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今日のこれなあに? [今日の「これなあに」?]

ここ何日かの散歩中に見かけた「これなあに?」特集。
庭で見つけた琥珀色に輝く宝玉?
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妻は、にべもなく、カメムシの卵だと言います。確かに家庭菜園は、いつもカメムシ被害に悩まされます。

このイトトンボの不思議な姿勢。2匹が合体しているの?
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どうも、共食いのようです。カマキリのように、交尾後の雌が雄を食うのだとか。母体の栄養のためとはいえ、くわばらくわばら。
益々美しいイトトンボ嬢でした。
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このクリーム色の花は?
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茎や葉は、どう見ても大豆です。散歩道には畦豆や枝豆がよく植えられていて、白い花や淡い青色の花はよく見かけますが、この色の花もあるのですね。



これは、黄色い花火?火山の噴火?
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岡山市半田山植物園では、マツバボタンが花盛りでした。

鮮やかな色彩の装いに陶酔気味の「ドヤ顔」?。
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頭隠して何とやら。君だあれ?
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いえ、怪しい者ではありません。ボク、とかげですが、なにか?
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今度はもっと [雑話]

フォークグループ「赤い鳥」は、70年代初めに活躍し、印象深い楽曲をたくさん残しています。
後にグループは、「紙ふうせん」、「ハイ・ファイ・セット」、「ハミング・バード」等に分かれますが、「赤い鳥」時代の作品は、今も心に響きます。
「翼をください」 今 私の願い事が叶うならば 翼が欲しい
竹田の子守唄  守もいやがる盆から先にゃ  雪もちらつくし子も泣くし
赤い花 白い花  赤い花つんであの人にあげよ あの人の髪にこの花さしてあげよ
など、自然にメロディが浮かんできます。

その「赤い鳥」に「紙風船」という曲があります。詩人黒田三郎の、同名の詩をもとに、グループの後藤悦次郎氏が曲をつけたものだそうです。

「紙風船」   黒田三郎

落ちてきたら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
美しい
願いごとのように

私が定時制高校の教員だった頃、相方と一緒に発行していた学級通信のタイトルを「今度はもっと」と名付けたことがありました。
当時、私の長男は、高校で不登校の長いトンネルにさまよい、担任のクラスにも、不登校やその他の事情から、休学・中退・転校などを経験して、高校生活のやり直しをはかろうとしている生徒も、少なからずいました。「今度はもっと」は、人生、何度でもやり直しがきくというメッセージのつもりでした。もちろん、「今度は/もっと高く/もっともっと高く/何度でも/打ち上げよう」と続く思いを込めたのです。

今日は、保育園に通う孫が、地域の催しで、鼓隊の演奏を頑張りました。大勢の見物客には親子連れの姿も多く、色とりどりの風船が配られていました。
その風船たちが、糸がするりと手から滑りはなれたのか、いくつも空に舞い上がっていました。
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一番下の孫は、昨日は熱を出して寝込んでいたのに、今日は留守番をいやがって、せがんで見物についてきていましたが、めざとく天高く舞う風船を見つけて、指さしながら「おおい、風船さん。どこいくの?」と呼びかけていました。
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かなり湿気があり、気温も高い一日でしたが、空の色は、確かに秋でした。
黒田三郎氏には、こんな詩もあります。

ある日ある時  黒田三郎

秋の空が青く美しいという
ただそれだけで
何かしらいいことがありそうな気のする
そんなときはないか
空高く噴き上げては
むなしく地に落ちる噴水の水も
わびしく梢をはなれる一枚の落葉さえ
何かしら喜びに踊っているように見える
そんなときが


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ガガブタは咲いていた [折々散歩]

昨日(9/12)の地元紙「山陽新聞」に、総社市「鬼の城」近辺を案内する記事があり、「ガガブタ」の花が写真入りで紹介されていました。
わたしは、先日来、咲いている「ガガブタ」の撮影に失敗しているので、開花時刻のせいかと見当を付け、今日は昼間をめがけてリベンジを狙ってみました。
すると!見事に咲いていました。最近続いた強い雨のせいで、葉や茎が傷んでいたり、水面が高すぎて花弁が水におぼれかかったりはしていますが、まずは撮影成功。今年のガガブタ撮影作戦は、これにて終了とします。
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さて、今日は、午前中、孫の通う保育園の「祖父母お招き会」。孫が二人保育園に通っていますので、じじばばが手分けして参加する必要があります。「誰と一緒に行く?」と聞くと、二人とも「ばあば」といいます。しゃくですが、なだめすかして、上の男の子につきあってもらう事にしました。
最初、2クラスある五歳児たちが一部屋に集まっていました。ほぼ同数のじじばばも、いっしょです。この年齢のこどもたちが、「群れ」の状態で、50人も寄ると、すさまじい勝手放題。目が回りそうになり、エネルギーを吸い取られそうです。
年齢のせいか、時代のせいか、「みんなで遊ぶ」という状況は、見られません。せいぜい、2~3人が、同じおもちゃをやりとりして遊ぶだけ。ほとんど一人遊びの累乗の世界です。
良寛和尚に「世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる」という歌があるということを、以前、M先生に教わって、共感を覚えていました。「我はまされる」は、「我は楽しき」とも伝わっているようです。
「世の中に まじらぬとには あらねども」が、たいそう高いハードルであるようです。

大いなる混沌さなか、保育士の先生が、ピーッと笛を吹くと、急にしーんと静寂が訪れます。「あじさい組さん」 と声を掛けると、子供らがみんなで「はーい」とお返事をします。「お山座り!」「お母さん座り!」「お姉さん座り!」「お父さん座り!」などの合図に従って、子どもたちは、膝を組みかえます。「手は膝に!」の合図で、姿勢を正し、保育士さんを注視します。
これを見ながら、色々な単語が、私の脳裡を駆け巡りました。
「群れと集団の違いは?」
「集団には共通の目的がある」
「集団にはリーダーがいる」
「集団には規律がある」
「みんなで決めてみんなで守る」
「教師が最初のリーダー」
「従わない自由」
「嫌なときには嫌と言おう」
「無規律か統制か自治か」
「自由と放縦は違う」

半ば義務感で参加したのですが、楽しい企画でした。孫も、はじけて、楽しんでおりました。孫の友達からも声を掛けられました。

今日の散歩で出会った虫たちをご覧下さい。
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これは、昨日見たリンドウ
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絶滅危惧種のミズアオイ
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辺見氏の記事にあれこれ思う朝 [時事]

この記事読み落としていました。
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1309070012/
2004年脳出血、2005年大腸癌と、二重の災厄を受け止めながら書かれた『自分自身への審問』が確か2006年の刊行。
最近、当時とは別の感慨を持って(より我が身に引き寄せて)読み返しています。
初読は、私の脳血管手術前の時期でしたが、病気の進行を直視したくない心理からか、できるだけ想像力・共感力を抑制しながら読みました。また、逆に手術後は、あまりに状況がシンクロしすぎて、もう一度読むだけの気力も体力ももてませんでした。
いま、脳血管病の上に、癌まで得たという点で(程度としては私の方が遙かに軽度ですが)ある意味、「同病者の気安さ」で読める気がして。
実は、闘病後の氏の活動、活躍については全くwatchingしていませんでした。ですから、詩集『生首』で第16回中原中也賞(2011年)、詩集『眼の海』で第42回高見順賞(2012年)を続けて受賞されたのをはじめ、旺盛な執筆活動、社会的発言をされていることを、知りませんでした。汗顔!

辺見庸さんについて、いつか書いた記憶があったので、探ってみると、しばらく更新していない私のホームページ(http://www006.upp.so-net.ne.jp/yamfam/)に、ベトナムへの旅の経験談を書き、その「あと書き」にこんな文章を添えていました。少し長いけれど、引用します。

また、シンガーソングライターで、枯れ葉剤の被害児を支援する運動にもとりみ続けている横井久美子さんのホームページに、次のような記事がありました。

■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート   横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間
昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。

(中略)

ここで話題となっている「戦車は動けない」は横井さんの持ち歌で、1970年代、米軍相模原からベトナムへの戦車輸送をストップさせた市民の抵抗を歌ったもの。
1.戦車は動けない
  このまちの橋をわたって
  銃口をベトナムに
  子どもらをねらいうつ
   戦争は通さない
   戦車は動けない

2.戦車は動けない
  このまちの夜をゆさぶり
  血のにおいをキャタピラに
  ベトナムをねらいうつ
   戦争は通さない
   戦車は動けない

3.戦車は動けない
  この国の若者たちは
  恋人をひきさいて
  平和をねらいうつ
   戦争は通さない
   戦車は動けない
    戦争は通さない
    戦車は動けない


元共同通信ハノイ特派員だった作家辺見庸氏の「いまここに或ることの恥」に次の記述があるのは、確かこの運動にふれたものだと思います。
ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)

氏は、つづけて、今日のイラク状況や、日本の海外自衛隊派遣・軍事行動の拡大が、あまりにも抵抗なくやすやすとすすめられていて国民がそれを見過ごしていることに大きな危機感といらだちを表明しています。脳梗塞とガンという、二重の厄災に突如見舞われながらの氏の発言は、痛切に私たちに響きます。

今日の写真は、解放後、ベトナムに置き去りにされ、観光客のために展示されている米軍戦車。
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これにカメラを向けながら、その砲撃によって逃げ惑い、死傷したであろうベトナムの老若男女の恐怖と悲惨を思うとともに、遠く故郷を離れて、灼熱地獄のもとでこれを操っていたアメリカの若者の運命についても、思いをはせないわけにはいきませんでした。数十年の年月を経て、なお「美しく」存在を主張しているこの鋼鉄の固まりに、目が吸い寄せられてしばしその場を離れられませんでしした。
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子も虫も無心に遊ぶ秋うらら [家族]

一日遅れの日記を書くのは、むかしながらの習性みたいなもの。
昨日は、散歩がてら自転車で、久しぶりに畑へ。いま、植えている作物は、サツマイモだけ。日照り続きで焼け枯れていた蔓や葉が、この間の雨により回復して元気です。その代わり、雑草も激しい繁茂ぶり。覚悟していたとはいうものの、さすがにげんなり。少々草を抜いて、すごすご引き上げました。
時間をおいて、今度は鍬や鎌の用意をして車で出かけます。真夏日復活だそうで、さすがに、汗は出ますが、一時に比べれば、しのげます。
小動物たちも、心なしか心地よさげな秋の日射しでした。
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それはいいんですけど、マクロレンズを装着しているOLYMPUSE420が、コンクリート床に落下。よくよく不運な子です。今度は、レンズは無事そうですが、本体が!液晶が表示しなくなったようです。
芋の葉陰からのぞくバッタは、液晶の見えないE420で写しました。写るんですけどね、情報の表示が一切見えないので、不安です。仕方がないので、お蔵入りしてたE410を、引っ張り出してきて使ってみることにしました。
テントウムシは、pentax x-5というコンパクトカメラ(図体は、あまりコンパクトではありません)で撮りました。ここまで写るのなら、重い一眼レフを持ち歩かなくても、、、と思ってしまいます。ただ、シャッターのタイミングにタイムラグがあって、フラストレーションは残ります。
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夕方は、ママとパパがそれぞれ用事があって、孫たちとしばらく公園であそびました。というより、思い思いに遊ぶ孫たちを見ているだけでくたびれました。家遊び専門の現代っ子ながら、さすがにエネルギーがすごい。
女の子は、先週、原因がはっきりしない高熱で入院し、退院したばかりなのに、大はしゃぎ。いい季候になりました。
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記憶の中のチリクーデター 「パブロ・ネルーダ プレセンテ」 [今日の暦]

昨日の記事の書き残しです。
「失語症」という診断名をもらっているわけではありませんが、言葉が浮かんできません。また、思考がしばしば途切れます。加齢のせいか、脳血管手術のささやかな影響か?いずれにせよ、自分の身体環境につきあうしかありません。
昔、尊敬するY先生が、退職前後に、「最近言葉が思い出せないことが多い。Uさん(これも敬愛する我が恩師)も、まず名詞を忘れ、今では形容詞や動詞さえ思い出せないことがある、と言っているが、まさにそのとおり」と述懐されていたことがありました、読書家で緻密な理論家だったY先生でさえそうか、と半分驚き、半分安心した覚えがあります。自分がその年齢になると、いやはや、これはなかなかの新境地。中島敦の『名人伝』(弓の名人が、修行の末、弓矢なしに獲物を射る境地に達し、さらについには、弓矢というものの存在自体を名前もろとも忘れてしまう)もかくや、と笑ってばかりもいられません。
関連事項を芋づる式にたどったり、あいうえお順に言葉を当ててみたりして、ようやく思い出せることもあります。「アハ体験というのが大事だそうですよ」と、保健室のY嬢がいたわってくださったのも、数年前です。
いまでは、そのアハ体験もまれで、外部記憶をひもとくか、安直にネット検索でカンニングする機会が増えたせいか、余計に記憶回路が鈍磨してきているようです。
昨日の記事を書きつつ、ここまでぼんやり浮かびかけているのにはっきり形を成さない言葉がありました。それが、深夜、ふと 浮かんできたのです。
「パブロ・ネルーダ プレセンテ」
ネルーダの葬儀に際して、彼の死を悼む群衆が口々に叫んだという言葉。確か、こんなフレーズだったよな。
と、苦しいときのネット頼みで、検索してみますと、やった!ヒットしました。これは久々のアハ体験でした。
「タップ ―― 平和をめざす翻訳者たち」(TUP: Translators United for Peace)という方々の掲示板であるようです。無断で引用させていただきます。


『もうひとつの9・11
1973年軍事クーデターに死す――パブロに告別を』
――アリエル・ドルフマン
ワシントン・ポスト 2003年9月26日特別寄稿

(前略)
彼はガンで倒れたが、悲しみも死因のひとつだった。ネルーダが共産党員とし
て生涯を賭け、求めてやまなかった社会正義と経済的主権を軍が根こそぎにし
てしまった。デモクラシーに反逆した『もうひとつの9・11』――1973
年9月11日のクーデターを悔やみ、サルバドール・アジェンデの死を嘆き、
一斉検挙、拷問、処刑された数多くの友人・同胞を悼み――彼にとって、すべ
てが余りものことだった。
(訳注: クーデター直後、ネルーダの主治医も逮捕され、彼自身、寝台車で搬
送される途中に検問・拘束、訊問され、病院へ辿り着いた時には、すでに危篤状
態だったという)

1936年の共和制スペインの街路に流れる血を糾弾し、世界全体に向けてそ
の血を見よと訴え、息も詰まるような恐怖の雰囲気を、ネルーダ自身がしばし
ば詩に描写していたが、その同じ血が、彼の平和な国チリで流され、住民すべ
てが侵され、沈黙させられようとしていた。
(訳注: 訳者前書きに紹介するサイトに掲載の詩『そのわけを話そう』参照。
ドルフマンによれば、初期のネルーダの詩作スタンスは形而上学的だったが、
スペイン内乱体験が詩に政治メッセージを帯びさせる転機になった)

私がネルーダの最期の儀式に近寄らなかったのは、ネルーダが書いたような恐
怖が遠ざけたからだ。クーデター勃発を受けて、逃亡し、隠れていて、国を離
れ、生き延びる方策を探していた私は、兵士たちと政府のスパイに監視されて、
ノロノロ進むに違いない葬列に加わるのは、愚の骨頂であると自らに言い聞か
せていたのである。

私以外の何千ものチリ人たちは、おそらく私以上に絶望し、たしかに無鉄砲で
あり、間違いなく勇敢であって、権力に反抗し、恐怖を克服すると決意してい
たのだ。30年前のあの日、人びとはサンチャゴ市街全域から共同墓地に集ま
った。

後になって私の友人たちが語ってくれた……最初のうちこそ、押し黙り、侘び
しい群集にすぎなかったが、やがて奥の方から、「コムパヘロ(同志)パブロ・ネ
ルーダ!」と、ひとつの声があがった。すると、プレセンテ!――『ここにい
るぞ!』と、何百もの声が雷鳴のように応えた。チリで最も高名な詩人、ラテ
ンアメリカで一番の人気作家、20世紀だけではなく、時を超えて、希有な声
を持つ、この人へのこの忠誠の誓いを前にして、近くに控えていた軍隊は、ど
うしてよいのかも分からず、なす術もなかった。

続いて、「コムパヘロ・サルバドール・アジェンデ!」と、前と同じバリトンの
声が鳴り響き、2週間前に名を伏せたまま埋葬された亡き大統領は今も生きてい
る、褒め称えよと訴えた。ふたたび、プレセンテ!――『ここにいるぞ!』と
大声が応えた……ビノチェット独裁の17年間、自らの夢の死をおおっぴらに
悼むこともはばかれ、禁じられることになる者たちの叫びだった。
(後略)

「コムパヘロ・パブロ・ネルーダ! プレセント!」  同志パブロネルーダはここにいるぞ!
「コムパヘロ・サルバドール・アジェンデ! プレセント!」  同志サルバドールアジェンデはここにいるぞ!
私の中に、私たち民衆の中に。

確かにこの場面は当時の報道でも伝えられ、人々の声々がアンデスの山にこだまする情景を想像して、当時二十歳の私は強く胸を揺さぶられたのでした。私は、これを稚拙な詩の形にして、新聞の文芸欄に投稿した記憶があります。もちろんボツでしたが、私の、生涯ただ一度の詩の投稿でした。
当時のことですから、原稿用紙に書いたものを送ってしまい、今では下書きも散逸していて、どんなものだったかも曖昧ですが、韓国の詩人キムジハ(金芝河)やら、日本のプロレタリア作家小林多喜二やらが、同時に登場してくるとりとめもない「作品」だったと思います。


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もうひとつの911 その2 [今日の暦]

チリクーデターを話題にしながら、書き落としていたことがあります。
孫三人を公園で遊ばせる約束の時間が迫って、急いで書き終えたせいで、肝心の話題に触れられませんでした。
五木寛之著『戒厳令の夜』に四人のパブロが登場します。
パブロ・ピカソ:20世紀を代表する、スペインの画家。
パブロ・ネルーダ:チリのノーベル賞詩人。
パブロ・カザルス:20世紀最大のチェリスト、指揮者、作曲家。
パブロ・ロペス:『戒厳令の夜』に登場する架空の人物。幻の画家。
この四人が、チリクーデターの起こった1993年に、相前後してなくなっているのです。
最後のパブロ・ロペスは別として、実在の三人のパブロは、いずれも、20世紀を代表する優れた芸術家であると同時に、一九三六年に始まるスペイン内乱で、フランコの独裁を目の当たりにし、ファシストの暴虐に前存在をかけて抵抗下という共通点を持ちます。フランコを支援するナチスによって犯された無差別空爆を、パリ万博スペイン館の壁画「ゲルニカ」によって告発したピカソ。スペイン内戦の勃発と同時にフランスに亡命し、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫き、ついに故国に帰ることなくプエルトリコで没したカザルス。
そして、詩人であり外交官として内戦時スペインに滞在したネルーダは、親交のあったスペインの詩人ガルシア・ロルカがフランコ軍事政権の下で暗殺されたことに強く抗議する詩「そのわけを話そう」で、「来て見てくれ 街街に流れてる この血を!」と、訴えます。

「そのわけを話そう」(パブロ・ネルーダ)

きみたちはたずねるだろう――リラの花はどこにある?
ひなげしに蔽われた形而上学は どこにある?
そして 隙間と小鳥たちの声にみちみちた
言葉の雨はどこにある?

わたしに何が起きたか それを話そう

わたしはマドリードの街に住んでいた
鐘楼があり 時計塔があり
たくさんの木があった

はるか遠くに
カスチリヤの乾いた顔が見えた
広漠とした 草の海のように!

わたしの家は
花の家と呼ばれ あたり一面に
ジェラニュームの花が咲きこぼれ
それは うつくしい家だった
たくさんの犬や子どもたちがいて

ラウールよ 思い出さないか?
思い出さないか ラファエロよ?
フェデリコよ 土の下で
思い出さないか? わたしの家のバルコンを――
あのバルコンで 6月の光が
きみの口の中の花々を絞め殺したのだ

兄弟よ 兄弟よ
あたりには
活気にみちた声が溢れていた
市場の広場には 塩が積まれ
焼きたてのパンの山があり
わがアルグエレスの市場には
蒼白いインキ壺のような銅像があり
油は スプーンのなかを流れ
街通りには 賑やかな足音や
手を鳴らす音が 溢れていた
生活のきびしい物差しであるメートルやリットルがあり
屋台には 魚がならび
冷たい陽の射す屋根やねのうえに
疲れた尖塔が そそり立ち
白く 燃えるように繊細に咲いた じゃがいも畑があり
トマト畑の波が 海までうねっていた

ある朝 そのすべてに火がついた
ある朝 まっ赤な火が
大地から吹き出して
すべてのものを なめつくした
そのときから 戦火が燃えあがり
そのときから 硝煙がたちこめ
そのときから 血が流れた

悪党どもは 飛行機にのり モール人をひき連れ
悪党どもは 指環をはめ 公爵夫人を連れ
悪党どもは 祝福をたれる黒衣の坊主どもを従え
悪党どもは 空の高みからやってきて 子どもたちを殺した
街じゅうに 子どもたちの血が
子どもの血として 素朴に流れた

山犬にさえ侮蔑される この山犬ども!
のどの渇いたあざみさえが噛みついても つばを吐きかける この石ども!
蝮にさえ嫌われる この蝮ども!

わたしは見た おまえらの前に
スペインの血が 沸き立ち 逆まき
誇りと匕首の波のなかに
おまえらを呑みこみ 溺らせるのを!
将軍どもよ
裏切者らよ!
よく見るがいい 崩れさったわたしの家を
よく見るがいい 傷だらけのスペインを
しかし 崩れさった家のひとつひとつから
花々のかわりに 熱く焼けた金属が咲き出るのだ
しかし スペインの傷口のひとつひとつから
スペインが立ちあがるのだ
しかし 死んだ子どものひとりひとりから
眼のある鉄砲が現われるのだ
しかし おまえらの犯罪のひとつひとつから
鉄砲の弾丸が生まれでて
それはいつか おまえらの心臓のありかをねらうのだ

きみたちは尋ねる――なぜ わたしの孫が
夢や木の葉をうたわないのか
故国の大きな火山を歌わないのか と

来て見てくれ 街街に流れてる血を
来て見てくれ
街街に流れてる血を
来て見てくれ 街街に流れてる
この血を!

ネルーダは、それ以降一貫して、ファシズムに反対し、人民戦線とスペイン共和国を支援します。1945年には上院議員に当選、同時にチリ共産党に入党しますが、1948年に共産党が非合法化、国外逃亡を余儀なくされます。1994年制作のイタリア映画「イル・ポスティーノ」(ポスティーノとはイタリア語で郵便配達人)は、郵便配達人マリオと、チリから亡命してきた詩人(この時期のネルーダがモデル)との友情がしみじみしと感動を呼ぶ(そうです。私、まだ見てません)。
1958年にチリ共産党は再び合法化され、1970年の大統領選挙では、共産党から大統領候補として指名されますが、社会党の候補者アジェンデを人民連合の統一候補として擁立するために辞退。アジェンデは当選して大統領となり、ネルーダは詩人としてノーベル文学賞を受賞します。
ネルーダはクーデター以前から癌に冒され、病の床についていましたが、この事件の衝撃は病状を悪化させます。
ネルーダの詩を日本に紹介してこられた一人である詩人の大島博光さんは、1974年3月5日付「赤旗」に『パブロネルーダの最後の数日』という一文を寄せておられます。
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「ネルーダの未亡人マチルデ夫人は、ネルーダの最後の数日について、ベネズエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。
『クーデターが起きて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。---病床にこそついていましたけれど、彼の病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。
わたしたちがサルヴァドール(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちに私を呼んで申しました。『パブロには何も知らせてはいけませんよ。病状がわるくなるかも知れませんから。』
パブロはベッドの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送がきけるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースが彼を死に追いやったのです。そうです、それが彼を殺したのです。」
マチルデ婦人は、アジェンデの死んだ翌日のことを次のように語っている。
「パブロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当をすることができなかったのです。主治医は逮捕されてしまい、助手の医師は、危険を冒してイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」
「こうして私たちは、医師の手当てをうけずに、孤立していました。数日が過ぎて、パブロの容態は悪化したのです。私は医師をよんで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです。』
中略
「五日目にかれをサンチアゴの病院に入院させるために、私は病人用の寝台車をよびました。車は途中で、検問にひっかかって取り調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです」
―乱暴でもおこなわれたのですか-
「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに座っていました。かれらは、わたしを車から引きずり下ろして、とりしらべ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいことでした。
わたしはかれらにいいました。『これはパブロネルーダです。重態なのです。どうか通して下さい。』まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パブロ・ネルーダは、二二時三〇分になくなったのです---」

ネルーダの死に関しては、最近毒殺の疑惑も浮上し、遺骨の鑑定が進められていると報道されています。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/644989/

病死・毒殺の真偽はさておき、こうして、1973年9月24日、ネルーダは69歳の生涯を終えたのです。二目後に行われた葬儀は、銃剣の監視下にもかかわらず盛大に行われ、参列者のあいだからは「インターナショナル」の歌ごえが湧きおこり、ピノチェト軍事独裁反対の最初の大デモンストレーションとなったといいます。
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もうひとつの911 [今日の暦]

今日、9月11日は、サルバドール・アジェンデ大統領の命日!です。1973年、あれからもう、40年になるのですね。

wikiの「チリクーデター」の記事から引用します。

東西冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。なおこれは、南アメリカにおいて自由選挙で社会主義政党が選ばれた初めての例であった。
しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト将軍らの軍部が軍事クーデターを起こした。
首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。
モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011年5月23日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表、これにより死亡の状況が明らかになると期待された。同年7月19日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された。
このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、冷戦の終結によりアメリカにとっても利用価値がなくなった軍事政権は1989年の国民投票により崩壊した。
なお、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。

ピノチェト率いるクーデター軍に包囲され、激しい銃撃を受けながら、アジェンデは勇敢に最後のラジオ演説を行います。私は、学生時代、この最後の演説が録音されたテープを手に入れ、銃声が響く中、毅然として国民に静かに訴えるアジェンデの肉声を心に刻みました。選挙で選ばれたアジェンデ人民連合政権は、当時の若者達にとって希望の灯台でしたが、初めて聞いた大統領の肉声が、最後の声とは、皮肉なことでした。
ユーチューブに「アジェンデ最後の演説日本語字幕つき」を見つけました。
http://www.youtube.com/watch?v=SG3f08LVwhE


歌手の横井久美子さんが「東京新聞本音のコラム」で、このチリクーデターについて触れておられます。
http://www.asahi-net.or.jp/~fg4k-yki/column/c_index.htm
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ちなみに横井久美子さんの近況は、こちら。
http://www.asahi-net.or.jp/~fg4k-yki/

横井さんのコラムにもあるように、ピノチェトは、クーデターによって政権を奪取し、1974年~1990年の長きにわたって大統領を続けますが、その間、富裕層とアメリカの利益に偏した「新自由主義」政策の結果、1975年に4.3%だった失業率が80年代平均では22.5%に上昇、貧富の差も急激に拡大し、貧困率はアジェンデ政権下の2倍の40%に達したほか、深刻なインフレが進行するなどにより国民の支持を失い、1989年末の大統領選・議会選で敗北し辞任に追い込まれます。1989年、病気療養のために渡英しますが、そこで「人道への罪」で逮捕されます。詳細は「知恵蔵2013の解説」から。

1973年にクーデターで政権を握り90年まで軍政を続けたチリのピノチェト将軍は、反政府派の市民を虐殺した責任を問われて英国で逮捕され、チリに帰国後の2001年、誘拐罪と殺人罪で起訴され自宅軟禁された。クーデターのさいの弾圧で約4000人が軍によって虐殺され約1万人が拷問され、4万人以上が政治犯として収容され、約100万人が国外追放や亡命した。このうちピノチェトが起訴されたのは彼が軍幹部に指示して政治犯55人を銃殺させ、19人を行方不明とさせた「死のキャラバン事件」だ。起訴後にピノチェトの健康状態が問われ、裁判が停止されたり再開したりした。05年9月には最高裁がピノチェトの痴呆が進んでいるとして裁判の中止を決定した。一方で同年8月にはピノチェトが海外の秘密口座に巨額の資産を隠していたことが発覚し、脱税の疑いで妻子が逮捕された。06年、ピノチェトの死亡で裁判は終わった。( 伊藤千尋 朝日新聞記者 )

チリクーデターを想起するとき、アジェンデ大統領の悲劇とともに、罪なく逮捕、誘拐、監禁、拷問、虐殺された大勢のチリ人民の、痛ましい犠牲を忘れることはできません。その中の一人にフォルクローレ歌手・音楽家として名高いビクトルハラがいました。
詳しい記事がここにあります。ビクトルハラ特集 
http://www.geocities.jp/jarastkyj/

音楽にはほとんど縁のない私ですが、ビクトルハラの生前の演奏を収めた音楽テープを持っています。甘い、純朴なとも言える穏やかな歌声です。ギターを演奏する右手を切断されたあげく拷問・虐殺!を受けるほどに、憎しみの対象となるには、余りに不似合いで、「理不尽」の語が思われてなりません、もちろん、小林多喜二にしても、槇村浩にしても、暴虐を被るいわれはなく、等しく「理不尽」と言わなければ成りませんが。
ビクトルハラの代表作、「アマンダの思い出」がユーチューブにありました。
http://www.youtube.com/watch?v=qfESgtCTn1Q

「耕す者への祈り」です。
http://www.youtube.com/watch?v=U5PFx6DgwWs

私が覚えている日本語訳とは少し違いますが、こんな歌詞です。

「♪起き上がれ そして山をごらん
川の流れを魂の風を

起き上がれ そして両手をごらん
育ちゆき 君の兄弟たちの手を握るために
共に行こう 血の絆に結ばれ
今日が明日に繋がっていくんだ

僕らを貧困へと支配するものから解放しよう
正義と平等の王国を我らのもとへ

共に行こう 血の絆に結ばれ
今も そして僕らの死のときも
アーメン!アーメン!」

最後に、チリクーデターにまつわる最もよく知られた民衆の歌「ベンセレモス」(我々は勝利する)の歌詞がここにありました。
http://www.utagoekissa.com/bensere.html
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ウにサギに スズメにヒバリ フルヘッヘンド [折々散歩]

昨日の私の「労作」=自転車のパンク修理は、おおむね成功したらしく、今朝になってもタイヤの空気が抜けていません。密かに快哉を叫んだのでした。
こちらに比べると、月とすっぽん、雲泥の差/雲泥万里/鯨と鰯/霄壌の差/駿河の富士と一里塚/提灯に釣鐘/灯心に釣鐘/鍋蓋とすっぽん/箸に虹梁/瓢箪に釣鐘/雪と墨ですがね。
気をよくして、日課の朝の散歩は、自転車でひと走り。絶好の日和で、快適な有酸素運動になりました。
今日の出会いは、鳥たち。
まずは、先日も話題にしたゴイサギ。これは、幼鳥でしょうか?いわゆる「ホシゴイ」の呼び名にふさわしい、星の班紋がはっきり見えます。
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成鳥のオスの撮影が失敗続きですので、古い写真(3年ぐらい以前?)を貼っておきます。
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これは、鵜。鵜飼いの鵜は、ウミウを捕獲して訓練するそうですが、こちらはカワウ。貪欲な食性や、糞被害で,迷惑がられる存在ですが、その独特の肢体といい、鉤型のくちばしと言い、エメラルドグリーンの目といい、なかなかのクールガイです。
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何年か前、コロニーでにぎやかに談論中の姿を「激撮」したのを思い出しましたので、あわせて貼っておきます。
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次は?もちろん雀。厳めしい鉄の「オブジェ」の上で、ポーズをとっています。
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最後は???
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雀ではありません。雲雀です。ヒバリ。
麦が青々と広がる季節に、空高く歌いながら舞う姿は、この地方の風物詩です。
「美空ひばり」さんの芸名の名付け親については諸説あるそうですが、青く澄んで美しい空の高みで、高らかに歌うのが、ヒバリの真骨頂。
『万葉集』大伴家持の歌が、自然と連想されます。
うらうらに、照れる春日(はるひ)に、ひばり上がり、こころかなしも、ひとりし思へば
万葉集の編集に深く関わったとされる家持は、単純・素朴・直情的・雄渾・安定・壮大・男性的、「ますらをぶり」などと称される「万葉集」の歌風を超えていて、繊細・優美な境地を歌にとどめています。そのセンチメンタルなナイーブさは、古今集の時代をも飛び越えて、さらに先へ進んでいたかもしれないと、昔誰かと話した記憶があります。
この歌を彩る春愁は、青春の憂いでしょうか?それとも老年のそれでしょうか?若い頃は訳もなく前者だと確信し、今は後者かと疑っています。
ヒバリが似合うのは、春か初夏でしょうが、秋にも空高く舞う光景が見られます。
そのひばり。私の散歩道で、しょっちゅう出会います。田畑やあぜ道などで、虫でも捕らえて採餌しているのでしょうか。地味な色彩の鳥ですので、間近になるまでそれと気づかず、あわててカメラを構える頃には、もう逃げ出しています。
オスには、目立つトサカがあるのですが。さてこの写真の個体はどうでしょうか?幼鳥のようにも見えます。

「ピーチクパーチクひばりの子」というフレーズが、浮かんできました。続きはどうでしたっけ。「げんぱくなすびのいがいがどん」でしたね。
「げんぱく」は杉田玄白だろうと目星をつけていたのですが、「げんぱくなすび」とは?「いがいがどん」とは?謎です。

早速ネット検索してみると、熊本民謡の「おてもやん」の囃子ことばだと分かりました。
数ある参考サイトの内、この熊本国府高校のサイト

によると、歌詞は次の通り。

 おてもやん あんたこの頃嫁人りしたではないかいな
 嫁人りしたこたしたぱってん
 ご亭どんがぐしゃっぺだるけん まあだ盃ゃせんだった
 村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝(きも)入りどん
 あん人達のおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい
 川端町(かわばたまち)つぁんきゃあめぐろい
 春日ほうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃーで 花ざかり花ざかり
 ピーチクパーチクひばりの子 げんばくなすびのいがいがどん

さらに、続けて、
数ある熊本民謡中でも全国的にもよく知られた歌で、陽気なリズムとユーモアにあふれる歌詞で知られている。歌ができたのは幕末頃といわれ、当時は「熊本甚句」といって花柳界のお座敷歌として歌われていたとか。
 一説によると、三味線と踊りの師匠・永田イネのもとに稽古に通っていた女性をモデルとし、彼女の結婚に際して永田イネがつくったものといわれています。
 この外に、幕末の肥後勤王党が孝明天皇に捧げたしのび歌ではないかとの説もありますが、真偽のほどは定かではないようです。しかし、幕末のしのび唄というのも面白いと思いませんか。以前、しのび歌としての歌詞の解釈を聞いたことがあるのですが、「なるほど!」と相づちを打ちたくなる部分もあり、詳しく調べれば興味深いかも知れませんね。
と、コメントがあります。

また、へのこのリンクをたどると、標準語訳が試みられています。くだんの、「ピーチクパーチクひばりの子 げんばくなすびのいがいがどん」は、---春にさえずる雲雀の子のような浮かれっぱなしの男や野暮ったいイガグリ男たちは私の趣味ではないよ。「玄白なすび」とは蘭学者杉田玄白が広めた茄子---とありました。

杉田玄白というと「解体新書」(ターヘルアナトミア)ですか?小学校だったか中学校だったかの教科書で、「フルヘッヘンド」という言葉を翻訳する苦労を描いた文章を読んだ記憶がありました。そうそう、菊池寛の「蘭学事始」でしたね。
「青空文庫」から引用しておきます。
  
彼らは、眉、口、唇、耳、腹、股、踵などについている符号を、文章の中に探した。そして、眉、口、唇などの言葉を一つ一つ覚えていった。
 が、そうした単語だけはわかっても、前後の文句は、彼らの乏しい力では一向に解しかねた。一句一章を、春の長き一日、考えあかしても、彷彿として明らめられないことがしばしばあった。四人が、二日の間考えぬいて、やっと解いたのは「眉トハ目ノ上ニ生ジタル毛ナリ」という一句だったりした。四人は、そのたわいもない文句に哄笑しながらも、銘々嬉し涙が目のうちに滲んでくるのを感ぜずにはおられなかった。
 眉から目と下って鼻のところへ来たときに、四人は、鼻とはフルヘッヘンドせしものなりという一句に、突き当ってしまっていた。
 むろん、完全な辞書はなかった。ただ、良沢が、長崎から持ち帰った小冊に、フルヘッヘンドの訳注があった。それは、「木の枝を断ちたるあと、フルヘッヘンドをなし、庭を掃除すれば、その塵土聚(あつま)りて、フルヘッヘンドをなす」という文句だった。
 四人は、その訳注を、引き合しても、容易には解しかねた。
「フルヘッヘンド! フルヘッヘンド!」
 四人は、折々その言葉を口ずさみながら、巳の刻から申(さる)の刻まで考えぬいた。四人は目を見合せたまま、一語も交えずに考えぬいた。申の刻を過ぎた頃に、玄白が躍り上るようにして、その膝頭を叩いた。
「解(げ)せ申した。解(げ)せ申した。方々、かようでござる。木の枝を断ち申したるあと、癒え申せば堆(たか)くなるでござろう。塵土聚(あつま)れば、これも堆(たか)くなるでござろう。されば、鼻は面中にありて、堆起するものでござれば、フルヘッヘンドは、堆(たか)しということでござろうぞ」といった。
 四人は、手を打って欣びあった。玄白の目には涙が光った。彼の欣びは、連城の玉を獲(と)るよりも勝(まさ)っていた。

解体新書と言えば、吉村昭「冬の鷹」がありました。これは、前野良沢にスポットを当て杉田玄白、平賀源内の、三者三様の生き方が描かれていておもしろい。
良沢のことば、「人の死は、その人間がどのように生きたかをしめす結果だ。どのように死をむかえたかをみれば、その人間の生き方もわかる」一応メモしておきましょうか。
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今日の悪戦二連発 終わりよければ酒うまかるべし [趣味]

今日は抜けるような青空なので、朝の散歩も気持ちが弾みました。興に乗って写してきた物もあるのですが、部屋に閉じこもってパソコンに向かっているのがつらくて、まだ画像の確認もしていません。
不調なLAN環境を改善したくて、パソコンショップへ出かけてみました。ネット販売では、アンテナ付きの子機をリーズナブルな価格で発見したので 『買い物かご』に入れたのですが、ショップにあれば多少割高でも買って帰ろうかなと思った次第。でも、お目当ての商品は置いてありませんでした。
で、黙って引き下がろうかとも思ったのですが、ついつい誘惑に勝てず、300Mbpsを大きく謳う ELECOM Logitec LAN-W300N/USBKという商品を1.9K円余りで買っちゃいました。「ダブルアンテナ搭載で電波が粘り強く届く」との文字も目に飛び込んできました。
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ええい、ついでに、先日百均でUSB延長コードを買ったばかりなのに、「さびに強く信号劣化が少ないメッキピン」、「外部ノイズに強い2重シールド』、「ヨーロッパの有害物質規制RoHS指令に対応」などのキャッチコピーにひかれて、「ELECOM延長用USB2.0ケーブル」も買ってしまっていました。
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ほかにもコマゴマとした買い物をして、車を運転しながらの帰途、あまりに爽やかな快晴なので、久しぶりに自転車にでも乗ってみようかと思い立ち、物置の片隅からわが「愛車」を引っ張り出してみると、車体はホコリだらけサビだらけ。オマケに、前後ろとも、タイヤがぺちゃんこ。
思えば長いこと過酷な環境に放りっぱなしなので、虫ゴムが劣化したかな、などと重いつつ、一応空気を入れてみました。そこでふと思い出したのは、私の自転車のタイヤは「フレンチバルブ」という方式で、虫ゴムというものがないのでした。
適度に空気を入れてしばらく様子を見ていますと、なんと、前輪はまたまたペチャンコです。
これはパンクだろうと目星をつけて、修理をお願いするために、ご近所の自転車屋さんまで押して歩いたのですが、びっくり!シャッターが下りたままで、しかも店舗の看板が合った場所には何もない。しばらく通りかからないうちに、廃業されたのでしょうか?すごすごと引き返しました。
仕方がない、DIYで、パンク修理に挑戦しようか。高校生の頃なら、へっちゃらでやっていた作業でしたが、さすがに億劫で、何年もご無沙汰です。でも、子どたちが自転車通学をしていた頃は、緊急の処置のためにパンク修理のセットは用意してありました。
「パンクの友」--シュールなネーミングではありませんか?
目は薄いわ、手元は狂うわで、悪戦苦闘のうちに、いつか夕暮れが迫って参りました。一応終わらせて、タイヤを現状復帰させて、空気を入れておいてあります。さすがに今日は、「サイクリング」の気力は消失しましたので、明日晴れればのってみましょうか?明日の朝、起きてみたらペチャンコという事態もあり得ますから、過度な期待はしませんが---。
さて、もう一つの悪戦苦闘は、無線LAN子機の装着と、NET接続。
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逐一愚痴りながら報告したいところですが、ご退屈でしょう。結論。艱難辛苦の甲斐あって、先ほど見事開通いたしましたぞ!
2mのUSBケーブルの先にこの子機を装着し、置き場所をいろいろ考えてやることで、電波を強く感じる効果はあるようです。伝送スピードの体感は?まだ、インタネット接続を試してみているだけですが、ストレスがかなり減った感じです。パソコン間のデータファイル転送はどうか?ぼちぼち試して見ることにします。

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重陽の節句あれこれ。最後は酒の話。 [今日の暦]

今日は重陽(ちょうよう)の節句。
古代中国に始まる陰陽説では、万物を「陰」と「陽」とに区分し、静的・安定的なものを「陰」、能動的・活動的なものを「陽」とするそうです。
数字にも陰と陽があり、偶数は陰、奇数は陽とされます。「偶数」は安定していてそのままで完結しているが、「奇数」は二で割り切ることができず、常に変化し発展する性向を持つからだそうです。

中国では、その陽の数の内で最も大きい9が重なる9月9日を特別にめでたい日とし、菊の香りを移した菊酒を飲んでて邪気を払い長寿を祈る習慣がありました。中国では今もこの風習が生きているそうです。ただし、もっぱら新暦ではなく、農暦(旧暦)によるようですが。

日本には平安時代の初めに伝わり、菊の節句、菊の宴とも呼ばれて広がったそうで、『枕草子』にも「九月九日は、暁方より雨少し降りて、 菊の露もこちたく、覆いたる綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやされたる」と記載されています。

江戸時代に書かれた上田秋成の『雨月物語』にも、「菊花の約(きつかのちぎり)」という印象深い物語があります。
母とふたり暮らしの儒学者丈部左門と、行きずりの武士赤穴宗右衛門とは、病気看病の縁から心を通わせ、義兄弟の契りを結びます。菊の節句=九月九日に再会しようと約して、故郷出雲の国に向かった宗右衛門は、騒乱に巻き込まれて監禁され、約束の日になっても身動きができません。
宗右衛門は、親友との再会の約束を果たすため、「人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく」と、自刃して幽霊になって、もてなしの準備をして待ちかねていた丈部左門のもとを訪ねるのです。

古代中国では、重陽の節句には、家族が集まり高台に登って菊酒を飲んだと言います(「登高飲酒」)。髪には茱萸(カワハジカミ)をさしました。

その場面は、王維のこの七言絶句でおなじみでしょう。

九月九日憶山中兄弟 王維
獨在異郷為異客 
毎逢佳節倍思親   
遥知兄弟登高處  
遍挿茱萸少一人   

【書き下し】
九月九日山東の兄弟を憶ふ   王維
獨り異鄕に在りて異客と爲り
佳節に逢ふ毎にますます親(しん)を思ふ
遙かに知る兄弟高きに登る處
あまねく茱萸(しゅゆ)を插して一人(いちにん)を少(か)くを

【口語訳】
私はただ一人、旅人として異郷に暮らしている。
めでたい節句の日になるたびに一層肉親のことが思われる。
はるか遠くで、私は思う。兄弟達が高い丘に登った時
みんな髪に茱萸を挿して、肉親一同が揃っている中で、ただ一人私の姿が欠けているのを。

王維は、盛唐の詩人、画家、書家、音楽家。自然詩に秀で、その典雅静謐な詩風と、自ら熱心な仏教徒であったことから、「詩仏」と呼ばれました。
この詩は、彼が17歳の時、科挙試験を受けるため故郷の親元を離れ、都の長安に一人滞在して「受験勉強」をしている頃の作品です。

同時代の杜甫に、文字通り「登高」と題する七言律詩があります。

登高 杜甫
風急天高猿嘯哀
渚清沙白鳥飛廻
無邊落木蕭蕭下
不盡長江滾滾來
萬里悲秋常作客
百年多病獨登臺
艱難苦恨繁霜鬢
潦倒新停濁酒杯

【書き下し】
風急(きゅう)に天高くして 猿嘯(えんしょう)哀し
渚清く 沙(すな)白くして 鳥飛び廻(めぐ)る
無辺の落木 蕭蕭(しょうしょう)として下り
不尽(ふじん)の長江 滾滾(こんこん)として来(きた)る
万里悲秋 常に客となり
百年多病 独り台に登る
艱難(かんなん)苦(はなは)だ恨む 繁霜の鬢(びん)
潦倒(ろうとう)新たに停む 濁酒の杯

【口語訳】
高台に登ると風は激しく吹き、天は澄み渡って高く、猿の鳴き声が悲しげに響く。
眼下を見おろすと渚は清らかで 砂は白く 鳥が飛び廻っている。
果てしなく広がる樹林から、落ち葉が寂しく舞い下り
尽きることのない長江はこんこんと流れてくる。
故郷を去って万里、毎年悲しく秋迎える、私は常に旅人の身の上だ
長年病を患っている身で、独り高台に登る。
長年の苦労で、恨めしいことに鬢の毛はすっかり白くなってしまった。
老いて落ちぶれ果てた私は、その上さらに一杯の濁り酒さえ禁じられてしまった。

杜甫は、中国盛唐の代表的詩人。律詩に秀で、堅実・繊細・端正な作風が特徴で、中国文学史上最高の詩人として「詩聖」と呼ばれます。
この作品は、杜甫57歳、晩年の作(とはいえ、まだ若いぞ!)。病苦と人生の苦難を抱えながらの、老いの孤独が胸に迫ります。
吉川幸次郎氏の「新唐詩選」から、一節を引用します
「『艱難 苦だ恨む繁霜の鬢   潦倒 新たに停む濁酒の杯』
 艱難とは、社会と個人の上におこる種種の困難不幸を総括した言葉であり、潦倒とは、絶望の結果おこるなげやりな生活態度をいう。
 自分の一生は、艱難の連続であり、鬢の毛はおかげで、繁き霜のごとくである。老いはすでにわが身をおとずれている。しかし志はとげられない。それが自分には恨めしくてたまらない。苦しいほど恨めしい。論語には「四十五十にして聞(な)なき者は、言うにたらざるのみ」というではないか。また友人李白がよく噂する阿部の仲麻呂という人物の国の詩人も「おのこやもむなしかるべきよろずよに語りつぐべき名は立てずして」といったというではないか。
 自分は、潦倒たる気もちにならざるを得ぬ。世の中に相すまぬとは思うけれども、なにかなげやりな気もちにならざるを得ぬ。更に近頃は、自分の自分の生活を一そうなげやりにさせるものがある。医者から酒を禁じられたことである。『新たに濁酒の盃を停めた』ことである。
 せっかくの佳節にも、酒を飲むことが、できない杜甫は、そういって、この詩をむすんでいる。」

ちなみに、濁酒は、濁り酒。濾して清酒にしない「どぶろく」状態の酒。韓国の「マッコリ」も近縁でしょうかね。
島崎藤村の『千曲川旅情の歌』にも、「濁り酒濁れる飲みて/草枕しばし慰む」とありましたね。伝統的に、ごくごくポピュラーな酒なのでしょう。
「美作国建国1300年」とかで地域おこしを進めている岡山県北部の美作市では、『どぶろく特区』として、道の駅などで各種のどぶろくを土産物販売しています。

ウィキペディアによると、全国のどぶろく特区は、つぎのとおり。
北海道長沼町
北海道新篠津村
岩手県遠野市
岩手県二戸市
岩手県奥州市
宮城県大河原町
宮城県大崎市(旧鳴子町)
山形県飯豊町
新潟県(どぶろく特区)
新潟県湯沢町
長野県木曽郡
富山県氷見市
石川県白山市(鶴来地区のみ)
三重県熊野市
大阪府高槻市
兵庫県養父市
鳥取県伯耆町福岡地区
島根県浜田市旧弥栄村地区
島根県雲南市木次町日登地区
島根県大田市
島根県邑智郡美郷町
岡山県美作市
広島県北広島町
高知県三原村
熊本県阿蘇郡・山都町(旧蘇陽町)
大分県竹田市
大分県由布市
宮崎県三股町

話は思わぬ方向に脱線し、もはや修復不可能です。

ひとつ芭蕉の句を挙げましょう。
草の戸や日暮れてくれし菊の酒
健康・長寿を祝う重陽の節句の菊酒も、「草の戸」の庵にわび住まいする自分には縁がない。と思いきや、思いがけなく日暮れになって、ある門人が一樽届けてくれました。うれしいには違いないが、日暮れて届いたところに一抹の淋しさがぬぐえません。
重陽の節句の日、陶淵明が一人菊の花を野原で摘んでいると、そこへ太守から一樽が届けられたという中国の故事を踏まえた句です。

最後は飛んで、若山牧水。
白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり

牧水が出たついでに、
白鳥は哀しからずや空の青うみのあをにも染まずただよふ

やっと今日の写真の出番が来ました。
実際は牧水の歌は、千葉県白浜町の海岸で読んだものとされますから、この「白鳥」はカモメの類でしょうか。
写真の「白鳥」は、シラサギです。4年ほど前の撮影です。
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これは今朝の撮影。飛んでいるのは『白鳥」ではなくゴイサギの群れでした。
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家庭内LAN外伝 [趣味]

家庭内LANの話題から、とりとめもなく思い出したことを書いておきます。
LANという便利な方法を教わったばかりの頃、家中LANケーブルを這わせ、、庭に建てていたプレハブ小屋にも、床下を通してケーブルをつないでいたこともありました。この小屋は子供の勉強部屋として建てましたが、結局使わずじまいで、私の物置兼隠れ家兼作業部屋になっていました。ここで、いろいろなジャンク品の実験やら、組み立てやら、お勉強やらができました。
○ード○フで手に入れたジャンクのHUBにはお世話になりました。まだ無線LANなんて概念も知らない頃でしたから、メインパソコンのデータを、メディアに焼いて持ち運ばなくても、この離れ部屋で共有できることは、とても便利でした。フロッピーディスク全盛の時期でした。NECフォーマットの1.2mbフロッピーディスクと、後に優勢になるDOSV(懐かしい響き)の1.4mbフロッピーディスクに両対応のフロッピーディスクドライブをジャンク品のなかからゲットし、そのドライバーをインターネット海外サイトから入手するなどという技を、お師匠から教わっていた頃です。
大容量のデータを扱いたいという要求と、財布との相談から、比較的リーズナブルな「ZIP」という物を入手しました。このドライブは、IDE接続、とパラレルポート接続、scsi接続などの種類がありましたが、転送速度ではscsiが格段にまさっていました。これを利用するためには、scsi環境を作ってやる必要もあり、ジャンク・中古の安物あさりの楽しい日々でした。
フロッピーが1.2mbまたは1.4mbの時代に、ZIP ディスクの容量は、100M バイトか 250M バイトという「とてつもない大容量」で、データ管理やバックアップがぐんとはかどるようになりました。
私が最初に買ったノートパソコンは、NEC 98NOTE(きゅうはちノート)のPC-9821Ndという機種でした。残念ながら、これは液晶ディスプレイがDSTN方式で見づらく、目への負担が苦しく、TFT液晶を積んだ上位機種のNe2(中古)に買い換えました。cpu:486SX-33、hdd:340MB、OS:Windows3.1といったスペックでした。これをwindows95にアップグレードする事が、初心者時代の私に与えられた「ミッション」でした
最大のネックは、CDドライブがないということ。残念ながら当時は、外付けhddドライブも持っていませんでした。インストール用の差分フロッピーディスクという物もあったはずですが、改めて買うというわけにも生きません。
そこで、思いついたのが「ZIP」の利用。これがまた、語るも涙の物語になるのですが、簡単に端折ってあらすじのみ。まずscsiカードを購入し、苦労してscsi経由でZIPを認識させ、別機種でwin95のインストールCDから要所のみzipメディアにコピーし、noteにインストール。dos、win3.1、win95と、それぞれscsiとzipのドライバーをその都度入れてやる必要があって、苦労した覚えがあります。
このように、ZIPは、当時としては優秀な大容量リムーバブル磁気ディスクで、データ保存の安心性も高いのですが、やがてより大容量のメディアに駆逐されて、世の中から姿を消しました。
当時としては高嶺の花で、遙かに優位性を保っているかに見えたMOも、中古市場に出回るようになりやがては、230mbどころか、650mbの製品までジャンクでも入手できるようになり、SCSI→USB変換アダプタなども入手して、手軽に使えるようになった頃は、もっと手軽で安価なCDRやDVDRが間単に手に入るようになり、さらに大容量のHDDやUSBフラッシュメモリといったメディアが優勢になるにつれて、過去のものになりました。メガバイトを大容量と感じていたのもつかの間、やがてギガバイトが当たり前になり、そしていまやテラバイトが標準になりつつあります。
でもいくら簡便になっても、メディアを持ち歩く煩わしさに比べれば、LANの便利さには叶いません。
「クラウド」だとか、「ネットドライブ」だとかは別としても、ローカルエリアのネットワーク環境は、今や必需かもしれません。
などと書いていますと、伝送速度の気になってきて、無線子機を交換しようかという誘惑に駆られます。それでも、出費は抑えて、まず現在ノートパソコンで使用しているバッファロー(メルコ)製の子機と入れ替えてみようかと思いつき、今日はそれにかなりの時間を費やしました。
今装着している「planex」の関連ソフトはアンインストールし、メルコのドライバや管理ソフトのインストールは順調に進んだのですが、最後の段階で、親機との接続に失敗します。うーん。セキュリティソフトのせいなのかなあ、と悩みつつ、ついに断念。
ですので、今夜は、ニューマシンがネットに繋がりません。従って、この記事は古いマシンからのアップです。
今日は、午後、アッシーのあいまに、岡山市の後楽園を散歩。曇り空で、すかっとした秋の写真は撮れませんでしたが、トンボに出会いましたので紹介します。
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無線lanの伝送速度 [趣味]

これまで、家庭内LANは、いろいろ試してみました。有線LANは、10BASE-Tでも特に不満は感じませんでした。
ただ、1Fと2FのPC同士をネットワークで結び、各パソコンで同時にインターネットも利用する、という点では、無線ルーターを介して無線LANで結ぶと、確かに便利です。
ルーターは、何世代かにわたって更新してきましたが、現在はPLANEXを親機として問題なく使っています。(安い)。さて子機ですが、無線LAN内蔵機は別として、NEC、バッファロー、コレガなどの様々なタイプ(pcカード型、USB接続型etc.)を使って、ほぼ問題なく経過してきました。
そんな中の一つ、ノートに使っていたpcカード型のNEC製品が、急に不調になり、バッファローのUSB接続の商品(WLI-UC-GNM2)を1K円未満で導入、これは非常に快適に稼働しています。
一方、我がニューマシーンPRIMERGY TX100S3に装着した、PLANEX製の「GW-USWExtreme 」は、どうも伝送速度が気になります。とくに、家庭内ネットワークで、他のPCとファイルをやりとりするとき、思いがけない時間がかかることが、このlan子機のせいではないかと思えてきました。
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ネット上で探った情報でも、電波の感度が弱いという評判が見受けられますので、念のために確かめてみますと、この通り。確かに、これでは満足な伝送は期待できないでしょうね。
思い切って(といっても、金銭的には、支出可能な範囲ではありますが)、選手交代をはかるべきかなと思いましたが、位置によって感度が向上する可能性にふと思い至り、USB延長コードの利用を試してみることにしました。
おなじみダ○ソーで、105円で購入。
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この先に子機を装着し、あちこち移動させたり向きを変えたりしてみると、確かに数値の改善は明瞭です。
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でも、まだまだ伝送時に、もっさり感がつきまといます。インタネット速度などは、許容範囲なのですがね。





あざなえる縄なら今度は福の番 [家族]

「禍福はあざなえる縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」の格言については、以前も書きました。
http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2013-08-07-5
先日のテレビで、向田邦子さんの言葉として、黒柳徹子さんが紹介している場面がありました。
9/4のNHK「クローズアップ現代」。 『33年目の向田邦子』=向田邦子特集でした。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3396_1.html
その一場面を採録すると、
黒柳徹子さん
「一番最初に向田さんと会って、すぐ話した会話が『人生あざなえる縄のごとし』。
これどういう意味なの、って聞いたのね。
人生は、幸せという縄と、不幸せという縄と2本でね、編んであるようなものなのよ、って。
幸せと不幸せとは、交互でやってくるもの。
そういうものが人生というもの。
ああ本当だな、って思って。
本当に、向田さん『あざなえる縄のごとし』って言ったけど、いいこと、悪いこと、本当に交互に来るなって思って。」

本当に、幸せと不幸せはピタリと表裏一体になっていて、どちらかだけが一方的に優になるなんてことはないのでしょうね。

我が家の一番下の孫娘が、三日入院して今日退院してきました。高熱と発疹の原因がわからなくて、大事を取って入院したわけです。親も付き添いは難儀でしたろうが、入院したおかげで、まあ、病態の急変などにおろおろすることもなく、安心して容態を見守ることができたと思います。この子は、生まれてすぐに、難病指定の難しい名前の病気(じいじには病名が覚えられません)であることが指摘され、定期的に専門医療機関に経過観察してもらうとともに、発熱などの場合にはすぐに診察を受けるよう指示されています。今回も、そのおかげで、大事に至らずに済んだとも言えます。
この孫娘の父親は、今、元の職の契約を更新しないで、転職活動中。なので、たまたま自由がきき、病院の付き添いと家事育児・保育園の送り迎えなどの分業が、スムーズにいき、じじばばの出る幕もあまりなくてすみました。
他方、大阪に出ている次男が、お嫁さんの出産準備のために、昨晩(今朝方)遅く帰ってきました。営業の仕事ですので、「定時」にしまえるなどということはなく、昨日も、夜仕事が終わってから、「夜走り」で高速を飛ばし、未明に到着。今日は、お世話になる産科に、診察やら手続きやらのため出かけています。
また、他方、保育士をしている娘が、幼児が遊ぶ糠団子に使う糠を取りに、久しぶりにやってくる予定。
今夕は、久々に大勢が賑わうことになりそうで、これは「福」の番ですか。
昨日、一昨日の散歩で見つけた「小さな秋」をご紹介しましょう。
まずは雨後のタケノコならぬ雨後のキノコ。キノコは、種類が多くて、どれもおもしろい色やフォルムをしていて興味が尽きませんが、識別能力がないので、画像を並べて楽しむだけ。フィルム時代も、よく写したのか、行きつけの写真屋さんのレジの方に「キノコがお好きなんですか?」と尋ねられて、なんか「フェチ」めいて恥ずかしかった記憶があります。デジカメになって、気兼ねなく、ずいぶん写したはずですが、整理もせずにストックファイルに放り込んであります。とりあえず昨日一昨日に見つけたキノコがこれ。せめて食用かどうかだけでもわかればうれしいのですがね。
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辛夷の実です。異形と言えます。中に、真っ赤な種子を持ちます。
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野ブドウでしょうか?青空に向かって、精一杯蔓を伸ばしています。
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ダイサギ ゴイサギ ダイゴ帝? [折々散歩]

生き物の名前は片仮名書きされることも多いですが、言葉の響きからだけでは実物をイメージできないこともままあります。
たとえば、「シラサギ」といえば「白鷺」=「白い鷺」とすぐさま連想が働きます。「白鷺城」といえば姫路城を思い出しますし(wikiによれば、姫路城は「ハクロ城」、八代城は「シラサギ城」と呼ぶのが原則だと言いますが)、「シラサギ温泉」と言えば、私は愛媛・道後、岡山・湯郷などを思い出します。ほかにも、白鷺が傷を癒すのを見て温泉を発見した、とする伝承が全国にあるようで、「白鷺」を冠した温泉も各地に存在するようです。
道後温泉の本館には、白鷺が羽ばたく意匠の装飾が屋根の頂に飾られています。(2013/1写す)
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「アオサギ」というと、「青い鷺」と連想されます。実際は青色というよりは灰色の勝った色合いで、英名は Grey Heron(グレーの鷺)と呼ぶらしい。もっとも、黒毛の馬は、古くから「アオ」と呼びます。古語辞典によれば、「①青い色。本来は、白と黒の間の広い範囲の色で、主として青・緑・藍(あい)をさす。②馬の毛色の名。全体に青みがかった黒色。また、その毛色の馬。」(「学研全訳古語辞典」)とありますから、名前と実物に矛盾はありません。
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「枕草子」に「鳥は」と題する章段があり、鷺についてこう書いています。「鷺は、いと見目も見苦し。眼居なども、うたてよろづになつかしからねど、『ゆるぎの森にひとりは寝じ』と争ふらむ、をかし。」
口語訳:「鷺は、見た目も見苦しい。目つきなども嫌な感じで、万事に親近感が持てないけれど、『ゆるぎの森で一人寝はすまい』と妻争いをするというのが、おもしろい。」
「ゆるぎの森に」は「高島やゆるぎの森の鷺すらもひとりは寝じと争ふものを」(古今六帖・第六)という古歌を踏まえているそうで、コロニーに集まる鷺たちが、夜中に声を上げながら騒いでいる様を、風流な妻争いになぞらえています。このことで、他の欠点が減殺され、「をかし」と感じられるというのです。
この鷺は、やはり「アオサギ」でしょうかねえ。」
ネット検索で、アオサギに関する専門的なページを見つけました。興味深い。
http://www.grey-heron.net/forum/06-literature/

では「ダイサギ」からイメージするものは?あるいは「ゴイサギ」ではいかが?
「ダイサギ」が「大鷺」と気づけば「なあんだ」なのですが、、、。「白鷺」にも、様々な種類があり「ダイサギ」「チュウサギ」「コサギ」などと分類されるそうですが、素人目には同じように見えてしまいます。散歩中に出会うと、その純白の優美な姿に惹かれ、しばしばカメラを向けますが、果たして「大鷺」か「中鷺」か「小鷺」か、はたまたそれらの亜種か?とうてい識別できず、ギブアップです。
「ゴイサギ」。なんだか居心地のよくない響きではありませんか?子供のころ、「あれはシラサギ、これがゴイサギ」などと呼ばれるのを聞いて、後者には幾段か格下の物に対する軽んじるニュアンスを感じたような記憶があります。
ですが、「五位鷺」と表記され、名付けのいわれを聞けば、少々評価が覆される気もします。
「五位」は、古代の官位で、原則としてこれより上が「殿上人」の資格を得るボーダーで、宮中で天皇に謁見する事が許された、特別な存在です。
再度、古語辞典によると、こうあります。「てんじゃう-びと 【殿上人】/名詞/清涼殿の「殿上の間(ま)」に昇ることを許された人。四位・五位の人の中で特別な人。蔵人(くろうど)は六位でも許された。「上人(うへびと)」「雲の上人」「雲上人(うんじやうびと)」「殿上」とも。(中略)/[反対語] 地下(ぢげ)。/参考「殿上人」は貴族の中流階層で、直接政治にかかわる上級の「上達部(かんだちめ)」と、昇殿のできない「地下(ぢげ)」との中間に位置する。」(「学研全訳古語辞典」)
 
なぜ、この鷺がこれほどの官位を名に持つのか?
平家物語に、こんな記載があります。
 「延喜御門、神泉苑に行幸あって、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位を召して、『あの鷺取って参らせよ』と仰せければ、いかでか取らんと思ひけれども、綸言(りんげん)なれば歩みむかふ。鷺羽繕ひして立たんとす。『宣旨ぞ』と仰すれば、平んで飛び去らず。これを取って参りたり。『なんぢが宣旨にしたがって、参りたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ』とて、鷺を五位にぞなされける。今日より後は鷺のなかの王たるべしといふ札をあそばいて、頸にかけてはなさせ給ふ。」(巻第五 朝敵揃)

延喜御門(えんぎのみかど)とは、醍醐天皇のこと。この頃は「宣旨を向かつて読みければ、枯れたる草木も忽ちに花咲き実生り飛ぶ鳥も従ひき」というほど、天皇の威光がすばらしかったというエピソードです。
要旨はおよそ次の通り。---神泉苑(しんせんえん)に天皇が出掛け、池に鷺(さぎ)がいるのを見て、六位の者を呼び、「あの鷺を取って参れ」と命じた。六位は「どうして捕まえられようか」と思うが、勅命なので鷺の方へ歩いていく。鷺は毛づくろいをして今にも飛び立つところだったが、六位が「宣旨である」と声を掛けると、鷺はその場に平伏して飛び立たなかった。これを捕まえて献上すると、天皇は鷺の神妙な態度を誉め、五位の位を与えた。そして木の札に「鷺の中の王」と書いて鷺の首にかけ、空に放った。
                               
成鳥は頭部~背中が青く、胸~腹が白色のツートンカラーの、端正な要旨をしています。「五位」の名もむべなりと感じます。
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褐色の体に白い斑模様の鳥は、まるで別種のようにも見えますが、その模様からホシゴイ(星五位)とも呼ばれる若鳥だそうです。
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ガガブタとは何の謂ぞや秋の空 [折々散歩]

台風一過の秋空を見られるかと、早朝の散歩に出かけてみました。雲がまだ厚く、快晴とは行かない夜明けでした。
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野分去って色改まる稲田かな  
季重なりですな。

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ところで、台風のつれづれに、こんな記事を書きかけていました。
古い写真を、ちょっと整理していると、名前の分からない花や虫が色々出てきます。
この花は、最近散歩途中の川辺で写したのですが、水面に浮葉を浮かべ、よく見ると白い可憐な花をつけています。一瞬「ヒツジグサ」という名前が浮かんだのですが、どうも違うようです。

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ネットで検索してみますと、「ガガブタ」と言う植物に似ているようです。漢字で「鏡蓋」と書き、「金銀蓮花」とも書くそうです。耳から聞いた響き、漢字を見ての印象が、ずいぶんと違います。「ガガ」は、「影」のなまりで「鏡」に通じるとか。鏡の蓋になぞらえたネーミングだそうですが、解説を読んでも、にわかには飲み込めません。
ネットでは、
がが‐ぶた【金=銀=蓮=花】/ リンドウ科の多年生の水草。本州以南の池や沼に自生。葉は心臓形で柄があり、水面に浮かぶ。夏、白い花を水上に開き、花びらは五つに裂けていて毛がある。きんぎんれんか。(「デジタル大辞泉」より)
とあったり、
ガガブタ/ミツガシワ科の多年生水草。本州~九州,東アジア~オーストラリアに分布し,湖沼やため池などに生える。地中にひげ根があり,浮葉はまるく,水面に浮かぶ。夏,葉柄の基部に多数の花柄を生じ,白花を開く。(百科事典マイペディアより)
とあったりして、私の写真とよく似た画像が紹介してあります。

よくよく見ると花弁の先に、かぼそいひげ様のものが見えますが、どうも私の画像が鮮明でないので、いつかリベンジ撮影をしてみたいと思います。ーーー

今朝の散歩のもう一つの狙いは、そのリベンジ撮影。と思ったのですが、残念、花弁が閉じたままでした。
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近縁の「ヒツジグサ」は、未の刻(午後2時)頃に花を咲かせるといいますが、似たところがあるのでしょうか?ネット検索では、朝から昼過ぎまで咲いていると記述されていますが、、、。
さて「ヒツジグサ」の画像を探してみました。
去年の六月、妻の用件につきあって福島県奥会津の昭和村を訪れた(震災とも原発とも全く無関係の用件です)とき、「矢ノ原湿原」を散策し、写したもの。たぶん「ヒツジグサ」だろうと、自分で思っているだけです。
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一番下の孫娘が、発熱その他で初入院。ママさんとパパさんが交代で付き添いしています。残された子供たちの世話は、じじばばの仕事になりますが、さて保育園のお迎えの時刻。になりました。今日はここまで。





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大雨の中を嬉しき宅急便 [友人]

今日は朝から雨で、大雨警報も発令中ですので、おとなしく家の中に閉じこもっています。
窓の外は暗いし、気圧は低いし、気分も体調もからっとしません。
と、チャイムの音がして、宅急便が届きました。
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なんと、高知のNさんが、早速、映画ポスターを送って下さったのです。昨日のメールのやりとりですから、こんなに早くとは思いもしませんでした。
「水濡れ厳禁」のシールとともに、ビニールで厳重にカバーされた丁寧な梱包。頑丈な段ボール箱の中には、さらに厳重な梱包。
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はやる心で、梱包を開きます。.
「更級日記」で少女時代の作者が、おばから物語の数々を櫃(ひつ)に一杯プレゼントされ、「はしるはしる、わづかに見つゝ、心もえず、心もとなく思源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、木帳の内にうちふして、ひきいでつゝ見る心地、后のくらひもなににかはせむ。」と、胸をわくわくさせながら先を読み急ぐ場面をふと思い出したりしています。
先日、このブログで書いたとおり、私がホテルに置き忘れたポスターは、今井正監督「橋のない川」第一部、森川時久監督「若者たち」、山田洋次監督「同胞」、野村芳太郎監督「砂の器」などでした。
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ところが、送って下さった箱を開けてみると、それらの他に、なんと、ジブリ関係の「風の谷のナウシカ」「魔女の宅急便」「天空の城ラピュタ」「隣のトトロ」をはじめ、貴重な名画のポスターがどっさり。目もくらむようなプレゼントでした。
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ところで、地元の岡山シティミュージアムで開かれていた「山本二三展」が、終了しました。色々な方から好評を耳にし、是非見学したいと思いつつ、機会を逃してしまいました。残念。
山本二三氏と言えば、ジブリアニメの美術監督・背景画作者として知られていますが、「未来少年コナン」が美術監督としてのデビューだったのですね。「未来少年コナン」については、我が子がまだ小さかった頃、職場の先輩のBさんに全巻ダビングして戴いたものを、しょっちゅう見ていました。
てっきり、「風の谷のナウシカ」も山本二三氏の作品と思い込み、 「山本二三展」のお土産に原画をくださったUさんに、的外れなメールを送っていました。汗顔のいたり。

「山本二三」の素敵な原画、ありがとうございます。
私も、30年ばかり前の東京在住時代、帰宅途中ふとビデオショップに立ち寄り、たまたま「風の谷の
ナウシカ」のビデオを、買いました。(レンタルという習慣がまだなかったので、
一万円を超える出費の「大人買い」でした。)
「ナウシカ」については何も知らず、宮崎監督についても何も知らず、もちろん
山本二三さんについても、何の知識も持ち合わせていないのに、たまたま手に取
ったビデオのカバーの絵に惹かれたのでしょうかね?もちろん多少の内容解説も
参考にしたのでしょうが、その時の心境は思い出せません。
でも、子どもたちも、そのビデオ、すり切れるまで見ました。登場人物の台詞も、
宙で覚えて、日常の遊びの会話の中にも登場していました。おもえば、ベータ方
式のビデオでしたから、の地にVHSのものも手に入れたり、何度もテレビ録画し
たりしたのでしょうね。ナウシカをはじめ、ジブリは、やはり特別のクオリティ
を持ったアニメだと思いますし、その価値は原画に負うところ大だと思います。
後略

何も知らぬ私をひきつけた「風の谷のナウシカ」の美術監督は、中村光毅さんだそうですね。「タツノコプロ」を中心に手がけた作品は、なじみ深いものばかり。
錯覚その2。「ナウシカ」は宮崎駿作品ではあるが、厳密には「ジブリ」ではなく、「トップクラフト」の制作。
等、にわかネット検索で、訂正がてら補足しておきます。





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なるようになるさを今日も口ずさむ [趣味]

橋田ドラマ「なるようになるさ」については、主演女優の浅野温子サンの台詞回しや演技への違和感、橋田脚本の長ゼリフが鼻につく、などから、視聴率が伸び悩んでいるとか。それでも、8回目放送を終えた時点で、平均13パーセント強と、健闘しているともいわれます。
私は、連続TVドラマを見る習慣などは、これまでなかったのですが、録画機能付き地デジTVで簡単便利に録画できるようになったことと、病気と退職にともない在宅時間が延びたことで、連ドラを録画して、見たいときにぶっ続けで見る贅沢を知りました。
思えば、「録音機」をテレビスピーカにかざして音だけ録音するところから、タイマー付きテープデッキによる音声録音を経て、ついにあこがれのビデオデッキの導入(ベータ方式を二代ほど更新して、ベータ撤退後は、やむなくVHSへ移行)しましたが、お目当ての番組を録画するのは結構億劫感がつきまといました。それでも、置き場に困るほどの録画テープが残りましたが、実際によく見るのは、子供向けのアニメやら映画やらに限られました。
それが、HDD録画になってから、容量をさほど気にせず、がんがん適当に録画しておいて後で見る、不要なものはすぐに消す、、、というスタイルは、気軽で快適です。
その癖がついたきっかけは、同居していた娘が連ドラ予約して録りためていた「相棒」シリーズ。至福の時間をすごさせてくれました。(今も、気の向くまま、繰り返し見てますが。)
さて、目下私が連ドラ予約設定しているのは「半沢直樹」と「なるようになるさ」の二本。
前者は堺雅人出演の番組にハズレがないという主観が働いて、録画を始めたのですが、意外なほど世間の評判が沸騰し、「それほどでもないかな?」と思いながらも、「水戸黄門」や「銭形平次」「大岡越前」などの往年の時代劇と共通する痛快感、安心感、親近感に惹かれて、見続けています。
後者は、何気なく初回を録画後視聴しましたが、実生活(私の!)からかけ離れた「セレブ」な環境設定になじめず、ホテル住まいのような室内装飾etc.にも違和感を感じて、ドラマの進行にも興味が持てず、開始後数分で早々にチャンネルを切り替えていました。
連ドラ予約設定だけは解除しないでいたので、数本分の録画がたまっており、「ひまつぶし」に、飛ばし飛ばし流し見してみると、意外や意外、なぜかドラマの展開が気になり始めました。特に、住み込みで働くことになった、3人の男女の抱えているプロブレムや、それをかかえながら「新しい人生」へ踏みだそうとする切実な思い、それ故の一つ屋根の元で繰り広げられる住人(疑似家族)相互の関係性と、はぐくまれゆく「絆」といったものが、じんわりと琴線を刺激してくるのです。
失業をきっかけにはじまった夫のDVから逃れるため、アパートを借りられる余裕ができるまで、一人息子を兄夫婦に預けて、住み込みで働こうとする恵理(紺野まひる)。高校時代、いじめの現場を目撃したことからいじめグループに立ち向かい、あやまって相手にけがを負わせて、少年院に送られた陽子(志田未来)。東大を出て銀行に就職というエリートの道が、母親の期待に応えたに過ぎず自分が望んだものではなかったと気づいて、引きこもりに陥り、「自分探し」に煩悶する大竹昇(安田章大)。
いずれも「現代時事用語集」の大見出しになりそうな問題が、ぞろりと登場します。それらが、ありがちのステレオタイプの状況設定、と視聴者に受け止められることはおそらく承知の上で、あえてステレオタイプに事を描いた上で、きっと上々の解決を見事に用意する。しかも、しかるべきリアリティと、人情の機微は,チキンと担保されている、そんな手法は、お茶の間時代劇の得意技でもあったでしょう。
その意味で、奇しくも私の録画している二作品、時代劇なき現代ゴールデンタイムにお茶の間時代劇のティストをほのかに漂わせてくれるという点で、何か共通項を持つ好番組と言えるかもしれません。
さて、ここまでは寄り道で、本論はここから。
「なるようになるさ」というメッセージは、私のパソコントラブルにとって、常に有意義な助言でした。
今回もまた、なるようになりました。
一月前に導入したwindows7が認証に失敗した件はこちらで書きました。

詳細は省略しますが、この事件、購入もとのサポートにより、めでたく解決しました。
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インストール後1ヶ月も経過すると、色々と環境設定やカスタマイズを進めているので、できればこのまま認証して欲しかったので、めでたしめでたしでした。
認証されるまでは、画面もブラック。
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黒画面はどちらかというと好みですので、自分で設定したこともありますが、強制的にというのはどうもね。
やはりこちらの方が安心感があって落ち着く?
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もう二度とトラブルに巻き込まれないよう、生半可な知識で危険に手をださないようにしようっと!(何万回目の誓い?)

ところで、上の話題よりも優先すべきは次の件でした
今日は、高知同窓会の時の写真をM氏が送ってきて下さいました。温かい手紙を添えて。ありがとう。
そして、ブログを見て下さった四国文映社のNさんが、ポスター置き忘れチョンボに同情し、「ポスターを送りましょうか?」とメールを下さいました。大感謝。そして、夕方には、同じくNさんから、同窓会の写真DATAを焼いたCDが届きました。重ねて大感謝です。
雨の一日でしたが、心は快晴。

散歩中に見た畦豆の花を一枚。白い花に混じって、こんな色の花が咲いておりました。
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露草、月草、蛍草 [折々散歩]

露草の青色は、真夏の陽射しのもとでも涼を呼びますが、いまの季節によく似合います。俳句では秋の季語になっていて、別名月草とも、蛍草とも呼ばれ、姿も名もゆかしい花です。
「月草」というのは、花の青い色がつきやすいことから「着き草」と名づけられたとか。この草で染めた着物は色が褪せやすいことから、移ろいやすさや心変わりをたとえる歌に詠まれたようです。
万葉集に「月草に衣は摺(す)らむ朝露に濡れての後(のち)はうつろひぬとも」(千三百五十一番)とあります。月草の花で着物を青く染めよう、たとえ朝露に濡れて色あせてしまおうとも」その気持ち分かる。はかなく美しい色です。
今朝は雨でしたから、散歩を躊躇している間に、妻が庭の露草をガラス瓶に挿してテーブルに置いていましたので、今日の写真に使います。
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昼前頃から少々雨止みがありましたので、そのスキにしばし公園を散歩しました。
まず、気になった生き物が、これ。ムシヒキアブの仲間らしい。シオヤアブというのでしょうか?肉食の、なかなかどう猛なハンターだとか。
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道端の草むらにいた蝶。ルリタテハでしょうか?
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シオカラトンボ。
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わずかな晴れ間にせっせと蜜を集めています。
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これは、自宅の玄関先への訪問者。今日の一番の賓客でした。
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災難は忘れた頃か秋の雨 [趣味]

今日は9月1日。震災忌=1927年の関東大震災の発生日にちなんで、「防災の日」に制定されたのは1960年。子どもの頃は、新学期の登校日の校長訓辞などで、「二百十日」という節季も教わり、台風の災厄への備えを説かれたものでした。
「天災は忘れた頃にやってくる」という警句もその頃教わったと思います。
これは、物理学者の寺田寅彦の言葉と伝えられていますが、著書・著作等にその証拠は確認できないとも言われているそうですね。自身、関東大震災に遭遇し調査も行うなど、地震、火災など災害の根本原理を科学的・合理的態度で解明しようとしたこの人なら、と頷ける伝承ではありますが。
寺田寅彦は、熊本第五高等学校で夏目漱石に英語を習い、後に東京帝国大学の学生時代以来、漱石の自宅に集う「木曜会」のメンバーとして、門下生の一人に数えられています。漱石の「吾輩は猫である」で、苦沙弥先生の弟子としてしばしば登場する、気鋭の理学士水島寒月が、寺田寅彦をモデルとしていることも、よく知られています。
私は中学時代、この作品を洒脱なユーモア小説として読みました。漱石のもつ文明観や人間観の重さや苦さについては、とうてい思い至りもしませんでしたし、細かなデティルもすっかり薄らいだのですが、この寒月君の颯爽とした好男子でありながら、きまじめに「首縊りの力学」などに没頭している様や、甘い物好きで虫歯に苦しんでいる様などに、何かミスマッチなおかしさを覚え、印象に残っています。
私の2007年問題=脳動脈瘤の手術の後の入院中、読書等に向かう意欲も体力も伴わなかった頃、唯一枕元に置いていたニンテンドーDS(当時学生だった末の息子が、買ってくれました)で、DS文学全集なるソフトをひもとくのが、ささやかな娯楽でした。気力と体力に合わせて、時には数行、時には数ページずつ、ちびりちびりと読んだなかに「吾輩は猫である」があり、改めて漱石の言葉の端々に、含蓄と面白みを感じつつ、無聊を慰められました。
さて、その寺田寅彦が,高知市の出身であったことを、ずっと以前から知っていたようにも思いますが、先日の高知行きで改めて思い出したのでした。8月25日の朝の散歩で,高知城に向かって歩いている途中、城の大手門のすぐ近くに、山内一豊の騎馬像がありましたが、そこを直進すると、高知県立図書館があり、隣に高知県立文学館があります。
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私がそこを通りがかったのは早朝で、まだ開館時刻前でしたが、「Happiness is SNOOPY スヌーピーの小さな幸せ探し展」なる特別展示を開催中のようでした。そして常設展として「寺田寅彦記念室」も存在するようでした。
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以下、「県立文学館」のホームページの記載から、少しコピーさせていただきます。

 南の雄大な太平洋と北の険しい四国山地にかこまれた南国土佐。この独特の風土の中からは多くの文学者が育ち、わが国の文学界に大きな足跡を残しました。高知の作家から生み出された多くの作品は、土佐の歴史と風土を内包し、高知の文学ともいえる特色を備えています。
 常設展では、多士済々な高知の文学者を時代やテーマによって紹介しています。
「古典文学」、「自由民権運動と文学」、「反骨の大衆文学」、「現代の文学」、「近現代の詩歌」、「高知ゆかりの作家たち」、「寺田寅彦記念室」に加え、開館10周年(2007年)を機に、「現在の作家」、「宮尾文学の世界」、また折々にテーマの変わる「常設展企画コーナー」を新たに加えました。


折角近くまで行ったのに、中を見学しておけば良かったと、帰宅後に後悔しました。
後悔その2:高知城から徒歩で、わずか歩いたところに、「寺田寅彦記念館」もあることを、帰宅後知りました。
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後悔その3:私の高知行きを知って、友人が教えてくれたオススメスポット。「県庁おもてなし課」ロケセット。残念ながら、訪ねるチャンスがありませんでした。
実は、昨夜、この友人も含めて、懐かしい顔ぶれによる「飲み会」がありまして、このロケセットの「こだわりや遊び心」について直接うかがい、見損ねたことを益々悔やんだことでした。


さて、今日の本論。
忘れた頃にやってきた私の災難は、例によってパソコントラブル。約一月前に導入したニューマシンにインストールしたWINDOWS7は、快調に働いていた,,,はずだったのに、今朝スイッチを入れてみますと、、「このウィンドウズのコピーは正規品品ではありません」とかなんとか言いがかりをつけられ、あれこれメッセージが出てプロダクトキーの入力を求められます。付属ディスクに添付されているキーを入力しますと、「正規のプロダクトキーではありません」とけんもほろろ、認証してくれません。
windows2000まではなかったライセンス認証という概念、どうにもやっかいです。パッケージ版,OEM 版、DSP 版といろいろあって、よく理解もせずに、「安物買い」に走りました。プロダクトキーさえあれば、必ず認証されるだろうと思い込んだのは、浅はかだったでしょうか?
そういえば、インストール時にプロダクトキー入力を求められた記憶がありません。にもかかわらず、無問題で動いているから、これでOKと楽観したのが罠でした。
「ンストール後 30 日以内に Windows をライセンス認証する必要があります。」と、確かにマイクロソフト社
さんはおっしゃっていますね。
プロダクトキーを入力しても認証されない理由、そして解決方法を、とりあえず、購入元に問い合わせていますが、解決されるまでの間、「不正規コピー」の表示とつきあい続けるのも不愉快なので、ひとまず三十日の「猶予期間」を「延長」する方法を試してみたところです。

コマンドプロンプトで slmgr /rearm と入力。
ただし、「コマンドプロンプト」を「管理者として実行」で行なう必要がありました。

久しぶりの雨が、音を立てて降っていますので、これを口実に今日は散歩は中止。パソコントラブルと相対して.愉快でない時間を費やしています。
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