古代ハスとウチワトンボ、の巻 [折々散歩]
ハスの花を見たくなりました。
豪雨災害の直後、岡山後楽園の蓮を見に行ってみましたが、濁流をかぶったせいか、いつもの年に比べて痛々しい様子でした。
今年のハスの花、の巻
今日も朝から強い日射し。
巣立ったツバメたちが家の周りを飛び交ったり、電線で休んだりしています。
今朝になって、ふと訪ねてみようかと思ったのは、庭瀬城跡の大賀ハス(古代ハス)。以前、こんな記事を書いたことがありました。
蓮の花あれこれ vol2 大賀博士の故郷に咲く純粋種の古代ハス(2013.8.09)
久しぶりの訪問なので、道順があやふやです。
細い小路を行きつ戻りつして、ようやくたどり着きました。
途中で飲料水を仕入れようと立ちよったスーパーが、まだ開店前の9時頃でしたが、もう暑い。
写真の陰影を見ても日射しの強さが伝わる事でしょう。
庭瀬城跡については、たとえばこんな記事で話題にしたことがありました。
縁は異なもの 庭瀬城跡?行ったことあります!の巻
その時ご紹介したのと同じような写真になりますが、、。
手前の堀に、大賀ハス(古代ハス)が栽培されています。
よく見ると、大型のトンボが、あちらへふわり、こちらへふわりと飛んだり、ハスの花に止まって休んだりしています。
ウチワトンボ(ウチワヤンマです)
ところで、この庭瀬城あとの数百メートル先に、撫川城跡があります(撫川は、ナツカワと読みます)。
もともと、この庭瀬城と撫川城は、一体のものであったようです。
ウィキペディアの解説を引きます。
戦国時代備中国の三村元親が、備前国の宇喜多氏の侵攻に備える為に築かせたと伝えられている。
天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、城主の井上有景が800余人を率い守備する。この際、位置的に孤立した場所にあったため、吉川元春、小早川隆景に早々に撤退するように下命されていたが、有景はその命令に背き、秀吉軍との間で激戦が交わされた。有景の軍勢は秀吉に敗れ、宇喜多氏の領有となり、しばらくの間無城主となる。
当時の庭瀬城の縄割りは現在の撫川城まで有ったと伝えられており、かなりの規模であった事が想像できる。
江戸時代
慶長6年、宇喜多氏の重臣であった戸川達安が入城、庭瀬藩を立藩し、城を改修。城を廃して二の丸に藩庁を設置し、庭瀬陣屋として整備。そして陣屋と鴨方往来周辺に陣屋町を造成した。
延宝7年、4代目藩主戸川安風が僅か9歳で早世し戸川氏は断絶、改易となった。その後20年間は倉敷代官所と藩主が支配するようになる。
元禄12年、板倉重高が2万石で入封し、江戸時代の終わりまで約170年間支配した。
寛政5年、板倉勝喜は城内に板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭る清山神社を建て、社内に歴代の遺品を収蔵した。
ところで撫川城跡がある「撫川」地域は、県指定郷土伝統的工芸品「撫川うちわ」の産地として知られています。
岡山県のHP参照
道路脇にこのような掲示板がありました。
「撫川うちわ」にちなんだ場所でウチワトンボを見たわけです。お後がよろしいようで。