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自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」(2) [時事]



「子どもたちを戦場に送るな」と発言するような教師がいたら密告せよとそそのかす、自民党HP「密告フォーム」は、「一億総密告社会(総チクリ社会)」の「創生」をねらう本性をあらわにしたもので、こっそり文言を差し替えても取り繕うことはできません。

連想から読み返してみた「二十四の瞳」の話題に今しばらくおつきあいください。長い引用は避けたいと思いつつ、またまた引用です。

教え子たちが六年生になった頃、大石先生は教師を続けるかどうかの悩みにさらされます。子どもたちは口々にこう将来を語るのです。


 「ぼくは、中学だ」

竹一が肩を張るようにしていうと、正もまけずに、
「ぼくは高等科で、卒業したら兵隊にいくまで漁師だ。兵隊にいったら、下士官になって、曹長ぐらいになるから、おぼえとけ」
「あら、下士官……」

不自然にことばを切ったが、 先生の気持ちの動きにはだれも気がっかなかった。月夜のかにとやみ夜のかにをわざわざ持つてきたょうな正が下士官志望は思いがけなかったのだが、
かれにとっては大いにわけがあった。徴兵の三年を挑戦の兵営ですごし、除隊にならずにそのまま満州事変に出征したかれの長兄が、 最近伍長になって帰つたことが正をそそのかしたのだ。
「下士官を志望したらな、曹長までは平ちゃらでなられるいうもん。下士官は月給もらえるんど」
そこに出世の道を正は見つけたらしい。すると竹一も、まけずに声をはげまして、
「ぼくは幹部候補生になるもん。タンコに負けるかい。すぐに少尉じゃど」
吉次や磯吉がうらやましげな顔をしていた。竹一や正のように、さしてその日のくらしにはこまらぬ家庭のむすことはちがう吉次や磯吉が、戦争について、家でどんなことばをかわしているかしるよしもないが、だまっていても、やがてかれらもおなじょうに兵隊にとられてゆくのだ。

その春(昭和八年)日本が国際連盟を脱退して世界の仲間はずれになったということにどんな意味があるか、近くの町の学校の先生が牢獄にっながれたことと、それがどんなつながりをもっているのか、それらのいっさいのことをしる自由をうばわれ、そのうばわれている事実さえしらずに、
いなかのすみずみまでゆきわたった好戦的な空気につつまれて、 少年たちは英雄の夢をみていた。
「どうしてそんな、軍人になりたいの?」
正にきくと、かれはそっちょくにこたえた。
ぼく、あととりじゃないもん。それに漁師よりよっぼど下士官のほうがえいもん」

「ふ-ん。 竹一さんは?」
ぼくはあととりじゃけんど、ぼくじゃって軍人のほうが米屋よりえいもん」
「そうぉ、そうかな。ま、よく考えなさいね」
うかつにもののいえないきゅうくつさを感じ、 あとはだまって男の子の顔を見つめていた。正が、なにか感じたらしく、
「先生、軍人すかんの?」
ときいた。
「うん、漁師や米屋のほうがすき」
「へえーん。どうして?」
「死ぬの、おしいもん」
「よわむしじゃなあ」
「そう、よわむし」
その時のことをを思いだすと、いまもむしゃくしゃしてきた。これだけの話をとりかわしたことで、もう教頭に注意されたのである。
「大石先生、あかじゃと評判になっとりますよ。気をつけんと」
--ああ、あかとは、いったいどんなことであろうか。この、なんにもしらないじぶんがあかとは--

寝床のなかでいろいろ考えつづけていた大石先生は茶の間にむかってよびかけた。

(中略)

「わたし、つくづく先生がいやんなった。三月でやめよかしら」
「やめる?なんでまた」
「やめて一文菓子屋でもするほうがましよ。毎日毎日忠君愛国……」

(中略)

「 一年から六年まで、わたしはわたしなりに一生けんめいやったつもりよ。ところがどうでしょう。男の子ったら半分以上軍人志望なんだもの。 いやんなった」
「とき世時節じゃないか。おまえが一文菓子屋になって、戦争がおわるならよかろうがなあ」
(中略)
やがておちついてふたたび学校へかようようになったが新学期のふたをあけると大石先生はもう送りだされる人であった。「惜しんだりうらやましがる同僚もいたが、とくにひきとめようとしないのは、大石先生のことがなんとなく目立ち、問題になってもいたからだ。それなら、どこに問題があるかときかれたら、だれひとりはっきりいえはしなかった。大石先生自身はもちろんしらなかった。 しいていえば、 生徒がよくなつくというようなことにあったかもしれぬ。
それから数年、大石先生の身にも世の中にも、大きな変化がありました。


 腹をたてて教職をひいたあのときとはくらべることもできないほど、世の中はいっそうはげしくかわっていた。日華事変がおこり日独伊防共協定がむすばれ、国民精神総動員という名でおこなわれた運動は、寝言にも国の政治に口をだしてはならぬことを感じさせた。戦争だけを見つめ、戦争だけを信じ、身も心も戦争のなかへ投げこめとおしえた。そしてそのようにしたがわされた。不平や不満は腹の底へかくして、そしらぬ顔をしていないかぎり、世渡りはできなかった。 そんななかで大石先生は三人の子の母となっていた。 長男の大吉、二男の並木、末つ子の八津。
そんなある日、今度小学校に入学する長男大吉のためにランドセルを買って、バス停でバスを待っていた大石先生を見つけて声をかけてきたのは、ちょうどこの町の公会堂でとり行われていた徴兵検査を受けるために通りかかった教え子たちでした。大石先生の思いは複雑です。


 けもののように素つ裸にされて検査官のまえに立つ若者たち。 兵隊墓に白木の墓標がふえるばかりのこのごろ、若者たちはそれを、じじやばばの墓よりも関心を持つてはならない。いや、そうではない。大きな関心をよせてほめたたえ、そこへつづくことを名誉とせねばならないのだ。
なんのために竹一は勉強し、だれのために磯吉は商人になろうとしているのか。子どものころ下士官を志望した正は、軍艦と墓場をむすびっけて考えているだろうか。にこやかな表情の裏がわを見せてはならぬ心ゆるせぬ時世を、仁太ばかりはのんきそうに大声をあげていたが、仁太だとて、その心の奥になにもないとはいえない。
あんな小さな岬の村から出たことし徴兵適齢の五人の男の子、おそらくみんな兵隊となってどこかのはてへやられることだけはまちがいないのだ。 ぶじ帰ってくるものはいく人あるだろう。もうひとり人的資源をっくってこい……そういって一週間の休暇をだす軍隊というところ。生まされる女も、子どもの将来が、たとえ白木の墓標につづこうとも、案じてはならないのだ。男も女もナムアミダブツでくらせということだろうか。どうしてものがれることのできない男のたどる道、そして女はどうなるのか。

一本松のバス停では、帰りの遅い母を、長男大吉が待ちかねていました。


「かあちゃん、なかなか、もどらんさかい、ぼく泣きそうになった」
「そうかい」 .
「もう泣くかと思ったら、ブブーってなって、見たらかあちゃんが見えたん。手えふったのに、かあちゃんこっち見ないんだもん」
「そうかい。ごめん。かあちゃんうっかりしとった。おおかた、一本松わすれて、つっ走るとこじゃった」
「ふーん。 なにうっかりしとったん?」
それにはこたえずつつみをわたすと、それが目的だといわぬばかりに、
「わあ、これ、ランドセルウ?ちっちゃいな」
「ちっちゃくないよ。しょってごらん」
むしろ大きいぐらいだった。 大吉はひとりでかけだした。

「おばあ、ちゃ-ん、ランド セルウ」
すっとんでゆきながら足もとのもどかしさを口にたすけてもらうかのように、 ゆく手のわが家へむかってさけんだ。

肩をふって走ってゆくそのうしろ姿には、 無心にあすへのびようとするけんめいさが感じられる。そのかれんなうしろ姿のゆく手に待ちうけているものが、やはり戦争でしかないとすれば、人はなんのために子を生み、愛し、育てるのだろう。砲弾にうたれ、さけてくだけてちる人の命というものを、惜しみ悲しみとどめることが、どうして、してはならないことなのだろう。治安を維持するとは、人の命を惜しみまもることではなく、人間の精神の自由をさえ、しばるというのか…。

走りさる大吉のうしろ姿は竹一や仁太や正や吉次や、そしてあのときおなじバスをおりて公会堂へあるいていった大ぜいのわかものたちのうしろ姿にかさなりひろがってゆくように思えて、めいった。 ことし小学校にあがるばっかりの子の母でさえそれなのにと思うと、 なん十万なん百万の日本の母たちの心というものが、どこかのはきだめに、ちりあくたのように捨てられ、マツチ一本で灰にされているような思いがした。

お馬にのったへいたいさん

てっぽうかついであるいてる

トットコトットコあるいてる

へいたいさんは大すきだ


気ばりすぎて調子っぱずれになった歌が、家のなかからきこえてくる。敷居をまたぐと、ランドセルの大吉を先頭に、並木、八津がしたがって、家じゅうをぐるぐるまわっていた。孫のそんな姿を、ただうれしそうに見ている母に、なんとなくあてつけがましく、大石先生はふきげんにいった。

「ああ、ああ、みんな兵隊すきなんだね。ほんとに。おばあちゃんにはわからんのかしら。男の子がないから。でも、そんなこっちゃないと思う…」
そして、

「大吉ィ!」と、きつい声でよんだ。口のなかをかわかしたような顔をして大吉はつっ立ち、きょとんとしている。はたきと羽子板を鉄砲にしている並木と八津がやめずにうたいつづけ走りまわっているなかで、
大吉のふしんがっている気持ちをうずめてやるように、いぃきなりせなかに手をまわすと、 ランドセルはロボットのような感触で、しかし急激なよろこびで動いた。長男のゆえにめったに受けることのない母の愛撫は、満六歳の男の子を勝利感に酔わせた。にこっとわらってなにかいおうとすると、並木と八津に見つかった。
「わあっ」
押しよせてくるのを、おなじようにわあっとさけびかえしながら、ひっくるめてかかえこみ、「こんな、かわいいやつどもを、どうしてころしてよいものか。わあっ、わあっ」
調子をとってゆさぶると、三つの口はおなじように、わあっ、わああと合わせた。
そこにどんな気持ちがひそんでいるかをしるには、あまりにおさない子どもたちだった。

戦場に送りたくないのは、愛おしい我が子も、教え子もおなじです。


 天皇の名によって宣戦布告された十二月八日のそのずっとまえに、その年の入営者である仁太や吉次や磯吉たちは、もうすでに村にはいなかった。出発の日、いくばくかの餞別にそえて大石先生は、かつての日の写真をハガキ大に再製してもらっておくった。 もう原板はなくなっていた。竹一のほかはみななくしていたので、よろこばれた。
「からだを、だいじにしてね」
そして、いちだんと声をひそめ、
「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ」

すると、きいたものはまるで写真のむかしにもどったような素直さになり、磯吉などひそかにな涙ぐんでいた。竹一はそっとに横をむいて頭をさげた。吉次はだまってうつむいた。正はかげのある笑顔を見せてうなずいた。仁太ひとり声にだして、.

「先生だいじょうぶ、勝ってもどってくる」
それとて、仁太としてはひそめた声で「もどってくる」というのをあたりをはばかるようにいった。もどるなどということは、もう考えてはならなくなっていたのだ。仁太はしかし、ほんとうにそう思っていたのだろうか。まっ正直なかれには、おていさいや、ことばのふくみは通用しなかったからだ。仁太だとて命の惜しさについては、人後におちるはずがない。それを仁太ほど正直にいったものは、なかったかもしれぬ。かれはかつての日、徴兵検査の係官のまえで、甲種合格!と宣言されたせつな、思わずさけんだという。
「しもたァー」

みんなが吹きだし、うわさはその日のうちにひろまった。しかし仁太は、ふしぎとビンタもくわなかったという。仁太のその間髪をいれぬことばは、あまりにも非常識だったために、係官に正当にきこえなかったとしたら、思ったことをそのとおりにいった仁太はよほどの果報者だ。みんなにかわって溜飲をさげたようなこの事件は
、ちかごろの珍談として大石先生の耳にもはいった。
その仁太は、 ほんとに勝ってもどれると思ったのだろうか。
ともあれ、でていったまま一本のたよりもなく、その翌年もなかばをすぎた。ミッドウェーの海戦は、 海ぞいの村の人たちをことばのない不安とあきらめのうちに追いこんだ。ひそかに「お百度」をふむ母などをだした。仁太や正は海軍に配置されていた。平時ならば徴笑でしか思いだせない仁太の水兵も、 ぃったまま便りがなかった。
仁太はいま、 どこであの愛すべき大声をあげているのだろうか。

〈中略)

そうして、 さらにさらに大きなかげでつつんでしまうのは、 ぃっのまにか軍用船となって、 どこの海を走っているかさえわからぬ大吉たちの父親のことである。その不安をかたりあうさえゆるされぬ軍国の妻や母たち、じぶんだけではないということで人間の生活はこわされてよいというのだろうか。じぶんだけではないことで、発言権を投げすてさせられているたくさんの人たちが、もしも声をそろえたら。
ああ、そんなことができるものか。

「子どもたちを戦場に送らない」「だれの 子どもも ころさせない」と声を上げることが許される今、それが可能な間に、声を広げ、声をそろえたいものだと、改めて思います。

話題がもう少し次回に続きそうです。



投票日の7月10日に散歩した自然保護センターでこんな鳥を見ました。

遠くの森の中の豆粒ほどの点を、大幅トリミングで拡大表示してみます。







撮影時はわからなかったのですが、写真で見るとキセキレイでしょうか?

カワラヒワが、三々五々、水浴びを楽しんでいました。







下の写真はクリックすると大きな画像になります(フォト蔵)。

水浴びするカワラヒワ

水浴びするカワラヒワ posted by (C)kazg 水浴びするカワラヒワ

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今日はこれにて。

自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1) [時事]

「子どもたちを戦場に送るな」と聞いて真っ先に思い出すのは、高知の元教師竹本源治さんの「戦死せる教え児よ」の詩です。でも、探って見ると当ブログでもこんなに何回も紹介していますから、今日はこれには触れません。
◇だまされも だましもせぬと 誓うた日 
また「子供を守るうた」(【作詞】上野博子【作曲】荒木栄)についても、◇だまされも だましもせぬと 誓うた日などの記事で話題にしましたので、今日は省きます。
今日は、壷井栄の「二十四の瞳」を思いだしてみました。
以前、この記事(◇もう一つの2013年問題 私の病気自慢その2 vol3) で、こんなことを書きました。
私たちの小学校は、とっくに廃校になっていますが、私たちの学年は、17人の一学級編成でした。「二十四の瞳」ならぬ「三十四」の瞳です。その、濃密で親密な少年時代が、私たちの人格形成の深い部分を支えていると、誰もが異口同音に述懐します。
 この間、小中高を問わず、多くの学校が統廃合され、地域の文化の拠点がどんどん消滅し、子どもたちと故郷とのつながりも、どんどん希薄になってきていま す。予算削減・リストラ目的の統廃合だろうと質しますと、行政当局は、「少人数では活力がなくなるから」などとおっしゃいますが、私たちの少人数の学校は 豊かな活力を湛えていたように思いますがね。 
壷井栄の「二十四の瞳」は、「瀬戸内海べりの一寒村」の小学校(分教場)を舞台に、新人の女教師と十二人の子どもたちの交流を描きます。
物語のほぼ冒頭、岬の分教場に赴任したての大石先生が、初めて子どもたちの出席を取るシーンがあります。
 「さ、みんな、じぶんの名まえをよばれたら、大きな声で返事するんですよ。
「岡田磯吉くん!」
せいの順にならんだのでいちばんまえの席にいたちびの岡田磯吉は、まっさきにじぶんがよばれたのも気おくれのしたもとであったが、生まれてはじめてクンといわれたことでもびっくりして、 返事がのどにつかえてしまった。
「岡田磯吉くん、いないんですか」
見まわすと、いちばんうしろの席の、ずぬけて大きな男の子が、びっくりするほど大声で、こたえた。
「いる」
「じゃあ、ハイって返事するのよ。岡田磯吉くん」
返事した子の顔を見ながら、その子の席へちかづいてゆくと、二年生がどっとわらいだした。
ほんものの岡田磯吉はこまってつっ立つている。
「ソンキよ、返事せえ」
きょうだいらしく、よくにた顔をした二年生の女の子が磯吉にむかって、小声でけしかけている。
「みんなソンキっていうの?」
先生にきかれて、みんなはいちようにうなずいた。
「そう、 そんなら磯吉のソンキさん」
また、どっとわらうなかで、先生もいっしょにわらいだしながら鉛筆を動かし、そのよび名を出席簿に小さくっけこんだ。
「っぎは、竹下竹一くん」

「はい」

りこうそうな男の子である。
「そうそう、はっきりと、よくお返事できたわ。ーーーそのつぎは、徳田吉次くん」
徳田吉次がいきをすいこんで、ちょっとまをおいたところを、さっき、岡田磯吉のとき「いる」といった子が、すこしいい気になった顔つきで、すかさず、

「キッチン」
と、さけんだ。みんながまたわらいだしたことで相沢仁太というその子はますますいい気になり、つぎによんだ森岡正のときも、「タンコ」とどなった。そして、じぶんの番になると、いっそう大声で、
「ハーイ」
先生は笑顔のなかで、すこしたしなめるように、
「相沢仁太くんは、すこしおせっかいね。声も大きすぎるわ。こんどは、よばれた人が、ちゃんと返事してね。
「川本松江さん」'
「ハイ」
「あんたのこと、みんなはどういうの?」
「マツちゃん」
「そう、あんたのおとうさん、大工さん?」
松江はこっくりをした。
「西口ミサ子さん」
「はい」
「ミサちゃんていうんでしょ」
かのじょもまた、かぶりをふり、小さな声で、
「ミイさん、いうん」
「あら、ミイさんいうの。かわいらしいのね。つぎは、
香川マスノさん
「ヘイ」
思わずふきだしそうになるのをこらえこらえ、 先生はおさえたような声で、
「ヘイは、すこしおかしいわ。ハイっていいましょうね、マスノさん」
すると、 おせっかいの仁太がまた口をいれた。
「マアちゃんじゃ」
先生はもうそれを無視して、つぎつぎと名まえをよんだ。
「木下富士子さん」
「ハイ」
「山石早苗さん」
「ハイ」
返事のたびにその子の顔に微笑をおくりながら、
「加部小ツルさん」
きゅうにみんながわいわいさわぎだした。なにごとかとおどろいた先生も、口ぐちにいっていることがわかると、香川マスノのヘイよりも、 もっとおかしく、 わかい先生はとうとうわらいだしてしまった。
みんなはいっているのだった。
カべコツツル、カべコツツル、壁に頭をカべコツツル。
勝ち気らしい加部小ツルは泣きもせず、 しかし赤い顔をしてうつむいていた。 そのさわぎもやっとおさまって、 おしまいの片桐コトエの出席をとったときにはもう、 四十五分の授業時間はたってしまっていた。
加部小ツルがチリリンヤ(腰にリンをっけて、用たしをする便利屋) のむすめであり、木下富士子が旧家の子どもであり、 ヘイと返事をした香川マスノが町の料理屋のむすめであり、 ソンキの岡田磯吉の家が豆腐屋で、タンコの盛岡正が網元のむすこと、先生の心のメモにはその日のうちに書きこまれた。
それぞれの家業は豆腐屋とよばれ、米屋とよばれ、網屋とよばれてはいても、そのどの家もめいめいの商売だけではくらしがたたず、百姓もしていれば、片手間には漁師もやっている、 そういう状態は大石先生の村とおなじである。だれもかれも寸暇をおしんで働かねばくらしのたたぬ村、だが、だれもかれも働くことをいとわぬ一人たちであることは、その顔を見ればわかる。
十二人を、出席順に確認しておきます。
名前
(あだ名)
家庭環境 備考
◎岡田 磯吉
(そんき)
豆腐屋 卒業後大阪の質屋に奉公
徴兵され、眼を負傷して失明
竹下 竹一 米屋 中学進学・東京の大学へ
出征し戦死
◎徳沢 吉次
(キッチン)
  高等科を出て地元で山切り、漁師
森岡 正
(タンコ)
網元 高等科/神戸の造船所勤務
海軍・・・戦死
相沢 仁太   父親と石鹸製造
海軍・・・戦死
◎川本 松江
(マッちゃん)
大工  
◎西口ミサ子
( ミイさん)
西口屋の一人っ子  
◎香川マスノ
(マアちゃん)
町の料理屋  
木下 富士子 旧家(庄屋) 没落して身売りと噂/消息不明
◎山石 早苗
(さなえさん)
  小学校教師に。
◎加部小ツル
(小ツやん)
チリリン屋(便利屋) 高等科から大阪の産婆の学校を経て産婆に。
片桐 コトエ
(コトやん)
  奉公先から肺病になり帰郷。22歳で病死。

この子たちと大石先生が出会ったのは、尋常小学校一年生の時でした。すくすくと成長した彼らは、五年生になると本校に通うようになり、すでに本校勤めとなっていた大石先生と再会することになります。
そのころ、同僚の片岡先生が警察にひっぱられるという事件が起こります。近くの小学校の稲川先生が受け持ちの生徒に反戦思想をふきこんだとして捕らえられ、師範学校の同級生だった稲川先生が、参考人として取り調べられたというのです。
 翌日の新聞は、稲川先生のことを大きな見出しで、「純真なる魂をむしばむ赤い教師」と報じていた。それはいなかの人びとの頭をげんのうでどやしたほどのおどろきであった。生徒の信望を集めていたという稲川先生は、 一朝にして国賊に転落させられたのである。
「あっ、こわい、こわい。沈香もたかず、屁おこかずにいるんだな」
つぶやいたのは年とった次席訓導だっ'た。 ほかの先生はみな、 意見も感想ものべようとはしなかった。そんななかでひとり大石先生は、おおげさな新間記事のなかの、わずか四、五行のところから目がはなれなかった。そこには、稲川先生の教え子たちが、ひとりひとつずつ卵を持ちよって寒い留置場の先生に差し入れてくれと、警察へ押しかけたことが書かれていたのだ。
きょうはもう出勤した片岡先生はきゅうに英雄にでもなったように、ひっぱりだこだった。どうだった?の質問にこたえて、一日でげっそりほおのおちたかれは、青いひげあとをなでながら、「いや、どうもこうも、いま考えるとあほらしいんじゃけどな。すんでのことにあかにならされるとこじゃった。稲川は、きみが会合にでたのは四、五回じゃというがだの、小林多喜二の本を四だろうとかって。ぼくは小林多喜二なんて名まえもしらん、いうたら、この野郎、こないだ新聞に出たじゃないかって。いわれてみりゃ、ほら、ついこないだ、そんなことが出ましたな。 小説家で、警察で死んだ人のことが」(ほんとうは拷問で殺されたのだが、新聞には心臓まひで死んだと報じられた)
「ああ、いたいた。赤い小説家だ」
わかい独身の先生がいった。
「そのプロレタリアなんとかいう本を、たくさんとられとりました。あの稲川は師範にいるときから本好きでしたからな」
その日国語の時間に、大石先生は冒険をこころみてみた。生徒たちはもう『草の実』とその先生のことをしっていたからだ。
「家で、新聞とってる人?」
四十二人のうち三分の一ほどの手があがった。
「新聞を読んでいる人?」
二、三人だっ.た。
「あかって、なんのことかしってる人?」
だれも手をあげない。顔を見あわせているのは、なんとなくしっているが、はっきり説明できないという顔だ。
「プロレタリアって、しってる人?」
だれもしらない。
「資本家は?」
「はい」
ひとり手があがった。その子をさすと、
「金持ちのこと」
「ふ-ん。ま、それでいいとして、じゃあね、労働者は?」
「はい」
「はい」
「は-い」
ほとんどみんなの手があがった。身をもってしっており、自信をもって手があがるのは、労働者だけなのだ。大石先生にしても、そうであった。もしも生徒のだれかに、こたえをもとめられたとしたら、先生はいったろう。「先生にも、よくわからんのよ」と。
まだ五年生にはそれだけの力がなかったのだ。ところがすぐそのあと、 このことについては、口にすることをとめられた。ただあれだけのことがどこからもれたのか、大石先生は校長によばれて注意されたのである。
「気をつけんと、こまりまっそ。うかつにものがいえんときじゃから」

子どもたちと一緒に考えたり学んだりする姿勢は、危険思想だとして処罰の対象となり、「密告」が奨励される空気が学校現場をも包みます。こんなのどかな田舎村にも、戦争前夜の不穏な気配が忍び寄って来ているのです。

先を急ぎます。上の表の十二人の子どもたちのうち、名前の前に◎印をつけたのは、長いブランクののち、戦後、「助教」として教職に復帰した大石先生の「歓迎会」を開いてくれて、そこで無事再会できたメンバーです。

女の子七人のうち、一人が病死、一人が消息不明。男の子五人のうち三人は戦死。命ながらえた岡田磯吉(ソンキ)も、戦傷により両眼を失いました。十二人二十四の瞳が、七人、十二の瞳になってしまいました。

しかし、磯吉(ソンキ)の目には、小学校一年生の時、八km離れた大石先生の家を、子どもたちだけで歩いて訪ねた冒険の日、一本松の下で写した「記念写真」の情景がありありと焼き付いているのでした。



 ビールは磯吉のひざにこぼれた。それを手早く磯吉はのみほし、 マスノにかえしながら、
「マァちゃんよ、そないめくらめくらいうないや。うらァ、ちゃんとしっとるで。みな気がねせんと写真の話でもめくらのことでも、 おおっびらにしておくれ」
思わず一座は目を見あわせて、 そしてわらった。

ソンキにそういわれると、いまさら写真にふれぬわけにもゆかなくなったように、 写真ははじめて手から手へわたっていった。 ひとりひとりがめいめいに批評しながら小ツルの手にわたったあと、
小ツルはまようことなくそれを磯吉にまわした。
「はい、一本松の写真!」

よいも手つだってか、 ぃかにも見えそうなかっこうで写真に顔をむけている磯吉のすがたに、となりの吉次は新しい発見でもしたような驚きでいった。
「ちっとは見えるんかいや、ソンキ」
磯吉はわらいだし、

「目玉がないんじゃで、キッチン。それでもな、この写真は見えるんじゃ。な、ほら、まんなかのこれが先生じゃろ。そのまえにうらと竹一と仁太がならんどる。
先生の右のこれがマァちゃんで、こっらちが富士子じゃ。 マツちゃんが左の小指を一本にぎりのこして、手をくんどる。それから--」

磯吉は確信を持つて、 そのならんでいる級友のひとりひとりを、 人さし指でおさえてみせるのだったが、すこしずつそれは、ずれたところをさしていた。相づちをうてない吉次にかわって大石先生は

「そう、そう、そうだわ、そうだ」

あかるい声でいきをあわせている先生のほおを、涙のすじが走つた。

もう少し触れておきたいことがありますが、機会を改めてということにしましょう。

合歓の花。



下は二、三年前の撮影です。







アゲハがいました。













ベニシジミ。



キリギリスの仲間?



今日はこれにて。

自民HP「密告フォーム」に思うこと(その1) [時事]

最近こんなニュースを知り、仰天しています。

YAHOO!ニュース7月9二日付記事から引用します。


7月7日、自民党・文部科学部会長を務める木原稔衆院議員のツイートをきっかけに、自民党ホームページにアクセスが集中した。ツイート内に貼られたリンク先にあったのは「学校教育における政治的中立性についての実態調査」だった。これが批判を呼んでいる。【BuzzFeed Japan / 石戸諭】


サイトにはこう記されていた。
『教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。』
『学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。』
「子供たちを戦場に送るな」というのは、政治的中立を逸脱している。そんな発言をした「先生方」は自民党に報告してほしい。
そう呼びかけるツイートに批判が殺到した。
まもなく、ホームページが見られなくなったが、9日になって復活。批判が集中していた「子供たちを戦場に送るな」の部分は差し替えられ、こうなった。
『学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「安保関連法は廃止にすべき」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。』
「安保関連法の廃止」はダメ
「子供たちを戦争に送るな」から「安保関連法は廃止にすべき」という文言に変わったが、なぜ変わったのか。以前との変化の説明はない。
さらに、他の部分はまったく変わっておらず、不適切事例は「(いつ、どこで、だれが、何を、どのように)」を書くことが求められている。
自民党「修正は木原議員の指示」
BuzzFeed Newsは自民党に取材した。担当者はこう話した。
「『子供を戦場に送るな』という文言を変更したのは、木原稔議員の指示です。指示に従って、9日の段階で『安保法~』に変更しました。細かい理由について、私どもは聞いておりません」
「参院選の公示後、6月下旬にアップしたのですが、ここ最近、アクセスが集中してサーバーがダウンしました。その後、文言を差し替えました」
自民党によると、調査をすること自体は5月の時点で決まっていた。中心になったのも木原議員だ。
「密告フォーム」との批判
このホームページは文言修正後も、インターネット上では「密告フォーム」と名づけられ、方々からツッコミを受けている。
「自民党は密告奨励かい」「あまりに凄まじい」「政治的中立性を自民党に都合の良い意味にする」
こうした批判についても担当者に聞いたが、調査は続けるという。
「調査をやめるなんてありません。(中止は)当然しません」

昨日の永六輔さんに関する記事でも話題にしましたが、憲法はその遵守義務を一般国民にではなく、国家権力に負わせています。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(憲法第九九条)
まずこの義務を果たすべき一国の首相が、「みっともない憲法」などとうそぶいていることほどみっともない話はないのですが(憲法記念日に家の中でひとり憲法を考える、の巻 の記事参照)、、、。

ともあれ、「その他の公務員」である私たちも、、日本国憲法と教育基本法の遵守を宣誓して教師生活を始めました。私たちが遵守を宣誓した教育基本法(1947年版)は、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」と高らかにうたっていました。

これに従えば、「子供たちを戦場に送るな」は、第一義的に重んじるべき教育の根本テーマであり、なんびともないがしろにしてはいけない課題です。

この47年教育基本法は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と明記していましたが、第一次安倍内閣は、2006年、「国民全体に直接責任を負って」の文言を削除し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と国家や行政の権限を強めて、「愛国心」や「公共の精神」を強調するなど、国家主義的色彩の強い新教育基本法を、野党議員欠席のもと単独可決・成立させました。10年の時を経て、今度は本丸の憲法そのものに手をかけようという動きが顕著です。アベさん、なかなかやりますナ。
アベ内閣の最大の応援団は「日本会議、神社本庁、美しい日本の憲法をつくる国民の会」だと、池上彰さんが投票日のTV番組で言ってました。これらの勢力は、安倍内閣の最大の支持団体というよりも、裏で操る傀儡師(くぐつし)とも言える存在でしょう。

今がチャンスだとばかりに、改憲アクセルを踏み込むよう、操り糸は引かれるでしょうが、それは急速に国民の支持を失う道。それを知っているアベさんは、どう老獪に、ウマク立ち回って人気の維持をはかりつつ、「悲願」の改憲を達成するおつもりなのでしょうか?

戦争の悲惨を自ら体験し、辛酸を記憶に刻みつけた世代が次々に世を去って民族的な記憶が薄らぐなか、若者たち・子どもたちの間に、「戦争反対」を偏向と見なし、「戦争に行きたくない」は自分中心、極端な利己的考えと決めつけるような空気を醸成することが、遠回りのようでも確実な近道だと腹をくくっているので消化。いやいや、それともいまぞ機は熟したと全面攻勢を決意しておられますかな?

そのような今だからこそ、子どもに平和の尊さや命のかけがえのなさを教えるような「偏向」教師は排斥しなければならないというわけでしょうか?

先日のこの記事(大橋巨泉、井上ひさし、菅原文太、愛川欽也の言葉に、いま、耳傾ける時。
で、巨泉さんのこんな文章を引用しました。
竹槍こそ使わなかったが、本土決戦を本気で考えているうちに、東京大空襲から広島・長崎まで、何十万人という市民の命が、無意味に失われた。そして300万人の貴重な犠牲の上に、われわれは平和を手に入れ、戦争のできない憲法のもと、70年の繁栄を享受してきた。
 いかに戦争が悪で、平和や自由が尊いか。若い人もようやくわかってくれたようだ。8月30日の大集会はインパクトがあった。こうした若者に対し、自民党の武藤貴也衆院議員が、「戦争に行きたくないので反対」というのは「利己的個人主義」と批判(※1)したのには驚いた。この人は36歳、若者である。ここにはすでに「滅私奉公」のメンタリティーが感じられる。デモの若者たちの発言は、「殺人したくないから反対」というのと同じだということがわかっていない。もう日本人は崖っぷちに立っているのだ。

武藤なにがしとかいう議員さんのことなど、もうお忘れかもしれませんが、去年、私もこんな記事を書きました。

◇佳き光賜(たまは)る朝や稲太る

◇昔、水木しげるロードを歩いたっけ、の巻(その3)
話題になった彼のツィートを、念のためにもう一度引用しておきます。


 SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると 言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的 個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。

返信 リツイート いいね 2015.07.31 01:17



思わず長い文章になりそうですので、今日はいったんここで中断し、続きは次回といたします。






先日散歩した県自然保護センターの「虫の原っぱ」では、ハッチョウトンボ以外にも出会いがありましたよ。



こちらは、チョウトンボ。超トンボではなく、「蝶トンボ」です。











イトトンボも何種類か見えます。











































バッタです。

バッタには、こんな逸話があるそうです。





 3世紀の小アジアに生まれた聖バルバラがキリスト教の信仰を守ろうとして身を隠していたところ、居場所を羊飼いに密告され、その結果その羊飼いの羊がバッタに変わってしまったという伝説が残されている。〈ウィキペディアより)


密告とバッタが結びつきましたところで、お後がよろしいようで。

憲法を棄つると云ふか!蝉時雨 [時事]

参議院選挙の結果を受けて、どのマスメディアも「改憲勢力2/3超!」と口をそろえて報じています。でも、これっておかしくありません?インチキじゃん?
「改憲勢力」と言われるヒトたち、選挙中は憲法についての自党の姿勢をちゃんと国民に訴えて、信を問うたの?
選挙公報での公約はもとより、投票日当日の新聞広告(これ自体投票日の選挙運動を禁じる公選法に抵触するとの批判がありますが、それはひとまずさておいて)でも、また、うっとうしいほど執拗にyoutubeで流された広告でも、アベノミクス一本槍ではなかったですか。



マスコミもひどいでしょ。どの政党・政派が改憲をめざしているかいないかとか、憲法のどこをどう変えるつもりとか変えないつもりとか、今度の選挙が終わったら改憲へアクセルをふかすつもりとか、どうとかこうとか、選挙中は全くといっていいほど報道しなかったじゃありません?

こんな事を書こうと思って、材料探しのためにネット検索をしていましたら、リテラの最新記事にこんな記事を見つけました。
全くその通り!私が言いたいのもそのことです!なので、一部を引用させて戴きます。

昨日、投開票された参院選は、自公とおおさか維新の会などの改憲勢力が非改選と合わせて憲法改正の国会発議に必要な3分の2議席以上を確保した。安倍首相はこの選挙戦において、遊説で憲法改正について一度も言及することなく、「争点隠し」を行ってきたにもかかわらず、だ。
 まさに安倍首相が国民を“騙し討ち”したとしか言いようがない結果だが、しかし、そうした改憲勢力と同じように国民を騙してきたのは、テレビも同じだ。
 昨日、開票が開始された昨晩20時前からNHKおよび民放各局は一斉に選挙特番を放送したが、そこでは今回の選挙の争点が「憲法改正」であることを全面に打ち出し、出口調査結果を発表するなり「改憲勢力が3分の2議席を確保する見込み」「憲法改正発議可能に」「野党共闘ふるわず」などと伝えはじめたからだ。
 ……目がテンになるとはこのことだろう。この参院選の間、ほとんどのテレビは改憲の問題を無視していたんじゃなかったのか。そして、安倍政権の誘導に乗っかってあたかもアベノミクスが争点であるかのような報道を展開していた。いや、そのアベノミクスの検証さえ行わず、むしろ参院選のニュースを最小限に留め、今月末の都知事選のことばかりを取り上げる始末で、きちんと参院選の改憲問題をピックアップしていたのは、『NEWS23』『報道特集』などのTBSの報道番組と、テレビ朝日の『報道ステーション』くらいだったではないか。
 それを、いざ投票が終わった瞬間から「憲法改正発議可能に」などと言い出すのは、完全に視聴者に対して「争点隠し」を行ってきた証拠だ。
 しかも、である。NHKでは選挙前は参院選の話題を最小限にとどめていたのに、いまごろになって“SNSでは「憲法」や「改憲」などのトピックに注目が集まっていた”などと紹介したり、民放でも日本会議などの安倍政権をバックアップする改憲団体にスポットを当てたり、フジテレビにいたっては自民党の憲法改憲草案を解説したりしていた。そうした憲法改正の裏側や問題点を報道することは間違っていないが、でもそれは投票の前に伝えろよ、という話だ。
(中略)
そして、この安倍首相の“確信犯”に加担し、憲法改正の問題を報道せずに隠してきたテレビも、視聴者を欺いてきたことに責任など感じていない。
 その実例を示したのは、やはりフジテレビだ。選挙特番内では、前述のように自民党の憲法改正草案を紹介し、その上で改憲勢力が3分の2議席を越える結果となりそうだとしれっと解説。そしてゲストとして出演していたSEALDsメンバーの奥田愛基氏に司会の伊藤利尋アナが「奥田さんはこの結果をどう思っているのか」と話題を振った。そのとき、奥田氏はこのように発言した。
「世論調査によったら3分の2を超えたら何ができるのかわからない国民が6割以上いた。今回、結果を受けては憲法改正の発議があるんじゃないかという話が多いんですけど、でも選挙期間中に全然その話題になっていなくて、なんで終わった瞬間にこんな話になるのか、テレビをご覧のみなさんも『あれ、憲法改正が今回争点でしたっけ!?』っていう人が多いんじゃないかと」
 憲法改正の話題なんて選挙中はニュース番組でも全然出てこなかったのに、どうして選挙が終わったそばから「争点は改憲」と言い出すのか──。この発言はまさしく多くの視聴者が感じた違和感をぶつけたものだったが、しかし、対して司会の宮根誠司は、「あー。逆にね。うん、やはりアベノミクス中心ということもありましたが」と言い、すぐさま別の話題に移したのだ。
「逆にね」って、何が「逆」なのだろうか。逆ではなくて、“争点は改憲”だとわかっていたのに「アベノミクス中心」にミスリードしてきたのは、ほかならぬ宮根をはじめとして報道する側にいるテレビのほうだ。そうした視聴者への“背信”を、宮根は安倍首相と同じで悪びれる様子もない。
 この調子だと、国会で憲法の改正発議がなされ、ついに国民投票にもちこまれても、テレビは今回と同様に安倍首相の顔色を伺い、政権に不都合な改憲の問題点や、その危険な内容が検証されることはないだろう。そして、今回の参院選と同じように、国民は深く考える機会を奪われたまま投票を迎えることになる。
 ジャーナリズムの役割や責任を放り出し、視聴者ではなく政権に“有益”な報道しか行わないテレビ。参院選における安倍首相の国民への騙し討ち行為もさることながら、メディアによる犯罪的な報道姿勢もまた糾弾に値するものだ。


ざらざらとした不快な思いを抱えたまま、朝散歩に出てみました。朝の通学・通勤の時間帯なのに、すでにひどい暑さです。

この夏、蝉の姿を見るようになったのはいつ頃でしょうか。今日の散歩道は、すっかり蝉時雨に包まれていました。

過去の記事でも、しょっちゅう蝉や蝉時雨を話題にしました。

たとえば、去年の八月六日の記事にもこう書きました。

◇八日目の蝉もをるらん原爆忌








 毎年毎年、この季節になると蝉の姿ばかりをカメラで追います。ブログを始めてからも、蝉の記事も多いし、蝉の画像も見飽きるほど掲載しています。
今日の記事は、蝉を中心に載せようかと思いついて、いざ書きかけると、話題が皆、二番煎じであることに気づきます。
ちなみに、過去の記事から、蝉に関する蘊蓄を引用してみました。




「空蝉のなほ登らんとてや見上げたる」
空蝉のフォルムに惹かれます。フィルム時代から、何枚も写した覚えがあります。
すでに本体は、殻を脱ぎ捨ててはばたき、そしてわずか七日間の生命を謳歌して、もはや静かに眠っているのでしょう。でも、脱ぎ捨てられた空蝉は、今なお、樹皮や木の葉にがっしりと爪を食い込ませ、さらに上方を志すかのように、遙か高みを見据えているようにも思えます。
近所の樹林では、いつしかクマゼミの声は聞かなくなり、もっぱら、アブラゼミが鳴いたり飛び交ったりする姿を見かけます。
(中略)
「アブラゼミ」の命名は、「ジリジリ」という鳴き声が、煮えたぎる油に似ているからだとか。朝夕の蝉の声は、心なしか、ものわびしく聞こえるようになりました。秋もそこまで近づいている、、、でしょうか?




 「ツクツクホウシを見た」

ツクツクホウシは、「ツクツクホーシ」と鳴くのか、「オーシツクツク」と鳴くのか「論争」があるそうですが、どうしても聞き定めることが出来ません。
(中略)
藤沢周平氏の「蝉時雨」は、ヒグラシでしょうか。直木賞作家葉室麟 氏の「蜩ノ記」も。「カナカナカナ」と哀感を含んだ鳴き声は、涼しさと物寂しさを演出しますね。




 「蝙蝠を日傘に虫撮る夏休み」
そういえば、去年の夏もこんな記事を書いていました。
そこにも書きましたが、最近はクマゼミの姿が一番目につきます。
体格も勇ましいので、以前は、珍しい蝉だと思って珍重したものですが、今は一番ポピュラーです。
「シャンシャンシャン」と余計に暑さを増幅する鳴き声が、うるさいことです。
南方系の蝉だそうです。


アブラゼミ。 「ジージー」という鳴き声が加熱した油の音に似ているための名付けと言います。
子ども時代は、これを捕まえると少し自慢でした。

ニイニイゼミ。小さくて地味な蝉です。樹皮の模様に隠れて、動かずにいると気づきません。
子ども時代は、この蝉が一番身近でした。そっと近づいて、手で捕まえても、幽かにばたばたと暴れますが、じきに観念して静かになります。そのまま、服やシャツに しがみつかせても逃げないので、何匹も装着して歩いたものでした。バッジか何かのように。
環境の変化によるのか、近年生息数が減少しているようです。
松尾芭蕉が山形の立石寺(りゅうしゃくじ)で詠んだ 閑さや岩にしみ入る蝉の声 の蝉はニイニイゼミだったかと思われます。
「閑かさ」は外界の静かさではなく、心の中の静謐さだ、とはいえ、クマゼミではうるさすぎましょう。アブラゼミの鳴き声も、やはり耳障りです。心を逆なでしないレベルのニイニイゼミの鳴き声が妥当でしょうか。
ハルゼミや、ヒグラシ、あるいはツクツクホウシというアイディアも浮かばなくはありませんが、芭蕉が立石寺を訪ねたのは元禄2年旧暦5月27日(新暦で1689年7月13日)だといいますから、やはりニイニイゼミの活動時期でしょうかね。




 漸(ようよ)うに姿見せたか法師蝉
ここのところ、つつつくほうしの声はしょっちゅう耳にしますが、目を凝らしても姿を捕らえることが出来ず残念な思いがしていました。
ところが今日は、孫のお供で図書館に行ったとき、玄関前の植木から、威勢のよいツクツクホウシの鳴き声が聞こえますので。じっと目を凝らすと、やっと見つけ出しました。


ほかにもこんな記事を書いています。

◇病室にあえかに聞きし蝉時雨 今朝は間近く降りしきるかな








 早朝から、蝉時雨が土砂降り状態です。

病院の窓越しに聞こえたあえかな蝉の声とは格段のかまびすしさです。7日間の生命を謳歌している必死さが伝わってきます。

よく見ると、クマゼミが多いですかね。



◇2年目も病室で聞く蝉時雨








 窓の外からしきりに蝉時雨が聞こえています。
クマゼミのようです。

気づけば、2年前の肺ガンによる入院手術の記念日です。

可笑しい事に、またまた同じ病院に入院してます。2年前は呼吸器内科→外科。今度は消化器内科ですが。念のために付け加えれば、2007年には、脳外科で検査入院しました。これも結構辛かった。




◇蝉シャワー浴びて真夏の散歩かな








 涼しいうちに散歩を、と思いつつも、家を出て歩き始めたのは7時過ぎ。
もう、真夏の陽射しです。
家を出たとたんに、蝉時雨が襲ってきます。
いや、蝉シャワー?蝉豪雨?蝉洪水?
すさまじい限りです。
被害はありませんから、ちっとも厭うものではありませんがね。

「蝉時雨」という言葉は、どちらかというと風情があって好きな言葉ですし、蝉時雨そのもののかまびすしさも、他の騒音とはちがって決して不快ではありません。でも、今朝は、何か、不安をかき立てられるように、心がざわつく思いぬぐえません。



























散歩しながら考えました。

「獰猛な縞蛇」はなかなかしぶとく、か弱きカエルたちを、なおもどん欲に飲み込まんとする勢いに見えます。

昨日歩いた県自然保護センターでも、二度も出会いました。



トリミングします。















でも、選挙結果をつぶさに見てみると、一方的・一面的にシマヘビ勢力がひとり勝ちしているわけでもなさそうです。あの「ハボマイ、えーーとなんだっけ」の島尻安伊子沖縄北方担当相(沖縄選挙区)、岩城光英法相(福島)の二人の現職大臣が、一人区で野党統一候補に敗北しました。これってすごくない?

アベ政治と国民(住民)との矛盾が集中している沖縄、福島で、はっきり民意が示されたのです。そして、野党共闘の実現があったればこそ、その意思表示の場が与えられたわけです。

参院選挙と時を同じくして実施された、鹿児島県知事選で、川内原発停止を掲げた新人の三反園訓さんが、4選をねらう現職を破って当選。これもすごい。

全国32の1人区すべてで野党共闘が実現、改選時2議席だった「非自民議員」を、11議席に増やしたことも、よく考えればすごい。

確かに、「ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ」の合唱が、高らかに響き渡った事は間違いないのです。

正直、もっといける可能性はありましたし、内心飛躍的な大躍進を期待しましたが、まだまだ巨大なうねりにはなりきっていなかったということでしょうか。でも、決して清算主義的にとらえて悲観する必要はないと思います。

「改憲勢力2/3議席占有」という驚愕の事実がもたらすアブなさは、決して軽視できないとは思いますが、しかし、自公とその仲良し勢力に投じられた支持票が、「改憲」への賛成票でないことは、自明です。

稲苗がすくすく伸びています。







永六輔さんの訃報が伝えられました。

今日の記事は書き終えたつもりでしたが、急いで付け加えます。永さんも、人一倍憲法を愛する人でしたから。こんな記事を引いて、追悼したいと思います。







 特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 永六輔さん

◇振り向き、歩こう--ラジオパーソナリティー・永六輔さん(75)

40年以上続くラジオ番組の収録のために、永六輔さん(75)が毎週通う東京・赤坂のTBS。その1階の喫茶室に、約束時間より30分ほど前に着くと、既に永さんはそこにいた。ゆったりと椅子に腰掛けて、静かにはがきを書いている。こちらに気付くと、表情が自然にほころんだ。


「実は明治維新は終わっていないんじゃないか」

えっ? 開口一番、言われたことに戸惑った。

「女学生のセーラー服は、海軍水兵の軍服。男子の

詰め襟だって、元は軍服です。日本人は子どもの時から軍服を着ている。それを誰も不思議に思わない。小泉(純一郎元首相)も、引退するけど、せがれに後を継がせる。どこが改革?
そんなの、江戸時代じゃない。明治で新しくなり、第二次世界大戦で世の中が変わり、世界の経済大国になった。そうやって、どんどん世の中変わっていると思うだろうけれど、本当は全然変わってない。明治維新が終わっているなら、国民はもっと目覚めているよ」


永さんの目には、政治は未熟だしとてもではないが近代化された国家には見えない。だから明治維新はまだ続いているというわけだ。少し極端にも思えるその論理の背景にはもちろん、いまの政治への憤りがあるようだ。


■ 永さんは、戦争放棄を定めた憲法9条を守る会に賛同する一方で、「99条を守る会」を個人的につく

っている。まるで冗談みたいな名前だが、実際はとても論理的だ。99条は、憲法尊重擁護の義務を定めているのだ。

天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

しかし、現実は、自民党議員をはじめとする政治家は、守るどころか、憲法、特に9条を変えようと必死だ。

「99条を守っているのは天皇陛下だけなの。他の連中は守っていません。守っていないだけじゃなくて、無駄遣いはするわ、ごまかすわ」と、不愉快そうに言った後、声のトーンを変えた。「僕は天皇陛下を尊敬しています。99条を守っているから。僕はまじめに、天皇陛下が大好き」。その表情は、無邪気でうれしそうだ。


憲法条文を見ると、政府などの権力を縛り、国民の権利を守ろうとする姿勢が一貫して流れている。

永さんは、「憲法は国民には何も厳しいことは言っていないの。国民は安心して生きていれば、何もしなくていいんです」と話した後、「政治がしっかりしていれば」と、付け加えた。


でも、政治家はしっかりしていませんよね?

「していません」と、きっぱり。

その政治家を選んだのは国民......。

「そうです」

ということはやっぱり、国民が悪いということになるんですか?

「そう考えると、おしまいになっちゃう」

おちゃめな言い方に、カメラマンと3人、一同大笑い。 「投票して誰かを選ぶんじゃなくて、投票して誰かを落とす選挙にすべきだと思う。選ばれて政治家になっちゃったヤツはしょうがないけど、『こいつだけは許せない』っていう人は落とされちゃう。そこまで徹底しないとダメだよ」


■ 永さんは、東京・浅草の浄土真宗のお寺に生まれ、さまざまな立場、境遇の人たちに触れて育った。

中学生の時に習い事の月謝代稼ぎにNHKラジオに投稿した台本やコントが次々に採用され、高校生でスタッフに。20歳前後はちょうどテレビが開局する草創期。試験放送の段階から携わって現在の日本のテレビ放送の礎を築いた。


しかし、「明治維新が終わっていない」元凶の一つは、テレビだと指摘する。国民が民主主義に目覚める前に、テレビの時代が来てしまったのが問題だという。


「テレビって、『なんでこんなことやっているんだ?』っていう番組が多い。僕はそのテレビを作ってきたのね。とっても恥ずかしい」。そして、テレビが抱える問題の本質を指摘した。「危険なのはね、みのもんたでも、田原総一朗でも、怒るでしょう?
政治家を呼んでおいて『こんなこと許せないっ』なんて。国民は、怒っている人を見て『あっ、怒ってくれている』と確認すると、怒らなくなっちゃうんですよ。それが一番怖いと思う」。そして、テレビの欺まんを嘆いた。

「大相撲の朝青龍にしても、初日前まであれだけたたいて『2~3連敗して引退』って専門家が言っていたのに、そうならなくてもみんな謝らない。言いたい放題言っておいて、言いっぱなし。放送っていうのは、送りっ放しって書くけど、まさにそう。でも、テレビの話題だと、何でも事件になるでしょう。テレビってそれほどのものか、って思いますね」


永さんは、そんなテレビが嫌になって、昔から親交の深い黒柳徹子さんと、筑紫哲也さん(昨年11月に死去)の番組に年に1回ずつ出る以外は、ほとんどテレビには出演していないという。


「明治維新が終わっていない」という閉塞(へいそく)感漂う日本の状況を変えるにはどうしたらいいのだろうか。

「しょっちゅう旅をしているから、僕は知らない街へ行きます。そういう時、振り返るんですよ、歩きながら。どういう道を歩いてきたかを確認すると、帰りに迷わないの。でも、振り返らないで歩くと、ちょっとしたカーブで迷っちゃう。日本という国は、立ち止まって振り返って......ということをしないまま来ちゃっているからね」。だから迷っているのだという。

「『上を向いて歩こう』じゃなくて、『振り向きながら歩こう』」と、永さんは、自身が作詞した坂本九の大ヒット曲に絡めて、提案した。そのためには、新聞も本も、仲間との会話も、歴史を学ぶことも必要になってくる。


永さんの大ぶりセーター。笑顔の犬のイラストデザインが目に付く。聞けば、ファッション評論家でタレントのピーコさんがコーディネートしてくれたのだという。「女房みたいでね」なんて言って、うれしそうに笑った。元々は、02年に亡くなった妻、昌子さんの古い友人だという。多いときには1日100通以上、1年で4万通のはがきを書いてきた永さん。亡くなった妻あてのはがきも、一緒に毎日したためている。


【中川紗矢子】

■人物略歴

◇えい・ろくすけ

1933年、東京都生まれ。ラジオパーソナリティー。放送作家、作詞家、司会者、エッセイスト、語り手などの幅広い活動で知られる。作曲家の故・中村八大氏とのコンビで「こんにちは赤ちゃん」など数々のヒット曲を手がけた。著書多数。担当するTBSラジオ「誰かとどこかで」は今年、開始から42年を迎えた。


『毎日新聞』 2009年1月30日 東京夕刊より


英チルコット委員会報告で際だつ日本の頬被り体質?の巻 [時事]

英ブレア政権によるイラク戦争への参戦を過ちだったとする報告書が、イギリスの独立調査委員会から発表されたそうです。
参考記事へのリンクを貼っておきます。
◇英独立調査委 イラク戦争でのブレア政権判断を批判 | NHKニュース
◇イギリスのイラク参戦「最後の手段ではなかった」 検証報告書の厳しい指摘とは
◇ブッシュとブレアのイラク戦争に遅すぎた審判「外交手段尽きる前に侵攻」世界中に混乱まき散らす 
『毎日新聞』のweb版にこんな記事がありました。

◇イラク戦争:英参戦、ブレア氏を批判「解決手段尽くさず」

英国が2003年に米国主導のイラク戦争に 参戦した際の英政府の意思決定過程と侵攻後の統治政策を検証した独立調査委員会(チルコット委員長)は6日、7年間の調査に基づく260万語の報告書を公 表した。
報告書は「平和的な解決手段を尽くす前に侵攻した。この時点では軍事 行動は唯一の手段ではなかった」と断じ、参戦を決めた当時のトニー・ブレア首 相(労働党)を厳しく批判した。
 英国でのイラク戦争に関する公的検証が政策決定過程に踏み込んだのは初めて。戦後、中東では過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭し欧州でも大規模 テロに関与しており、今回の報告書は英国を含む国際社会の武力行使の決断に影 響を与える可能性がある。
 報告書は、ブレア氏が参戦の根拠として掲げた「イラクが生物・化学兵器を保 有し差し迫った危機がある」との脅威評価は「正当化できない」と判断。情報機 関の「武力侵攻なしに(当時のイラクの)サダム・フセイン大統領を排除できな い」との分析は妥当ではなかったとの見方を示した。
 また、国連安保理決議を経ない参戦で「安保理の権威を揺るがせた」と指弾、 「法的根拠は十分にはほど遠い」と述べた。ブレア氏が開戦8カ月前の02年7 月、ブッシュ米大統領(当時)に「何かあっても協力する」と武力行使での連携 を書簡で確認したことも明らかにした。
 侵攻後の準備は「完全に不適切だった」と指摘。侵攻後の混乱で200人以上 の英国民とイラク人ら15万人以上の犠牲者を出したことも批判した。
 ブレア氏ら関係者は今後、議会で弾劾される可能性が高い。ブレア氏は声明で 「過ちの責任は私にある。だがフセイン排除は正しかったと思う。今日、中東や 世界各地で起こるテロが、イラク戦争に起因しているとは思っていない」と反論 した。

アメリカでは独立調査委員会が2005年3月、イラクの大量破壊兵器(WMD)の問題を巡る米情報機関の判断は『完全に過っていた』とする報告書を公表しました。
オランダでは、独立調査委が10年1月、「イラク侵攻は国際法上の権限がなかったとする約550ページの報告書を公表しました。
「ブッシュのプードル」と揶揄されたブレア政権がイラク戦争支持を表明するよりも早く、ブッシュ演説のわずか3時間後、「アメリカのポチ」を演じ続けるわが日本政府は、全世界に先駆けてイラク戦争支持を表明したのでした。(当時、その小泉内閣で官房副長官をつとめていたのがアベさんでした。)さて、その日本政府の政策決定の是非は、どう検証されたのでしょうか?

上の「朝日」の画像を拡大しておきます



日本政府は2012年12月、「対イラク武力行使に関する我が国の対応」という短い報告書を発表。開戦の大義名分とされた大量破壊兵器(WMD)が発見されなかったことを「厳粛に受け止める」としましたが、公表されたのはA4・4枚の「概要」だけで、報告書の全容は、「公開すると関係国との信頼関係を損なう恐れが高い情報が多く含まれている」(外務省)として公にされていません。
昨年の「戦争法案」審議においても、アベ首相は「大量破壊兵器を所有していないことを証明できなかったイラクが戦争を招いた」などと、大義なきイラ ク戦争への支持・加担の責任を回避し続けています。

過去の過ちへの検証も反省もないまま、なし崩し的に新しい過ちに足を踏み出すのは、日本の保守政治の(あるいは日本人の?)お家芸なのでしょうか?

すでに周到に戦争法も秘密保護法もととのい、近く「アベノミクス選挙」と称するカモフラージュでまんまと議席の2/3をかすめ取ろうものなら、一気呵成に「悲願」の改憲もやってのけ、自由に戒厳令体制をしくことができるフリーハンドを手に入れた暁には、地球のどこかでアメリカが引き起こす戦争に、当事者として「わが軍」を心置きなく参戦させられる『美しい日本』が現出するはずと、アベ一族のお歴々、うっとりと夢見ておられるのでしょうか。しかしそれは、「無知の無恥」というものですぞ。

再三の引用になりますが、イラク戦争当時にこんな文を書きました。

オバマよ!お前もジャイアンか!



 2003.2.15

それにしても、イラク・朝鮮半島情勢は、人類史を逆戻りさせる愚劣さです。「ならず者国家」を成敗する先頭を、一番のならず者が突っ走るの図。泣くに泣けず笑うに笑えぬ出来損ない笑劇に、どこまでつきあわねばならないのでしょうか?
「空爆」は、民衆の側から見れば、「空襲」です。逃げまどう民衆を念頭に入れないアメリカの視点は、ベトナム以来変化なしということか?「戦場」が常に自国の外にあったアメリカにとって、逃げまどう民衆の姿はイマジネーションの限界の外にあるのかもしれません。
では、日本の姿勢はどうなの?「悪い政府」の統治下であろうがなかろうが、各地の大空襲とヒロシマ・ナガサキの辛酸を嘗めた日本の民衆の視座からは、「空爆やむなし」の結論は、生まれる余地のないもの。にもかかわらず、NATO傘下のヨーロッパ諸国に比べてさえもふがいない追随三昧。嘆かわしい限りです。

2003.2.26 フランスのリベラシオン紙のコラムは、ブッシュを裸の王様にたとえたと言います。前々からそう思ってました。「王様は裸だよ」の声を、率直に伝えてあげる方が忠義かつ親切というものでしょうに。「お美しい」「お似合いでげす」のおべっかを、自分ばかりか周囲にも強要する幇間(太鼓持ち)の罪は如何?リンク集を緊急編成しました。

2003.4.20 ブッシュさん、3歳児をひねりつぶして、「勝った勝った」と誇っても、誰も腹でケーベツするだけ。ただ、手のつけられない乱暴者のやることだから、顔をしかめて黙って見ているまでのこと。
でも、ブッシュさんは気づいているのかしら?あなたに突如「ならず者国家」の烙印をおされ、第2第3のイラクとしての標的にさらされるおそれを感じている国々が、このイラク戦から何を学ぶか?について。
「力こそ正義」という、ブッシュ流の新しい(実は西部開拓時代以前の未開野蛮な)むき出しの力の政策の前では、国連中心の国際秩序を誠実に遵守することは愚挙であり、ましてや国連査察に誠実に応じたり、大量破壊兵器の廃棄など馬鹿正直に実行するなどもってのほか。細菌兵器、化学兵器、核兵器、無差別テロ攻撃・・・いずれをとわず、物量に勝るアメリカに「軍事的」に対抗する道すなわち無限の軍拡の連鎖、憎悪と報復の連鎖への道をひた走るしかない、と、向こう見ずな破滅的な決意を促したに違いないことを。
ブッシュ=アメリカをジャイアンに喩えた人がいました。ジャイアンは、自分のコンサ-トを誰もが歓迎しているに違いないと信じているのでしょうね。メーワクに感じながら、「いや」と言い出せないのは、ジャイアンに正義が存するからではなく、彼の腕力をはばかる故であることは、誰もが知っています。知らぬはジャイアン一人でしょう、かわいそうなジャイアン。
そして、ジャイアンの正義は、彼の腕力を上回る力(ドラエモン由来の)によってついえ去るしかないのです。ジャイアン少年は、心底、真の友情を求めながら、たまたま他を圧する腕力と粗暴さを備えていたが故に、怯えと追従と憎しみをもって遇されるしかなかったのです。もしも彼が、平凡な腕力の少年であったなら、その純朴な個性はより好ましい輝きを増し、周囲から真に愛され、好ましい友情を獲得できたに違いないのに・・・。
リンカーンの国、ホイットマンを生んだ国、民衆愛と寛容な民主主義の伝統ある朗らかなアメリカが、なぜこんなにも野蛮で狭量なふるまいしかできないのでしょうか。ベトナム戦争への苦い反省も忘れたかのように。ソ連、東欧の自滅をへて、対立軸を失い、「一人勝ち」してしまったことの不幸なのでしょうか?ジャイアンの不幸、孤独との相似が、なにやら真実味を帯びてきました。


でもそのアメリカにも、敢然とイラク戦争に反対した勇気ある政治家が存在したことは、人類の救いです。

たとえば、アメリカ大統領選挙の民主党候補者選びで「予期せぬ」大進撃を見せたバーニー・サンダース氏。彼は米国下院議員であった1991年1月18日、ブッシュ政権による湾岸戦争を糾弾する演説を下院議会会場で行います.世に言う伝説の空席国会演説」です。

 

 

下院議院本会議場で彼の演説を聴いていたのは、たった1人。しかし、空席に向かって理路整然と説く彼の演説は、その正当性・先見性の故に、いま、輝きを増しています。

 

 

 

 



今日の散歩は雨の中です。

カワラヒワが雨に濡れています。

幼鳥でしょうか?

 

























稲田のアオサギも雨の中。













おや、向こうの方にいるのは?



ケリです。









この鳥はなんでしょう?



児島湖雨景色。常山が、雲をかぶっています。













今日はこれにて。


年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま [時事]


今朝の地元紙「山陽新聞」web版に、こんな記事がありました。
 特例の解消を名目とした年金額の引き下げは生存権の侵害で憲法違反だとして、岡山県の 年金受給者56人が国の減額決定取り消しを求めた訴訟の第1回口頭弁論が4日、岡山地裁(善元貞彦裁判長)であった。国側は「特例の解消は合理性があり、
違憲ではない」などとして請求の棄却を求めた。

 原告弁護団によると、計4091人が39地裁に提訴している全国訴訟の一つ。岡山では今年秋、物価や賃金の伸びよりも年金給付を低く抑える「マクロ経済スライド」を巡る訴訟も起こすという。

 意見陳述では、原告代表の東都支男さん(77)=総社市=が「年金受給者の中には食費やタクシー代に困り、親族付き合いもできない人がいる。高齢期にも
人間の尊厳が保たれる社会を望む」と訴えた。弁護団の則武透弁護士は「年金減額の根拠とされる物価下落は、パソコンや家電製品といった消費財が要因で、食
品など生活必需品の価格は下がっていない」と主張した。

 年金額は物価変動などを踏まえて毎年度見直されるが、物価が下落しても特例で減額しなかった時期があったため、本来より2・5%高い水準で支給されていた。この状態を解消するため、政府は2013年10月~15年4月に計2・5%減額した。

 訴状では、年金水準は憲法25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するには程遠く、さらなる減額は受給者の生活を破壊すると主張。引き下げ前と引き下げ後の差額を請求している。

(2016年07月04日 21時43分 更新

この口頭弁論、私も傍聴することができました。35℃超えの猛暑の午後でした。大勢の傍聴希望者と、原告の方々で、裁判所ロビーは一杯で、エアコンも効かないほど。「暑いね」が挨拶の言葉となりました。新見市、津山市といった遠方からも、顔見知りの方々がいらっしゃっていました。前日の退職同業者の会合でお目にかかったばかりの方も、何人もお見かけし、心強いことでした。傍聴席88人という設定で、希望者がそれを上回りそうという見通しでした。遠方からの方、健康面その他の困難を押して参加しておられる方に、優先権を譲るつもりでおりましたが、開廷10分後に、報道席に2席の空席があることから、追加入場の取り計らいがありました。あぶれて扉前に待機していた面々が、譲り合いながらも、それではと、私も旧知のHサンと二人、入場させてもらいました。
空席はというと、傍聴席最前列の報道席。しかも、私の案内された席は、妙齢の女性記者さん二人に両脇を挟まれた「特等席」でした。記者さんの、ノートにペンを走らせる音が気になりながらも、原告代表と弁護団長の陳述を間近で聞くことが出来ました。
この裁判については、以前この記事↓に書きました。
「年金裁判」は何に貢献するか?の巻

そのあと、紆余曲折がありました。この年の一〇月二日、被告(国)側が、広島地裁への「移送」を申し立て、11月末には、岡山地裁が「移送」を認めました。素人の私たちには耳慣れない言葉ですが、「行政事件訴訟法」の規定の解釈をもてあそんで、「お上にたてつく輩」に嫌がらせを加えているとしか思えません。
弁護団はこう陳述しています。
 2. 当初、本件話訟は原告らの老齢厚生・基礎年金保険の各年金額を減額する改定決定の取り消しを求める訴設として起こされました. それは、
原告らが本件訴訟提訴前に行つた再審査請求の裁決書に添付された被告の教示示文書に取消訴訟は「お住まいの地域の地方裁判所に提起するとができます」と書かれていたからです。
原告ら岡山県民にとって. 「お住まいの地域の地方裁判所」 とは岡山地裁を意味することは明らかです

3. ところが、不当にも被告は、本件訴訟を広島地裁への移送を申し立て、本件訴訟の開始を妨害lしました。原告らは、移送申立に反対の意見を述べました。
しかし.残念なことに、岡山地裁が移送申立を認める決定を行い、これに対して原告らが抗告しました。 高齢でかつ国山県全域に散らばっている原告らが広島地裁まで赴いて裁判を受けねばならないことになれば.、事実上裁判を受ける権利を失うことを意味するからです。
このため、原告団は、「取消訴訟」から「給付訴訟」に訴えの変更を行い、岡山地裁での裁判にこぎ着けました。つまり、「憲法違反の年金減額処分の取り消し」を求める裁判から「2013年10月から2014年9月分までの1年間の差額の請求」を求める裁判へと、切り替えたわけです。
「給付訴訟」の審理は、解釈の余地なく、地元地裁で行なうことができるからです。
口頭弁論終了後、原告団、弁護団、傍聴者、報道関係者が弁護士会館に集まって開かれた総括会では、記者さんから、「取消訴訟」なら成果が全年金者に及ぶが、「給付訴訟」では、裁判で争った原告だけが益を得る事になるのかという質問がありました。
則武弁護団長は、年金引き下げという国の決定を違憲だと判断させる裁判なので、勝利すれば、国はその決定の変更を求められる。そのことで、結果として全年金受給者、全国民に益は及ぶ、その意味で、原告の皆さんは、全国民のために代表してたたかっている事になる。このような裁判を「政策形成訴訟」と呼ぶ。その典型例が、地元岡山で戦われた「人間裁判」=「朝日訴訟」だ、と解明されました(メモなしの、話の記憶頼りのまとめですので、不正確ですが)
則武さんは、裁判冒頭の意見陳述の終わりに、朝日訴訟を引いてこう訴えておられます。
 14.最後に、かつて、この岡山の地で、朝日茂さんが立ち上がって起こされた 「人間裁判」 朝日訴訟のことを述べさせて下さい。 朝日訴訟では、
第1審の東京地裁の浅沼裁判長は、 朝日茂さんが病の床にあった早島の結核療養所まで赴き、 3日間にわたり検証や朝日茂さんへの尋問などを実施しました。
浅沼裁判長は、 岡山を立ち去る際に 「意法は絵に描いた餅ではない」 と述べたそうです。そして、昭和35年10月19日、月額600円の生活保護基準を憲法2
5条違反とした画期的な浅沼裁判長の東京地裁判決が下されます。 この浅沼判決を受けて、朝日茂さんは「真実をふかく見きわむ浅沼裁判長 四年の審理に我は謝すべし」
との歌を詠みました。
その朝日訴訟ゆかりの地である岡山の裁判所で、今再び、憲法25条の存在価値が問われているのであります。 どうか、裁判所におかれては、原告らに生活保障を十全のものとするために、真実を見極め、審理を尽くされることを期待します。
思わず、目頭が熱くなりました。
朝日訴訟については、前述の「年金裁判」は何に貢献するか?の巻でも少し触れました。
以前、小林多喜二を話題にしたこの記事で、岡山県出身の作家右遠俊郎さんについて書きました。
またまた3月15日の蘊蓄、の巻
この記事で引用した略歴に、「1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。」とあります。
その、『小説朝日茂』は、克明な資料と取材に基づいて、淡々と抑制的な筆致で綴られたルポルタージュ的な「小説」ですが、ページページに深く胸を打たれ、涙を催さずに読むことはできませんし、同時に極限の状況下でも、人間の示しうる尊厳、勇気、高潔に、はげまされずにはいられません。

小説 朝日茂

小説 朝日茂

  • 作者: 右遠 俊郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1988/12
  • メディア: 単行本



第一審の判決場面を引用します。

 現地検証・現地公判のあと、年内になお二回の公判が開かれ、朝目側証人の有力な証言、たとえば、第十回公判の参議院議貝木村禧八郎の証言、第十一回公判の労働科学研究所員藤本武の証言が続き、茂は弁護士たちの意見と同じく、勝訴へのかなり確かな感触を得るのだが、訴訟というものは始まるときも待たせるが、終わりがけもなかなかすっきりとはけりがつかない。結審したのは第十三回の公判、翌一九六〇年の三月十六日であった。そのとき、弁護士たちの見通しでは、判決は六月頃だろう、とぃうことであった。折から<安保反対>の高潮が全国に渦巻いているときであった。
茂はラジオで<安保反対>の高鳴りを聞きながら、胸を熱くし、いくらかは焦りながら、指折り数えて判決の出る日を待つていた。が、判決は六月になって遅れることが知らされた。重症の身で三年、不服申し立てからでは四年を、血を喀きながら命ながらえてきた茂には、判決の遅延はひどくこたえた。
茂の病状が急に悪化した。流動血痰の量がふえ、心悸亢進、食欲不振が続いた。危機の予感に焦燥が燃え、茂は浅沼裁判長の白いマスクの上の目の優しい印象を忘れ、裁判所はわしが死ぬのを待っているのか、とあられもなく口走りたい衝動に駆られるのだった。
茂は半ば覚悟を決めて遺書を書いた。が、どうしても判決だけは見たいという執念で、危うく持ちなおした。周囲のものは愁眉を開いた。日本患者同盟や対策委貝会は茂の病状を憂えて、裁判長に判決を早く出してもらうように要請した。暑い、夏も終わろうとする頃、判決は十月と知らされた。もう延びることはないようであった。
一九六〇年十月十九日、判決を待って茂は朝から待機してぃた。新聞記者たち、カメラマンたち、地元山陽放送の放送記者たちが、.茂の部屋に詰めかけてぃた。茂はうっすらと不精ひげをロのまわりにたくわえ、詰めかけた人たちとなごやかに談笑していた。
茂は秋になって体調を取りもどしていた。みんなの見ているまえで、昼食をすませた。午後二時、療和会の事務所に、山陽新聞からの速報が入ったらしく、その知らせを持って療和会の書記が病室に飛びこんできた。

「勝った」
と彼は言った。 病室に居合わせた人々は一斉に茂の顔を見たが、どっと湧くようなことはなかった。まだ書記の「勝った」が信じられなぃらしく、さらにその続きを聞こうとしていた。が、書記にも、「勝った」内容は説明できなぃのであった。
山陽新聞の記者がすぐに席を立って出てぃった。電話をかけにいったらしく、まもなく病室に帰ってくると、朝日茂の完全勝訴であることを告げた。何でも、国は憲法第二十五条に違反していると断じているらしい、と彼はつけくわえた。そこでやっと病室のなかがどよめいた。茂は思わず暗ればれと笑った。
さっそくマイクが茂のロ元に突きつけられた。茂は別に用意していたわけではなぃけれど、よどみなくしゃべりはじめた。 「ありがとう。みなさんのおかげです。私は内心では、民主主義の理念からいえば、勝つのが当然だと思うとりました。しかし正面きってそういえば虚勢にきこえるのでいままであまり言いませんでした。この当然のことが勝ったんです。憲法の前文をみればこのことはわかります。今の憲法が、人間の基本的人権を守るものであることを、裁判官が正しく理解し、ものごとを、まじりけなしに純粋に考察し政治的考慮を抜きにすれば当然勝つはずだったんです」
それから三十分ほどして、日本患者同盟のウナ電が入つてき、午後三時にはラジオが朝日茂の勝利を報じた。それによれば、「現行の保護基準は、生活保護法にもとり、健康で文化的な最低限度の生活を保障した憲法第二十五条の精神に反する」という内容のものであり画期的な判決である、ということだった。
(中略)
茂は今日の感慨を忘れずに残しておこうと思い、薬包紙に鉛筆で短歌三首を書きとめた。
<われ勝てり浅沼裁判長は声低く言葉少なく判決文を読めりと>
<血を喀きつつ今日の判決待ちわびぬ我れに久しき四年のあけくれ>
<真実をふか<見きわむ浅沼裁判長四年の審理に我は謝すべし>

感動のクライマックス!と喜べないところが、現実のしぶとさ、国家権力のあくどさというもの。民主国家を標榜する我が国の裁判所は、三権分立の建前にもかかわらず、上級審へ行くほど行政権力へのおもねりが甚だしく、上級審ほど低級である点は、今も昔も変わらぬようです。
「朝日訴訟」においても、1963年11月4日、厚生省は朝から通用門のすべてを閉ざして、要所に守衛を配置し、東京高裁と道路を隔てた日比谷公園には100人を超える武装警官が待機するものものしい警戒のもと、東京高裁は一審の判断を覆し国側勝利の不当判決を下したのでした。
『小説朝日訴訟』からいま少し引用します。

 茂のもとにその知らせが入ってきたのは午後二時であった。待機していた記者たちに、茂は開口一番、「少しは、負けたような深刻な顔をせにゃあぃけんでしょうかな」と言ってみんなを笑わせた。それから一呼吸おき、居ずまいを正し、真顔になってしゃべりはじめた。
「残念です。いったい裁判官は、こちらの提出した資料を入念に検討したのでしょうか。憲法の理念を正しく理解すれば、わたしの主張は認められるはずです。裁判官の良心を疑わずにはおれません。あきらかに国家権力、池田自民党政府に屈従し従属したものです。一般の人は国家権力のあくどさを知っていただきたいと思います。
この不当な判決は、社会保障の拡充を要求し、憲法の民主的条項の完全実施を要求する人民への裏切り行為です。この裏切り行為はかならず新しい日本人民によって裁かれることでしょう。
今度の判決は今後たたかううえでの盛り上がりを作ってくれたと思います。波があってこそたたかいは前進すると思います。 わたしはからだを大切にし、
何年かかろうと最後の勝利を得るまでたたかいぬくっもりです。 私は断じてこの不当な判決を認めません」
短いコメントであったが、茂は話しているうちに、さすがに無念の思いがこみあげてきて、声に痰がからみ、からだは熱くなり、息が大きくはずんだ。
記者たちが帰つたあと、心を許しあった仲間が三人残った。みなうつむいて、涙をこらえているような暗い顔をしていた。その三人を見まわしながら、茂は普段の調子にもどり、しんみりと語った。
「わしはなあ、ちっとも悲観しとらんで。そういやあ、また強がりいうとるように思うじゃろが、ほんまじゃ。ほんまに悲観しとらん。ただなあ、最高裁の判決までたたかいぬけるかどうか、そう断言できんところがあるんじゃ。これから三年、訴訟を背負うて生きつづけにゃならんか思うと、しんどいんじゃ」
茂が判決の全文を読んだのは一週間ほど経つてからだった。茂は丁寧に読んでから、まず、小沢文雄という裁判長は奇妙な論理をもてあそぶ人だと思つた。
たとえば、彼は長い判決文のなかで、「以上のように詳細に検討を重ねてみても、当裁判所は、本件保護基準を違法とは決しかねるのであるが、 しかしなお概観的に見て、
本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得なぃ」といっている。別なところでは、「頗る低額に過ぎる」けれども、違法とは断定できないといい、そして、これを結論にしているのだ。
茂には、「いかにも低額」、「頗る低額」だが、「違法とは決しかねる」という論理が、どうしてものみこめなかった。が、やがて茂は気づいた。簡略化してぃえば、低額は合法、ということになる裁判長の論理には、一つの前提があるとぃうことに。それは、「当不当の論評」と「違法を論証すること」は別のことがらだ、という考え方である。そこから、不当だが合法という判断は、遊びの形式論理であるとしても、容易に出てくる。
それにこの裁判長は、厚生大臣の定めた日用品費六〇〇円が違法であるという、決定的な理由だけを見つけようと終始している。そして、一つの項目ごとに、違法であるとは断定しがたいと断じ、それを連ねてゆく。彼は決して、それが合法であるという論証はしない。彼は「疑わしきは罰せず」を日用品費に当てはめた。
何のことはない。この裁判長、初めから、違法ではないという結論を設定しておいて、それを論証するために奇妙なロジックをあやつり、 事実や証言を都合よく引用、挿入しただけのことである。彼ならばたぶん、遊びとして、違法であるとぃう結論を設定して、それを論証せよといえば、ほぼ同じ長さで充分にやってのけたであろう。
では、なぜ彼が、違法ではないという結論を決めたかといえば、それはただ、厚生省の準備書面による脅しに屈服し、「自已抑制」しただけのことである。その証拠に、日用品費六〇〇円が違法ではないという、彼が挙げた理由は、すべて厚生省から学んだものばかりであり、一千万人に近いボーダーライン層の存在、納税者の感情、国民の生活水準、国の財政などを考量する必要があるとしてその決定は厚生大臣の自由裁量に属する、とぃうことにしてしまった。
それでぃて、小沢裁判長は、新聞各紙のインタビューに、生活保護基準は「違法すれすれだった」と語っている。その談話にも茂は嫌な気がした。実際には原判決を破棄し、朝日茂に敗訴をいいわたしておいて、世間向けには「違法すれすれ」などと、少しは生活保護患者の苦しみも分かるようなそぶりをする。そこが卑しい、と茂は思った。「違法すれすれ」などといわれても、厚生大臣の違法が解除された以上は、生活保護患者は「生命すれすれ」で生きるほかなぃのである。 十一月二十日、朝日訴訟中央対策委貝会、弁護団、朝日茂は一致して、最高裁へ上告した。

1964年2月14日、原告の朝日茂さんは上告審の途中で亡くなり、養子夫妻が訴訟を続けましたが、最高裁は、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下しました。
しかし、朝日茂さんのみずからの命をけずってのたたかいは、政府の政策に確かな影響を与え、その権利のための闘争は、今なお輝きを増し、私たちを励まし続けています。
法学館憲法研究所のサイトに以下の記事がありましたので、引用・紹介させて戴きます。
 「人間裁判」 ― 朝日茂さんの壮烈な“権利のための闘争” 

しかしながら、政府は、裁判の過程で1審判決に強いショックを受け、その翌年に生活保護基準を30%以上引き上げ、以後も改善して行きました。裁判の役
割は司法の場だけでなく、政治や行政にも生かされることを国民は学びました。人権とは、国民が闘い取るものであるという憲法12条、97条の精神を文字ど
おり命をかけて実践した朝日さんをしのぶ「人間裁判の碑」が朝日さんの地元の岡山県・早島町に建てられています。今年も2月の命日に恒例の碑前祭が行われ
ました。「朝日茂さんに内在し、その血を吐く苦闘、鮮烈な生き方、勇気ある思想、人間的な立ち振る舞い、やさしい息づかいなど細部にふれて、現代に生きる
一人ひとりが明日に向かって生きる希望と励ましを受け取る」(手記「人間裁判」解説・二宮厚美)。

 日本全国憲法map岡山編

「人間裁判」とまで呼ばれた「朝日訴訟」は、最終的に原告が敗訴という結果に終わってしまいましたが、他方で、先にも述べたように法的権利としての「生存権」論の形成に多大な影響を与えたばかりではなく、裁判支援運動の隆盛と共に、1960年代から70年代にかけての政府による福祉政策の一時的な見直しに
貢献していった点は注目されます。けれども、現在の政府による度重なる増税や福祉切り捨ての諸政策、そして生活保護の適正化という名の下に生活が困難な人に対しても保護を受けさせず餓死にまで至らせてしまうような福祉行政の実態に目を転じるとき、朝日さんが命を賭してまで戦い抜こうとした「朝日訴訟」から学ぶ意義は、今なお大きいといえるでしょう。


岡山には「朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝える」ことをめざして、
NPO(特定非営利活動法人) 朝日訴訟の会
が設立され、活動をすすめておられます。
前述の総括会で、ある参加者が発言されました。「朝日訴訟は、一人だけで立ち上がったすばらしいたたかいだった。しかし、私たちの年金訴訟は、岡山56人、全国では4000人を超える原告と、その支援者とが立ち上がった、未だかつてないたたかいだ。」
「原告死亡により終結」という無念な結末を許さず、すべての国民が安心して暮らせる年金制度を求めるこの取り組みは、若者たちの未来を守るたたかいでもあります。

ベストセラー「下流老人」の著者藤田孝典さんが、そのブログにこう書いておられます。

 

下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)

下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)

  • 作者: 藤田孝典
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2015/06/12
  • メディア: 新書

闘う下流老人たちー全日本年金者組合の地道で熱心な取り組みー 

「若者 VS 高齢者」の終焉を目指したい>


しかし、このような高齢者の取り組みに対して、若者や現役世代は冷ややかな反応だ。


「今の高齢者は恵まれている」、「自分たちの老後はもっと大変なんだから我慢するべきだ」など、高齢者への支援が十分とは言えない。


いわゆる「若者 VS 高齢者」である。


わたしはすべての人がいずれ高齢者になり、年金や生活保護を活用することになる時期が来ることから、現在の高齢者に年金制度を悪化させないように守ってほしいと思っている。


声をあげて減額をストップさせてほしい。そうしなければ若者世代の将来の年金も守ることはできないからだ。


非正規雇用拡大、雇用の不安定化のなかにいる若者の年金受給額は壊滅的に低額であろう。


すでに年金をかけていても、それだけでは生活ができない世代がこれから先は延々と控える状況だ。


だからこそ、全日本年金者組合の取り組みから、「下流老人」対策や社会保障の在り方について、一緒に考えていただきたい。


高齢者の問題は自分たちの明日の問題であり、生活の根幹にかかわる問題といえるだろう。



全くその通りと、思わず膝を打ったことでした。



昨日の記事でご紹介した退職同業者親睦団体の「作品展」には、枯れ木も山の賑わいと、私も出品させて戴きました。

「ちひさきものはみなうつくし2016」
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「緑雨の智頭」
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今日はこれにて。

「一本の鉛筆」から始まった、の巻 [時事]

昨日の謎の浮遊生物の写真は、実際の飛翔写真ではなく、自動車のフロントグラスにしがみついていルカマキリの子を見つけて写した、一種のトリック写真でした。瀬館の皆様方をお騒がせいたしましたことを、謹んでお詫びします。(笑)








昨日は、退職同業者の親睦団体の会合に参加してきました。
去年のこの記事で書いた会合の、今年度バージョンでした。
桑畑の歌から始まった、の巻
H先輩のアコーディオン演奏と歌唱指導によって、冒頭歌ったのは、美空ひばりさんが歌った「一本の鉛筆」。
この歌について、ウィキペディアにはこうあります。
 ひばりが最初の広島平和音楽祭に出演するにあたって、総合演出を担当していた映画監督、脚本家の松山善三が作詞を、作曲を映画音楽の作曲で有名な佐藤勝が作曲をそれぞれ手がけた。なお、当初は平和音楽祭の実行委員長も務めていた古賀政男が作曲する予定であったが、古賀が体調を崩したため佐藤勝の作曲となった。『一本の鉛筆』と『八月五日の夜だった』は、ともに広島市への原子爆弾投下について描かれた作品である。
ひばりは、父の増吉が徴兵され、母の喜美枝がその間辛い思いをしていたのをそばで見て育っており、自身も横浜大空襲を体験していたこともあって、戦争嫌いだったという。そのようなこともあってひばりは広島平和音楽祭の出演依頼を快諾したという。
リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた。
それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に二度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎で入院した翌年であり、歩くのがやっとで段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという。翌1989年6月に、ひばりは死去した。

 一本の鉛筆があれば
  私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば
  戦争はいやだと 私は書く


一本の鉛筆があれば
  八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば
  人間のいのちと 私は書く


開会の挨拶で、K先輩は、期せずして、私も先日この記事大橋巨泉、井上ひさし、菅原文太、愛川欽也の言葉に、いま、耳傾ける時。で紹介した大橋巨泉さんの言葉を引用して、今回参院選挙の重要性を訴えられました。

会合には、高校時代の恩師、大先輩、元同僚の方々など、県外在住の方をはじめ遠方からもお集まりの懐かしいお姿を拝見し、ご挨拶を交わすことができたのは嬉しいことでした。

会合の内容の紹介は割愛するとして、同じ会場の別の棟で、この日まで開催中の「作品展」に触れます。(去年の記事はコチラ。七夕雑話)

退職後新たに始められた趣味もある由。

絵画も、油絵、水彩、鉛筆画と、多彩です。























木工、手芸、裁縫、工作品など、手しごとにも匠の技を発揮されています。























写真も、力作揃いです。

















特にこの野鳥写真にくぎづけ。

ノビタキ。



アカショウビン。



私の鳥見の師匠M師の奥様による「友情出品」です。毎回楽しみです。

M師ご自身は、ことしは写真の出品はなく、日夜腕を磨いておられる花の水彩画。



一つだけ拡大してみます。

証明の反射が、写りを邪魔していて、本来の描写や色合いが再現できませんが、端正な筆遣いはお届けできたと思います。



今日はこれにて。

由美子ちゃん事件から思うこと、の巻 [時事]


今朝の地元紙「山陽新聞の」コラム「滴一滴に」こんな記事があリました。
 「由美子ちゃん事件」を知ったのは昨年、日本記者クラブの取材団で沖縄を訪ねた時だっ た。翁長雄志知事が会見で、戦後の忘れられない事件の一つとして挙げた▼1955年9月、6歳の少女が行方不明になり、翌朝、遺体が米軍基地のそばで見つ
かった。暴行された跡があり、米軍人が逮捕された。当時、沖縄は米国の統治下。日本に裁判権はなく、容疑者の身柄はさっさと米本国に移された▼当時の県民
の思いについて、翁長知事は「屈辱」という言葉を使った。沖縄が歩んだ、本土とは異なる戦後を考えさせられる。今月、沖縄県で20歳の女性の遺体が見つか
り、米軍関係者が逮捕された。沖縄ではかつてない怒りが渦巻く。歴史を知れば、その怒りの深さが少しは理解できる気がする▼事件を受け、沖縄からは日米地
位協定の抜本見直しを求める声が上がっている。とはいえ、本土に住む多くの人はピンとこないだろう▼日本に駐留する米軍には一種の治外法権が認められ、公
務中の事件は米側に裁判権がある。今回は公務外で日本側に裁判権があるものの、そもそも特権意識が犯罪の温床になっているのでは、と指摘されて久しい▼米
軍関係者は旅券なしに出入国でき、日本政府は国内にいる米軍関係者の数すら把握できない。そんな事実に驚かされる。私たちは知らないことが多い。


「由美子ちゃん事件」には、うっすらとした聞き覚えはありましたが、詳しくは知りませんでした。本棚の片隅から、瀬長亀次郎著「民族の悲劇」(一九五九年三一書房刊か、一九七一年新日本新書として再刊)と「民族の怒り」(一九七一年刊・新日本新書)を引っ張り出してみました。

著者の瀬長亀次郎さんは、アメリカ占領下の沖縄で、沖縄人民党の設立に尽力し、米占領軍による執拗な妨害・弾圧に抗して、書記長・委員長などをつとめ、那覇市長、立法院議員などを歴任されます。本土復帰後は、衆議院議員(沖縄人民党→後に日本共産党と合流)を七期つとめられました。その経歴や人柄は、瀬長亀次郎と民衆資料不屈館HP胃詳しく紹介されています。

七〇年代のはじめごろ、一度だけ、岡山で瀬長さんの演説会を聴いたことがありました。訥々として、実直な話しぶりが、誠実の固まりのようでした。口先で何か人を説き伏せようとか、自分をエラク見せようとかする空疎な人士(誰のこととは申しませんが)の対極に位置する人でした。

先ほどTVで流れた安倍、オバマ会談後の記者会見でも、性懲りもなく「沖縄の心に寄り添う」というワンパターンのフレーズが繰り返されていましたが、寄り添うべき「沖縄の心」とは、安部さんのような軽々しい饒舌には、つくづくなじみませんね。次のような無数の歴史事実を、名状しがたい屈辱と憤怒とともに、胸の奥深くたたみ込まずにはいられない「心」にほかならないでしょうから。

 米軍と、 その軍属よる沖縄県民への犯罪を思うたびにこみ上げる怒りをおさえることができない。人権無観とかんたんにかたづけられるものではない。殺され、傷つけられ、はずかしめられ、まるで虫けら同然にあっかわれてきた県民の血と涙と怒りつづった歴史がそこにはある。
多くの場合、事件が発生しても米軍は自ら頭を下げて県民に認罪するということはなかった。逆に被害者である県,民.に責任をおしっけるということを平然とやってきた。

由美子ちゃん事件  六歳の少女を米軍が暴行、殺害した事件(一九五五年)
与那嶺悦子さん事件  スクラップ拾いをして射殺された事作(一九五六年)
宮森小学校ジェット機墜落事件 死傷者一〇〇人以上(一九五九年)
後蔵根カツさん事件 「猫と間違えたんだ」 と射殺した金武村での事件(一九五九年)、同じく老農夫を「小鳥と思ったと射ち殺した事件
このように五〇年代においても数えあげればきりがないほどである。その多くは「殺され損」であり、たとえ補償があっても「射殺代金」として六〇〇ドルという根金程度のものであった。
スクラップ:拾いの最中に射殺された婦人などは、立入禁止区域内にはいったから責任は被害-者の方にある、と米軍は言い張つていた。
六〇年代にはいると米軍関係の犯罪はますますふえていった。

一九六一年九月 米下士官,が乗用車で少女四人をひき逃げ、死傷者出す。

十二月 具志川村にジェット機墜落、死亡二、重傷四、家屋三棟全焼。

一九六二年十二月 嘉手納村に米軍輸送機墜落死亡七、重軽傷八人を出す。

一九六三年二月 演習帰りの米軍トラックが横断中の中学三年生を轢殺。

一九六四年八月 北谷村で潮干狩り中の県民が米軍の流弾に当たり死亡。

一九六五年四月  コザ市で米兵が民家に爆弾を投げ込み二戸に被害。
六月、 投下演習中の米軍機が読谷村の民家の庭にトレーラーを落とし小学五年の少女が圧死(降子ちゃん事件)
一九六六年五月、米軍の大型ジェット空中給油機が嘉手納基地近くで墜落、乗用車で定行中の村民一人が,焼け死ぬ。

一九六七年一〇月 嘉手納における燃える并戸水事件。

一九六八年三月 米軍-施設内でメイド渡慶次:菊子さん殺害さる(迷宮:入り)。

一九六九年二月 コザ市で米軍人によるホステス殺し。

一九七〇.年五月 下校中の女子高校生米兵に襲われ重傷(女子高校生刺傷事件)。

九月 糸満町金城トヨさん、酒気通転の乘用車に轢殺さる。

以上あげた事実は、それこそごく一部分で氷山の一角にすぎない。

六〇年以降、流球政府警察局'が発表した資料によっても毎年平均千件以上の米軍人軍属による犯罪が発生している。もちろんこれは、表にでたものだけであり、報複をおそれて泣きねいりしたり、もみ消されたりしたのも含めるとその何十倍になるのか推測すらつかない。

ことあるたびに、米日反動とその手先どもは、米軍基地があるから沖縄はこのように繁栄し、県民の生活は安定してきたのだ、と米軍基地の「恩恵」を宣伝してきた。

しかし事実は、この米軍基地が戦争の根源であると同時に、沖縄県民の生命と安全をおびやかし、人権をはずかしめる一一一一魔の巣であることを物語つている。

(中略)



米兵による女子高校生刺傷事件が発生したのは、一九七〇年,:一月三十日午後一時頃であった。具志川市上江洲は、 一面サトウキビ畑にかこまれ、沖縄ではどこでも見受けられるのどかな農村である。五月:のやわらかい風がサトウキビの葉をそよがしている風景は平和そのものであり、
そこが残虐な米兵による女子高校生の刺傷現場になったとは想像もできない。

その日、前原高校一年生のS子さんは試験を終わっての帰りだつた。家まであとわずか一〇〇メートルの所だった。そこで彼女は、突然物陰からとび出してきた米兵に襲われ、腹部に三ヵ所と後頭部にナイフを刺されて重傷を負ったのである。

腸がとび出し、全身血まみれになって発見された時は人相もよくわからないほどの重傷だった。発見が遅れれ「ればとりかえしのつかない事態になっていただろう。

犯人は、犯行現場から出てくるところを目撃され、上江洲部落に通跡されるや同部落近くの第一六心理作戦中隊の基地内に逃げこんでしまった。

白昼みさかいもなく、しかも被害者の自宅からわずか一〇〇メートルしか離れてない所で発生したこの事件は、その残虐行為とともに県民にはげしいショックを与え、大きな怒りをまきおこした。

「もう米兵の顔をみるのもいやです。一日も早く米兵はぜんぶ沖縄から去つてほしい。この子が歯をくいしばつてたたかったから親子再会することができたが、
もし死体となっていた場合、どうなっていたのでしょう。″私は生きて帰れるとは思わなかったよ、かあちゃん、私最後の覚悟をして舌をかもうとしていたよ、かあちゃん〟娘が語ったとき、私はほんとうになぐさめの言葉もでませんでした」と怒りに体をふるわせて語る母親。

前原高校生:従会は、胸の底からわきおこる怒りを結集して全校生徒参加のもとに抗識集会がひらかれ、どしゃぶりの雨の中を「犯人をすぐ速捕せよ」 「米単はかえれ」
「基地を撤去せよ」と叫んで、基地に向けてデモ'を敢行した。

複帰協は、 S子さんの通学している前原高校校庭で 「女子高校生刺傷事件等米兵による凶暴 犯罪に抗議し、横暴な軍政を糾弾する県民大会」を開催した。

大会には、前原高校生をはじめ、県下から自主的にかけつけてきた高校生三〇〇〇人を含め、一万二〇〇〇名が結集していた。

「鬼畜におとる残虐行為、戦場の狂気をむき出しにした野獣のような極悪非道な行為」と各代表は米軍を糾弾した。

前原高校砂川校長は「米軍は一般将兵からランパート高等弁務育まで狂っている」と慣りをぶちまけ、S子さんの必死の抵抗をムダにしないために、一時的な怒りの爆発に終わらせず間題の本質をみきわめ、団結をかためてたたかいぬこう」と前原高校生従会代表座間味君は訴えた。

(「民族の怒り」より)


一九七二年の本土復帰後も、米軍による凶悪事件は跡を絶っていません。

沖縄タイムスのこのページに掲載の図表をお借りします。





あちらでもこちらでも風邪がはやっています。先日高熱を出したとして心配していたゼロ歳児は、大事には至らなかったようですが、咳き込むと痛々しさが募ります。昨日、ちょいと「見舞い」に行ってきました。

一方、一歳の保育園児も、ここ一月ほど、熱が上がったり引いたりで、すっきりしませんが、今日も38度超の高熱で、保育園をやすませますので、我が家が託児所になります。午前中は、私一人で、イクメンならぬイクジジでした。あやせば笑うし、聞き分けもあって、ご機嫌は悪くはないのですが、パソコンに向かったりする時間はありません。

というわけで、日が暮れてから、明日のアルバイト仕事のための資料作りやら、ブログの更新やらにとりかかりますが、は過取りません。というわけで、今日の記事はこのあたりで中断となります。

昨日今日と、久しぶりの雨です。

家の前の電線にツバメが止まっていました。

我が家の玄関先には三つほど古巣があるのですが、スズメにいたずらされてこわされたり、占拠されたりで、環境がが悪化したためか去年は巣作りをしませんでした。今年も四月の段階では姿を見せず、寂しく思っておりましたら、ここのところしばしば様子を見に近づいているようです。







今日はこれにて。

熱い!総がかり、平和お散歩、の巻 [時事]



雨模様の、湿っぽく生暖かい朝でした。

午後は、暖かいと言うよりも、暑いほどでした。

今日は、こんな案内をいただいておりました。



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沖縄を返せ 沖縄へ返せ、の巻 [時事]

先日、友人グループの集まりで、そのうちのひとりH女史から、「ちんすこう」をいただき、美味しく食しました。職場の労働組合の役員として地域でも奮闘されている息子さんが、先日沖縄宜野湾市の選挙の応援に赴かれたお土産だとのこと。
息子さんによれば、「辺野古移設容認」の現職勝利という結果は非常に残念だが、現職市長は辺野古問題に一切触れず、徹底的な争点隠しに終始するとともに、圧倒的な物量による応援と、強行的とも言える投票動員が目についたそうです。
当日の出口調査では、多くの投票者が重視したのは「普天間移設」問題と答える一方、政府の「辺野古移設」の姿勢を「支持しない」が約55%だったそうです。「今回の結果は、あくまで『世界一危険』と言われる普天間基地を一日も早く返還して欲しいという市民の願いの表れだ。辺野古移設が承認されたと解釈するのは無理」(毎日)という指摘の通り、今回の選挙結果をもって、辺野古移設が住民に指示されたなどと言いくるめて強行することは許せません。
ソネブロのお友達majo様の、最近のブログ記事「街宣2か所と沖縄基地反対デモ②」でこの歌が紹介されていました。
https://www.youtube.com/watch?v=cmBEmVBEhNw




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「年金裁判」は何に貢献するか?の巻 [時事]

「年金裁判」というものをご存じでしょうか?

今年の五月、こんなニュースが報じられました。

地元新聞「山陽新聞」web版の記事から引用します。

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強行採決にまつわる記憶のエトセトラ、の巻 [時事]

仕事の都合で、今日もブログ掲載はお休みのつもりでしたが、備忘録的意味からは、欠落させられない出来事がありましたので、一言コメントしておきます。

昨日の、参院特別委での強行採決の顛末。

通勤時間中のカーラジオや、昼食休憩の時間などで、音声だけの国会中継を聞きつつ、暗澹たる気持ちをぬぐえませんでした。日本の民主主義の未熟さ、未開さが、透けて見えて、居心地悪いことこの上もありません。

強行採決自体は、これまでも何度も経験していることで、決して想定しなかったわけではありません。しかし、国民世論と運動の急速な高揚が、かつてない規模と質のものだったと思えるだけに、ひょっとして道理が通る可能性を、淡く期待していたのでしょう。冷厳な、と言うよりも愚劣な事実に直面して、やはり気落ちしている自分に気づきます。



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懐かしき人あまた起つ830(ハチサンマル) [時事]

昨日の国会前は、空前の規模の行動だったそうですね。


全国100万人のひとりとして、私も地元の行動に参加してきました。

 

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桑畑の歌から始まった、の巻 [時事]


今朝のニュースを見ておりますと、政府与党は、「新安保法制」について、すでに審議を尽くしたとして、既定方針通り15日の衆議院採決企図を公言しています。そのような中ですので、我がブログも、話題はそちらに傾きます。

日曜日に参加した、退職同業者の寄り合いのことを少し書きます。
親睦・友好を旨とする、本来の会の性格や目的に関わらず、安倍政治への不安や危惧、怒りや憤りに彩られた会になりました。
開会に先だって、アコーディオン伴奏によって、皆さんで歌を歌いました。
伴奏してくださるH先輩は、実は専門は理科(生物)なのですが、美術も絵画も堪能で知られています。お噂で聞き及んだところでは、若かりし頃は、平均台の上で横転も軽々こなされたとか。天は二物も三物も与えられるものですな。

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四歳の目に焼きつきし夏の空 [時事]

先日、水島空襲の記事を書きましたら、読んでくださったM先輩からご丁寧なメールをいただきました。そこには、思いもかけない、ご自身の幼時の体験が、生々しくつづられていました。
大変衝撃を受け、感ずるところ大でしたので、不躾ながら当ブログへの転載をお願いしましたところ、快諾いただきましたので、以下ご紹介します。

なおMさんは、私達の世代からすればひとまわり年上の先輩で、同じ職場に働いたことはありませんが、若い頃から今に至るまで、仕事を初め多方面にわたって、「先達」としていろいろな機会に親身に相談・助言に応じてくださっています。そのような関係で、水島地区のご出身であることは、前々から存じ上げておりましたが、このお話は初めてうかがい、なおさらに強く心打たれたのでした。

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堅強なる者は死の徒、柔弱なるものは生の徒なり、の巻 [時事]

テレビに取り付けた録画用hddに、番組が自動で録画される仕組みになっています。自分で設定した記憶がなくても、ある種の連続ドラマ番組を録画しているらしい。
「相棒」は自分で予約した覚えがあります。
最近、まとまったリラックス時間が少なくて、滅多に録画番組を観る機会がありませんが、梅雨入り後、雨に降り籠められたつれづれに、録画番組をチェックしてみました。
「ロクヨン」という、内容をイメージしづらい題名のドラマが、五回ほど録画されています。確かめてみると、四月一八日から五週連続で放送された、NHK土曜ドラマのようです。

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最近のニュースから [時事]

大きなニュースが続きます。何かコメントをせねばと思いつつ、時間の流れに負けています。

日付順に、三つのニュースの感想メモを書いておきましょう。

1)安倍さんが、新たな「安保法制」を国会提出へ。

記者会見の模様を一部、テレビで見ましたが、「(戦争法案という)無責任なレッテル貼りは全くの誤り」「平和、平和とただ言葉を唱えるだけでは(平和は)実現しない」「(アメリカの戦争に巻き込まれる)絶対にあり得ない」などと断言するあの自信たっぷりの様子。「居丈高」という熟語が、まず思い浮かびました。

大勢の人の生死に関わる問題で、不安を抱く人の思いを、軽く一蹴して済ます無神経さに、デリカシーも想像力もない人だなと感じて、嫌な気分になりました。

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朝A暮B [時事]

選挙まっただなかです。
各種世論調査を見ると、前回参議院選挙に続いて、またまた、「自民党の一人勝ち」の雲行きとか。
ホントにそれでいいんですかね?


そんなことを考えながらの散歩中、こんなネタを思いつきました。
次の空蘭A,Bに、適切な漢字一文字を入れて故事成語を完成させなさい。



まず思いつく答えは、
A:令
B:改

「朝令暮改」ですね。

「朝礼暮会」と書いちゃ駄目ですよ。ミーティングじゃないんですから。


別解
A:令
B:変 
「朝令暮変」とも言います。

広辞苑には、
朝に政令を下して夕方それを改めかえること。
命令や方針がたえず改められてあてにならないこと。
朝改暮変。

とあります。

出典は 【漢書・食貨志】。

【本文】
勤苦如此、尚復水旱之災、急政暴賦、賦斂不時、朝令而暮改。

【書き下し】
勤苦(きんく)此(かく)のごとくなるに、尚(な)ほ復(ま)た水旱(すいかん)の災(わざはひ)あり、急政暴賦(きゅうせいぼうふ)、賦斂(ふれん)時ならず、朝(あした)に令(れい)して而(しか)も暮(くれ)に改(あらた)む。

【解釈】
(民百姓の暮らしの)つらさ苦しさはこのようであるのに、その上、水害や日照りによる被害がたび重なり、臨時の税が取り立てられ、朝一つのお触れ(法令)を出したかと思うと、夕方には改めるといった始末です。


中国は漢代の知恵袋晁錯(ちょうそ)が、文帝に提言した上奏文の一部だそうです。彼は農業を重んじる立場から、このように述べたといいます。

「貧困は作物の不足から生じるのであり、作物の不足は耕作をしないところから生じる。耕作をしなければ、民は定住せず、定住しなければ故郷を離れて家を軽んじる事になる。たとえ城壁を高くして堀を深くし、法を厳しくして重罰を科したとしても、民の流民化はとどまらない。
農民は、年がら年中働き続けなければならない上に、弔事や病気見舞いでの行き来などもあり、その暮らしぶりのつらさ苦しさはこのようであるのに、その上、水害や日照りによる被害がたび重なり、臨時の税が取り立てられ、朝一つのお触れ(法令)を出したかと思うと、夕方には改めるといった始末です。ーーー」

と論じて、役人や商人の思うがままの搾取を制限し、農民の生活を安定させるよう帝に提言しています。

かくのごとく、紀元前の昔から、「朝令暮改」は政治家のお家芸だったようです。
しかし、近代以降の民主主義・立憲主義の世の中では、不適格というしかありません。
でも、それが、歴代与党のお家芸でもあって、国民としては、はなはだ不本意かつ迷惑至極です。。
その「朝令暮改」を得意技とする歴代首相の面々が、一貫して継承してきた「政府見解」に、「集団的自衛権と憲法9条」の扱いがありました。
こちらの記事に、興味深い画像がありましたので、コピーさせていただきました。

Image2.jpg

 

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沖縄の方々の気持ちにより添うってどういうこと?? [時事]

昨日は、カーラジオから流れてくる安倍さんの施政方針演説を、聞くともなく聞いていました。

 第168回国会の代表質問を前に、突如辞任された第一次安倍内閣の頃に比べて、お声にも張りがあり、若々しく、お元気そうで何よりでした。
演説の内容も、安定多数の余裕のためか、年齢的成熟のためか、ソフトタッチで、一般国民の日常に根ざしたささやかな喜怒哀楽の心情にも配慮しつつ、レトリック的にも論理と情緒の均衡において破綻の少ない、ソツのない演説とお聞きしました。
しかし、最近露骨には表に出ることの少なかった、「戦後レジームの転換」という持ち前の「信念」が、衣の下から見え隠れしているという印象は、強く感じました。

 「朝日新聞digital」2014年1月25日04時04分は、この演説を次のようにまとめ、各方面からのコメントを載せていますが、うなずかざるを得ません。

24日に開会した通常国会安倍晋三首相は施政方針演説で「新しい国づくり」を宣言し、集団的自衛権の行使容認などに意欲を見せた。戦後日本の歩みが転機を迎える国会になるかもしれない。

この演説を聴いていて感じたことは、あの秘密保護法案強行への国民の不安や憤り、普天間基地辺野古移転問題を焦点とした名護市長選挙での住民の明確な移転NOのメッセージ、消費税増税、TPPなどなど、国論を二分する諸問題での、大勢の人々の声や運動の高まりに、一切顧慮のそぶりさえ示さず、まるでそれらがなかったかのように朗々と自己の「信念」を語り、「やればできる」と繰り返す「強さ」です。

「安倍暴走内閣には、ブレーキがない」という、政敵からの揶揄も、言い得て妙と感じてしまいます。 

「演説」では沖縄について、こう触れています。

  アジアと日本をつなぐゲートウェイ。それは沖縄です。
  「舟(しゅう)楫(しゅう)を以て万国の津(しん)梁(りょう)となし」
  万国津(しん)梁(りょう)の鐘にはこう刻まれています。古来、沖縄の人々は、自由な海を駆け回り、アジアの架け橋となってきました。そして今、自由な空を舞台に、沖縄が二十一世紀のアジアの架け橋となる時です。
 アジアとの物流のハブであり、観光客を迎える玄関口として、那覇空港第二滑走路は日本の成長のために不可欠です。予定を前倒し、今月から着工いたしました。工期を短縮し、二〇一九年度末に供用を開始します。
 高い出生率、豊富な若年労働力など、成長の「可能性」が満ち溢れる沖縄は、二十一世紀の成長モデル。二〇二一年度まで毎年三千億円台の予算を確保し、沖縄の成長を後押ししてまいります。
 沖縄科学技術大学院大学には、世界中から卓越した教授陣と学生たちが集まっています。更なる拡充に取り組み、沖縄の地に、世界一のイノベーション拠点を創り上げてまいります。

あの名護市長選挙で、保守候補の応援に立った元官房長官の野中さんの発言が、こんな記事に紹介されていました。

 「沖縄の人たちを札束でしばき、踏みつけるような手法を取ってはならない」。野中広務元官房長官は18日、沖縄県名護市で街頭演説し、安倍政権の米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設問題への対応に苦言を呈した。
 安倍晋三首相は昨年12月、普天間飛行場の移設先とする名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を仲井真弘多知事から得る際、3000億円台の沖縄振興予算を2021年度まで確保すると表明した。野中氏はこうした経緯が念頭にあるとみられ、演説では「今回の一連の流れに怒りを持ってきた」と語った。
 小渕内閣の官房長官などを務め、沖縄の基地問題に深く関わった野中氏は当時、頻繁に沖縄を訪れ、名護市を含む本島北部地域の首長らと膝詰めで話し合うなどした。それだけに、着工に前のめりな安倍政権の姿勢に不満が募ったようだ。

 このような政友からの「ブレーキ」にも、まるで斟酌の様子もなく、話題は安全・安心の問題に及び、自衛隊員の献身性への慰労、感謝、激励、賛美の言葉が続きます。続けて、「積極的平和主義」「集団的自衛権」などの持論が展開され、日米同盟・在日米軍の重要性が強調されます。その文脈の中で、沖縄問題が語られるのです。

 在日米軍再編については、抑止力を維持しつつ、基地負担の軽減に向けて、全力で進めてまいります。
特に、学校や住宅に近く、市街地の真ん中にある普天間飛行場については、名護市辺野古沖の埋立て申請が承認されたことを受け、速やかな返還に向けて取り組みます。同時に、移設までの間の危険性除去が極めて重要な課題であり、オスプレイの訓練移転など沖縄県外における努力を十二分に行います。
 沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら、「できることは全て行う」との姿勢で取り組んでまいります。

 でも、安倍さん。「沖縄の方々の気持ち」とは、「沖縄の苦難を他の地方に押しつけない。」、「沖縄を二度と侵略の足場にさせない。」 、「核も基地もない緑で平和な、自然豊かな沖縄をまもる」、「札束で心は売らない。」ということではなかったでしょうかね?

そして、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」というなら、先の戦争が、他国に対しては侵略の、自国民に対しては抑圧と暴虐の歴史に他ならなかったこと、そして唯一戦場とされた沖縄の悲劇の大本はその点にあることを、まず真摯に認める所から出発しなければならないのではないでしょうかね?


 私の、実家のおよそ何の装飾もない玄関に、簡便な額に入れて、一枚の色紙が飾られています。

 その色紙には、絵に添えて、特徴的な味わいのある筆文字で一首の短歌が書かれています。

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手拭いで口ふさがれて洞窟にひそとひそみし四歳の頃   沖縄にて山原健二郎

 高知県出身の元衆議院議員故山原健二郎さんの書画(の複製)です。
 山原さんの話題には、以前この記事でも触れたことがありました。
 この色紙は、四十何年前の学生の頃、山原健二郎学生後援会が主催する親睦ボーリング大会に誘われ、意外と良いスコアが出て、賞品にもらったものです。
 山原さんご本人とは、学生時代から、何度となくその熱い演説を間近で聴いたこともありましたし、卒業後も、文教委員会所属の有力な国会議員として、何度か要請やら懇談やら、いろいろな機会でお目にかかったことがあります。
 山原さんと沖縄とは、復帰以前から深い縁があり、「沖縄にヤンバルという土地があり、私はヤンバルさんと、親しみを込めて呼ばれる」などのジョークも、ほほえましいものでした。「ヤンバルクイナ」のことを後に知り、私は山原さんを思い出したりしたものでした。

さてこの短歌は、沖縄戦の末期の頃、米軍の攻撃から身を守るため、ガマ(洞窟=壕)に潜んだ子ども連れの住民が、子どもが泣き声などを上げることで敵に発見されるとして、味方であるはずの皇軍=日本軍からとがめられ、時には壕から放逐され、また甚だしい場合は殺害されたという史実(証言)に基づいた歌だといいます。

今の世ではとうてい信じがたいこの出来事は、しかし、動かしがたい史実であったことを、たまたまネットで探し当てた林博史先生(関東学院大学)のホームページこの記事が丁寧に論証しておられます(無断でリンク貼らせていただいています)。

関連部分を少しだけ引用させていただきます。

 沖縄戦研究の視点と課題  

 筆者は以前に「南京大虐殺-沖縄戦-本土決戦-自衛隊」の連関の中で, そ
れぞれをとらえることを仮説として提起した(拙稿「南京にて」『軍事民論』特
集46号,1986年)。これは近代日本の侵略戦争から,今日の日本の軍事的役割ま
でをも見通した中で,沖縄戦やそれぞれを位置づけようとするものである。この
点をさらに具体的に論ずることは別稿に譲り,この視点を前提としたうえで,沖
縄戦研究をすすめるにあたっての筆者なりの視点と課題 を述べてみたい。もち
ろん以下は,筆者の問題関心にそった課題だけで,沖縄戦研究の一面にすぎない
ことは言うまでもない。

1.日本軍の敗北過程の中の沖縄戦

 沖縄戦における大きな特徴として)日本軍が沖縄住民をスパイ視し,多くの住
民を殺害したこと,また住民の集団自決があちこちでおこったことがあげられる。
日本軍による住民殺害は,今日,明確に確められているものだけでも40件以上,
犠牲者は200人以上にのぽっており,闇に埋もれたままの件数を考えるとこれを
はるかに上まわると考えられる。また直接,日本軍の手によって殺害されたので
はなくても,壕から追い出されたため米軍の砲爆撃の犠牲になったり,日本軍に
食糧を強奪されたため餓死等にいたったりした, いわば間接的に日本軍によっ
て死に追いやられた例は,万を下らないとみら れる。(注)

     (注)厚生省の調査によると,14歳末満の戦没者1万1,483人のうち,「壕
提供」が1万0,101人,「食糧提供」76人,「自決」313人,「友軍よりの射殺」  
14人,などがあげられている(大田昌秀『総史沖縄戦』208頁)。

 集団自決は,日本軍の命令によるものとは必ずしも言えないが,手榴弾や青酸
カリが配られて自決を強いられる状況があったり,また日本軍が,住民が米軍支
配下に入ることを認めず,玉砕を非戦闘員にまで求める状況の下では, 集団自決
は,日本軍の存在と切りはなして考えることはできない。住民殺害と集団自決の
関係については,大城将保氏の次のまとめがある (『琉球新報』1985年7月13日)


 「結論をまとめると住民虐殺も集団自決も第三二軍の住民,県民に対する防諜
(ちょう)対策の最後の究極の破局として達成したコインの裏表。つまり敵につ
かまったらスパイになる。スパイにならないためには自決しなければならない。
しかし自決できなくてうろうろしていて敵につかまったものは,スパイとみなさ
れ処刑される。だから,集団自決と住民虐殺は表裏一体であるといえる。」

 こうした日本軍による住民(日本人)殺害や住民のスパイ視,壕からの追い出
し,食糧強奪,あるいは集団自決は,必ずしも沖縄戦だけの特徴ではないことに
注目する必要があろう。
 サイパンでの集団自決は,「バンザイ・クリフ」などの名で知られているが,
筆者が少し調べただけでも,サイパン,テニアン,フィリピンのミンダナオ,パ
ナイなどで日本人の非戦闘員に対して沖縄戦と同様の事態が生じて いる。
 サイパンの例をあげると,壕の中で将校が親に乳児を殺せと銃をつきつけて強
要し,窒息死させたり(『沖縄県史10』1,010頁,『宜野湾市史』513 頁),住
民をスパイだといって撃ち殺そうとしたり(沖縄県婦人連合会『母たちの戦争体
験』1986年,335頁),住民に自決せよと青酸カリを配ったり (『母たちの戦争
体験』315~316頁),壕から追い出したり(沖縄県退職教職員の会婦人部『ぷっ
そうげの花ゆれて』ドメス出版,1984年,273頁)している。また米軍に収容さ
れたキャンプで,現場班長らが山に隠れている日本兵に殺害されることもあった
(注)(『沖縄県史10』1010~1011頁,『ぷっそうげの花ゆれて』279頁)。

     (注)この件については,殺害した本人の証言があり,米軍に協力的な人
物を殺害したという(『那覇市史』第3巻8,616~617頁)。これは,遊撃戦によ
る「スパイ」摘発・殺害のケースである。

 ミンダナオでは,日本軍による食糧強奪や日本人住民の殺害(『宜野湾市史』
454,464,490頁),パナイでは.集団自決を日本軍が手伝った例である が,住
民の輪の中に日本兵が手榴弾を投げこみ,生き残ったものを銃で撃ち殺しさらに
鋭剣で殺したという例(『那覇市史』第3巻8,599頁),テニアンでは,米軍に
捕まりそうになったらこれで死ぬように,と日本兵から手榴弾を渡され,約80人
が集団自決をおこなったり(『浦添市史』422頁),壕の中で泣く子を日本兵が
殺した例(『宜野湾市史』522頁)など,沖縄戦と共通したことが続々と起こっ
ているのである。またロタでは,米軍が上陸するというので,女子供は明方に自
決するように言われ,子供に死装束をさせて待ったが,幸い米軍はロタには上陸
せず,助かったということもあった(『浦添市史』475頁)。

 こうして見てみると,日本軍による日本人の殺害等は,米軍の反攻によって日
本軍が玉砕していった島々において,共通にみられる現象といってもよかろう。
日本人の非戦闘員におしなべて死を強要し,スパイ視し,彼らから食糧を強奪し
たりすることは,一部の心ない日本軍人の行為というよりも日本軍に広く一般的
にみられる行為であり,日本帝国軍隊の体質にかかわる問題であるといえよう。
沖縄においては,それに加えて沖縄差別が加算されていると考えていいのではな
かろうか。日本軍が,占領した島々の民衆を虐待 し,しばしば殺害したことと,
日本人の非戦闘員をも上記のように扱ったこととの関連を含めて,アジア太平洋
地域における日本軍のあり様の中で,沖縄戦を位置づける視点と,その作業が必
要である。

仮に、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」というのなら、歴史の事実をその目で確かめ、住民の声に真摯に耳を傾け、相手を思いやる、嘘をつかない、信義を守るといった最低限の「道徳」を、みずからが行動で示す必要はありませんか?学校で「道徳を特別の教科として位置づけること」に執心なさる前に。


今日は、三月下旬から四月上旬並の暖かさになったところもあったそうです。
それでも散歩に防寒帽は必要で、手袋を忘れて来たことは後悔ものでした。
またまた岡山後楽園の散歩です。梅のつぼみも、前回よりは少しほころびてきたようでした。先日、枝の剪定をしたというローカルニュースがあったのを思い出しました。枝振りが、スッキリした感じはありました。
ほかに写した写真がありますが、紹介は、また今度にさせて戴きます。
今日は、念願のカワセミに出会いましたので、記念写真をアップしておきます。

 

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大寒や沖縄に春いちはやく [時事]

大寒や沖縄に春いちはやく
固き土破りて名護に春来たり
大寒や辺野古のジュゴン安くあれ


暦の上では、今日が大寒。
名前の通り、寒い朝でした。
その厳しい寒さとは裏腹に、昨日投票の、名護市長選の結果は、一足先の春の訪れを告げるものでした。いや、人々の燃える希望と熱気を、全国に伝えるものでした。
日米政府の強圧や、県知事の心変わりにも関わらず、住民は圧倒的多数で現職稲峰さんを選び、「辺野古の海を基地に渡すな」「ジュゴンの海を守れ」という決断を、繰り返して示しました。

ニュースを聞いていますと、今朝、いつもと同じように交通安全指導に立った稲峰さんに、通学途上の小学生や通行中の市民が「当選おめでとう」と声をかけると、稲峰さんはにこやかにそれに応えていました。
いや、比喩ではなく、実際に沖縄は、もう桜が満開なのでしょう。
私、沖縄県には昔、一度だけ行ったことがあります。
20代の終わりの2月頃だったでしょうか?
「観光」と言うよりも、労働組合の企画で、基地見学(基地調査)に連れて行ってもらったのです。
半袖でも、すっかり汗をかいたことを覚えています。
当時建設されたばかりの名護市役所も訪問し、エアコン無しでも真夏をしのげるという風通しを優先したデザイン、ガジュマルやブーゲンビリア、たくさんのシサーなどに囲まれた、庁舎の美しさに、心を奪われたことが、「名護市」についての最大の印象です。
那覇空港の上空から、初めてエメラルドグリーンの沖縄の海を見た時の、厳かな驚きは忘れられません。けがすべからざる美しさ、荘厳さを感じたように思います。
その同じ空港が、軍民共用で、物々しくスクランブル発進する米軍戦闘機を、間近で見ることの驚きも、ショッキングでした。
沖縄と言えば、ヒメユリ部隊の悲劇に象徴される沖縄戦のすさまじさと痛ましさが、まず想起されますが、戦後の米占領時代の苦難の歴史も、瀬長亀次郎さんの本などで、少しは知っていたつもりでした。


沖縄からの報告 (1959年) (岩波新書)

沖縄からの報告 (1959年) (岩波新書)

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1959
  • メディア: 新書

民族の悲劇 沖縄県民の抵抗

民族の悲劇 沖縄県民の抵抗

  • 作者: 瀬長亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2013/04/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

瀬長亀次郎回想録

瀬長亀次郎回想録

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1991/08
  • メディア: 単行本

不屈 第1部―瀬長亀次郎日記 獄中

不屈 第1部―瀬長亀次郎日記 獄中

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 琉球新報社
  • 発売日: 2008/03
  • メディア: 単行本

不屈 第2部―瀬長亀次郎日記 那覇市長

不屈 第2部―瀬長亀次郎日記 那覇市長

  • 作者: 瀬長亀次郎
  • 出版社/メーカー: 琉球新報社
  • 発売日: 2010/01
  • メディア: 単行本

沖縄人民党―闘いの二十五年 (1970年)

沖縄人民党―闘いの二十五年 (1970年)

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1970
  • メディア: -

不屈 第3部―瀬長亀次郎日記 日本復帰への道

不屈 第3部―瀬長亀次郎日記 日本復帰への道

  • 作者: 瀬長亀次郎
  • 出版社/メーカー: 琉球新報社
  • 発売日: 2011/08
  • メディア: 単行本

民族の怒り―もえあがる沖縄 (1971年) (新日本新書)

民族の怒り―もえあがる沖縄 (1971年) (新日本新書)

  • 作者: 瀬長 亀次郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1971
  • メディア: 新書

しかし、聞いたり読んだりして想像するのと、実際に目で見て確かめるのとは大違いです。父祖伝来の土地・田畑が金網の向こうに囲われ、そこにアメリカ合衆国がある。本来の持ち主であり住人であるはずの人々が、衛兵の機関銃で脅されるという逆さごと。しかも、そこを拠点に、かつてはベトナム・インドシナへ、そして中東へと、無数の殺人機が飛び立っていくことの歯がゆさ。その「切歯扼腕」の想いは沖縄の人たちの、陽気な明るさの内面に、70年近くもの間深く沈殿し続けているはずです。
こんな歌のフレーズが耳を離れません。

タンポポ

【作詞】狩俣 繁久
【補詞】小森 香子
【作曲】大西 進

1.金網のむこうに小さな春を
  つくってるタンポポ
  金網のそとにも小さな春を
  つくってるタンポポ
  ひかりいろしたタンポポは
  金網があっても金網がなくても
  沖縄じゅうに春をふりまいたでしょう

2.デモ隊の足下にひかりの花を
  さかそうとタンポポ
  米兵にふまれてもそれでも花を
  さかそうとタンポポ
  強く生きぬくタンポポを
  金網のない平和な緑の沖縄に
  みんなのねがいをこめてさかせてやりたい

 


「ガンバロー」の作曲者としても荒木栄作曲の「沖縄を返せ」も、脳裏に浮かびます。

 

作詞 全司法福岡高裁支部
作曲 荒木  栄    

1    
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が 血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
 我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
 沖縄を返せ (返せ) 沖縄を返せ

2    
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
 我等は叫ぶ沖縄よ ……ref……
沖縄を返せ

 

銃剣とブルドーザーで土地を取り上げられた沖縄の民の、もっとも象徴的なエピソードの一つは、名護市に近い、伊江島の人々の苦難の経験でしょう。

阿波根 昌鴻さんの著作に、ぞれは詳しく綴られています。

米軍と農民――沖縄県伊江島 (岩波新書)

米軍と農民――沖縄県伊江島 (岩波新書)

  • 作者: 阿波根 昌鴻
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1973/08/20
  • メディア: 新書
命こそ宝―沖縄反戦の心 (岩波新書)

命こそ宝―沖縄反戦の心 (岩波新書)

  • 作者: 阿波根 昌鴻
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/10/20
  • メディア: 新書

 

 

 

反戦と非暴力―阿波根昌鴻の闘い

反戦と非暴力―阿波根昌鴻の闘い

  • 作者: 亀井 淳
  • 出版社/メーカー: 高文研
  • 発売日: 1999/02
  • メディア: 単行本


裾の広い麦わら帽子のような、独特な姿をした伊江島を訪ね、まだまだご壮健であった阿波根さんをたずね、「団結道場」で、その楽天的で懐の深い、平和への熱い思いをお聞きした時の心の震えを、忘れることはありません。その場で買い求めた一冊の写真集が、今も、私の書棚の奥深く、置かれています。

人間の住んでいる島―沖縄・伊江島土地闘争の記録 写真記録 (1982年)

人間の住んでいる島―沖縄・伊江島土地闘争の記録 写真記録 (1982年)

  • 作者: 阿波根 昌鴻
  • 出版社/メーカー: )阿波根昌鴻
  • 発売日: 1982/12

人間としての「品性」は、誰のもとに備わっているのか?1枚の無言の白黒写真は、饒舌な語り以上に、真実を豊かに語ります。
銃剣やブルドーザーや札束や脅しが、わずかな時間功を奏することはあっても、真に人を動かし、歴史を動かすものは、それではない。ということを、この写真集は雄弁に語りかけています。

 


さて、こちらは、大寒の冷え込みの中出会ったアオジビンズイです。

 

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