまるアゲハ。


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ヒャクニチソウの花にとまるツマグロヒョウモン♂


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センダンソウの花にとまるツマグロヒョウモン♂


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センダンソウにとまるモンキチョウ。_K529624


高木の梢にとまるモズ。


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(写真は、適宜、トリミング、画像処理を加えています)


帰ってきた小学生の孫が、庭のカナヘビを捕まえました。


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トリミングして大きくします。


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下は、前回紹介したペンシルボーグp25で写しました。


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トリミングしてみます。




妹(右)も、こわごわ持ってみます。


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マニュアルによるピント合わせは骨が折れますが、画像の鮮明度はなかなかのものです。わずか15,000円ほどの、見た目もおもちゃのようなレンズで、これだけの写りは感動ものです。生産中止になっているのは残念です。


今日のガラクタ較べ、ペンシルボーグp25に軍配ですかな。


今日はここまで。


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ガラクタ較べ続きます、の巻 [今日の「これなあに」?]

今日は秋晴れの日曜日。田舎の耕耘と草刈りに言ってきました。朝は長袖一枚では寒いくらいで、上着を羽織って出かけましたが、耕耘作業の途中で上着は脱ぎましたがそれでも汗びっしょりになりました。


今日持って行ったカメラシステムはこんなヤツ。


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異様な風体です。


右からリコーカメラGXR+MOUNT A12(ライカM互換マウント)+PENTAXKマウント変換アダプタ+pentaxヘリコイドエクステンションチューブ+oasis CAMERA MOUNT forPENTAX KM+OASISk36.4→m57/60AD+ペンシルボーグ25という、怪しいシステムです。


単眼鏡サイズの望遠鏡レンズを写真撮影に使うという、遊び心たっぷりのシステムですが、こんな写真が撮れます。


カマキリ。


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セイタカアワダチソウの花にとまるテングチョウ。


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庭のフジバカマの花にとまるモンキチョウ。


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ツマグロヒョウモンの♂。(トリミング)



庭のホトトギスの花。






ホトトギスの写真を最初にブログにのせたのはこの記事で、2013年の10月でした。


今日も「これなあに?」


郷里の庭に咲いているホトトギスも、いつかご紹介したつもりでしたが、すぐには見つかりません。載せないのかと父が言いますので、改めて撮影しました。


きょうはこれにて。


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相も変わらぬガラクタ較べ、の巻 [趣味]

ずっと以前(2013年8月)、こんな記事を書きました。


飽きもせず昨日も今日も蜻蛉撮り


今日は久しぶりにsigmaAPOmacro70-300というレンズを、pentaxK5Ⅱに着けて出かけてみました。
pentaxK5Ⅱは、PENTAXの中では上位に属する機種で、我慢できずに退職金で買いました。(といっても、N社やC社の上位機種に比べると、一桁ほども違うリーズナブルさで、コストパフォーマンスはかなり高いと言えるでしょう。といっても、N社やC社の上位機種なんか、使ったことありませんけど。)
レンズは、いくらでも欲しいものがあって限りがないのですが、最近は①よく写る、②コンパクト、③廉価という、巴合戦の中で、たいがい③を優先させて、旧時代の中古レンズを増やしてしまうことに。結局、あちらを立てればこちらが立たずで後悔の連続です。
旧時代の中古レンズは、写りについては、相応の味があって、持って出る愉しみは大きいのですが、たいがい、ガラスも重いし金属部分も重量級ということになり、相当気合いを入れないと持ち出せません。
特に病気後はほとんど出番がなく、むしろコンパクトデジカメや、小型のミラーレス機を使うことが多くなります。でも、時に格別の被写体に出会ったときなどは、「(時には望遠を、時にはマクロレンズを)持ってきておけば良かったなあ」と、悔やむことも多いので、「保険」のために比較的軽量なDAL55-300mmというセットレンズを装着していることが多いのです。(中略) ところで、この、今日久しぶりに使用したSIGMAAPO70-300は、二万円程度の価格に似合わず、APO仕様で、写りにも高評価が与えられています。画角も70-300mmと望遠としては申し分なく、デジカメのAPF-Cサイズでは、35mm換算105mm-450mmという超望遠ズームに相当することになります。おまけ機能ですが、200mm―300mmの画角で、マクロ撮影ができるのが、特筆もの。
フィルムカメラ時代からお気に入りで常用してきたレンズなのですが、経年相応の劣化か、ズームやフォーカスの際の動きがなめらかでなく、特にマクロ撮影の場合などは微妙なピント合わせをMFで決めたいのに、ピントリングの動きがギクシャクしてしまうのはストレスですし、DAL55-300mmに比べると大きく重いためもあって、お蔵入り状態でした。
でも、久々に持ち出してみると、結構使えるかな、という感じ。蜻蛉や蝶や、出会う隣人達のサイズからして、70-300mmmacroは、やはりありがたいです。     


五年以上も前の記事ですので、状況に変化は少しあります。


【その1】SIGMAAPO70-300macroは、その後、迷った末に、愛着の深さを優先して福沢さん一枚の支出は覚悟して、ピントリングの調整など、修理に出しました。そのほかの微調整もしてもらったのですが、やはり重くてかさばる点は気になって、出番は多くはありません。


【その2】DAL55-300mmは、PENTAXエントリーカメラの「ダブルズ―ムキット」の望遠ズームとしてついてくる廉価版レンズです。私はこれを、ネット通販で手に入れました(キットで買った方がお得であったでしょうが先立つものが足りず、カメラはボディのみで買うのが常ですから)。単体レンズとしては「L」のつかないDA55-300mmがあり、これは、クイックシフトフォーカス(AF中に、シームレスでMF操作ができる)が使え、マウントも金属で、「L」より高級ですが、その分高価で、諦めたわけです。「L」は、プラスチックマウントで、その分軽くていいや、と慰めていましたが、ある日、衝撃でパカッとマウントが欠けてしまいました。実は、同じような事故は、OLYMPUSのフォーサーズマウントレンズでも、マイクロフォーサーズマウントでも再三経験したのに、性懲りもなく繰り返します。欠けたマウントでも、カメラに装着できなくもないのですが、撮影中にグラグラするのは心細いものです。


【その3】そんな状態が長く続き、望遠撮影用には300mmズームレンズ以外の選択肢を選ぶことが多かったのですが、やはり、ちょい歩きのお散歩カメラには、常用レンズとしての魅力があって、いっそDAL55-300mmを修理に出すか、とも思いつつ、要らざる支出に踏ん切りがつかないまま故障レンズとして長く放置していました。最近、カメラ量販店の中古コーナーに、「L」のつかないDA55-300mmが、税別九千円台で陳列されていて目を疑いました。フード、フロントキャップ、リアキャップ、ソフトケースと、最低限の付属品は揃っています。「レンズ内ゴミ多し、並品」と表示されています。さすがに理性が働いて、衝動買いはしませんとも。
それから一週間ほどは、忘れようとしていました。が、昨日、通りがかりに立ち寄ってみると、まだありました。外観は「並」とは言うものの十分綺麗です。店員さんに言ってレンズの中も覗かせてもらいましたが、ゴミぐらいなら写りに影響はないだろうと思い、定めに従って購入することにしました。


昨日の記事の自然環境体験公園での写真は、pentaxK10Dに装着したものです。ちょっと画像が不鮮明な気がします。


レンズ内を注意深く覗いてみました。DAレンズはカメラから外すと通常は絞り込まれて状態になっています。お店で観察させてもらったときは、この状態でレンズ内を覗いたので、はっきりとは確かめられなかったのです。絞り爪を動かすと、開放状態になりますが、そうして明るい照明の方を透かしてみると、盛大なゴミ、埃がたっぷり入り込んでいます、が、それだけでなく、ズームリングやピントリングを回してみると、場所によってはレンズ自体の汚れか曇りのようなものが見えます。しまった、これは写りに影響するかも知れません。


今朝の早朝散歩には、pentaxK5Ⅱに装着して持ち出してみました。


霧の朝ですから、ぼうっと煙っていても不思議ではないのですが、、、。


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ヒヨドリの活発さが目立つ季節です。


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光量のある昼間にも試してみました。


ヒャクニチソウにキアゲハ。


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コスモス乱舞。


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クマバチ。


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ダイサギ。


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あの埃と汚れを見ましたから、これがこのレンズ本来の写りではないのだろうなと推察されます。


ちなみに今朝の散歩、リコーGXR+A12(ライカM)レンズマウントユニット+PENTAXKマウント用アダプターに、smcPENTAXM50f1.7をつけて持って行きました。四十年以上も前の、しかも普及タイプの標準レンズですが、いい線行っています。




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ついでに、オマケです。OLYMPUS E-PM1+panasonic  LUMIX G 14mm F2.5 II ASPHも持って出ました。ちょっと古いミラーレスカメラですが、軽くてコンパクト。上の二つに比べると段違いに軽快に写せます。


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写りも、文句ありません。


土曜日、孫達も休日で入れ替わり立ち替わり遊びに来たり帰ったり、一緒に出かけたり、、、。佳い秋の日でした。


今日はこれにて。


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秋散歩、の巻 [折々散歩]

昨日頃から冷え込んで、長袖に上着が必要です。午前中、ちょっとした会議がありました。

午後、晴れ放題の畑の草取りと、芋掘り。あとに少し種まき。さすがに日中は日射しが強く、汗が流れます。

最近、モズをよく見るようになりました。近くの木の上で高鳴きしているのでカメラを向けたら、逃げられました。

その足で、自然環境体験公園を歩きました。

池にはカルガモぐらいしか見えません。

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アオサギは、いましたが、、.

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ギンヤンマがいました。飛んでるところは写せません。これは産卵中でしょうか?

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トリミングします。

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クヌギの実。

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児島湖へもちらりと行ってみました。

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秋の風。

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百舌の初撮りです。

遠い。

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トリミングしますが、ぼけぼけです。

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今日はちょっと早く学校が終わって、ゆっくり遊べます。カナヘビの赤ちゃんを何匹も見つけました。

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トリミングします。

さらに大きく。

今日は小学生2人が、我が家にお泊まりです。

では、これにて。


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ベートーベンに出会う旅、の巻(その2) [折々散歩]

「板東俘虜収容所」について書いた前回記事にたいして、majyo様からいただいたコメントに、こう返させていただきました。


>板東俘虜収容所の事、ホッとしますね
偏狭な排外主義が必ずしも父祖の伝来の民族的資質というわけではないことを知って、救われる思いがします。
>会津は賊軍として辛いめにあいましたから
まさに同時代の記憶であり、異国の俘虜の身の上も他人事ではなかったのでしょうね。


   館の案内者の方がおっしゃるには、当時の日本にはハーグ条約遵守の姿勢があった点を指摘され、俘虜の扱いにも人道的観点が貫かれたというのです。加えて、板東俘虜収容所の松江豊寿所長の個性や人格も作用して、希有な文化交流の場となり得たようです。


顕彰碑がありました。


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ところで、「ハーグ条約」について確かめようと思いましたら、同一名の条約がたくさんあるのですね。現在ホットなものは↓これかも知れません(ウィキペディアから引用)。


  • 航空機の不法な奪取の防止に関する条約 - 1970年締結。「ハイジャック防止条約」とも。
  • 国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約 - 1980年10月25日に採択され、1983年12月1日に発効した多国間条約。

 


数あるなかで、捕虜の扱いに関係がありそうなのは、これでしょうか?同じくウィキペディアからの引用です。


・ハーグ陸戦条約 - 戦時国際法のひとつで、1899年に締結され1907年に改定された。


交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。

日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。


捕虜の扱いについての規定は次の通り。


第二章 俘虜

    第4条:俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。

    俘虜は人道をもって取り扱うこと。
    俘虜の身に属すものは兵器、馬匹、軍用書類を除いて依然その所有であること。

    第5条:俘虜は、一定の地域外に出られない義務を負わせて都市、城塞、陣営その他の場所に留置できる。但し、やむを得ない保安手段として、かつ該当手段を必要とする事情の継続中に限って幽閉できる。
    第6条:国家は将校を除く俘虜を階級、技能に応じ労務者として使役することができる。その労務は過度でなく、一切の作戦行動に関係しないものでなければならない。(詳細略)
    第7条:政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。

    交戦者間に特別な協定がない限り、俘虜は糧食、寝具及び被服に関し、これを捕らえた政府の軍隊と対等の取り扱いを受けること。

(後略)


捕虜となったドイツ人将兵は、それは決して恥ずべきことではなく、「任務の一つ」という認識だったと言います。現に職業軍人には、変わらず給料が振り込みで支払われ、捕虜期間中に昇進した者もある由。民間人捕虜にも、会社から賃金が支払われていたそうです。一定の自由の拘束はあったものの、複数のオーケストラや楽団、合唱団などが定期的にコンサートを開き、演劇、スポーツ、講演、学習などを楽しんだと言います。また、地域住民との交流も盛んで、牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築・音楽・スポーツなど、俘虜たちの進んだ文化や技術を学び取り入れようとする交流が日常的だったと言います。


「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)と、投降を否定し、軍人に死を強要した軍国主義日本の生命軽視・人権無視の異常性が、思い合わせられずにいられません。そう言えば、 井上ひさしさんの遺作「一週間」が、シベリア抑留の問題をえぐっていました。




一週間

一週間

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/06
  • メディア: 単行本



「ハーグ陸戦条規第」二十条には「平和克復ノ後ハ、成ルヘク速ニ俘虜ヲ其ノ本国ニ帰還セシムへシ。」(1910年効力発生)とあり、
「ポツダム宣言」第九項には「日本国軍隊は・・・各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得らしめられるべし。」とあルにもかかわらず、敗戦後も長く50万人超の日本人将兵・軍属が抑留され、極寒の地で強制労働を強いられ、5万5千人もが命を失ったのか?


「一週間」ではこんな記述が出てきます。


この国には、帝政ロシアの時代から、大規模な工事で労働力が必要になると、、収容所を利用する習癖があるらしい。・・・大戦争の後始末にたいへんな人手がいる。そこで戦敗国の捕虜をばっと捕まえた。そして収容所へ放り込んで働かせ、国内各所を整備させる。


 


関東軍司令部の参謀たちは、日本兵士の使役を極東赤軍司令部に申し出たりしているんですからね。・・・「大陸方面においては、ソ連の庇護のもとに、満州朝鮮に土着させ、生活を営むようにソ連側に依頼するも可」・・・これは明らかな棄民でしょう。


 


兵士を凍死させるのは、決まって旧軍の軍体制度をそっくりそのまま捕虜収容所に持ち込んだ部隊である。・・・
各収容所において、ソ連邦から配給された糧食のピンはね、横流しが横行していると聞く。なかにはピンはねした糧食で酒を作っている将校下士官たちもいるという。


大日本帝国が批准したハーグ条約によれば、兵士は捕虜になった瞬間、ソ連邦政府の圏内に入り、旧軍の諸制度は適用されない。収容所に旧軍の諸制度を持ち込んだ将校下士官は国際法違反の罪に問わなければならない。


国際法の規定を知りもしないし守ろうともしない、狭隘な戦争指導者とその手下達の命脈は、いまも権力の中枢を担う方々の髄深く受け継がれているのかも知れないと感じながら、「板東俘虜収容所」の俘虜と職員、土地の人々が織りなした「人間同士」のハーモニーが、いよいよ美しく心に響く思いがしました。


俘虜たちを、その境遇にかかわりなく「ドイツさん」と親しみ、心からもてなす地元の人々の胸奥には、四国八十八箇所のお遍路をねぎらい、無償で茶菓・食事・宿などを提供する「お接待」の風習が根付いているからだと説明され、なるほどと合点がいきました。


ドイツ館の見学を終えて、昼食を摂ったのが、「大鳥居苑」というお店。なんと、四国八十八箇所霊場大一番札所霊山寺の隣にあります。


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いつものことながら、料理は、食べることに熱心で、カメラを向けることを忘れておりました。美味しくいただきました。


食事のあと、この旅行に同行されていた音楽家小松原さんが、何曲か歌を披露してくださいました。小松原さんについてはこの記事でご紹介したことがあります。


今回も、「運動2割、遊び8割」の、遊びの企画でした。
会場は音楽交差点という、おしゃれな文化施設。


実は、オーナーで「コンダクター」の小松原先生からここでレッスンを受けておられる方が、なんとお仲間の内に三人もおられるというよしみでお借りした会場だそうです。
今回の主な内容は、ご近所さんの人生を語っていただき、学んだり、感心したり、見聞をひろげたりしようという、まったりとした企画。

講師は、九州のご出身で、九州大学工学部(採鉱学科)を出られて、同和鉱業(株)で鉱山の仕事に従事された縁で、岡山市南部にお住まいのOさん。秋田、岡山と、国内を股にかけ、遠く南米ボリビアでの採鉱にも携わってこられたご自身のご経験と、鉱業をめぐるいろいろなお話を、興味深く聞かせていただきました。

会の終わりには、 小松原先生が、ご自身の伴奏で、美声を披露してくださいました。曲目は、お弟子さんにレッスン中だという、「ふるさと」「くちなしの花」「アベマリア」など。文化と学術の香りに触れたひとときでした。


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「アンコール」の声に、小松原さんは二人の男性参加者を招き寄せ、一緒に、「第九」の合唱の一節を、ドイツ語で一緒に歌って聞かせてくださいました。


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この男性おふたりは、年金者組合の支部の中心を担っていただいているNさんと、上に紹介した記事で鉱山での体験をお聴かせいただいたOさんです。美しく力強く「alle Menschen werden Brüder=すべての人々は兄弟になる」と歌い上げてくださいました。


小松原さんは、お土産に、第九のドイツ語歌詞を、日本語で語呂合わせしたものを、印刷してお持ちくださいました。ほんの一部分を紹介しますが、笑えます。向島


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ググってみましたら、フンケンクラブ funkenbanner様のhpの この記事に「向島芸者連が練習に使った『歓喜の歌』のとらの巻」として紹介してありました。またそこから、第九の歌詞の音訳(ごろあわせ)へとリンクを貼ってくださっています。こんな書き出しで、興味深い記事が続いています。


1985年2月17日の「5000人の第九」(国技館すみだ第九を歌う会)の参加者が歌詞の暗記用に考案し、朝日新聞などで紹介されて有名になった、第九の合唱テクストの「音訳」。作者は当時、上智大学文学部ドイツ文学科の2年生だった、吉井実奈子さん。    


ベートーベンに出会う旅に出かけた一昨日(8日)、延期になっていた保育園の運動会が行われたはずでしたが、孫は39℃の発熱のため、欠席したそうです。


そして昨日は、早朝お母ちゃんの出勤前に迎えに行き、一日我が家で預かり、退勤時にあわせて送り届けました。38℃を超える高熱は下がりませんが、ぐったりすることもなく、食欲もあって元気でよくしゃべります。今日は、ジイジバアバともに仕事でお世話できないけれどどうしただろうかと案じておりましたが、なんと元気に保育園に行ったそうです。子どもの回復力には感心します。


今日はこれにて。


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ベートーベンに出会う旅、の巻 [折々散歩]

今日は、年金者組合の地元支部主催の一日旅行に参加しました。行き先は、徳島県鳴門市にあるドイツ館

よく晴れて、瀬戸内海の眺望が美しい一日でした。

写真に残せたのは、津田の松原サービスエリア(さぬき市)から見える景色。

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鳴門市ドイツ館の建物は、姉妹都市リューネブルクのRathaus(市役所)をモデルとしているそうです。

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28mmレンズ(35mm換算)でも、かなり離れないと、全景が収まりません。

ベートーベンの像が建てられている丘の上から見ると、、、

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ようやく全景がはいりました。

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「ようこそ、第九のふるさとへ」と、大きな看板が出迎えてくれます。

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上記のドイツ館HPから、「鳴門市ドイツ館の歴史」の項を一部引用して紹介します。

かつて鳴門市大麻町(当時の板野郡板東町)には、大正6年~大正9年(1917年~1920年)のおよそ3年間、第一次世界大戦時に日本軍の捕虜となったドイツ兵を収容した「板東俘虜収容所」が存在しました。
板東俘虜収容所では、所長である松江豊寿をはじめとした管理スタッフがドイツ兵の人権を尊重し、できるかぎりの自主的な生活を認めていました。そのため、ドイツ兵たちは元々優れていた技術を活かして様々な活動に取り組み、中でも盛んだった音楽活動においては、ベートーヴェンの「交響曲第九番」を、アジアで初めてコンサートとして全楽章演奏しました。また、ドイツ兵たちは地域の住民とも交流を深め、親しみを込めて「ドイツさん」と呼ばれるようになるほど打ち解けていました。こうしたエピソードから、板東俘虜収容所は模範収容所と評価されました。
鳴門市ドイツ館は、板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵たちの活動の様子や、地域の人々との交流の様子を展示した史料館です。ドイツ兵たちが板東でどのような生活を送っていたのか、地域の住民とどのように関わり合ったのか、なぜドイツ館が創設されたのかなどを、具体的に知ることができます。中でも、第九初演のエピソードが映像とロボットで語られる「第九シアター」は見所です。

「板東の記憶」をユネスコ「世界の記憶」登録へとあります。「板東の記憶」とは??

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「板東俘虜収容所」におけるドイツ人捕虜への待遇は、ハーグ条約を遵守しての、人道的なものであったようです。そして、それは収容所所長である松江豊寿の姿勢が大きく影響していたようです。

ウィキペディアの解説を一部引用します。

松江はドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許した。賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟に生まれた体験が、大きく彼の良心的な人格形成に影響したといわれる。

また、付近の人達と俘虜との交流や技術指導も盛んに行われ養鶏・養豚・野菜栽培から建築・設計まで広い分野で交流が行われたと言う。

1920年4月、第一次大戦終了に伴い板東俘虜収容所は閉鎖された。だが、俘虜たちは解放された後もここで受けた温かい扱いを忘れず「世界のどこに松江のような(素晴しい)俘虜収容所長がいただろうか」と語るほどだったと言う。

敷地内に立つ松江豊寿の像。

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↓このサイトには、松江所長についてこんな紹介がありました。

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松江所長の父は明治維新時の賊軍、会津藩の出身であり、松江豊寿自身も朝敵の汚名を受け、苦しい生活を送っていました。そんな中、敗者の心情をその身で受け止めながら成長しました。
人並みはずれた人道的共感、思いやりの心が生まれた彼は、ドイツ兵捕虜に対しても、「彼らも祖国のために戦ったのだから」と、捕虜の住環境の改善などについて、上官にねばり強く交渉し、「捕虜に甘い」と中央の警告や非難も受けながらも、その姿勢を崩すことなく、収容所が閉鎖されるまで信念をつらぬきとおしたのです。この真摯な姿勢に収容所職員も賛同し、高木副官をはじめとし、ドイツ兵捕虜の生活環境の改善に心血を注ぎました

館内の展示や、案内者の方の説明によって語られるエピソードに一つ一つが胸にしみました。

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最後にもう一度、なると第九の記事の一部を引用し、今日はこれにて。

戦時中にもかかわらず、“alle Menschen werden Brüder=すべての人々は兄弟になる”という世界平和や人類愛という普遍的なテーマを持つ「第九」が演奏されたこと。そしてドイツ兵捕虜と収容所職員・地元民が国境や人種を超えてこれを体現したことは、まさに異例でした。


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10月の真夏日、の巻 [折々散歩]

蒸し暑いはずで、昨日は33℃もあったそうです。10月なのに「真夏日」でした。今日もまた、気温がうなぎ登り、最高気温29℃でした。辛うじて「夏日」というわけですが、秋冬モードに移行中の身体には、結構辛いです。遅ればせに、キンモクセイの香りが、ようやく感じられるようになりましたが、せっかく咲いた花もこの暑さに驚いていることでしょう。


寝苦しい夜。熟睡感が感じられないままに、すぐに夜が明けます。今日の予定をゆっくり考える間もなく、朝8時前には、「そっちの家に行ってもいい?」と電話があります。「ばあばは(パート勤務のため)いないけど、、」といっても、構わないのだそうです。珍しいことに、今朝の訪問者はまず三歳児.しばらく1人で遊んでいましたが、ちょっと風邪気味の小二生も遅れてやってきました。咳が続くので、体温を測らせると、37℃超の微熱です。


しばらくして小5の兄が、釣りに行こう、とやってきました。いつもなら小2の妹も付き合うところですが、今日は風邪気味とあって留守番。代わりに三歳児が釣りデビュー(ただし見るだけ)です。


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この三歳児、ジイジの持っていたカメラを取り上げて、あれやこれやいろんなものを写して回ります。


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自分の足もとのようです。


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近所のおじさんにもカメラを向けます。しかも、設定をいじって、こんな画像を残しています。


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兄ちゃんの顔が写っていません。


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こんな魚が釣れました。


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三歳児撮影画像はここまで。


何匹か釣り逃がした魚もありましたが、結局釣り上げたのは三匹。


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一匹はフナですが、残りの二匹は何でしょう?体長25cmほどです。以前この記事(体温は越えぬが真夏日紛ふなし)に書いた、「ワタカ」ではないかと思いますが、どうでしょう?


ジイジ、少しの時間つきあえる?」と小1の孫が訪ねてきました。

「何?」と聞くと、魚釣りをしたいといいます。昨日、百均ショップで、魚釣りセットを買ったのだそうです。

午前中とはいえ、かんかん照りの炎天下、近くの用水路で、糸を垂らしてみました。餌は、土手に住むミミズ。

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苦闘の末、体長7~8センチの川魚が釣れました。モツゴでしょうかね?

金魚とドジョウを飼っている水槽に入れることになりました。

この用水路には、フナやナマズはもとより、雷魚やブラックバスなどの外来種も住んでいます。昔(孫のパパ達の子ども時代)は、タナゴやシロヒレタビラいった優美な小魚を捕らえて、水槽で飼育したこともありました。 ワタカという琵琶湖由来らしい元気のいい魚が釣れた事もありました。


この小1生が、いま小5です。早いものです。


二歳児の従妹もこちらに連れてきて、子守してもらっている間にお母ちゃんが仕事をしたいと言っていたので、ばあばがパートから帰ったら、子どもたちをまとめてどこかに連れて行こうかと考えていましたが、予定中止となりました。こちらの孫達も、午後はママと一緒に行動するということで、孫守は免除され、バアバの運転でジジババふたり、後楽園まで行くことにしました。


というのは月末の烏城紬の展示会の当番の日に、自分で運転していくためにちょっと練習、というわけです。


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後楽園の駐車場に駐めて、天神山文化プラザで開催中の、


久山淑夫 展
「事実が有って存在させない真実・被爆列島」


を見てきました。


案内記事はこちら


天プラ・セレクションは、岡山県ゆかりの美術作家を個展形式で紹介する、天神山文化プラザの企画展シリーズです。

久山淑夫は、岡山市在住の美術家です。建築会社を営む傍ら40歳から洋画制作を始めた久山は、次第に動物をモチーフとした彫刻制作へと表現の幅を広げてゆきました。県展などの公募展で高い評価を受けつつ、その魅力はアートの枠を飛び越えて公共施設やイベントなど様々な場で注目されています。

久山の創り出す作品はいずれも見る人の感覚に強く訴えかけてきます。荒々しいチェンソー跡や重量感に圧倒され、鉛筆ドローイングのスピード感に息を飲む一方で、動物たちのユニークな表情やリアルな仕草には思わず微笑む人も多いでしょう。その表現の源には、人間によってもたらされる社会問題や自然破壊への自己批判が込められています。全ての作品が端材や段ボールといった廃材から作られることや、丁寧な自然観察から生まれる伸びやかな表現からも、作家の一貫した問題意識が伺えるでしょう。「私の制作のうえで一番重要なことは非常識であること。非常識と、狂気と、爆発的な行動力の結果生まれる失敗の集積。それが見る人の記憶に残ることができるかどうか。」と久山は言います。

本展は、様々な動物たちの彫刻と、被爆をテーマとした絵画シリーズをメインに、立体約20点・平面約50点で構成します。しびれるような久山淑夫の創作世界を、どうぞご堪能ください。(以下略)

 

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駐車場から少し歩くと、様々な角度から烏城が眺められます。


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何かのイベント中でした。


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後楽園のコスモス。


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今日はこれにて。


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またまた梯子、の巻 [折々散歩]

昨日は、お医者の梯子。

午前は歯科、午後は眼科です。歯科は、現職時代の職場の近くなので利用していましたが、所在地が、今は余り通りかかる場所ではないので、わざわざ感があり、受診も間遠になっています。かぶせの金属がはずれたので、やむなく先日受診したのですが、その二回目です。予約時間を午前9時にしていましたので、通勤ラッシュと重なって、朝は一時間を越え、ぎりぎりの到着でした。ぎりぎりの登場といえば、月曜日の出勤がj始業チャイムに間に合わなかったことは書きました。水曜日の勤務は、この轍を踏んではならじと余裕を持って出勤するつもり...でしたが、またまた、授業開始に1~2分遅れてしまい、あわてて職員室に駆け込んで、ハッと気づきました.自分の担当時間は、もう一時間あとでした。ほっとするやら情けないやら。

午後の眼科の診療を済ませた頃は、もう小学生を学校にお迎えに行く時間が迫っていて、何につけても、梯子は心せわしいことです。

今日は、孫守の梯子。

近くに住む三歳児と、ちょっと離れた場所に住む二歳児が、それぞれ保育園の運動会だと言います。先約は二歳児でしたので、そちらを見に行く予定にしていました。ところが、台風の接近で、月曜日に延期になったそうです。一方の三歳児の保育園は、予定通り敢行とのこと。予定変更して、これを見に行くことになりました。

台風接近というものの、風は強いが、よく晴れました。

夏のぶり返しか、酷い暑さです。

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保育園創立30周年だそうで、空高く風船が上げられました。

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風に靡く万国旗。

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午後は、二歳児を連れてお母ちゃんがやってきました。ちょっと持ち帰りの仕事をしたいからと、託児所業務の依頼です。従姉妹達もやってきて、賑やかな午後でした。

一つご案内があります。

妻が通っている「織物教室」の作品展が、今月末に催されるそうです。会場所は後楽園「鶴鳴館」だそうです。

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案内はがきのコピーを掲載させていただきます。

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今日はここまで。


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写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA


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