夕映えに二日月を見た。 [折々散歩]
10月を機に、常体(だ・である調)に切り替えるといいました.確かに、入力はスムーズになって、初期の目的に合致したのですが、どう文章として落ち着きが良くないので、敬体(です・ます調)に戻します。気分で使い分けることもあるかも知れませんが。
夕方出かけた散歩は、もう薄暗くて、写したものはみんなぶれぶれでした。夕暮れのコスモス、夕暮れのセイタカアワダチソウ、夕暮れの月見草、夕暮れの遅咲きのキョウチクトウ、夕暮れのカラスウリ、夕暮れの富有柿、夕暮れの田園風景などなど、風情はありますが、みんなぶれぶれ。
夕映えは、それでも明るいので、それらしく写りました。
日没と相前後して、こんな月に気づきました。
この月はなんと呼ぶのでしょう?「三日月」のイメージよりもさらに薄くて、鋭利な感じ。「眉月」という言葉も浮かびましたが、調べてみると、これも三日月の別名だそうですね。「まゆづき」とも「ビゲツ」ともよみます。
月齢表を見ると、2.1と、微妙なところですが、「二日月」と呼ぶべきなのでしょう。
二日月神州狭くなりにけり
渡辺水巴
大野林火著『近代俳句の鑑賞と批評』には、こうありました。
「神州」は神の国であり、日本の美称である。今日でこそ用いぬが、私どもなど「神州男子」として育てられた。終戦直後、日本駐留のアメリカ軍部がこの言葉を極度に嫌ったこともいま思い出になっている。(中略)
狭くなる---は、台湾・沖縄・朝鮮・樺太・千島・小笠原諸島などを失ったことである。この句を「日本狭く」と置き換えてはつまらぬ。意味は同じでも、「神州」には明治に生まれた人間の祖国愛の感情が濃く流れているからである。 しかし、これを以て直ちに軍国主義に結びつけるのは性急であり、その方が間違っていよう。この句、二日月の冷厳な冴えが作者のかなしみを統べてゆるがぬ。いえば二日月の繊さと「国狭く」が通い合うのである。(後略)
辞書には、同じ渡辺水巴の、次の句が引かれることが多いようです。
あかね雲ひとすぢよぎる二日月
渡辺水巴
この句の「二日月」は、八月の二日月をさすようです。新月を意味する「朔(さく)」は「ついたち」とも読みます。「つきたち」の転で、一日を意味します。八月一日を八朔と呼ぶのはこれによっています。
二日月の別名は「既朔」といい、「朔」が既に過ぎたという意味だそうです。
芭蕉の弟子の向井去来の俳文集『去来抄』に、こんな記事があります。
凩に二日の月のふきちるか 荷兮
凩の地にもおとさぬしぐれ哉 去來
去來曰、二日の月といひ、吹ちるかと働たるあたり、予が句に遥か勝れりと覺ゆ。先師曰、兮が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目をのぞけばさせる事なし。汝が句ハ何を以て作したるとも見えず。全體の好句也。たゞ地迄とかぎりたる迄の字いやしとて、直したまひけり。初めは地迄おとさぬ也。
去來曰、二日の月といひ、吹ちるかと働たるあたり、予が句に遥か勝れりと覺ゆ。先師曰、兮が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目をのぞけばさせる事なし。汝が句ハ何を以て作したるとも見えず。全體の好句也。たゞ地迄とかぎりたる迄の字いやしとて、直したまひけり。初めは地迄おとさぬ也。
【解釈】
凩に二日の月のふきちるか 荷兮
凩の地にもおとさぬしぐれ哉 去來
凩の地にもおとさぬしぐれ哉 去來
この私去来が言うには、 「二日の月」といい、「吹ちるか」と力のあるフレーズを続けたあたりは、私の作った句より遥かに優れていると思える。芭蕉先生は、 荷兮の句は、「二日の月」という、繊細な月のイメージを主題にしていて、その一点だけで良くできているが、それを除けばたいした事はない。お前(去来)の句は、これといった押し出しはないけれど、全体としてて良い句だ。ただ、「地まで」と、限って言ったような言葉が下品だといって、「地にも落とさぬ」という表現に改めて下さった。はじめ、私は、「地まで落とさぬ」としていたのだ。
芭蕉の評価はともかく、山本荷兮の句は、 冷たく激しく吹き荒れる木枯らしと、淡く幽かに輝く二日月の細々とした姿との取り合わせが、印象深い句です。
写真には写せませんでしたが、内側の弧の延長線上には宵の明星=金星が明るく光っておりました。
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