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春 其の3 木下透 [木下透の作品]

私、このたび、kazgと改名しました。
以後お見知りおきを。
現実の世にも同名異人は多数あって、いろいろ面白い現象が起こります。
私の経験でも、県内の同業者の名簿をひもとくと、索引欄にずらりと、多いときでは6~7人も同姓同名が並んでいたことがありました。職業の枠を取り払い、居住地の枠を取り払えば、その数やいかんと、自然と想像されます。時には混同されることはあったかも知れませんが、自分でいうのもナンですが、品行方正の人士ばかりと見えて、おかげさまでトラブルに巻き込まれたことはありません。
郵便局の貯金(民営化前の話です)の名義人に同名の方があり、貯金額の確認を求められたこともありました。特に困ったわけではありません。
ですから、ネットの世界で、識別記号やらハンドル名などの類似や一致の可能性は、大いにあり得ることですし、このso-setブログでも、ニックネームの後ろに4桁の数字が与えられていて識別されることになっているそうですが、表示の際の混同はできるだけ避けた方がよかろうかと思い、g(爺)を付加する改名を行った次第です。


このカテゴリーに登場する木下透は、私の高校時代の筆名です。
この項の趣旨は、彼の作品を紹介する事にあります。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたいと思います。
しばらく前まで、このカテゴリーの文章は常体(「だ・である」調)で書いてきましたが、余りにも横柄な物言いになって、落ち着きが悪いので、路線変更で、今回から敬体(「です・ます」調)に戻すことにしました。

高校時代「春」という同一の題の詩を、何編か作った記憶があります。すべてをソネット(14行詩)形式で書いたと錯覚していましたが、この作品は違いました。定型に納めるほどの心の余裕がなかったせいでしょうか、生硬なままの感情の吐露が生々しく、公にすることも気恥ずかしいのですが、今なお、思い入れはある作品です。。
表題は、単に「春」とつけていましたが、ブログに掲載するに際して、便宜的に其の三と名付けることにしました。


春  其の三    木下透
俺はあれほど 恨んだのだが
――――――長すぎた冬を
俺はあれほど 呪うたのだが
――――――濁りきった時間を
俺はあれほど 厭うたのだが
――――――狭すぎる世界を

みんな みんな 忘れちまった
春だ 春だ 春だ 春 春・・・・
傲慢 侮蔑 自惚れ 闘争
被害妄想 猜疑 自虐

みんな みんな 消えちまった
春だ 春だ 春 春 春・・・・

俺は何も もってはいない
(俺は何も もってはいなかった)

呵々。俺は・・・・・・・・・・・・・・。 

ちょっと前に撮って、大事にしまい込んでいた写真を、季節外れになる前に小出しに掲載することにします。
まずは、シジュウカラとロウバイ。岡山後楽園で撮影。
 
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 岡山後楽園の紅梅です。
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 いろんな梅の写真がストックされていますが、どれがどこで写したものやら、、、。その都度整理しないから、記憶が混乱してしまう、、、。わかっていても改まリません。
後楽園、半田山植物園、子どもの森、近所の路傍の梅の木、、、などが記憶にありますが、いつ、どのカメラを持って歩いたか?もはや曖昧で、厳密にに思い出すだけの気力がありません。
GPS機能つきカメラが必要ですかね?

 
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これは近所の紅梅。
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戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前” 補遺   木下 透 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今日掲載するのは、以前掲載した作品の、後半部分を補足したものだ。

別の理由でモノ探しをした際に、散逸していたこの詩を見つけた。

あえて発表するほどのものでもあるまいが、「自主憲法制定」の動きかまびすしき時期が時期だけに、かすかな囀りといえども、たくさんの囀りの声を上げておくに超したことはあるまいと考えた。

「天 皇元首化」「国防軍の保持」などを露骨に謳った「憲法改正草案」なるものが具体的に掲げられ、無制限とも言える恣意的な「解釈改憲」と競い合うように、 「明文改憲」への準備が急ピッチにすすめられている状況は、高校時代に私が漠然と警戒していた以上のただならなぬ気配ではないか。しかも、核武装を唱える元航空幕僚長のアナクロ都知事候補がネット上では首位を奪い、現実にも無視できぬ得票を得たり、この人物を、元の都知事(昔、三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地でのクーデター未遂自決に涙を流して「なぜ待ってくれなかった」と嘆いたっけ)や、「永遠の0(ゼロ)」などで人気の売れっ子作家(NHK経営委員)が、応援し、他の候補を「人間のくずみたいなもの」と誹謗するなんてことが、まさか起きようなどとは、私の生ぬるい想像力の適うところではなかった。

この詩は、最悪の未来図(シナリオ)のつもりで書いたのだが、現実がそれを追い越そうとしている。

この逆向きの流れを堰き止めるためには、木下君、きみはどうするの?



戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前”     木下 透

(1)

てんのうへいかさまは まずしいものを ごらんになって おあわれみになり きんすを おほどこしに なりました。
いやしいみぶんの ものどもは みんな なみだをながして よろこびました。
てんのうへいかさまの みよが ながく つづきますようにと いのりました。みんな、みんな。

(2)


てんのうへいかさまは ぜんせかいのにんげんが へいわにくらせるようにと せんそうを おはじめになりました。
にっぽんは しんこくですから かならずかつのですと こうちょうせんせいが おしゃいました。
こくみんは みんな よろこんで へいたいに なりました。
おくにのために だれもだれも よろこんで しにました。
てんのうへいかばんざい、 だいにっぽんていこくばんざい。
あじあのみんなが さかえますように。

(3)


てんのうへいかさまは にんげんで あらせられました。
にっぽんこくは へいわを ちかいました。
こくみんは だれもだれも よろこんで なきました。
ちちや ははや こどもを なくしたこくみんも よろこんで なきました。
たべものがなくて ひもじくても よろこんで なきました。
にっぽんこくは へいわを ちかいました。てんのうへいかさまは にんげんで あらせられました。

こくみんは じゆうと びょうどうと それぞれのけんりを ほしょうされました。
あめりかは にっぽんこくの ゆうじんとなりました。
あめりかも にっぽんこくも たがいにさかえますように こくみんは いのりました。
にっぽんこくは さかえました。
こくみんは ゆうふくに なりました。
しょとくは ばいぞう されました。
いっかに いちだい てれびが あります。
まちまちに ぬうどげきじょうと ぱちんこやが たてられました。
(となりのおくにが ちいさくみえます)
こくみんは たのしく くらしました。
にっぽんこくは へいわです。
にっぽんこくは こくみんの あんぜんを まもるために ぼうえいたいを つくりました。
こくみんの あんぜんは ほしょうされました。

すいがいや かさいのさいには なんにんものひとびとが たすけられました。
こくみんは ないて よろこびました
にっぽんこくは へいわです。
こくみんは じゆうです。

(5)

こくみんの だいひょうのひとりは むねをはって いいました。
ひとりびとりが くにをまもるいしきを みにつけよう。
こどもたちは むねを ときめかせました。
ほんとうに じぶんたちが ほんものの てっぽうをもって くにをまもることを ゆめみて よろこびました。

 


以上は前回掲載分

以降が補足分である。


 わるいやつらを うちころすのです。あかいやつらや めうえのひとにさからう きのちがったやちらを おもいきり ぶちのめすのです。
ほ んとうに じぶんのちからで くにを くにのはんえいを まもるのです。わるいてきを ころしたあとは きもちが せいせいします。にっぽんじんは えら いのです。にっぽんじんは つよいのです。にっぽんじんは いつでも ただしいのです。いつでも ただしかったのです。
にっぽんじんは えらくて つよくて ただしくて いさぎよくて りっぱでせいぎをあいし あくをにくみ しよくをすてて ぎりをおもんじ くにをあいし ちつじょをたっとび きんべんで・・・・
――だから にっぽんこくは さかえ 
――だから にっぽんこくは ますます さかえ
――だから にっぽんこくは あじあの てほん
――だから にっぽんこくは あじあの しどうしゃ・・・・
(あじあは ひとつ。あじあは なかま。)


にっぽんこくよ さかえよ。
あじあよ さかえよ。
そのためには くにを まもる ちからが いるのです。
にっぽんこくは せんそうを するためでない へいたいを ふやしました。
にっぽんこくは せんすいかんと みさいるを つくりました。
にっぽんこくは たしかないりょくを しるための かくじつな じっけんを くりかえしました。
(あとは じっさいに ころしてみるだけ)
「かくあれるぎいは こくみんの じかくによって とりのぞかれねばならない」
「かくさんげんそくは わがとうぜんたいの かんがえではなく しゅしょう おひとりの おかんがえであり しかして それは とうぜん 考え直すよちのあるものなのであります。
「げ んこうの けんぽうは てきこくと そのてさきであるところの ひくつなる ひこくみんの てによって わがくにの ちつじょを みださんことをいととし て つくられたものであり よってそのために わがくにには てんしさまを うやまうことをせず わがくにの はんえいさえも さまたげんとする ふらち なる たいだしゃが はびこることに なったのである。しかれば われわれは とうぜん この あくほうを かいせいして われわれのこくみんせいを そ んちょうし わがくにの じつじょうに あった けんぽうを つくるべきであろうと かんがえるので ある。」

「にっぽんこくは その こ ゆうの りょうどであるところの おきなわを とりかえさねば ならないのであります。おきなわを とりかえさぬうちは にっぽんの せんごは おわった とは いえないので あります。つまり にっぽんのりょうどが うばわれているかぎりは むかしの つよい にっっぽんでは ありえないので ありま す。」   

「おきなわは きょくとうの へいわには かかせぬ じゅうような ぐんじきち なのでありまして とうてい あめりかも むじょうけんの へんかんを しょうちするはずは ないので あります。むしろ われわれは 

ほんどの おきなわか そして ついには われわれじしんの てによる こくぼうを かんがえる べきで ありましょう。」

「こ くみんの あいこくしんを たかめるために こどもたちは しんわによって こっかの とういつのれきしを まなばねば ならない。しんわが とうじの  いせいしゃの けんいづけの ための そうさくであるとするのは きけんきわまりない おもいあがった しそうであり ひいては こっか せいふへの ふ しんを じょちょうさせるものである。きょういくは とうぜん こっかによって なされるものであり さもなくば じだらくで たいはいてきな あなあき ずむの まんえんにより こっかはすたれるであろう。こどもたちを けがれからまもるために 

こどもたちを けがれから まもるために きけんなしそうはだんあつされねばならない。」
にっぽんこくはつよくなりました。(終わり)


高校の頃、これを読んだ友人に「本気でそう思ってるのなの?」と、尋ねられたことがあった。
当然、皮肉、風刺、揶揄、ジョーク、おふざけのつもりだし、それは、言わずもがなの自明の理のはずだった。

現実の歴史では、為政者と教育・報道機関の合作により、もう少しもっともらしい巧言が世を覆い、そのなかで人々の心が戦争遂行へと動員されていったのだろうが、そのメカニズムをデフォルメし戯画化することで、時代へのささやかな警鐘としたかったのだが、、、、。

ところで、昨日アップした詩「春 其の2」は、「 うららかの春の一日(ひとひ)/萌える若草の香を淡く感じながら/私はひとり寝そべっていた/柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた」とつづく。

二つのかげとは何だろう?などと疑問に思われる人はまずあるまいが、「戦争の影」なんてモノではなさそうだ。ましてや、グラマンだとかB29だとか、そんな即物的な形象でもまさかないだろう。

「ゆうるりと」と言う表現からも、文字通りのどかな、平和な情景にふさわしい、トンビかなんかだろうと思って間違いない。
「ゆうるりと」というフレーズは、文芸部の顧問でもあった恩師U先生の、お好みの表現だったように思う。そんな言い回しまで、知らず知らず感化を受けていたのだろう。

昨日、岡南飛行場近くの阿部池周縁を散歩していると、空を二つの影がゆうるりと舞うていた。

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これは、どうもトンビではなさそうだ。最近、近所の散歩道でも、ちょくちょく猛禽類の姿を見かけることがある。あわてるので、なかなかカメラに収めることができず、ピンボケ、手振れ写真の量産になってしまう。
ワシタカらしい鳥を見ると、なんだかそわそわして、特別扱いしている自分に気づくが、いかんせん、目視でその種類を見分けることができないので、写真を元に図鑑を調べる必要があるのだが、この不鮮明な写りではそれもできず残念だ。
 
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鳥に関してだけは、「タカ派」志向の要素なしとはいえない私だが、政治思想上のタカ派は、論理も行動も乱暴でデリカシーにかけるので、好きになれない。
特にあの、青年将校がよって立つ「問答無用」の論理(いや、正確には「無理」)を、私はもっとも厭悪するものだが、最近の世の風潮はこれを増幅させているようで、いやな気分だ。
ほら、あのマスゾエさんのしゃべり方、イシハラさん、ハシモトさん、乱暴なキメツケで扇情的に自己の特異な主張を押し通そうとする点でそっくりに見える。そんな人物をリーダーとして戴いている市民(シチズンという意味で)のレベルが、それだけお粗末だってことで、またまた気が滅入る。
 
 
 
 

 


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春 其の2 木下透 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
今回は、高3の時の作品。「春」という同一の題の詩を、ソネット(14行詩)形式で何編か作ったうちの一つだ。
ブログに掲載するに際して、便宜的に其の2と名付けることにする。


 春 其の二 木下透

 うららかの春の一日(ひとひ)
萌える若草の香を淡く感じながら
私はひとり寝そべっていた
柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた

耳元の小川のせせらぎ
――軽やかおまえのささやき
つつましいツメクサの花
――はにかんだおまえの笑み

確かに交わされた約束であるように
私はおまえを――あてもないおまえの訪れを
胸をときめかせて待っているのだ。

私はおまえを知りはしないのだが
おまえは私を知りはしないのだが
ああ それはだれでもいいのだが――おまえ――


 「恋に恋する」という感傷を表現してみた。本当は、意中の「おまえ」はいたのかも知れないが、それはヒミツ。
散歩中、ツメクサの花を探してみたが、まだ蕾も見えない。しもやけたクローバーの葉が、まだ寒そう。

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これは何年か前に写したシロツメクサ(白色クローバー)の花。季節としてはもう少し暖かくなってから。
 
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ホトケノザは咲いている。

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  ナズナ。別名ペンペングサ。
 
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野菜の花。コマツナかな?
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 びわの花
 
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オオイヌノフグリ
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白梅
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麦畑
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春は、少しずつ近づいているはず。

 


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春 其の一 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今回は、高3の時に、「春」という同一の表題で何編か作ったソネット(14行詩)形式の詩のうちの一つだ。便宜上、其の一と名付けておきたい。

 


春 其の一  木下透

 茶色い風が吹いてはいない
かわいたチリが舞ってはいない
古新聞紙が飛んではいない
静かな静かな春の訪れ

雨 しめやかに降りそそぐ
柳の新芽 青い水玉
枯芝の焼け焦げから 濡れた緑が一,二寸
しっとりぬれた砂の間に 私はそっと素足を潜らす

私は何も失くしてしまった
古こうもり傘を伝う雨つぶ
静かな静かな春の訪れ

私はやはりひとりなのだ
いやしかし・・・重いけだるさ
静かな静かな春の訪れ


 一昨日だったか、岡山市後楽園を散歩してみた。

芝生の焦げ目が、早春ならではのアクセントとなっている。。

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梅が盛りを迎えている。
 
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元町議(平成の大合併前)のAさんにネコヤナギをいただいた。
その肌触りの柔らかさは、孫達もお気に入りのようだった。
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 散歩中に見つけることもできた。
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風よお前は   [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今回は、高2の時に作ったソネット(14行詩)形式の詩だ。「風よお前は」というフレーズは、荒木 栄作詞・作曲 の「星よお前は」という歌にも同一の呼びかけ出でてくるが、もちろん高校生の私が知るよしもない。また、ネット検索をしてみると、同様の表現がいくつか垣間見えるが、私の作品の成立年代は1969年頃で、おそらく私のものが先行しているだろうから、著作権上の追及はご容赦願いたい。念のため。



 
  風よおまえは    木下透
風よ おまえは ふさいでいた私に
微笑みかけ(姉の如き優しさもて)
忘れていた郷愁をくすぐった。
(そのとき空は暖かかった。春)
 
風よ 私は おまえに甘えたのだ。
おまえの清らかな笑みは 
荒んだ私の心を どれほど明るくしたことか。
(それをおまえは 戯れだったというのか)
 
 
おまえは 今でも
私のことを 想ってくれることがあるだろうか。
(私が慕っているのはたしかにおまえなのだ)
 
風よ おまえは 今 どこにいるのだろう。
もう冬だというのに。
(夕べ地上を凍らせたのはおまえだったのかしら)


 

ソネットというと、まず頭に浮かぶのは、このブログサービスの提供会社であるインターネットサービスプロバイダー「So-net(ソネット)」だろうか。   
実は私が初めてパソコン通信やインターネット接続を始めたのは、この「So-net」を介してだった。もちろん、電話回線を使用してのモデム時代。パソコンとのつきあいは、「遅咲き」で、OSもwindows3.1の時代だった。ジーコジーコと緩やかな、しかも高額な、インターネット体験を始めた頃、「so-net」提供の「ポストペット」というメーラーを時に利用した。10代だった子ども達と遊ぶには、可愛いペットだった。いまは、孫が時々、ペンギン君と遊んでくれるが--。
だが、私にとって、「ソネット」というのは、サービスプロバイダー「So-net(ソネット)」ではなくて、まず、14行詩「ソネット」のことだ。
私が、西洋詩の形式である「ソネット」に触れたのは、立原道造を通してだった。

たちはら-みちぞう ―みちざう 【立原道造】
(1914-1939) 詩人。東京生まれ。東大建築科卒。堀辰雄に師事。「四季」同人。ソネット形式を用いた造形的な詩と清純かつ典雅な叙情を特徴とする。詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」「優しき歌」など。(『三省堂 大辞林』より)



たとえば、彼の詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」などは、音楽にも似た美しいソネットの宝庫で、高校時代の私は、これに耽溺したものだった。たとえばこんな具合だ。 

はじめてのものに 立原道造

   ささやかな地異は そのかたみに
    灰を降らした この村に ひとしきり
    灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
    樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

    その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
    窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
    部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
    よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

    ――人の心を知ることは……人の心とは……
    私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
    把へようとするのだろうか 何かいぶかしかつた

    いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
    火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
    その夜習ったエリーザベトの物語を織つた
 

 
エリザーベトとは、ドイツの作家シュトルムの「みずうみ」に登場する少女の名前だそうだ。当時の旧制高校では、ドイツ語の教科書にこの作品が採られていたと言う。高校生の私も、早速、新潮文庫を買って読んだ。

また次の作品なども、私のセンチメンタリズムを刺激してやまないものだった。

 のちのおもひに 立原道造

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう



 

 

 虹とひとと  立原道造

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき
叢(くさむら)は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた
東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた
僕らはだまつて立つてゐた 黙つて!

ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき
僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから
(僕はおまへを愛してゐたのに)
(おまへは僕を愛してゐたのに)

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

おまへの睫毛(まつげ)にも ちひさな虹が憩(やす)んでゐることだらう
(しかしおまへはもう僕を愛してゐない
僕はもうおまへを愛してゐない)

 

私は、この詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」の「萱草」を、「わすれな草(勿忘草)」のことだと、長い間思っていた。英語では forget‐me‐notといい、尾崎豊の曲にも歌われていた。また、倍賞智恵子の歌った「わすれな草をあなたに」も好きな曲だ。
 だが、萱草は、それとは違って、悲しみを忘れる効能があるとされる植物で、カンゾウとも呼ばれる。萱草(かんぞう)。藪萱草(ヤブカンゾウ)・野萱草(ノカンゾウ)などの種類があり、ユリ科またはキスゲ科に分類される。美しい花を咲かせ、若葉や根は食用にされ、甘味を含むという。

古くから、その、悲しみを忘れるという効能にちなんで、よく歌に詠まれた。
あの、大伴旅人(たびと)も、任地の大宰府にあって、故郷への慕情を断ち切りたいとの心情をこう詠んだ。
   忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため   大伴旅人
【解釈】忘れ草を私の腰ひもに付けてみた。香具山に近い住み慣れた古里のことをわすれるために。

息子の家持(やかもち)も、こう歌う。
忘れ草 我が下紐に 付けたれど 醜(しこ)の醜草(しこぐさ) 言にしありけり   大伴家持
【解釈】忘れ草を身につけて憂いを忘れようとしたけれど、忘れることなどできはしない。名前だけのダメダメの馬鹿草だなあ。


同じ「万葉集」の詠み人知らずの次の歌も、忘れられない恋の苦しさを歌う。

    忘れ草 垣も繁みに植えたれど 醜(しこ)の醜草(しこくさ) なお恋にけり  詠み人知らず
【解釈】恋の苦しみを忘れるため垣根いっぱいに生い茂るほど忘れ草を植えたのだが、 ダメダメの馬鹿草め! まだ恋しい想いが薄れることがないよ。

 


さて、私の作品だが、その出来はさておき、初めて「詩情」を意識して作った詩だった。そして、初めて作ったソネット(14行詩)だった。
「擬人法」による、風に呼びかけているとも、少女に呼びかけているとも分別しがたい、渾然とした効果を狙ってみた。

 

学生時代、「自由」と題するエリュアールの詩を、私は、熱く甘い恋の歌だと思って読み進み、最後の最後で「きみ」が何者かを知り、その渇仰の切実さに打たれた事がある。私の詩を、それになぞらえるつもりはないが、「擬人法」が有効に機能すると、不思議な力を発揮すると感じた次第である。

 

 

自由
ポール・エリュアール 
大島博光訳 

小学生の ノートのうえに
机のうえに 樹の幹に
砂のうえ 雪のうえに
わたしは書く きみの名を

読んだ本の ページのうえに
石や血や 紙や灰の
すべての白い ページのうえに
わたしは書く きみの名を

金塗りの 絵本のうえに
戦士たちの 武器のうえに
王たちの 冠のうえに
わたしは書く きみの名を

ジャングルや 砂漠のうえに
小鳥の巣や えにしだのうえに
少年時代の こだまのうえに
わたしは書く きみの名を

不思議な 夜のうえに
月日の白い パンのうえに
移りゆく 季節のうえに
わたしは書く きみの名を

わが青空の すべての切れはしのうえ
陽にかがよう 池のうえに
月に映える 湖水のうえに
わたしは書く きみの名を

野のうえ 地平線のうえに
鳥たちの 翼のうえに
そして陰の 風車のうえに
わたしは書く きみの名を

明けそめる あけぼののうえに
海のうえ 舟のうえに
荒れ狂う 山のうえに
わたしは書く きみの名を

泡だつ 雲のうえに
嵐のながす 汗のうえに
どしゃ降りの 雨のうえに
わたしは書く きみの名を

光りきらめく 形姿のうえに
色とりどりの 鐘のうえに
自然のものの 真実のうえに
わたしは書く きみの名を

生きいきとした 小道のうえ
遠く伸びた 大道のうえ
ひとの溢れた 広場のうえに
わたしは書く きみの名を

燈のともった ランプのうえに
また消えた ランプのうえに
わが家の 団欒のうえに
わたしは書く きみの名を

わたしの部屋と 鏡との
二つに切られた 果物のうえに
うつろな貝殻のようなベッドのうえに
わたしは書く きみの名を

食いしんぼうで敏感な愛犬のうえに
ぴんと立てた その耳のうえに
不器用な その脚のうえに
わたしは書く きみの名を

戸口の 踏台のうえに
使いなれた 道具のうえに
揺れなびく 聖火のうえに
わたしは書く きみの名を

許しあった 肉体のうえに
友だちの 額のうえに
差し出された 手のうえに
わたしは書く きみの名を

思いがけぬ喜びの 窓硝子のうえに
待ち受ける くちびるのうえに
また 沈黙のうえにさえも
わたしは書く きみの名を

ぶち壊された 隠れ家のうえに
崩れさった わが燈台のうえに
わが不安の日の 壁のうえに
わたしは書く きみの名を

ぼんやりとした 放心のうえに
まる裸かの 孤独のうえに
そして死の 行進のうえに
わたしは書く きみの名を

もどってきた 健康のうえに
消えさった 危険のうえに
思い出のない 希望のうえに
わたしは書く きみの名を

力強いひとつの言葉にはげまされて
わたしは ふたたび人生を始める
わたしは生まれてきた きみを知るため
きみの名を 呼ぶために

自由よ


 
 
 
訳詩者の大島博光さんは、最近亡くなられた、と書きかけて調べてみたら、2006年没とある。もはや、最近とは言えないか。

 

大島博光さんの業績をまとめたこんなページがあったので、無断でご紹介させていただくことにする。 以前話題にした、パブロネルーダの詩の多くも、この人の訳で読んだ。1980年代、ある会場で、間近でお見かけしたことがあった。それだけのことだが、、、感慨はある。

さて今日の写真は、居間のテーブルに置いてあるポット植えの花。二つとも、妻が、近所のスーパーの「売れ残り」で、一鉢100円で買ってきたもの。
人口減の我が家の癒し剤か。

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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第14回(最終回) [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第14回目。最終回である。



 郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

連載第14回(最終回)

臆病者?非国民?言いたい奴には言わしておけ。
銃を持つのを嫌がったぼくが非国民なら、銃を持って 敵兵を撃った奴は何だ――非人間!!そうとも。貴様らの撃った相手は、本当に貴様らの敵だったか。否。それは、貴様らと同じ農民であり、労働者であり、優 しき父であったり、頼もしき兄であったはずだ。貴様らの撃ったのは、貴様らの直接の敵じゃない。ならば、貴様は、何故に銃をとるのだ。国のため?国を守 る?家を守るように?ヘドだ。ぼくらが守りたいのは、自由と平和であり、ぼくらの家であり、妹や子供達の命であるのだが、貴様らが「守れ!」と命令された のは、国土であり、国家秩序であり、資本家達の営利・・・だったわけさ。
貴様らだってわかっているはずだ。わかっていながら、ぼくのことを国賊だ、臆病だとののしるってことは、どういうことだ。つまり、臆病なのは、貴様らの方だってことじゃないのか。そして、ぼくだって、もしも徴兵に応じていれ ば、やはり、立派な臆病者になれていたってわけさ。

案の定、ぼくは捕えられ、今、刑務所の固い寝台の上に座って、こうして昔を想っている。
学校での仲間たちは、今、戦場にいる。
ぼくは、こうして、非国民として牢獄の中にいる。
ばくはさんざんの非難と嘲笑を受けながら生きている。
ぼくの家族達も、きっと、村人達に白眼視されながら、ぼくのことを恨んでいるだろう。(けれど、母さんは、ぼくに言うだろうか。立派に殺して、死んでおいで・・・と)
ぼくは、今、とっても寂しい。そして苦しい。けれど、何だか快い。少しも自分を責めてはいない。
ぼくはとにかく戦った。とうてい歯の立たぬ相手ではあったが、そして、敗れはしたが、とにかくぼくは戦った。
爺さんも言ってたっけ。
「負けてもいいから戦え」と。
「負けたら泣けばいいんだ」と。
ぼ くには力がなくって、ぼく一人じゃなんにもできなかったけれど、どうか君。君もいつまでも、育児なく逃げ回ることはおよしよ。そして、はっきり見つめてご らん。君の目の前にいる本当の敵を。弱者同士、傷つけ合うのを喜んで眺めている輩を。人を傷つけなけりゃ、自分の幸福はあり得ないと、主張する輩を。ぼく ら弱者の血で、身を肥やしている輩を。そして、奴らに追従しようとしていたぼくら自身の卑屈さを。両のこぶしを固く胸に握りしめて、しっかりと目に留め て、忘れちゃならない。(つづく)
最後に(つづく)とあるが、この作品は、ここで終わっている。
執筆中、高校生の私は、「受験」でも終わって落ち着いたら、続きを書きたいと想っていた。「つづき」は、獄中記になるはずだった。
厳しいが希望のある、楽天的な抵抗の姿をかけないかと、ぼんやり思っていたが、果たせないまま、四〇年あまりが推移した。
 どういうきっかけが、私にこんな思いつきを与えたのか、記憶は定かではないが、おそらく住井すゑの小説「橋のない川」の感化があったかと思う。
 そして、たぶん、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」にも、インパクトを受けていただろうと思う。
橋のない川〈第1部〉

橋のない川〈第1部〉


 
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ
 
小林多喜二や、その他のプロレタリア文学、特に鈴木清の「監獄細胞」などを読んだのは、まだずっと先のことだった。
独房・党生活者 (岩波文庫)

独房・党生活者 (岩波文庫)

  • 作者: 小林 多喜二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/05/15
  • メディア: 文庫
本庄陸男 鈴木清集 (日本プロレタリア文学集)

本庄陸男 鈴木清集 (日本プロレタリア文学集)

  • 作者: 本庄 陸男
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1987/04
  • メディア: 単行本

 
 
 
また、宮本百合子と宮本賢治の「十二年の手紙」も同様だ。
十二年の手紙 上 (新日本文庫 A 8-2)

十二年の手紙 上 (新日本文庫 A 8-2)

  • 作者: 宮本 顕治
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 文庫
十二年の手紙 下    新日本文庫 A 8-3

十二年の手紙 下  新日本文庫 A 8-3

  • 作者: 宮本 顕治
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 文庫

 

 

 

だが、「戦争が終わってぼくらは生まれた」わけで、「戦争を知らない」世代としては、 戦争に反対して投獄、という設定がリアリティを持ちにくくて、この先を書けないまま、中断しているという次第だ。


 先ほど、リアリティに乏しいと一旦書いたものの、朝日歌壇に載った次の短歌は、しかしリアリティ十分だった。

徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも     石井百代

この歌の作者について述べた記事を見つけたので、引用・紹介しておく。

 
 
 
徴兵は命かけても阻むべし…の作者はどんな人

 〈問い〉 以前、「徴兵は命かけても阻むべし…」という歌があったと記憶していますが、作者はどんな人でしたか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 「徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも」

 石井百代(ももよ)さん(1903年1月3日―82年8月7日)が、78年にこの短歌を詠んだのは75歳のときでした(同年9月18日付朝日新聞「朝日歌壇」に掲載)。福田赳夫首相が有事立法の研究を指示した情勢のもとで詠まれました。

 選者の近藤芳美さんは選評で「…『母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも』という結句にかけてなまなましい実感を伝えるものがある。一つの時代を生きて来たもののひそかな怒りの思いであろう」と書きました。

 戦争中は東京都に住み、3男4女の母でした。夫・正(ただし)さんは軍医としてマニラに。病弱だった大学1年生の長男・立(たつ)さんは火薬廠(しょう)に動員されます。二男は陸軍幼年学校、士官学校、航空士官学校を経て外地に。戦後、立さんが出版社に勤め労働組合運動に参加するようになり、その影響もあって夫婦は進歩的な考えを持つようになります。

 51年4月、夫は、静岡県相良町(さがらちょう。現・牧之原市)で耳鼻科の医院を開業。百代さんは、夫と一緒に読書会、映画研究会に入って地元の青年たちと交流。夫婦で日本共産党後援会の世話役もしました。

 「しんぶん赤旗」日曜版の「読者文芸 にちよう短歌」にもしばしば投稿。「マルクスの読書会終えわが夫と帰るこの夜の月澄みまさる」(65年12月5日号)と読書会のことを詠んでいます。

 69年8月に夫が亡くなってから、東京都世田谷区に住むようになりました。

 「徴兵は…」の短歌が発表されてから本紙記者が百代さんにインタビューしたとき「私は兄、おい、二人のいとこ、義弟を戦死させています。息子は病気で徴兵をまぬがれましたけど…」「でも私はあの戦争を聖戦と思い込んで、息子を戦争に差し出そうとしていたんです」と語っていました。

 罪ほろぼしのつもりで、と百代さんは女性の団体「草の実会」で平和問題などの学習をすすめます。そのなかで知った有事立法の動き。この短歌は体を張ってでも孫たちを戦場には送らないという彼女の決意でした。この歌は草色のスカーフに白く染め抜かれ、人々の口から口へと伝えられました。当時、自民党政府は有事立法に踏み切ることはできませんでした。

 選挙では日本共産党を応援しました。80年6月の衆参同時選挙の時、「投票は誰にしてよいか分からないのでいくまいと思う」という女性に、百代さんは「平和を守るために、ぜひ共産党へ投票なさい」とすすめています。(義)

 〔2006・6・10(土)〕

今日の散歩は、どんよりと垂れ込めた冬空から、時折氷雨がぱらつく悪コンディション。
 
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センダンの木に止まるキジバトも、いかにも寒そうでした。
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第13回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第13回目。

物語は、ほぼ終息に向かう。

「青臭い」長広舌が続くが、実は、今でも私の思いは、あんまり変わってないのだ。

前回までの掲載分も、文言や表記に若干の微細な補正を施してきたが、今回の部分は、高校生の私の限界から、 世間に公表するには、訂正を施したい箇所が少なくなかったが、ひつよう最小限の補正に留めた。文章中の斜体の部分がそれである。あらかじめ、お断りしておきたい。

 


 

郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

連載第13回

ぼくはついに思い知らねばならなかった。いつまでも逃げてはいられないのだ。今までぼくは、逃げて逃げて、そして逃げることのできない袋小路に追い詰められてしまった。さあ。どうすればいい。
どん底にあって、初めてぼくは知った。敵というのは、本当の敵というのは、他の誰でもない、ぼく自身だったのだ、と。こんなに弱いぼくが、こんなに手強い敵だったとは。こっけいではあるが、事実だ。
さあ、それではどうするのだ。さあ、ぼくはどっちを選べばよい。
このまま素直に銃を持って、愛国の勇士として戦うか。それとも、死を怖れる臆病者と言われながら、それを拒否するか。
ぼくは、確かに、死ぬのはこわい。
そして同時に、卑怯者、臆病者とあざけられる立場に身を置くことは苦しい。
さあ。それなら、どうすればよい。神よ。ぼくはどうしたら。否。神はそんな事には無関与だ。実際、神は至って無頓着だ。
《いったい、神は我々人間がどのようにふしだらに生きようと、あるいはまた、我々がいかにないがしろにしようと、そんなことはまるで無頓着だ。神は我らのいかな行為にも、それどころか神自身の存在に関してさえも、無頓着だ。オロオロしながら、その名を唱えればすばらしい回答を与えてくれた古(いにしえ)の神は、妄誕だ。神は、ぼくらに、己の欲するままに生きることを許された。――ぼくらはいつでも、自分で、自分だけで生きなければらない。――あくまでも自分で、自分の全良心、全霊かけてなされた行為ににこそ、神の意思はあるのかも知れない。・・・なくったっていい。――神は他の何処(いづこ)にもおわしはしない。神はほかの何者でもない。神は我らのうちに、だ。神の本質は“愛”だ。神は、我らの内なる“愛”だ。――
この認識は、ぼくにとって、決して新しい発見ではなかった。そう、爺さんから学んだ教訓のうちに、いつでも見いだせる認識だった。――爺さんの神、爺さんにとっての神は、やはり爺さんの性の奥底からあふれ出る愛だった。――生命あるものへの愛、自然への愛・・・大抵の人からは失われた、人間にとって最も懐かしく、そして善良な感情――。そして爺さんこそ、自分の神に最も忠実に生きた人だったかも知れない。―――このことは、子供の頃からいつでも感じていたことだのに、今になって改めて気づいたことのようにぼくを驚かせる。》

自己の内面に問いかけ問いかけて、最後の決定は自分自身で為されねばならない。
さあ。それなら、ぼくは、どうすればよい。
今度の戦争が始まる前に、ぼくらの学校でも、幾人かが立ち上がり、「戦争を始めちゃいけない。」と叫んで石投げて逮捕(つかま)った。
その自分、ぼくは仲間と一緒に酒場でワインをあおって騒いでいた。戦争なんて知らぬことさと、そっぽ向いて、女の噂や、明るい将来を話して騒いでいた。
そのうちに、知らぬ間に今度の戦争、始まっていた。
原因は定かには知らされなかったが、いつものように悪いのは相手国だった。(ぼくらの国はいつでも正しいのだから。)

ぼくの村――爺さんとぼくの村――あの水車小屋はもうないが、丘の上には爺さんのお墓がある――あのぼくらの村に、軍の基地ができた時の話を、風の便りに聞いた。
村の一部の人たち――なかでも、最も貧しい人たち――ぼくの親父や、他の小作人や、工場で働く労働者達――は、それに反対してクワやカマやむしろ旗を持って「おれ達の村から出て行け」と叫んだ。全くそれは、無理のないことなのだった。全生活の糧である狭い田畑や、やせた小作地さえ奪われては、彼らは生きていけないのだから。一握りの補償金が何の助けになったろう。
その基地がどんな用途に用いられるかは、誰にも知らされなかったが、 驚くほど広大な敷地が立ち入り禁止にされ、何でも、秘密の新型兵器の開発と貯蔵が行われているらしかった。村の自然と安全がおびやかされるだけでなく、真っ先に、敵の報復攻撃の対象とされることは容易に想像できた。
そういう思いから、最後まで戦い続けた
村の人々のことを話題にして、ぼくのいるこの都市(まち)では、こんな風にささやかれた。
「国の大事な時なのに、わがままはよせばいいのに。」
「そんなに国を愛せない奴らは、力尽くでも追い出して、敵を向かえなきゃ、国が危ない。」
「こんな時だから、国のためには少しのことは我慢しろ」・・・と。
――「国のために・・・」は、聞かせるね。国民の生活や安全を考えない国ってのがあるかい。それとも、貧乏人や少数者は国民じゃないのだろうね。
これは、弱者にとっては、いつも成り立つ命令だ。
「国のえらい人やお金持ちのために、食うことを我慢なさい。私心は捨てて、生きることも我慢なさい。わがままはよして、早くお死になさい。」

余儀なく銃を持たされた弱者達と、何も知らずに撃たれる弱者達。
撃たなきゃ殺される弱者達と、撃たれて死ぬ弱者達。恨みもないのに銃を撃つ弱者達と、恨みながら死んでいく弱者達。
父や母や兄を殺されても、誰を恨んでいいかわからない子供達。
そのすすり泣きに耳ふさぎ、折り重なった死体から目をそらして、さらに前進する兵士達。
今も。
まさに。
血を震わせる銃声。
甲高い悲鳴。
弱々しく止んで、静寂。
弱者の血。弱者の涙。
そして、なおも、銃持って戦地に送り込まれる若者達。
死体となって送り返される若者達。
――何も知らぬふりして、遊び興じる若者達。
――それらすべてを、ほくそ笑みながら眺めている、愛国的指導者達、愛国的お金持ち達。

 いま、ぼくのしなければならないことは、――遅すぎる。遅すぎるけれども――いま、ぼくにできることは・・・奴らの手先になることを拒否するという、消極的な行為のみ。

だから、だからぼくは、徴兵を拒否した。


 先日M先輩が、「ルリビタキ」「アトリ」「ミヤマホオジロ」などの画像を送ってきて下さいました。「環境保護センター」で撮影されたとの由。
私は、そこを訪ねたことはなかったのですが、実は、ちょいと足を伸ばせば郷里で、その経路沿いに、案内表示があることのを目にしながら、通り過ぎたことはありました。
この冬は、「ルリビタキ」「アトリ」「ミヤマホオジロ」いずれも、目にしていません。過去の写真も、ブッシュの中や薄暗い木陰、高い枝先など、悪条件の撮影で、満足できるものがありませんので、にわかに思いついて、出かけてみました。ラッキーな出会いに、淡い期待を抱いて。
走行距離は、片道およそ50Kmという感じでした。
結果は?
残念ながら、お目当ての小鳥には会えませんでした。

 

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鶴は、悠々と採餌していました。

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バンも、近くで観察できました。
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カルガモも、広々とした池を悠然と泳いでいます。
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コガモのオス
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こんな鳥も・・・
 
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山道で、ツツジの花を見つけました。
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この足跡はイノシシ?妻に命じられて写しました。
 
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 夕方、所用があるので、今日はここまで。

また今度の機会にと、期待を残して、散歩の快い疲れを土産に、現地をあとにしました。

ちょっと足を伸ばせば実家なのですが、これもまた日を改めることにしましょう。


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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第12回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第12回目。


連載第12回
爺さんの墓の周りには、毎年秋になると小さな白い雑草(くさ)の花が咲いた。
ある日ぼくは、一人の見知らぬ人をそこで見かけたが、それが誰だったかは、誰も知らない。
菜っ葉服を着た若い人――ちょうど、ぼくの父さんと同い年くらいの――で、右足が悪いらしくて、松葉杖をついていた。
爺さんの墓に向かって涙しながら、こんな風につぶやいていた。
「昨日戦地から帰りました。戦争は、まだ終わりません。母さんを奪ったのは、敵の誰でもなく戦争そのものだったことを、今になって知りました。」


君は今でも覚えているだろうかい。カルロス爺さんのこと。
あゝ、あれは、みんな、もう今から十年も昔のことだ。
そして、ぼくはもう二十歳(はたち)。
ぼくは今、とっても寂しいけれど、なんだか快い。
爺さんの教訓は、ぼくには難しすぎた。
学生時代を通して、ぼくは全くの逡巡者だった。いつもしりごみばかりして、できるなら、何事もなくあれかしという風だった。だからぼくは、いつでも易きを取るという卑屈な手段を取った。そんな自分を嫌悪しながらも。
なにしろ、ぼくには、何をしたらいいのかということさえわからなかった。
爺さんは、神と己をけがす敵と戦えと言った。
少年時代、ぼくは確かに戦った。体中をキリキリ尖らして、ぼくに近づく誰彼かまわず戦った。ある時は、それは親であり、幼友達であり、先生であったりもした。そのような戦いは、いつも必ず他愛なく始まり、そして必ず気まずく終結するのだった。
「独善」・・・いつでもそうだった。おまえが敵だとして戦った相手は果たしておまえの敵だったのか。そうではなくて、むしろおまえを愛してくれてさえいる味方ではなかったのかしら。――いつでも、ぼくの独りずもうだった。
ぼくには全くわからなくなっていた。果たして、敵とは、本当の敵とは、一体何なのだろうか。
それでもまだ、ぼくはしばしば戦った。そしていつも、あとに残るのは、やりきれない後悔だけだった。果たしてそれが、おまえがそれほどまでに武装して戦わねばならぬ敵だったのか、と。
そのうち、ぼくは、戦えば戦うほど一人っきりになっていく自分に気づいた。寂しかった。楽しそうに談笑している友人達を羨望した。
そんなわけで、ぼくは、しだいにあの屈辱的な処世法を身につけていた。 できれば争わずにすます――協調・・・とんだ道化だったが、浮かれて騒ぐことは楽しかった。
ぼくは信じ始めていた。人には敵などありはしないのだ。 誰だってみんな仲間なんだ。小作人の息子と大地主の息子だって、日雇い労務者のせがれと工場主の子供だって、資本家の御曹司だって、みんな仲間だ。同じグラスでワインをあおり、女の話をする。みんな仲間だ。
この考えは、ぼくをうっとりさせた。しかし、その時のぼくは、大切なことを忘れていた。
そう。自分を圧し殺してえた強調は、決して真の平和には結びつかない。そしてまた、自分を主張して、自己を思い切り生かして、誰もが互いを尊敬し合うことができて初めて、神の望んでいらっしゃる「平等」が生まれるのだとは気づかずにいた。
しかし、とにかく、そんな風にして、ぼくは学生時代を何をするのでもなく、のんびりと過ごしていた。
だが、そのような退廃的な享楽に溺れていても、ぼくは何だか物足りなさを感じずにはいられなかった。聞き苦しい焦燥感さえ感じていた。
所詮、いつわりののどけさは、いつまでも続きはしなかった。終局は、当然予期されるべき方法で訪れた。ぼくだって予期せぬわけではなかったが、忘れていたかった。
――徴兵・・・・
つづく

今日は診療予約日。まず胸部のCTを撮って、受診。
予約時刻を過ぎても、なかなかお呼びがないと、画像診断に何か手間取っているのではないか、治療方針の見直し検討に時間がかかっているのじゃないか、などなど、あらぬ思いがふつふつと沸いて落ち着かない。
たまたま、昨日は、今年度退職予定の十数人の方々を前に、近況を話す機会があった。その大部分を、「病気自慢」に費やしたが、脳動脈瘤と肺腺癌という相次いで経験した「大患」を、平常心で切り抜けたかに振る舞ったけれど、なぜか、終わったあとの消耗感が拭えない。
考えてみると、実際の所、ここ何ヶ月かの日常生活の中で、人と接することだけでも思わぬエネルギーを要するのに、昨日は、無意識のうちにも「元気」を演じて人を「元気づける」ベクトルが働いたらしく、それは自己の「自然」にそぐわない、キャパシティ以上の負荷を加えたものらしい。それと、何を話したか話の中身は正確に思い出せないが、言わずもがなの放言を羞じる気持ちが、後味悪く、澱のようにまといつく。
そんなビミョーな心境で、診察を待ちながら、こんな句を戯れてみた。
俎(まないた)の鯉も心は揺れざらん

結局、診察は経過順調ということであっさりとすみ、CT検査の余禄として「脂肪肝」が指摘されたというオチで、お後がよろしいようで。

「脂肪肝」解消も目指して、午後、深山公園を歩く。
メジロ、シジュウカラ、アオジといったところを見かけたが、撮影はできず。
帰り際、夕暮れ近き「赤松池」の鴨たちを記念撮影して満足して帰る。

 
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第11回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第11回目。


郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

連載第11回
君は覚えているだろうか。水車小屋のカルロスじいさん。
あれは、そう、随分曇って、今にも降り出しそうな気配の夏の夕方。むし暑くって、風もなくて、何もかもが重苦しくおさえつけられているような、イヤな日だった。
僕はその日も、じいさんにお話ししてもらおうと思って、爺さん家へ出かけた。
あれ以来、ぼくの欠かせぬ友達になったあのチビ公を釣れて(チビって名をつけたけれど、もうたくましい成犬で、ふざけてじゃれついてはぼくを押し倒すくらいになっていた)。
チビ公、爺さんにすっかりなついてて、いつも真っ先に駆けてって、小屋の前に腰を下ろしている爺さんにじゃれついて遊んでいるんだが。
その日は、ぼくがおやつの黒パンをほおばりながら水車小屋まで駆けてった時、外には爺さんお姿は見えなかった。
どうしたのかなと思って、小屋の内に入っていくと、チビ公が急に悲しげに花を鳴らし始めた。
爺さん、ベッドのそばにひざまずいて、お祈りしているようだった。ぼくが声かけても、身動きしないので不思議に思って近づくと、爺さん・・・死んでた。
両手を組み合わせ、目を閉じて、その口元には、柔和な笑みさえたたえていた。
血の気の引いた青白い頬の色は、爺さんの顔をかえって気高くして見せた。
ぼくはちっとも恐ろしくはなかった。
ただ、とっても悲しかった。
もう、これっきり爺さんに会えないのだ、ということがわかりきるまでには、時間がかかった。
爺さんお葬式は、次の日ひっそりと行われた。
激しく雨が降りしきる中を、爺さんのひつぎはゆっくりと運ばれた。
むらの、大人達は、それを見送りはしなかったが、 子どもたちはみんな、その後をついて歩いた。びしょ濡れの服にかまわず、ひつぎを乗せた車を、黙々と押した。
村が見渡せる丘の上に、小さな白い十字架が立てられると、本当にもうこれっきりなのだと、初めて僕らは泣いた。ニールスも泣いた。
碑には、僕らの手によってこう刻まれるべきだった。
「勇気ある聖人ジーベル=カルロスここに眠る」

今日は、所用があって、日課の散歩は未遂。従って、本日撮影の画像はなし。
苦し紛れに探し出したこの写真は、6年前に天寿を全うした老犬チロが、まだ若犬だった頃のスナップ。
最近一子をもうけた二男が、まだこんなに幼かった。
 
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第10回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第10回目。


郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

 
 連載第10回

それから十数年が経った。
わしはヘンニィルを町の大学にやろうとした、どんなに貧乏してもヘンニィルには、好きな学問をやらせたかった。
しかし、ヘンニィルはそれを断った。
ヘンニィルは――馬鹿なヤツだ――わしのことを思って、ふふふ・・・、町の工場で働きたいとぬかしやがった。
わしに苦労をかけたくないからって、
「それに、学校なんか出なくっても、ぼくは立派に生きられる。神をあざわらうことなんか決してしやしない。」
とぬかしやがって、ヤツは本当に町に働きに出た。
そして月々決まって幾ばくかの銭を仕送ってくれた。
そして何年かの後、
「結婚もして子供もできたから、どうか父さんも町へいらっして下さい.一緒に暮らしたいと思っています」という便りが届いた。
わしはそれは会いたいとは思ったが、この町を離れる気は毛頭ないことを告げた。
実際こんなに暮らし良い村は他にはない。
小鳥のさえずりと小川のせせらぎ、それに可愛い素直な子供達。ねえ、ぽうや。爺さんは君たちから離れたくはないんだよ。・・・
そんなわけでヘンニィルとは、もう何十年も会っていない。けれどもきっと、平和に暮らしているだろうと思っている。

そう言って、爺さんのお話は終わった。
寂しいけれどすがすがしい笑い声が、爺さんの小屋に響いた。
外はもう、すっかり暗くなっていた。
ぼくを家まで送ってくれる爺さんの顔、月明かりでとっても気高く見えた。

夢に見るイエス様に、どこか似ていた。・・・

 


日記がわりに始めたこのブログだが、 几帳面な管理ができないので、用意した画像がいつ何処での撮影だったかをすぐに忘れてします。

ま してや、その時の機材の記憶は、すぐに曖昧になる。exifで確かめれば?というご意見はもっともだが、オールドマニュアルレンズや、リアコンバーターを 多用しているとmEXIFに記録が残ってくれない。なので、このブログ記事として記録しておけるといいかなと、最初の内は目論んでいたが.いまや画餅と帰 してしまった。

最近、メインで使っているXPパソコンの動きが怪しいので、HDDのプロパティをのぞいて みたら、残り容量がヤバイ状態。この中古パソコンは、PENTITIUM4,2.66gというスペックのビジネスパソコンOS付きを、1万数千円で買い、 memoryを、1Gの増設、HDDを40Gという非力な者を思い切って1テラに載せ替えたので、世代遅れの中古パソコンながら、有り余るスペックるス ペックという思いで使ってきたのだが、何年分も画像ファイルをため込むと、どんな大きな器も埋まってしまうということか?

ここ何日かかけて、久しぶりにファイルの整理整頓と、デフラグなるものをやって、少し持ち直した感じだが、その過程で色々なことを痛感した。

その第一は、デジカメ画像は、撮影日を即時に確かめことができるのは有り難いことだが、オールドレンズを多用すると、レンズ情報、露出データなんかが残らないので、それに関する記憶の欠落とともに、自己の過去も剥離・欠落していくような心細さにとらわれる。

そのようなわけで、できるだけこまめにメモしておくのがいいかなと思ったりしてみる。もちろん、三日坊主に終わるのだろうが。

 

 一昨日(12月12日)、龍ノ口グリーンシャワー公園の入り口あたりを散歩した時に撮影した、楓(フウ)や楓(カエデ)、ナンキンハゼなどの紅葉と落葉。

 

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olympuse420 レンズはもう忘れた。
たぶん、ズイコーデジタル 35mm F3.5 Macro+リアコン EC-14
 
 
 
 
 これは12月9日に半田山植物園を散歩した時に、群れて登場してきたエナガ。
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群れて遊ぶツグミ
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カメラはPENTAX k52s +smc pentax da55-300
 
 
 
 
 
これは今日の昼頃。家の近くの小川の前で。
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これも家の近くの電線に止まるムクドリ。
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OLYMPUS E420+ ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm
 
 
今日は保育園年長組の孫の、生活発表会(音楽発表会)。劇と、歌と、演奏。「千の風になって」ほかを堂々と演奏し、お礼の挨拶なんかもいっちょまえです。
もう「幼児」の域を越えつつあるのが、頼もしいやら寂しいやら。目頭を押さえている観客もちらほらありました。
くどいようですが、この子らの目を鬱ぎ、口を封じるような国家秘密が跋扈する時代はご免蒙りたいもの。
北朝鮮の無法に心が冷える思いをし、マンデラの勝ち取った自由の尊さ、ありがたさを世界中が噛みしめている時だけに。

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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第9回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第9回目。

 


 

郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出

 連載第9回

くもった眼鏡をはずして、袖口で何度もこすりながら、話をつづけた。
「わしはそれから、何も忘れた人間のように、何もなくした人間のように、何日間も何もしないで、暮らした。
わしは、泣くことも笑うことも、怒ることも忘れてしまっていた。
わしは死のうと思った。一日中銃を見つめていたこともあった。しかし死ねなかった。
ヘンニィルのことを思い出した。ヘンニィルは神父さまの所へ預けてあった。わしが引き取りに言った時、 ヘンニィルは遠くからわしを見つけて飛びついてきた。わしは生きねばならぬと思い始めた。わしは生きることができそうな気がしてきた。
そしてその日、わしは神父さまにわしの罪をざんげした。神父さまは、何度もうなずいて聞いていらしたが、わしが話し終わるのを待って、こうおっしゃった。
「あなたは生きなければなりません。あなたの罪はあなたを苦しめるでしょう。しかし逃げてはいけません。あなたが、今、私に打ち明けて下さった数々の哀しい出来事は、あなたのせいではなかったかも知れません。確かに、世界中が狂っていたのです。狂った群狼の前の一人の人間に何ができたかとおっしゃるかも知れません。
しかし、あなたは、怠ってはいなかったでしょうか。あなたは一体何をなさいましたか。あなたは、諦観と自虐をして、あなたの理性を慰めさせようとなさいました。
あなたは、戦おうとはなさいませんでした。そればかりか、あなたは、自分の弱さを恥じて死のうとなさったという・・・。あなたは、逃げてはいけません。もうこれ以上逃げてはいけません。あなたは生きなければなりません。苦しくても、――――苦しいに違いないのですが、――――生きなければなりません。
幸い、あなたには、ヘンニィルという可愛いお子さんがある。ヘンニィルのためにも、あなたは強くおなりなさい。
神のため、つまりはあなた自身のために戦える人間におなりなさい、
神を愛する人間、つまりあなた自身を愛せる人間におなりなさい。
神に愛される人間、つまりあなた自身に愛される人間におなりなさい。
逃げてはいけません。まして、自分の弱さに甘えてはなりません。」
わしは生きようと思った。
ヘンニィルを立派に育てようと思った。
ヘンニィルには、強くなってほしいと思った。
より敬虔で、自分自身に忠実な人間になって欲しいと思った。
わしのようには、なって欲しくはなかった。
戦さの光景を思い出すたびに、わしは   その残虐性を知らぬふりをしていた自分を、そして、そのうえ、その残虐な狂人になりきってすましていた自分を憎悪した。
H村での、行為を思い出すたびに、わしは身震いを禁じ得なかった。
あの村人達のことを思うと、わしは生きていることを苦しいと思った。生きることはこんなにも辛いと思った。
しかし、逃げてはいけないんだ。負けてはいけないんだと、言い聞かせた、ヘンニィルのために生きよう。いや、ヘンニィルのためにわしは強い人間になろう。ヘンニィルが、己の親父を世間に恥じなくてもいいように、わしはより善く生きよう。
わしは、地主さまの小作人として働いた。貧乏したが幸福だと思った。ヘンニィルはすくすくと育った。
ヘンニィルは優しい少年だった。
いつもわしのことを思ってくれた。わしはヘンニィルを誇りに思った。わしの唯一の生きがいでもあった。


寒さがつのります。

 

これは、寒風に舞うミサゴ。一昨日の撮影です。

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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第8回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第8回目。


郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出                            

連載第8回


しばらく続いた銃声がふとやんだ時、わしは見つけた。村の入り口の道に立ちすくんでいる少年の姿を。
彼は、そこまで駆けてきたための、耳のあたりを激しく打つ脈拍と、ゼイゼイという息切れを忘れたかのように、息を殺して、しばし呆然と立ち尽くしていた。
そしてしばらくその状態でいた後、彼のひざは、力を失ってへなへなとくずれた。
彼は、左手の4本の指を強く噛みしめて、嗚咽の漏れるのをこらえた。
黒っぽい緑色をした涙が、ほゝを伝い、乾いた地面にぽとぽとと落ちた。
そしてついに、こらえかねて、彼はしゃくり上げながらつぶやいた。
「あくま・・・」
一発の銃声が響いた後、また陰険な静寂が訪れた。
倒れ伏す少年の胸に抱えられていた包みから転がり出たものを見て、わしらは全てを悟った。
《この少年は、ただ町の市場まで、食物を買い入れに降りていたにすぎないのだ。しかも、わしらをもてなすための食糧を仕入れるために。そんな早朝から。一里もある町まで。》
わしらは、自分らで巻き起こした悪夢を忘れるために、頭をかゝえて転げ回った。
ガンガンと自分の頭をなぐって、嗚咽した。
終戦の知らせは、その包みの中に、少年が気をきかせて買ってきた新聞によってもたらされた。
わしらは何を呪っていいのかもわからないまま、その村を去った。
少年より少し遅れて村に帰った老僕は、涙を流さずに一つの大きな穴を掘った。
狂気の終焉を知らせながら、大きな真っ赤な太陽が西の空に沈んだ。」

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爺さんは、そこで話をやめて歯を食いしばり、何度も十字を切った。
「アーメン。許し給え。どうか、許し給え。」
そして爺さん目を上げて、今度は全く抑揚のない調子で、また続きを語り始めた。
「わしらが、自分の国へ帰り着いたのは、そしてわしがこの村へ帰ってきたのは、それから一週間の後だった。
わしの家は焼けて、跡形もなかった。
わしの妻は、一人息子のヘンニィルを残して死んでいた。何も何も、戦争のせいなんだ。
はっはっは・・・、馬鹿な男は、自分の女房や子供を守るために戦争に行った。敵を殺し、味方を死なせ、罪のない人々までも殺し、幾度も死にかけてようやく生き永らえて帰って来たら、愛する者は死んでいた。」
爺さんそう言って、むりやり笑おうとしたがだめだった。
眼鏡の奥の、愛嬌のある小さな目が、なんどもしばたたくのを、ぼくは見つけた。

つづく

 


独身時代、妻に読ませたら、この場面が変に印象に残ったと言っていた。今で言う「トラウマ」みたいな影響を与えたらしい。
「郷愁という名のメルヘン」というかわいらしい標題にそぐわぬ残酷場面と言うことになる。「看板に偽りあり」、偽装表示も甚だしい。
こどもたちに平和を愛する心を育てるには、子どもたち自身が、平和で穏やかな環境のもとで健やかに育てられるよう、心を砕くべきだという。優しく、柔らかで、美しいものや思いやりの心に囲まれて、温かくヒューマンな情操を育てることが、肝要だという。
その意味では、残虐な犯罪や猟奇的な事件が毎日のように報道され、一方では希望を失って自死する人の数が記録を更新しつづける、こんな殺伐とした世相に、慣れっこになって欲しくはない。
だからといって、「はだしのゲン」の描写が残酷だからと、図書館から撤収して子どもたちの目から遠ざけるという「教育的配慮」は、まったくナンセンスだろう。歴史の中で、現に人間が為した「悪魔的行為」を、未来において繰り返しも繰り返されもせぬためには、事実を正確に知り、冷厳に受け止めることは、決定的に必要であるはずだ。
私の作品の殺戮場面は、もちろん「歴史の事実」というわけではなく、あくまでも想像に基づく創作である。ただ、その着想のきっかけには、「ソンミ村事件」があったと、今ふり返ってみて思い至る。「カリー中尉」ほか、当事者の証言によって、この虐殺事件が明るみに出たのだが、さしずめ「特定秘密法」なんかでは、国家の威信を傷つける秘密みたいなことになって、話した兵隊さんも、報道機関も、関係省庁の役人も、みんな罰せられるんじゃないかと心配なんですが。


 

 



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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第7回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第7回目。

 

 


 

郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出

連載第7回木下 透

 


その時だった。
わしらの仲間のうちに、何か緊張したざわめきが起こった。
例の下僕と少年がいないというのだ。
わしらの背に一様に戦慄が走った、
怖れていた一つの言葉が脳裡を過ぎった。『密告!』
わしらは気が狂ったようにわめいた。
「ヤツをどうした、じじいをどうした。」
村人達は、ただオロオロするばかりだった。
わしらはまるで、手負いの獣そのままだった。
わしらはたしかに気が狂っていた。わしらの頭の中は、意味のない恐れのために、正常ではあり得なくなっていた。
《それは、あり得ないことではない。そうだ。たしかに、ここは敵地なのだ。そして奴らは敵国民なのだ。敵の部隊がこの近くに潜んでいないととは、誰に言えよう。おれ達は戦っているのだ。おれ達はいつでも敵と向かい合っているのだ。》
わしらは、銃を持ち出してわめき散らした。
「じじいとガキをどうした。おまえ達、だましたな。さあ言え、おまえ達の仲間はどこだ。おまえ達を守ってくれる勇敢な軍隊は、どこまできているんだ。さあ言え、この山も向こうか。それとも、隣の村までか。」
そう叫んで、仲間の一人が銃を発射した。
それまで呆然としてわしらのことを見ていた村人達は、散り散りに家にの中に逃げ込んだ。そして、がっしりとした体格の若者が、わしらに飛びかかってきた。
わしらは続けざまに発砲した。銃弾は彼らの胸を、頭部を、脚を、貫いた。
わしらは口々にわけのわからぬことをわめき散らし口からはよだれを垂らし、目は血走り、脚は小刻みに震え、小水を漏らしながら、撃ちまくった。
逃げ惑う村人達を、一人残らず狙い撃ちにした。
わしの手の傷に、自分の手拭いで包帯をしてくれた、あの娘の死体を踏みつけながら、次の獲物を狙った。
よろめいて転んだ老婆をも、容赦なく撃ち殺した。
倒れている母に取りすがって泣きじゃくる子供達を、台尻でなぐり殺した。


昨日は、岡山市半田山植物園を散歩してみました。
紅葉は、少し時期を過ぎていましたが、色々な花が咲いていました。ひときわあでやかなのは、色とりどりの薔薇の花。
それぞれに立派な品種名を戴いて、誇らかに咲き匂っておりました。品種名表示をメモして帰れば良かったと悔やまれます。
 
花ごとに名さへゆかしき冬の薔薇
 
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温室のハイビスカス
 
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ここにも、水仙が咲いています。
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スモークツリー
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これは?サンシュユ
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第6回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第6回目。

 


 

郷愁という名のメルヘン

カルロス爺さんの思い出 

木下 透

連載第6回

その夜、ぼくはまた爺さん家(ち)を訪ねた。
爺さんはこんな話をしてくれた。例のゆりいすに背をもたせ、つま先で床をとん、とんと鳴らしながら。
「これは少し難しい話だが、わかるだろうねえ。ぼうやも、もう大きいんだから。」
そう前置きして、それはそれは真剣な目つきでぼくの目を見入って、語り始めた。
「坊や、知っているだろうかな。Hという小さな村を。そう。前にも話したことがあったけかな。
国境をへだててこの村から十里ほども離れた、山奥の本当に小さな村じゃ。
わしらが疲れ果ててその村に着いたのは、もう夜になってからだった。
今でもよく覚えているが、その日は、雨あがりの月が、こうこうと地上を照らしておった。森のかしやひいらぎや、緑の濃さを増した木々の若葉が風に揺れて、何かこう神秘的に輝いていたっけ。
わしらは、飢えと渇きで、もうくたくただった。その村の灯りを見た時は、ほんとうにほっとしたものだった。そして、しかし同時に、ここは敵地で、村に住んでいるのは敵国民なのだと言うことを思いだし、再びキリキリと神経質に身構えねばならなかった。
 しかし、わしらは、これ以上戦う気力はなかった。とにかくわしらは疲れ、弱り切っていた。脚や手、顔面の傷口から流れ出た血が、衣類、そで口にこびりついて固まり、そしてまた、その下から新しい血がにじみ出ていた。
三日前のたたかいは壮絶だった。わしらの仲間達はばたばたと倒れた。
立ち上がって「進め」の号令をかけた隊長が、頭を打ち抜かれて倒れた。
銃の台尻で、わしのあごをなぐったことのある軍曹が、わしの隣でもんどりうって倒れた。
わしと仲のよかった炊事兵が、腕を吹き飛ばされてうめいている。
十八歳の少年兵が、母親の名を呼ばずに死んだ。
騎馬の兵が、馬をかばって撃たれた。馬も流れ弾に当たって死んだ。
いつも陽気だった二等兵が、そいつはわしと同じ部屋で寝起きしたこともあったが、「オレはまだ死にたくない。」と言って死んだ。
「戦争は嫌いだ」というのが口癖だった若い士官が、故郷の妹を思いながら死んだ。
耳をつんざく爆発音、皮膚の焦げる異様なにおいが、細かい埃に混ざって口の中に入りこむ。とびしきる血が乾いた砂にどす黒く染みこむ。
戦いが終わった時、わしら二百人もいた部隊のうち、生き残った者は、実にわずかだった。
とにかく、わしは生き残った。そしてそれから三日間、わしらは歩き続けた。何のためでもなく、ただ、生きるために、わしらは歩いた。わしらが、兵士という名を得て以来、上官の命令なくして為した、唯一の行為だった。一つの、巨大な、狂った機械の一部分が、初めて人間になろうとして、歩いた。死ぬために戦地に送られたわしらが、生きるために、歩いた・・・・。
そしてようやく、この小さな村にたどり着いたのだった、途中でまた、三人が死んだ。 けがをして歩けなかった五人は見捨てた。
生き永らえたのは、わずか十人足らずだった。
わしらが銃をかまえて、その実びくびくしながら、村に入り込んだのを見つけたのは、四、五人の村の子供たちだった。
おびえて、門戸のかげにかくれている村人達の間から、村長らしい男が、二三人の若者を従えて現れた。
言葉はどうやら通じた。
彼らはかなり友好的だった。
村人達もしだいに警戒を和らげて、わしらに近づいて来た。彼らは素朴で、人なつっこい笑顔さえ浮かべていた。
実際、この村までは、戦争は及んでいないらしかった。
この山奥の、住民が三十人もいない小さな村には、何かその時のわしらには不似合いな平和が漂っていた。
彼らは、その夜の宿と、食事を約束した。
わしらは一軒の百姓家に案内された。
村長の妹だという女と、二人の子供、それに年老いた下僕が、そこにはいた。
十六歳の姉は、長いまつげと美しい瞳をもっていた。
十四歳の弟は、こわいもの知らずの、しかしもの寂しい、少年期特有のきびしさを、その横顔に秘めていた。
母は、小ぶとりの善良な百姓女だった。夫を最近失ったのだという。
下僕は、白髪の、やせた、しかし何かしら威厳をたたえた朴訥さを感じさせる老人だった。彼らは、わしらを、賓客のようにもてなしてくれた。
けがの手当をしてくれる少女の長い髪が、わしらの手に、ほゝに触れる時、わしらは、忘れていた郷愁を感じずにはいられなかった。
わしらは、久しぶりに安らげた。
そして、その落ち着いた、なごやかな雰囲気は、わしらを涙ぐませさえした。
わしらは、戦のことを、その不本意な暴力のことを、しばし忘れてさえいた。
その夜、わしらは、久しぶりにぐっすり眠った。
そして、目覚めた時、庭先の木々には小鳥がさえずり、透明な風が、快くうなじをくすぐった。

つづく


 昨夜の晩餐
長女が、婿殿が漁師さんからいただいたのでお裾分けだと言って、山盛りのエビ・カニを届けてくれました。
孫達親子も呼んで、総勢八人で、ごちそうになりました。贅沢な話ですが、一晩では食べ切れませんでした。
 
瀬戸内海産ガラエビ。
もちろん、偽装表示ではありません。 
ぷりっぷりで、身がたっぷり入っています。

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ワタリガニ。
ガザミとも言います。
 塩茹でして下さっています。
このまま殻を剥がして、濃厚な身とカニ味噌を食べる醍醐味に、孫達も大はしゃぎでした。
濃いオレンジ色の卵も、絶品でした。
鍋の具にもたっぷり使い、 今朝も残りの汁でカニ雑炊に。

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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第5回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第5回目。


 郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出
木下 透

  連載第5回
と、その時だった。とてつもない大声が、あたりにひびきわたった。
「こら、おまえたち。なにをやっとる。コラ!!」
カルロス爺さんだった。ぼくは、こんなに怒った爺さんを見るのは初めてだった。爺さんは、今まで一度だって怒りを顔にあらわしたことはなかった。そんな爺さんが、これほどものすごいけんまくで――――。
いたずらっ子達は一瞬たじろいで、二,三歩後ずさったが、なまいきなニールスが、口をとがらせて横柄にこういった。
「おい、爺さん、オレにそんなこと言っていいのかい。とおさんに言いつけるぜ。水車小屋の貧乏じじい、だまって引っこんでなよ。」
爺さんはしきりに首を振り、手を振って、
「いやいや、坊さま。たしかにわしは、地主さまにはお世話になっておりますだ。地主さまのためなら、何でもしますじゃ。じゃが、これとそれとは話が別じゃ。坊さま。あんたは今、何てことをなさろうとしているか、おわかりですか。何てことを、なさっているか、おわかりですかな。あんたは、あんたの一時の気まぐれから、一つの、小さいけれど、大切な生命を、奪おうとしてなさるんですよ。我らが主の生みたもうた生命を・・・。どんな小さな生命も、どんなに弱い生命も、強い者の身勝手やわがままで、もてあそんでいいもんですかい。それをあんたのお父さまは、お許しになりますかい?否、たとえお許しになったとしても、わしが許しませんぞ。我らが主が、決してそれをお許しにはなりませんぞ。」
奴らは、口々に悪態をつきながらも、爺さんのけんまくに押されて逃げ去った。
取り残されたぼくは、安堵とともに、こみ上げてくるくやしさに、爺さんの胸にすがりついて泣いた。
爺さんは、優しくぼくの髪の毛をなでながらこう言った。
「ぼうや、こんなことで泣いちゃいけないよ。男は戦わずに泣いちゃいけないんじゃよ、ぼうや。どんなに手ごわい敵でも、とてもかないっこないような敵でも、それがほんとの敵であることがはっきりしたなら、男は戦わなきゃならないよ。負けてもいいんだ、負けたら泣いてもいいんだ。けれど、戦わずに泣いちゃいけない。坊やが戦わねばならないのは、主をけがす敵、それに坊や自身をけがす敵――ぼうや自身をだめにしてしまう敵。わかったね。」
ぼくは、爺さんの胸でしゃくり上げながらうなずいた。たくましい爺さんの胸と腕。ほのかなきざみタバコの匂い――爺さんの匂い。
爺さんは、ぼくの髪の毛にほおずりをしながら、「アッハッハ」って笑った。
ぼくも一緒に、とめどなく溢れてくる涙をこすり上げながら、「あっはっは」って笑った。
幼年期から少年期へ移ろうとしていたぼくの、こまっしゃくれた、大人びた(恥ずべき))打算――地主と水車番、地主の息子と小作人のせがれの関係といった、大人にはつきものだと考えられた思惑――は吹き飛んだ。そして、日曜ごとに教会で教わる神というものへの不信に比して、爺さんの神は、もっともっと身近にあって、それでいてもっともっと高尚で本質的な愛に満ちていた。

 
つづく
 

ジェンダーフリーの発想がまだ一般的でなかった頃なので、
「男は戦わずに泣いちゃいけないんじゃよ」
「どんなに手ごわい敵でも、とてもかないっこないような敵でも、それがほんとの敵であることがはっきりしたなら、男は戦わなきゃならないよ。 」
と、「男の子」へのメッセージというか、自負の表明になっています。
より正しくは、「人間(human)は」と書かれるべきだったでしょうが。
 
 
今日の鳥。
またまた、かいつぶり。今日は大きく写せました。
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ミサゴが上空を輪を描いて舞っていました。
たくさん写しましたが、手ぶれがひどくて、マシなのはこれくらい。
いつの間二か、遠ざかってしまい、採餌の瞬間は目撃できませんでした。
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セキレイ
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ホオジロ?
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バン
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アオサギ
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追伸
今朝は朝刊を見て、落胆した。
「秘密保護法」が昨日深夜に、参議院本会議で強行採決された由。知らずに寝てましたのでね。
「特定秘密法」審議の過程で、安倍さんが繰り返していた「知る権利も大切だが、知られたくない権利もある。」という強弁が、のどに刺さった小骨のように気障りで仕方がなかったことは、以前のブログに書いた。
これは要するに、「国家=為政者には国民に知られたくない権利があり、それは国民の知る権利に優越する」という意味だと気づくまで、うかつにも時間がかかったのだった。でも、今度の強行採決の経過を見届けるまでは、まだまだ、安倍さんの「政治家としての成熟」みたいなものを期待していた。要するに「あまちゃん(文字通り、甘ちゃん)」だった。
安倍さん(たち)の特異なスタンスには、まだ続きがあった。いわく、国家=為政者には、国民の意見を「聞かない権利」、民意の動向を「知りたくない権利」、それでも盾つく国民の声や行動を「テロ」呼ばわりして抑えつける権利がある――。
こんな封建君主も臆するような発想を、主権在民を高らかに謳った日本国憲法下の指導者が、まさか、本気で考えるようなことがあろうなどと、想像することさえ憚られたのは、まさに「あまちゃん」。イマジネーションの不足というものだった。
でも、確か、公務員には憲法遵守義務が定められていたはず。ほらほら、憲法第九十九条にはこうあるではないか。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
あ、そうか、これに違反していることが、肩身が狭いせいで、憲法そのものを自分好みに変えようとしてるのかな?
そう言えば、安倍さん政治姿勢は、お父さんの安倍晋太郎サンよりも、お祖父さんの岸信介サンに似ているというのがもっぱらの噂。第一次内閣の挫折から、少しバランス感覚を身につけたかという世間の期待もあったようだが、参院選圧勝に浮かれて、ついつい地金があらわれたってことか。
お祖父さんの岸信介サンと言えば、戦前、東条内閣の閣僚として日米開戦の詔勅に署名し、戦後A級戦犯として戦争責任を裁かれた人。その後、アメリカの対日政策の大転換により、見事に復活し、「自主憲法制定」「自主軍備確立」などを掲げる「日本再建連盟」を率いて政界に復帰し、石橋内閣を継いで首相に。国論を二分した「日米安保条約」の改訂強行、警察官職務執行法(警職法)の策動、教職員への勤務評定導入など、治安強化と思想統制を特徴とする「ハードポリティクス」を基調に「逆コース」の担い手として君臨し、その後の保守政治に暗然たる影響力を行使した。その足跡は、CIAとの深い関係(資金提供を含む)、黒い金脈、児玉誉士夫・統一教会など右翼勢力との密接なつながりなど、どす黒い汚れにまみれている。
 この岸信介さんを、「敬愛する祖父」とたたえる安倍さんに、いささかでも「主権在民」と「恒久平和」を基軸とする憲法的世界観を求めることは浅はかだった。
「聞きたくない」と思っても、聞かずにいられないほどに、国民の声を圧倒的に大きくしなければならないということか。
 

 
 
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第4回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第4回目。


郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出  
連載第4回
「ぼくら仲良しだね。ぼくら友だちなのかい?ねえ、おまえ。ぼくんちへおいで。」
そう言って子犬を両手で抱き上げた時だった。ぼくはいやな奴の来るのを見つけた。
いたずらっこのニールスだ。そう、地主の息子で、この辺のガキ大将のあのいやなヤツ。
ぼくより三つ四つ年上で、そばかすだらけの顔には、もう一人前に濃いひげがうぶ毛にとってかわろうとしていた。そして、言葉つきも、ぼくらとはかけ離れて大人っぽくて、ぼくらをふるえあがらせたあいつが、いつもの仲間たち五、六人とやってくるのだった。
ぼくは真底彼らをきらいだった。おそろしかった。彼らはどんないたずらも平気でやった。すごく残酷な――大人たちでも尻ごみするような――行為を平気でした。
たとえば、カマキリに竹串を差し込んで火あぶりにしたり、カエルの腹に火薬を詰め込んで爆発させたり、皮をはいだヘビを生きうめにしたり。――それら善良な小動物のもだえ苦しむのを見るのが、彼らのとっておきの楽しみであるかのようだった。
そのニールス達が、棒っ切れやムチを振り回しながら、いたずらの種をさがしにやってきたのだった、
ぼくはとまどった。とっさに逃げだそうと考えた。両手に抱いていた子犬を、胸におし当てて、背をかがめて逃げようとした。
「おい待てよ
ニールスの仲間の一人が叫んだ。
「おい、何をかくしているんだい。」
「みせろよ。おい」
「おれ達からにげるのかい?」
彼らは、ぼくを取り囲んで、口々にそう言った。ぼくはふるえながら顔を赤くして、泣き声でつぶやいた。
「いえ・・・なにも・・・かくしちゃいません・・・・ぼく・・・。」
「おい、その手に持っているもの、オレタチに見せなよ。さああ。」
ぼくはうつむいて、しきりにしきりに首を横に振った。
「いやだっていうのか。おい、オレタチの言うことを聞けないって。いつからおまえ、そんなにエラクなったんだ?オイ、チビ。」
仲間の一人が、ぼくから子犬を奪い去った。
ぼくは手向かいもできないで、ただ泣きふした。
奴ら、手に持っていた荒縄で、子犬の首をしばり、そこらを引き回した。
子犬はうなりながら、あるいは悲鳴を上げながら抵抗したが、それを彼らは、容赦なくけとばした。
ぼくは何もできず、ただ泣いているだけだった。
「おねがい。ぼくの・・・ぼくの子犬を・・・。」泣きじゃくりながら、そうくり返すだけだった。
ぼくは、奴らの非情さと、それ以上にぼくのだらしなさに腹を立てて泣きじゃくるのだった。
つづく

 昨日の夕日を写しました。
連載第1回の掲載写真に追加してみて下さい。
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今日は、またまた後楽園を散歩しました。今日は、妻も一緒でした。
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猫もくつろぐ昼さがり
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 抹茶を一服
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紅葉も、盛りは過ぎていますが、まだ鮮やかです。
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岡山城(烏城)と紅葉
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岡山城(烏城)と鴨
 
 
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今日の鳥 岡山後楽園にて撮影。
まずは、カルガモ
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コガモ
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オナガガモ
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舟の上のアオサギ
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カイツブリ
 
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シジュウカラ
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 エナガ
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サザンカも花盛り。この色は珍しい?
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地元新聞に後楽園では今年の水仙が咲いているというニュースがありました。
確かに咲いていました。連載第2回の画像として追加してみて下さい。
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第3回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第3回目。


郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出
木下透

連載第3回

嶺の雪も溶けて、ぼくらの村にも春が訪れた。
村の小学校での、うんざりする長い授業が終わると、子どもたちは一斉に校門を飛び出した。
さわやかなそよ風が、萌えいずる若草の目をゆるがす。
子供たちの栗色のうぶ毛をゆるがす。
柔らかに額にまといつく髪の毛をゆるがす。
ガタガタ揺れるランドセルと、額を流れる快い汗を楽しみながら、ぼくは、爺さんの小屋まで一目散にかけてゆく。ぼくらの小学校からほんの二百メートルばかりの所にある水車小屋が爺さんの家だ。
小川の土手には、つくしんぼやたんぽぽがそおっと顔を出している。
あんなに固く閉ざしていたネコヤナギや野いばらが、柔らかに芽ぶいていて、それを見つけた少年に、素直で新鮮な驚きに目を見張らせたのだった。
そっと芽を出した芝草に腰を下ろして、健康な早春の生気に酔いしれている時、ボクの右手を何かがくすぐった。
振り向くとそこには、一匹の子犬が――――ほんとに小っちゃくて、そう、ぼくの両てのひらに楽に隠れそうな大きさだったが、それでいて丸々太ってて、黒いまん丸い瞳が利口そうにキラキラしてる――――その短いしっぽをピンと垂直に立てて、しきりに左右にふっていた。
「あれ、おまえがぼくの手をなめたの?」
子犬は首をかしいでぼくを見上げてる・
猜疑を知らぬ無邪気な眼差しが、たまらなく可愛い。
「おまえ、捨てられたのかい?」
四つんばいになってのぞきこんでそう言ったぼくの顔に、ひんやり湿った鼻づらをくっつけてきた、
「ねえ。おまえ。ぼくを好きなの?」
ぼくはなんだかうれしくて、そこら中を駆け回った。
子犬はどこまでもぼくについてきた。小走りに、転げるように、それでも一所けんめい。


今年の春に撮影した、野の花の写真です。

まず、たんぽぽ

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オオイヌノフグリ
 
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ナズナとホトケノザ
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菜の花
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菜の花と桜
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ネコヤナギ
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(追加)今日の夕日と夕焼け 
 
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 木下透 連載 第2回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第2回目。


 

郷愁という名のメルヘン 

カルロス爺さんの思い出

木下透

連載 第2回 

爺さんの手、しわだらけでごつごつしているけど、とってもやさしいんだ。そしてとっても器用なんだ。爺さんなんでも自分で作るんだ。爺さん家(ち)のいすも、ベッドもテーブルも。みんな自分で作ったんだ。
自分で作ったひじかけいすに腰かけて、パイプでたばこをくゆらせながら、爺さんぼくらにお話してくれるんだ。
ぼくらの知らない海や山や、遠い遠い国のお話。ぼくら、胸をときめかせて、じっとそれを聞いてる。
ひじかけいすに腰かけて、脚組んで、とんとん、とんとん、と、つま先で床を鳴らすのが爺さんの癖。

爺さん、時々自慢のスープをごちそうしてくれるんだ。
冬の、雪の降ってる夜だって、部屋の中は暖炉で暖かくて。そして爺さん、こんなお話聞かせてくれた。・・・それは、幼い胸をときめかせる懐かしいメルヘン。

「この村を流れている小川.それをずんずん上っていくと--------------そう、十日も二十日も歩いてやっと行くつけるところに --------------ちいさな森があってのう。昔々、そうわしらのじいさんのそのまたじいさんもまだ生まれていないころ、その森の奥の泉のそばに一人の美しい少年が住んでおった。
泉の水はこんこんと一年中湧き出ておった。真冬にも凍らず、夏になっても枯れないきれいな水が湧き出ておった。
少年はたいそう楽しく暮らしておった。」
森の小鳥や動物たちと・・・・」


ぼく、あったかくて、ついうとうとと眠り込んでしまってた。それでも爺さん、話をやめないで、独り言のように、子守歌のように、・・・つぶやいている。
「優しい心の少年は、泉に映る自分の影に恋をした。美しいナルシスは、・・・」

つづく

 


ナルシスについては、「コトバンク」に次のような解説があります

 

ナルキッソス【Narkissos】 

ギリシア伝説の美少年。その名は〈水仙〉の意。フランス語ではナルシスNarcisse。多くの乙女やニンフのエコーたちから求愛されたが,そのすべてをすげなくしりぞけた。これを恨んだひとりが,彼も恋の苦しみを味わうようにと復讐の女神ネメシスに祈ると,ナルキッソスは泉に映った自分の姿に恋し,想いが満たされぬまま,やつれはてて水仙の花に化したという。ローマ詩人オウィディウスの《転身物語》で有名なこの話は,中世には,うぬぼれを待ちうける運命の教訓として用いられた。―――世界大百科事典 第2版の解説

ナルシスの生まれ変わりとされる水仙

花言葉は
「うぬぼれ」「自己愛」「エゴイズム」
(日本水仙)「自己愛」
(白)「神秘」「尊重」
(黄)「私のもとへ帰って」「愛に応えて」
(ラッパズイセン)「尊敬」「心づかい」 

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今年の2月の撮影です。

 
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第1回 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今日掲載するのは、高3の時の作品だ。

門閥(封建)制度は親の敵(かたき)でござる」と、福沢諭吉は言ったそうだが、「受験制度は親の敵(かたき)でござる」と言いたい思いが私にはある。私の親が受験制度によって被害を受けたわけではないが、私にとっては、恨み重なるにっくき仇と思えたのだ。

当時、「受験戦争」という言葉はすでに存在していて、「四当五落」(睡眠時間を四時間にして勉強に専念すれば合格するが、五時間得ると失敗する)などというス

「スポ根」まがいの檄言がまことしやかに喧伝されていた。

自己の存在の全てのものに超越して、「受験」なるものが君臨し、それへの無条件の隷従が求められる生活。拒みながらも拒みきれない不本意さ。

一方、東大安田講堂事件を頂点とする「大学紛争」の風は、地方の寒村にもかすかに伝わってきてはいた。社会的政治的諸課題とともに、「大学解体」というテーゼも、高校生の情緒を揺さぶり不安定にさせるに十分だった。

そんな中で「自分探し」「自分づくり」にあえぎつつ、かなりの時間を費やして原稿用紙に向かったのは、確かに逃避であり、ある種の防衛規制でもあったろう。

折しも、国語の宿題で、「小説を書け」と命じた人があった。このブログで過去にも話題にした、敬愛する恩師故U先生だ。いわば「自由課題」で、強制的なものではなかったが、今なら、高三の「受験生」にこんな要求をすることは、「無謀」のそしりを免れまい。しかし、高三といえば、「自分探し・自分づくり」の仕上げにかかる時期でもあって、そんなとき、この課題は、「表現」を通して自己と世界(外界)への「認識」を深めるという、有効で得難い体験だったと思う。


郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出
木下透
連載第1回
 

   君、覚えているかい水車小屋のカルロス爺さん。いろんなお話聞かせてくれた、あのジーベルカルロス爺さんだよ。
  ぼくらが、かくれおにをしていると、一緒になって遊んでくれた・・・大きな身体を丸っこく小っちゃくさせて、リンゴだるの後ろに隠れてたっけ。ぼくら、爺さんのかげに小っちゃくなってしゃがんでるんだ。だから、いつでも一番先に爺さんがめっかるんだ。
  爺さんったら、めっかると「アッハッハ」って笑うんだ。歯のない口を大っきく開けてさ。「アッハッハハハハ」て笑うんだ。
  ぼくらも一緒に笑ったさ。大っきな声で。
  空がほんとに高いんだ。あおくってさ。 西の方がちょっぴり夕焼けてるんだ。
  草の上に寝っ転がると、ひんやりしてさ。誰かが言ったっけ。「秋だねえっ」て。ぼくら、ほんとにそう思ったんだよ。「秋だな・・・。」
丘のポプラの葉っぱも黄色くなってたし、土手の草にだって、森のかえでにだって、もう緑はなくなっているんだ。
汗が冷えると、ちょっぴり寂しくなってしまって、そいで、もいちど笑ったんだ。「アッハッハハハ」って。爺さんも一緒にさ。
妙にしんみり悲しくなった僕らの上を、カラスが鳴いて飛んでった。
山は紅く紅く夕焼けていた。

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爺さん本当に子供が好きなんだね。
僕ら、いたずらして爺さんの眼鏡を隠した時も、爺さん柱におでこぶつけて、たんこぶこさえてたけれど、少しもぼくらをしかりはしなかった。やっぱり「アッハッハ」って笑うんだ.歯の欠けた大きな口あけて。

村の大人は、爺さんのことばかにするけど、それえも、ぼくらは、みんな爺さんのこと好きさ。
貧乏なカルロス爺さん、文字も満足に読めないカルロス爺さん。けれど好きさ。


爺さんの作ってくれた呼子笛。青くてつやつやしている竹を、小刀で器用に削って、爺さんが作ってくれた呼子笛。鳴らすと「ピーピロピピ」と柔らかい音がして、小鳥がいっぱい集まってくる。
爺さん巣箱を作るのも上手だから、爺さん家(ち)のまわりにはたくさん小鳥が集まるのさ。
ホオジロだってムクドリだってツグミだって・・・。ぼくらが近寄っても逃げはしないんだ。
爺さんの優しい心は、小鳥にだってわかるんだねって、ぼくらいつも感心してる。村の悪童もいたずらっ子も、爺さんといるとおとなしいんだ。はじめっから、優しい善良な少年であったかのように。(そして、きっとそうなんだ。)

最近のムクドリ
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去年のホオジロ
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ツグミ
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シジュウカラ
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以下、今日の小鳥 たち。
エナガ
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ヤマガラ
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ジョウビタキのオス
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ジョウビタキのメス
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キジバト
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メジロ
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戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前”   木下透 [木下透の作品]

お恥ずかしいことです。あとで校正をするつもりで、下書き保存したはずが、公開してしまっていたのです。

改めて、完成版をUPします。


このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

今日掲載するのは、高3の時の作品だ。黒表紙の活字版の冊子ではなく、ガリ刷りホチキス止めの手作り冊子に掲載した。この冊子は経年とともに劣化し、何度もの引っ越しのうちに汚損し、ページが散逸しており、最近はしばらく行方不明になっていたが、今朝の捜索で発見された。

「失せもの探しの人生」で、悲嘆すること常であるのだが、今日は朝から気分がいい。

ただ、苦労してこの作品を探したのは、安倍さんの「秘密法」ごり押しが腹に据えかねたせいだ。

第一次安倍内閣が、ご本人の健康問題により中途で投げ出した格好になったことを、厳しく批判する声もあったなかで、私などは、ほぼ同世代のものとして

多少同情とともに見てきて、また健康回復されたことはご同慶の至りと、本心から思ったのだったが、政権獲得後の仕事の中身はいただけない。

忘れかけていたけれど、そもそも第一次安倍内閣は、

「美しい国づくり内閣」

「創りあげたい日本がある。 美しい国、日本。」

「戦後レジームからの脱却」

「改革実行力」などの勇ましいスローガンを繰り返し、

「防衛庁設置法」等の改訂で防衛庁を防衛省に格上げし、

「国民投票法 」の新設で、憲法改定手続きを具体的に定め、

「憲法の理想の実現は教育の力にまつ」とされた1947年版の「教育基本法」を変質させ、

「学校教育法」「教育職員免許法」「教育公務員法」「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」など一連の法改定により、教職員への締め付け(お上のいいなりになる教員づくり)を根幹に置く「教育改革」を進めてきた。学校現場を多忙と混乱に追い立てている「免許更新」制度も、彼の思いつきからごり押しされたんだっけ。

 これをもとに鈍い頭で考えてみるに、「戦後レジームからの脱却」って、つまり、戦前に戻るって事なんじゃないの?

高校時代の私は、これがホントに現実になるなどと考えたわけではないが(甘かった!)、世の中が「戦前」に進もうとしているような素朴な直感から、こんな詩を作った。

佐藤栄作内閣時代で、 「もはや戦後は終わった」などの発言があった時代だ。高校生の私は、戦後がおわったのならば、次に来るのは「戦後後」で、その先は次の戦争に向かう「戦前」ではないか?と不安を感じたのだった。それが今、まもなく現実になる!なんてことがないように祈りたいものだ。


戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前”     木下 透

(1)

てんのうへいかさまは まずしいものを ごらんになって おあわれみになり きんすを おほどこしに なりました。
いやしいみぶんの ものどもは みんな なみだをながして よろこびました。
てんのうへいかさまの みよが ながく つづきますようにと いのりました。みんな、みんな。

(2)


てんのうへいかさまは ぜんせかいのにんげんが へいわにくらせるようにと せんそうを おはじめになりました。
にっぽんは しんこくですから かならずかつのですと こうちょうせんせいが おしゃいました。
こくみんは みんな よろこんで へいたいに なりました。
おくにのために だれもだれも よろこんで しにました。
てんのうへいかばんざい、 だいにっぽんていこくばんざい。
あじあのみんなが さかえますように。

(3)


てんのうへいかさまは にんげんで あらせられました。
にっぽんこくは へいわを ちかいました。
こくみんは だれもだれも よろこんで なきました。
ちちや ははや こどもを なくしたこくみんも よろこんで なきました。
たべものがなくて ひもじくても よろこんで なきました。
にっぽんこくは へいわを ちかいました。てんのうへいかさまは にんげんで あらせられました。

こくみんは じゆうと びょうどうと それぞれのけんりを ほしょうされました。
あめりかは にっぽんこくの ゆうじんとなりました。
あめりかも にっぽんこくも たがいにさかえますように こくみんは いのりました。
にっぽんこくは さかえました。
こくみんは ゆうふくに なりました。
しょとくは ばいぞう されました。
いっかに いちだい てれびが あります。
まちまちに ぬうどげきじょうと ぱちんこやが たてられました。
(となりのおくにが ちいさくみえます)
こくみんは たのしく くらしました。
にっぽんこくは へいわです。
にっぽんこくは こくみんの あんぜんを まもるために ぼうえいたいを つくりました。
こくみんの あんぜんは ほしょうされました。

すいがいや かさいのさいには なんにんものひとびとが たすけられました。

こくみんは ないて よろこびました
にっぽんこくは へいわです。

こくみんは じゆうです。

(5)

こくみんの だいひょうのひとりは むねをはって いいました。
ひとりびとりが くにをまもるいしきを みにつけよう。
こどもたちは むねを ときめかせました。
ほんとうに じぶんたちが ほんものの てっぽうをもって くにをまもることを ゆめみて よろこびました。

 


手元の印刷物は、すり切れ汚損していて、ここまでがやっと解読できた。

 

この先の記述があったかどうか、記憶も曖昧だし、原稿も散逸しているので、確かめるすべはない。

この作品を書いてから、40年以上が経過した。

その間に、事態はどう変化しただろうか?

付け加えるべき記述は、ごまんとありそうだ。

が、それを書き入れたとしても、「戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前”」の、スパイラルから、いまだ脱し得ていないことは、残念ながら否定できないのではないか?

最後の”戦前”に抹消線を施して「恒久平和」と書き入れる事ができるよう、 人類の理性と英知の方向へ、心を合わせたい。

岡山後楽園のカルガモからのメッセージ。「この世に生を受けたものたちの上に、真の平和が永遠に続きますように。」

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 オナガガモも平和が好きと言っています
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ヒドリガモも、仲良く生きたいと言っています。
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